【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】43
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*悟りを開いた人には偉大な知恵があるらしいわ。
*生活のことなんでも聞いてみましょう。
*あるゆる悩みを聞いてみましょう。
*罵倒、批判だけのレスはスルーよ。
前スレ
相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】42
http://medaka.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1513680120/ >>321
人を陥れようとしてレスの捏造がバレたアホがいるスレはここですか? >>277 そうじゃ、わしなのじゃ。
名前を入れ忘れたのじゃ。
>>296 気が頭の天辺のブラフマランドラに入ったとかの原因で忘我になることもあるのじゃ。
それが偉いとかいうこともないのじゃ。
生きることに役立つことがなければ無意味なのじゃ。
姿勢を正しくして下腹に力を入れて永く座っていれば自然に起こるものじゃ。
試してみると良いのじゃ。
>>303 そのように言えるじゃろう。
完璧な制度などは無いものじゃ。
どのようにも償わせることができるじゃろう。
金とか奉仕とかなんでもあるのじゃ。
それによって被害者や遺族が満足するかどうかは別なのじゃ。
>>313 実際は苦が多いのじゃ。
まともな人には相手にされないとか、金がいつも少ないとかのう。
ためしにやってみるとよいのじゃ。
死への過程や直面に苦しんだり恐れたりしますが、人生が充実したり楽しい最中に死んだという自覚も恐怖もなくぽっくり突然死した人は死をスキップした感じでラッキーなのでしょうか
その場合死後どういう意識になるのでしょう >>323
まともな人に相手にされなくても、相手にされていないことに気がつかないほど鈍感なら苦はありませんよね
資本主義だったら欲深なほど金持ちになりやすいし正直者ほど貧乏になってしまいますよね
善行がお金になるなら鬼和尚さんは大金持ちでしょ
自分はためしにやれないですよ、自分の性格だとそっちのほうが苦が増えます
自分のしたことをだけ見て他人のしたことを見なきゃいいのはわかりますけど、なんか理不尽な世の中だなぁと思います 欲深な人ほど騙されて色々失うような気がするが・・・ >>319
アクセスデータなんて貼ってないじゃんw
坐禅風俗馬鹿は脳に障害でもあんのw
脳に梅毒回ってんじゃねw >>0323
>>277 そうじゃ、わしなのじゃ。
名前を入れ忘れたのじゃ。
↑
お返事、ありがとうございました。 >>327
そんなことないとおもうけど
金ぴかのお寺でベンツに乗ってるお坊さんと、ぼろぼろのお寺で自転車に乗ってるお坊さんと、どっちが欲深だと思う?
おとぎ話なら善人は金ぴかのお寺で悪人はぼろぼろのお寺なんだろうけど現実は違うでしょ >>328
は?
>>310見ろやw
ソープレスを捏造したのが暴かれて、そんなに悔しいのか?
www 一年以上も前に禅に関する見解で私に瞬殺された事をいつまでも根に持ち、毎日の様に散々人を煽り非難中傷する文章を何十連投もしたあなたが、それに対して書かれたこちらから書かれた罵詈雑言の文章の一部を抜粋し、それをネタに更に煽りや非難中傷を繰り返す。
挙げ句の果てに、ソープランドのレスを捏造。
キチガイだな。 >>332
中出し番長がいくら吠えても
お前は中出し番長だからねw
必死さが笑えていいん感じに仕上がってるよ風俗凡愚よwww >>333
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ君は仏教に興味ある? >>333
そいつは、ジャンキー憎しの一念に憑りつかれた人物。
仏教なんて、吹っ飛んでるレベル。
ジャンキー憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いの感情のみ。
もはや手遅れじゃ。 >>330
欲が深いかどうかと善人か悪人かは別の話では?
更に欲が深いかどうかと寺が金ぴかかどうかも別だと思うが。
金稼いでいさえすれば必ずそいつは欲深い悪人で、貧乏なやつは清く正しく欲もないのか?
現実はそんなに単純明快ではないことはいくらなんでもわかるよね?
それと、足るを知らない状態ならばどれほど金があっても本人は満足できないわけで、それはある意味病気だし不幸なことだよな。 ジャンキーは昨日の書き込みでムラムラして朝から風俗店に並んでるんだろうな >>337
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ経験者は語るw
ワロタwww >>336
お金は欲しいと思わないと得られないんですよ?
金ぴかのお寺もベンツも欲しいと思わないと得られないんですよ?
