自分というものを意識する働きそのものが自我ということでしょうか?

自己の観察とは、自己(意識を向けている先)ではなく、自分を意識している働きそのものを観察するという感じでしょうか?

また、そのように観察する意志が働いて観察する行為自体が自我のものであるこら、その観察で直接的に自己を見れる事はあり得ないけど、
観察することが深く根付けば無意識に観察が働くようになり、
自我への気付きが起きやすくなるということでしょうか?