「死ぬ前に子や孫に聞かせておかんと」 沖縄戦「集団自決」 内原静子さん(83) 不発だった手榴弾。しゅうとは棒で家族を殴り… ? 全日本民医連
https://www.min-iren.gr.jp/?p=5443
2008年12月1日

 太平洋戦争末期、沖縄の慶良間諸島で起きた「集団自決(強制集団死)」に日本軍は深くかかわっていた――。
 10月31日、大阪高裁は、一審につづき明確な判断を示した。『沖縄ノート』の著者大江健三郎さんと出版元の岩波書店を、元日本軍少佐らが名誉毀損で訴 えた裁判である。
しかし文部科学省は、高校歴史教科書から「軍の強制」のことばを削ったままだ。集団自決で生き残った人びとは、歴史のねじ曲げは許せない と、自らの体験を証言し始めている。

 那覇から高速艇で三五分。東シナ海に浮かぶ渡嘉敷島は、世界でも有数の透明度を誇るダイビングのメッカだ。
 内原静子さん(83)は島の西側の阿波連集落でおみやげ屋を営んでいる。
 「おにいさん、私の頭をさわってごらんよ」と麦わら帽子を脱いで目の前につきだした。後頭部をさわると何カ所も凹んでいる。「どうしたの」と驚く私に「やられたの」といって当時の話をしてくれた。

■自決用に手榴弾を渡されたが
 米軍の空襲が始まったのは、一九四五年三月二三日。渡嘉敷島には、日本軍の特攻艇の秘密基地が置かれていた。
シーズンが終わると静まりかえる阿波連のビーチ。
この湾にも米艦船が押し寄せ、ここから上陸した 二六日の夜、日本軍から「北山に集まれ」という命令が出た。
静子さんは「一歳の息子をおんぶし、舅を先頭に家族七人で、大雨の降る山の中をずぶ濡れになって向かった」という。
 北山の日本軍本部壕近くに集合した住民は家族ごとに固まり、「米軍が上陸した」という知らせに異様なパニック状態になっていた。
村長の「天皇陛下ばんざ い」の声の直後、あちこちで手榴弾が爆発し自決が始まった。