悪い宗教の見分け方の1つに「金儲け」って鬼和尚も言ってましたよ?
金を稼ぐのは間違いなく欲ですよ
少金を稼ぐのは少ない欲で大金を稼ぐのは大きな欲でしょ
金稼ぎと欲が関係ないなら出家制度は必要ないでしょ
現実は単純じゃない、そりゃ様々でしょうけど、一般的には金持ちは欲深で貧乏人は欲が少ない、比較的そういう傾向があるのは事実では?
もしもしおれおれに騙されて貧乏になるおじいちゃんお婆ちゃんがそういうものの縮図だと思いますけど >>340
∞ノノハ∞
川^〇^ハレまたまた経験者は語ってるw
ワロスwww >>339
悪い宗教は宗教を利用して金稼いでいる場合だな。これに宗教的な脅しが加わると極悪になる。
ま、そうすると大半の寺が悪い宗教になる。自転車乗ってても葬式やったり戒名売ったりして金稼いでるなら同じだ。
しかし欲は寺の坊主だけに起こるものではない。あなたにも誰にでも起こるものだし、それそのものは善でも悪でもない。
欲に従って無慈悲なことをした場合は悪になるが、そうでないなら欲はあってもなくてもどうでもいいものだ。
だだし、欲が少ない方が苦も少なくて安楽に暮らせるだろうけどね。足るを知る状態になるから。
本当に無欲になった場合は他人がどのようにして何をどれぐらい稼いでいようが気にならない筈だ。自分には不要なものだからね。
AKBのファンがどれほどCD買おうがどれほど握手しようがそんなことはファンでない者からしたらどうでも良いことなのと同じ。それ自体は善でも悪でもないしやりたきゃ好きなだけやれば良い。
しかしもし多く得ている者に対して悪く言いたくなったり妬んだりするようならば、それは自分にも同じような欲があるということになり要するに同類だ。
>もしもしおれおれに騙されて貧乏になるおじいちゃんお婆ちゃんがそういうものの縮図だと思いますけど
これ騙す内容にもよるだろうけど簡単に言ってしまえば欲があるから騙されて失うってことだよね。 >>343
>欲が少ないほうが苦も少なくて
僕もそう思っていたんですけど、ほんとにそうか?と思ったんですよ
1日3回食えればいいやって人は強欲な人によって1日3回食べることまで奪われてしまうのがこれからの社会なんじゃないかと
お金がなければ安全な食べ物を買うこさえ難しいので、健康でいられたらそれだけでいい人も、健康でいるためにお金を稼がなきゃいけないですよね
お金を得るにはお金があるところから回してもらうしかないんですけど強欲な人は必死に溜め込みますし弱欲の人は必死にならないので奪われやすいですよね
おっしゃるとおり本当に無欲の人は安楽でしょう
おっしゃるとおり僕も同類ですよ
僕は食うのに困るような生活をしているので食うのに困らない生活をしている人が羨ましく思います
金持ちになりたいわけではないですが、明日の生活の心配をしないでいたいという僕の欲がかなわないことから金持ちへの恨み妬みがあります
欲があるから騙されるのはその通りだと思いますよ
お釈迦さまの時代の出家者たちは泥棒などに襲われることがなかったらしいです、奪われるものを何も持っていないからですね
しかし欲があるから騙されないというのも事実でしょ
金銭に執着してればもしもしおれおれに騙されにくいはずですから
本来は欲に上も下もないのかもしれませんけど、贅沢や性欲や人の上に立ちたいというのが欲深で、子どもや孫を助けようとするのは少ない欲だと僕は感じますけどね 鬼和尚、戒を守れるよう生きるにはどうすればいいでしょうか?
