>>88 犬のまねをしていたらそれが習い性になり犬になる報いがあるというようなことじゃ。
 今歌を練習していたらそれが習い性となり、来世にも歌がうまくなるのじゃ。
 善事をどんどんしているとそれが習い性となりよいところに産まれるのじゃ。
 習慣による性質なのじゃ。

 そうじゃ、報いは有るのじゃ。
 そのように考えてよいのじゃ。

 それを苦と受けとる性質は変えてよいのじゃ。
 環境は変らないが心は変るのじゃ。
 人に生まれることはそのように進歩するチャンスも恵まれるのじゃ。
 悪いことばかりではなく少しはよいこともした証なのじゃ。
 そうであるから人に生まれたら苦を滅し、悟りを得る実践をしても良いのじゃ。
 
 報いによって苦を滅しないということはないのじゃ。
 ただ自らの今の性質によって信じることが出来ないのじゃ。

>>89 悟っていたのじゃ。
 石を投げられても苦ではなかったじゃろう。
 ただ周りの者のために石を受けたのじゃ。

>>92 1 年はないのじゃ。若い頃なのじゃ。2 よいことじゃと、祝福したのじゃ。
 3 4労働階級の農民だったのじゃ。5 年は知らんのじゃ。じじいだったのじゃ。
 6 無いのじゃ。7 無いのじゃ。8 空と観る法であったのじゃ。
 9 順調だったのじゃ。 10 記憶だったのじゃ。

>>93 そうじゃ、それでよいのじゃ。
 何度も観察すれば完全に観られるじゃろう。
 それによって無我になり、認識も厭離できるのじゃ。
 それにも囚われずに精進あるのみなのじゃ。