>>838
「立体的な書物」という表現は、オリジナリティがありますね。
その箇所のみ、考えてらっしゃると思います。
ただ、オーバクと私では、立場がちがいます。
公案の読者まで黙ったら、テレパシーゲーム、「ごっこ」です。
 
>>840
理由は私の回答とちがいますけれど、いずれにせよ黙らせるために叩いたという事ですね?
要するに叩く意味はあったと。
確か凡愚氏、「叩くのに意味は無かった」と仰いませんでした?
既に指摘したように(>>821)、相変わらずご自身の中で主張が対立しているので、不正解です。
 
>>850
釈尊でも亡くなった以上、物理法則としての死が超えられないのは、誰でも判ると思います。
冒頭部の問いは悪果を生む悪因を為さないかという意味と解釈しますが、まあ人それぞれですね。
狐は、物語前半に登場するそれは、性質がおだやかに描かれます。
なのに後半になり突然、狐は叩く生き物という扱いにしたら、一貫性に欠けるのでは・・・・
 
>>838
あまり言いたくはなかったですが、私は肉体行としての坐禅は、
時間にし幾ら続けても平気で、これに関してはどうも特異体質のようです。
これと関係があるのか、人よりも少しだけ深い瞑想に入る事も出来、
脳波の静まりは若干ながら驚いて頂けるものがありました。
 
そこから多分来ているのでしょう、禅問答その他にかけても、ご師匠らの回答のほつれ、矛盾、非一貫が、
申し訳ないと思いつつ、鋭く指摘する事が出来、それは潔く認めて頂けたものでした。
医師でありご住職のかた等、幾例か経験しています。
なので「個人的には」、公案の研究中、参禅歴が(略)と繰り返しても、全く意味を見出せないので、無駄かと・・・・