ですが現金な話、金は得たいのです。
経済的にも自立はしておきたい上、
ここで気付きをおこさせてもらったのに
何もしていない状況というのはまずい気もします。
まっすぐ次へと進むべきなのかもしれませんが。 >>345
何もない所から金を稼ぐのは大変
でも言われた仕事するのは簡単よ〜 鬼和尚も侮辱されたら怒りもするし皮肉も言う人だとわかって安心しました。
それが本当だと思います。鬼和尚は実際にはそうではないのにスーパーマン
のように見せかけようとするところが間違っていると思います。
背伸びをしなくても鬼和尚は鬼和尚のままで十分に価値があると思います。 >>324 死が近づく恐れが無かっただけなのじゃ。
死後はやはり自らの行いの報いを受けるものじゃ。
悪い事をしていれば苦しくなり、苦しむところに行くじゃろう。
善い事をしていれば楽しくなり、楽しいところに行くじゃろう。
>>325 それは感じないから苦がないというだけなのじゃ。
それが羨ましいというならば精神に異常をきたして居る者も羨ましいということになるのじゃ。
正直な者は成功するのじゃ。
それは成功する者の性質の一つに数えられているのじゃ。
嘘をついたり誤魔化したりする者が成功するのは一時的にしかならないのじゃ。
誠実な者ほど人に助けられて成功するのじゃ。
金持ちになりたいならば本心を観てそのように認めるとよいのじゃ。
それは恥ずかしいことでも賎しいことでもないのじゃ。
資産を積んで成功者への道を歩むと良いのじゃ。
>>329 どういたしまして、またおいでなさい。
>>345 五戒を守ればよいのじゃ。
酒の代わりに瞑想をするとよいのじゃ。
瞑想が深くなれば酒以上に快が起こるのじゃ。
頭も良くなるのじゃ。
金を生む資産を積むとよいのじゃ。
資産とはお金をポケットにいれてくれるものなのじゃ。
配当金の有る株とか、不動産とか、著作物とか、キャラクター等も資産なのじゃ。
金をためてそのような資産を買いまして行くのじゃ。
>>347
∞ノノハ∞
川^〇^ハレっ>>127
>>126 習い性に相応しい環境を心が選ぶから報いになるのじゃ。
例えば暴力的な言動をしているならば暴力にさらされる環境を好ましく感じてそこに行くのじゃ。
習い性となった性質も自らの意志や努力で変えることも出来るのじゃ。
同じではないのじゃ。
性格や才能は自ら行ったことではないのじゃ。
自ら行ったことだけが習い性と成り、報いになるのじゃ。
※鬼和尚さんは怒りもするし皮肉にさらされる環境を好ましく感じてそこに行くのじゃ。wwwwwwwww >>348
精神に異常をきたしていてもそれによって苦が少ないなら羨ましく思いますね
自分の死後には天国でハーレムだと信じて疑わない人や、徳を積んだから来世で幸せになれると信じて疑わない人なんかも羨ましいです
>正直な者は成功するのじゃ。
確かにそうなのかもしれないと考えを改めました
他人より自分の欲が大事だと思うならそれを実行するのが正直者ですよね YouTubeで「仏教を簡単に」って動画を見ていたらお釈迦さまの悟りについての説明の中でこういうことを言っている人がいました
「釈迦が悟りにいたる経緯について誤解している人がたくさんいる、釈迦は王子時代にさんざん快楽を味わったから悟れたんだ」
同じように歴史的な偉人と言われる人たちは若い頃に快楽を味わっている、松下幸之助とかあと誰々とか言っていました
このような意見についてみなさんはどう思いますか? >>348
もしかして快を求めているからなのでしょうか。
まだ執着はあるようです。
とすると仮想通貨は資産には含まれませんね、
規制がないために常に見張っていなければならず、
見ていると大金持ちが人をいじめて巻き上げている印象が目につきます。
引っかかったのですが、キャラクターとはなんでしょうか? >>352
じゃあハリウッドスターは覚者だらけだろうね
>>353
ふなっしーとかの権利じゃない? えっと、快楽を知り尽くせば悟れるのかってことじゃなくて、悟るためにはたくさんの快楽を知ることも必要な要素なんですかってことです >>354
valuってシステムがありましたが、
所謂それに近いものかなと想像しました。
個人や著名人等が新興株をおこし、
それをもとに株式取引を行うみたいなものです。
やばくないかと思ったらすぐに事件が起きて
大変なことになっていましたが。
まさかなぁとは思いますが。。。 鬼和尚は地元の盆踊り大会などではいつも目立つ場所で
みんなの注目を浴びながら派手に踊りまくる人ですか?
または、目立たない隅の方で地味に踊る人ですか? ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ盆踊り子供の頃行ってたけど輪になって踊ってましたね
目立つとか目立たないとか発想がありませんでしたねw
盆踊り一つにしても見方が違うんですね
田舎のディスコなんかでは常連席VIP席が決まっていて
新参が座って居ると面白くないとかw
でも常連の子と一緒だから麦達には文句言って
これないなんて事ありましたねwww
盆踊りでも目立たないと気が済まない人もいるかも知れませんねwww >>344
一日に同じ三食食べていたとしても沢山食べねば満足できない人よりは少ない
量で満足できる人の方が安楽だと思う。(それに食いすぎは病気にもなるしね)。
人の食料を奪ってまで(あるいは人の取り分を減らすような状況で)食べようとする
人が居たとすると、その人は無慈悲な事をしているわけで、それは何らかの形で
止めさせた方が良いとは思う。しかしそのような無慈悲な事は一切していないの
なら幾ら食べても良いのではないか?
欲があるから騙されないとしても、延々と同じパイを奪い合っている状態なら
イタチゴッコにしかならない。今守れても何れ必ず失う。文字通り盛者必衰だ。
勝った者が勝ったままになることはない。 ∞ノノハ∞
川^〇^ハレひとえに風の前の塵に同じとかw
身も蓋もあるのか無いのか気の持ち方かなぁ ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ奪い合えば足りず分け合えば余るって
相田みつをさんは天才♪ >>355
世界観があり目的があり手段があるならば、快楽の追求は断見に繋がり、苦の追求は常見に繋がるでしょう。
お釈迦様は、王城での快楽に満ちた生活に疑問を感じ出城し、出家をして苦行に身を投じ、さらには苦行を捨てて悟りをひらかれた後に中道を示されました。
道を志すなら既にお釈迦様の示された中道を真っ直ぐに歩めば良いのでは?
捨てられた方法を追体験するのは無駄な事かと。 >>359
貧困ビジネスのような持っているものが持っていないものから更に奪いとるというのが今の社会のような気がします
そのような悪徳は長続きしないというのもあるのかもしれませんが
どのような手段で築いた富でも、今日のパイが食べられない人を尻目に明日のパイを確保しているようなものだと僕は感じます
>勝ったものが勝ったままになることはない。
そういうものなんですかね ∞ノノハ∞
川^〇^ハレお金が欲しいなら働けだおw
制約があるなら考えろだおwww
トイレットペーパーの芯や松ぼっくりも需要がある時代だお
ビーズでアクセサリー作って売ってる人もいるだお >>362
>捨てられた方法を追体験するのは無駄
僕もそのように考えていたんですけど、快楽を知らなきゃ悟れないと自信満々に言ってるのを聞くと、そういうこともあるのかなぁと疑問になりました
快楽の追及はあれですけど苦行に関しては必要だと考えてやっているところがあるように僕は思いますから、苦行が必要なら快楽の追及も必要だと言うのは理は通ってると思いました
個人的には快楽も苦行も必要なくて中道だけかなと思いますけどはっきりしません >>362
仏教って実体験を重要視しているところがありますよね
饅頭の味を知らない人にどんなに説明したところで実際に食べてみないと本当にはわからない、みたいな例え話もよく聞きます
欲を満たしたらその時には満足が得られても、やがてもっと大きな欲が生まれ、それを満たしても、もっともっとでキリがない、みたいなのは仏教の考え方だと思いますけど
饅頭の例えと同じで、それを本当に理解するためにはそれを体験する必要があるんだという考え方には一理あるのかなと思わないでもないんです
これは僕の知識や考え方がどこかで間違っているんですかね ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶって聴くけど
身に付くのは経験だと思うw >>366
よくよく考えてみましたら、欲を満たして新しい欲が生まれる経験をしないということはまずないですね
それが何千万回経験するか何百万回経験するかのような違いはあっても、それに気付こうとすれば1回で気付くかもしれませんし気付こうとしなければ何億回経験しても気付かないようなものですかね
まあ観察を実践するのが一番ってことで僕の中ではスッキリしました
ありがとうございました 病にかかってa薬を試して治らず、b薬を試して治らず、c薬を試して治ったなら、それ以降はc薬を飲めば済む事かと。
c薬が効く事を知る為にa薬やb薬を試す事はないはずです。
饅頭の喩えは、c薬を飲みなさいとの教えで、aやb薬を試しなさいではありません。
仏教です。
仏の教えを信じて実践するのが基本かと。 >>369
なるほど、すごくわかりやすい例えですね
僕の仏教知識ってテレビとかで見たりネットでちょこっと調べたりした浅いものなんですけど
お釈迦さまは初転法輪で四諦という教えを説いて、その中にこの世は苦であると理解しなさいみたいな内容があると思うんですけどそれは要するに
この世は苦であるという理解がなければ、苦という症状を持つ病にかかってるということがわからず、症状の自覚なければ、病に効く薬を飲んでも効果がわからないからってことはないですか
それとも苦であると自覚しなきゃ修行をがんばれないからという理由なんですかね
前者であれば快楽や苦行とは症状を自覚させるために必要な薬であり、悟りは症状を消す薬であるということになり、どっちも必要だとも考えられますよね
まあ頭の中でごちゃごちゃ考えても解決しないので観察や集中の実践あるのみですね >>353
キャラクターってキティとかのことでは?サンリオはキティの絵を色々な商品に許可してそれで商売してるからね。
てきとーに描いた絵やキャラクターでも求める人がいて売れるならそれで金を得続ける事も可能ってことだ。 観察という思惟 ・判断では、解脱の主体としての絶対の自己というようなものを設定する事から免れません。
それはつまり「「観察している」と観察している者」の無限遡求です。
ところで、人間の認識というものは直観から知覚 ・判断 ・推理という過程で展開しますが、純粋な直観においては主観と対象の分岐(観察者の無限遡求)もありません。
分かりますよね?
直観に逆行する事なんです、要は。 >>370
横だが、だいたいは苦を誤魔化すための逃避として快楽を得ようとしていると思う。
宗教にハマるのも苦から逃れようとしてってパターンが結構あるんじゃないかな。
客寄せの宣伝文句として病気が治るだの幸せになるだの言ってる宗教は多いからね。 応病与薬といって、様々なお薬をお釈迦様は我々衆生の「状況」に応じて与えて下さいましたが、そのお薬の出所は一体何処なのか?
お薬は智慧、お出しになるのは慈悲。 悟りとか知りませんが、悟りは仏教の専売特許ではないのでしょうから、快楽や苦行を追求し悟りを追求するのもありでしょうね。
ただ、仏教徒は仏説に従ってるだけのことです。 糞凡愚は相も変わらず師匠から教えられたことをオウムのように繰り返しているだけだね。
何の体験もないから、ただ仏教辞典に書かれているような無味乾燥な表現を覚えて、それで
仏教がわかったと思っている馬鹿者だということがよくわかります。
鬼和尚が勧めている「観察」は体験すれば無限遡求などではないことが直ぐにわかることだ。
無限遡求になると思えるのは体験(宗教体験)がない未熟者だけで、解剖学者の養老孟司も
「無限遡求だから意味がない」などとテレビで話していたことがある。養老孟司も瞑想理解も
糞凡愚と同じ未熟者のレベルだということです。
このスレに来て仏教を学ぼうとしている初心者の人は、糞凡愚のような何も体験していない
馬鹿者のウソに騙されないようにすることが大切です。 行為と煩悩の止滅によって解脱がある 。行為と煩悩は思惟より生じる 。それらはことばの虚構による 。ことばの虚構は空性によって滅せられる 。
(龍樹「中論」18章(5))
観察という思惟 ・判断では、解脱の主体としての絶対の自己というようなものを設定する事から免れず、それはつまり「「観察している」と観察している者」の無限遡求なんですよ。
だから、直感への逆行を説いてるんです。 「◯◯は△△と観察するのじゃ」では、△△は◇◇と観察、◇◇は××と観察の循環論法であり、無限連鎖ですよ。
そんなのは言葉によるお遊びです。
先に中論で示されているように、そうしたことばの虚構は空性によって滅せられるしかないんですよ。
だから、直感への逆行を説いてるんです。 無分別を分別せよだの非思量底を思量せよだの、そこを言ってるんです。 >>377 >>378 >>389 >>390
何の体験もないから、そんな妄想思考をしてしまうのです。
それで「無字」や「隻手」の公案を通してもらったと言うのだからへそが茶を沸かします。
>無分別を分別せよ 非思量底を思量せよ
本当に笑わせる。
それもインスタント接心中に君のボンクラ師匠が繰り返し言っていた言葉なのでしょう。
ボンクラ師匠とボンクラ弟子の面目躍如たるものがありますね。 >>372
難しくすぎてわかりません
>>373
>苦を誤魔化すための逃避として快楽を得ようとしている。
うーん、お腹が空くから食べる、眠いから寝る、まず欲求があり行動し満たされて快楽を得るっていう流れが普通ですかね
確かに苦を誤魔化すための逃避だと言えますね
それが真理ならこの世は苦だとわかりますね >>381
反証が無いのでこれ以上は無駄な議論だな。
終わりw 観察行為が悪いとは言ってないよ。
ただ、観察行為である限りゴールポストは動き続けて止まない。 >>379
そうなんですか?
僕は悩みが多くてもやもやしてる時に座禅の真似事をしても、もやもやしてるから全然集中できなかったりします
そういうときに「なぜ悩むんだろう」と考えたりして原因がわかればすっきりして楽になります、それが持続しないとしてもですね
まあ僕は心の観察ってよくわからないので真似事かもしれないんですけど >>384 >>385
何の体験もない馬鹿者はもう書き込みをやめなさい。
>>386さんのような初心者の人に間違った理解を植え付けてしまうから。 みなさんに質問です
ネットサーフィンしているときに思考と後付けなんだという見解があることを知りました
人の行動は無意識であり、行動のあとでなぜその行動をしたことの理由を作るのが思考らしいです
リンゴが美味しそうだから食べようと考えて行動して食べたと思っているのは
実はリンゴを食べるという行動が最初にあって、その行動を取ったのはリンゴが美味しそうだったからだという思考が続くらしいです
ここでなぜか思考と行動が逆転して、思考があってから行動を取ったと錯覚しているらしいです
これは本当だと思いますか? >>387
もう一度言うけど、反証が無いのでこれ以上は無駄な議論。
以上。 >>391
何の反証だい? 本当に馬鹿者ですね。
君は意味もわからずに龍樹の中論の一節を書き写しているだけなのだよ。
龍樹哲学というのはね、学ぶ者の意識を悟りの意識に変容させる特殊な論理で、
その論理そのものが真理だということではないのだよ。こんなことは仏教学を学んだ者に
とっては常識なのだよ。君はいつも仏教書を引用して自分が言っていることに権威付けを
しようとしているが、そのトンチンカンな引用によって却って君が何もわかっていないこと
がバレるだけなのだよ。 鬼和尚に質問です
鬼和尚は前に「人の自由意志は1%か2%くらいなのじゃ」みたいなことを書いておられたのを記憶しています
記憶や経験に基づくものは自由意志ではないのだろうと解釈していましたが、だとすればそれらに基づかない自由意志とは一体どのようなものなんでしょうか?
それは思考の中にあるものですか?
たとえば自分はだめなやつだと思って、どうしてだめなやつなのかを考えて、どうすればだめなやつから抜けだせるのかを考えて、だめなやつから抜けだすような行動をする
この流れの中に自由意志というものはありますか?
よろしくお願いします >>388
それって脳波を計ると意識的な決断の7秒ぐらい前のまだ本人が意識するよりも前に脳が活動し始めてるって話?
それはそうなんじゃないの?測定できてるわけだし。 >>394
そうです、それのことです、行動じゃなくて決断でしたね(笑)
どうするかは先に無意識で決まっていて、そのあとに思考で理由付けをしているってようなことでしたね
でも当の本人は自分が思考して自分の意志で決断したような錯覚をしているということですね
僕には信じられませんけど、なんだか悟りに通じるものがあるような気がしましたので見解を知りたいなと思いました >>393
馬鹿鬼が後付けで誤魔化す前に引用しておく。
その後に見解が変わったというならともかく、ね。
(以下引用)
人の意志は煩悩や記憶によって、制限を受けているものじゃ。
全ての煩悩と種子となる記憶が無くなれば、自由な意志は表れる。
しかし、悟りの境地は何物も為す所が無い、為すべき事も無い、無為によって成る故に、自由でありながら、実には何事も意志しない、行雲流水の如きものと成るのじゃ。
2008/11/1821:08 >>376
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ中村元氏の般若心経の私訳ですが
照見五蘊皆空 度一切苦厄
(しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)
私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。
だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。
しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、
あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても
「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。
確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。
驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。
その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。
とありますが観察をしていると色々な方面に枝葉が別れて膨大に観察が広ろがっていくと思うのですが...
糞凡愚たんが言われる
>「観察している」と観察している者」の無限遡求です。
中村元氏の私訳、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。
には至らないのではないでしょうか? >>400
>「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。
>には至らないのではないでしょうか?
至るのですよ。そのことは「洞察」としてもわかり、また「体験」としてもわかるのです。
なぜなら、自分を見ている自分をさらに見ている者は個人性がなく全存在と一体になった意識
なので、さらにそれを見る者はもう存在しようがないのです。これについてはインドのOSHOも
講和の中でよく話していることです。(宗教体験がなければわかりません。)
宗教体験のない者が頭だけで「観察」を考えると<無限遡求>になると思ってしまうだけなのです。 >>401
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
>自分を見ている自分をさらに見ている者は個人性がなく全存在と一体になった意識
なので、さらにそれを見る者はもう存在しようがないのです。
存在しようがないのでしたら観察自体が不可能ですね >>405
最初の段階と次の段階の観察はあるのですよ。そして個人性のない意識に達すれば、
もうさらに見る者はいないので無限遡及などはあり得ないということです。 >>406
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
>最初の段階と次の段階の観察はあるのですよ。
鬼和尚さんが言われるには
>>>13 そうじゃ、原因から起こることを観察するのじゃ。
完全に観察されれば厭離が起こるのじゃ。
原因から起こることを観察すると言うのなら断続的に原因の観察は続きますね
鬼和尚さんは完全に観察されれば厭離が起こるのじゃ。
と言っています >>352 何も思わないのじゃ。
マハリシやクリシュナムルティとかは快楽を味わうこともなく悟ったのじゃ。
老病死の苦が切実に感じれば悟りを目指さないではいられないのじゃ。
>>353 ミッキーマウスとかキティちゃんとかの権利なのじゃ。
一度創ればお金をどんどん生んでくれるのじゃ。
キャラクター権とかいうのじゃ。
絵がうまい者ならば簡単にできるのじゃ。
>>357 わしは見ていたのじゃ。
>>388 本当なのじゃ。
フロイトも人は潜在意識で動いて思考は後付されるとわかっていたのじゃ。
感情的な動機が多く人を動かしているのじゃ。
観察して見るとよいのじゃ。
>>393 そのような意志も自由意志といえるじゃろう。
例えば論理を習い、論理的に考えてその結果として行動を選択する時、それも自由意志と呼べるじゃろう。
潜在意識からの感情的な選択に任せず、自らの論理に従って選択する時、自由意志は有ると言えるのじゃ。
自分の駄目なところを見たり、改善しようとする時にも感情的には自分の駄目な処を見たくも改善したくもない筈で有るからのう。
将来とか目標などから自らを鑑みて、そのように決意するところに自由意志はあるといえるのじゃ。
それがごく稀なものであることはこのスレをみただけでもわかるじゃろう。
>>400 自分という実体はどこにも存在しなかったというのが観察なのじゃ。
一切の目覚めた者は実際には全て観察によって仏陀となったのじゃ。
>>403 わしは前世で地獄の蛆虫を助けたのじゃ。
すると蛆虫はうまれかわってわしの引き立て役になると誓ったのじゃ。
そして今わしの引き立て役に励んでいるのじゃ。
立派なことじゃ。 >>407
まだ、よく理解できていないようですね。
個人性のない意識に達すれば身心から離れる(身心への同一化がなくなる=厭離が起こる)のです。
再び同一化が起こったら、また観察によって身心から離れる作業を行えばよいのです。
それは同じことを繰り返しているのであって無限遡及とは全く別の話です。
(無限遡及というのは
「自分」←「見る者」←「見る者」←「見る者」←・・・・ と無限に続くと言う意味です。)
悩みが出る度に観察を繰り返すのは最初の段階を繰り返しているだけなのですよ。 >>408
>>352について
解答ありがとうございましす
実践あるのみということがわかりました
>>388について
そうなんですか、驚きました
感情的な動機で動くことが多いのと、思考は後付けだという事を意識しながら生活してみます >>408
>潜在意識からの感情的な選択
これってトルストイが動物的個我と名付けていたものと同じっぽいですね 、煩悩も同じですかね
>自らの論理に従って選択する
これはトルストイが言う理性、理性的な意識というやつと同じっぽいですね
要するに感情的な選択は自分の意志によるものではなく、理性的な意識による選択こそが自分の意志によるものだということですかね 質問です
さきほどの鬼和尚さんの書き込みの中に感情的な動機、感情的な選択という言葉がありましたので、疑問に思っていた事を思いだしました
感情についてなんですけど、以前に座禅の真似事をしていたとき特に悩みはないのに不安感があって、何を不安に思っているのか考えてみても原因がさっぱりわからなかったんです
その時にふと胃がムカムカしていることに気付きまして、もしかしてこれが不安の原因なのかと気付いて、自分的には大発見だと思ったことがありました
それから色々と実験してみたというか、呼吸が浅い時に息苦しい感覚が焦るという感情だったり、深呼吸したら落ち着いたり、心拍数と色々な感情が繋がっていたりすることに気付きました
それで感情とは肉体から作られているもの、肉体の持つ意識のようなものなんじゃないかという考えに至ったのですが、これは正しいですか?
何度も何度も質問ばかりですみません、この質問が終わったら自重します >>408
私は絵がへたくそなので、多分自分向けの話ではないようですね。
私も励みます。 >>401
> 自分を見ている自分をさらに見ている者は
> 個人性がなく全存在と一体になった意識な
> ので、さらにそれを見る者はもう存在しよ
> うがないのです。
その「全存在と一体となった意識」自体、自我意識の対象に他ならないのですよw
(中論第16章)
3.自我意識 、所有意識を離れた人もまた存在しない 。自我意識や所有意識を離れた人がいると見る者は (事実を )見ない 。
4.内と外とに 、 「われ 」もなく 「わがもの 」もなければ 、執着は滅し 、この消滅によって再生も尽きる 。 >>401
> 自分を見ている自分をさらに見ている者は
> 個人性がなく全存在と一体になった意識
と見ているでしょ? >>415
>その「全存在と一体となった意識」自体、自我意識の対象に他ならないのですよw
宗教体験がなく言葉だけで考えるから、そのような無意味なことを書いてしまうのです。
そんなことを言えば、臨済録の「無位の真人」も自我意識の対象にすぎないということに
なってしまうでしょう。仏教においては、体験のない者が頭で考えた理屈ほど無意味なもの
はありません。(体験している人にとっては単純な事実があるだけなのです。)
君は仏教学などをきちんと勉強したことがなく、僧侶資格を取るためのインスタント接心の中で
教えられたことだけが仏教だと思い込んでいる哀れな人ですね。
何でも否定することが仏教の真理であり、仏教の真理というものは否定の表現によって一意的に
表せると思っているお馬鹿さんなのでしょう。
そのような間違った理解をしてしまうのも君が何の宗教体験を持っていないからです。
以前にも書いたように、龍樹の思想というものはそれ自体が真理なのではなく、そのような思考様式
によって意識が変容し、その果てに真理の世界が見えるようになるということが本質なのです。
>416
>と見ているでしょ?
世俗諦において表現しているということに過ぎないのです。(その世界は体験した者にだけわかるのです。)
体験した者にはそれが臨済録の「無位の真人」の自覚と同じであることも直ぐにわかるのです。また、
宗教体験がある者には鬼和尚が深い宗教体験を持った人であることが直ぐにわかるものですが、君には
鬼和尚が見性もしていないように見えるということですから、それは君自身が何の宗教体験も持っていない
ことの証拠になるのです。自分自身に何の体験もないので、言葉の背後にある他人の宗教体験もわからない
のです。 >>409
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ麦の解釈ですが
鬼和尚さんが言われるには
>>>13 そうじゃ、原因から起こることを観察するのじゃ。
完全に観察されれば厭離が起こるのじゃ。
原因から起こることを観察すると言うのなら断続的に原因の観察は続きますね
鬼和尚さんは完全に観察されれば厭離が起こるのじゃ。
と言っています
糞凡愚たんが指摘している
(無限遡及というのは
「自分」←「見る者」←「見る者」←「見る者」←・・・・ と無限に続くと言う意味です。)
※完全に観察されれるまで断続的に原因の観察は続きますから糞凡愚たんの指摘は間違いではありませんね
キリなく見る者がいます
>>406
貴方の説明ですと
>最初の段階と次の段階の観察はあるのですよ。
※ 鬼和尚は最初の段階と次の段階の観察しかできず
完全に観察される事が出来ない事になります >>417
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ貴方は以前
「私の体験」ではないのです。と言われていました
>0544 おさかなくわえた名無しさん@無断転載は禁止 2017/09/17 23:26:29
>>536
>貴方の体験は何か具体的にお聞きしています
その質問に、あなたがまだ仏教というものがわかっていないことがよく表れていますね。
「私の体験」ではないのです。「普遍的な宗教体験」なのです。
ですから、あなた自身がその体験をした時に 「わかる」 のです。
仏典や論書(臨済録や正法眼蔵)にもたくさん書かれてある普遍的な体験で、個人的なもの
ではないのです。
0926 麦 ◆MUGI/AIUgo @無断転載は禁止 2017/10/01 01:18:47
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ
【大前提】「私の体験」ではないのです。
【前提】、あなた自身がその体験をした時に 「わかる」 のです。
【結論】普遍的な体験で、個人的なものではないのです。
答えが【大前提】にあったのは皆な内緒だお♪w
【結論】は【前提】を否定していますので論理破綻しています ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています