【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】38 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
*悟りを開いた人には偉大な知恵があるらしいわ。
*生活のことなんでも聞いてみましょう。
*あるゆる悩みを聞いてみましょう。
*罵倒、批判だけのレスはスルーよ。
<前スレ>
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ37
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1487255959/150 なんとなく、快が生じて思考が静まる姿勢があることがわかってきました。
そのときはぼーっとして他の事が考えられない、考えたくないような状態になります。
その状況は正しい方向でしょうか?
しかし、「このままもっと行けばサマーディに入れるのかも」「サマーディに入りたい」などと雑念が湧くと力が入り、ダメな気がします。
明晰夢を見ていても、「アレをしよう」などと強く考えると目が覚めてしまう感覚にも似ています。
あと、「サマーディに入ったらどのくらいの時間たつのだろうか?」「意識を失ったような状態になるのだろうか?」「座ったままいられるのだろうか?」「何時間もたって仕事に遅れてしまわないか」などの、サマーディの状態への不安もチラホラ湧いてしまい
ます。 このような状態は、自己がある事で生じる苦から逃れようと様々なものに夢中になっていた事の対象が、「悟り」にすり変わっただけの気がします。
サマーディに入りたい、悟りを得たい、という思いは苦から逃れたい逃避が原因であると思います。
それでも、意味の無いものに逃避して無駄に過ごすより、悟りの可能性があるなら、価値あるものだと思います。
悟りは価値があり、悟りを得て価値がある者になりたいという想いもある気がします。 今すぐ自己を捨てる、いずれ死ぬ自己を今捨てる覚悟、極端に言えば死を選べる程の覚悟が必要なのだと思います。
それ程の想いがあるか自分に問うと、まだ自己への執着があると気付きます。
だからこそ、いずれは全てを失う、苦も楽も感じる自己は無くなる、死を想うことが大切なのでしようか。
今ある「私」という感覚は物心ついた頃からずっとあります。そのように記憶しています。そしてこれからも死ぬまであり続けるのだと思います。
悟って死んだ人はもう産まれることは無く永遠の境地に留まり、悟らず死んだ者は、また、何かちがうもので「私」という感覚を持ち続けるのでしようか。 >>51
いや
>>61
それでじゃない
>>72
関連付けたからだ
>>76
まかり通ったからだ
それなり
>>82
誰でも同じだ
攻性 すみません、いずれは全て失うと書いてしまいましたが、死後の世界も自己はあり続けるのでしょうか?
死により失うもの、死後にもあり続けるものは何でしょうか。
悟りの事を考えたり修行したりは出来なくなりますか? >>80 前世や今の世で善事をすれば福楽もあるようになるのじゃ。
しかし、それで老病死を免れるわけではないのじゃ。
この世の者は身内や自分の老病死を経験することになっているのじゃ。
楽しげな衆生の姿を見れば羨ましくも見えるが、実は老病死を免れないことでは全く同じなのじゃ。
実際に親しくなって詳しく話しを聞けば、身内をなくしたり自分に病があったりするということもわかるじゃろう。
他人の芝生は青く見えるということわざ通りなのじゃ。
お釈迦様は他人のしたこととしなかったことを見るな、自分のしたこととしなかったことを見るのじゃ、と言っているのじゃ。
そうすれば他人と関係なく自らの真の幸福を求めることが出来て、他人の幸福に煩わされることもなくなるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>81 カラオケとかスポーツをするとか自分の好きな事を長くやるとよいのじゃ。
日ごろのストレスも発散してリフレッシュするじゃろう。
実践してみるのじゃ。
>>82 できるだけ多くの者と子を作りたいという本能はあるじゃろう。
それでも一人の者を愛し続けることも出来るじゃろう。
相手のよいところを見るようにするのじゃ。
欠点は自分にもあると目を瞑るのじゃ。
ストレスがたまってきたらたまには一人になるのじゃ。
常にくっつきすぎても相手が嫌になるのじゃ。
時には離れていてこそ愛も長く続くのじゃ。
そのように実践してみるのじゃ。
>>83 そうじゃ、それがよいのじゃ。
そこまでいけない者もいるのは姿勢が悪いのじゃ。
姿勢が悪ければ気が頭の中にまで入らずに、サマーディにまでたどり着けないのじゃ。
姿勢をよくして下腹にのみ力を入れ、上体からは完全に力を抜けば誰でもサマーディに入れるのじゃ。
>>84 それでよいのじゃ。
既にサマーディの入り口にまで来ているのじゃ。
姿勢が正しければ恐れがあっても自然にサマーディに至れるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。 >>85 そうじゃ、この世で唯一価値のあるものじゃ。
更に実践あるのみなのじゃ。
>>86 そうじゃ、常に死を思えば自己への執着も虚しいと知れるのじゃ。
悟らなければ再び私という観念を持ってしまうじゃろう。
死んでも観念はあるからのう。
それが種子なのじゃ。
>>88 自己という観念はあいまいになるじゃろう。
時に思い出したり忘れたりするものじゃ。
夢の中と一緒なのじゃ。
死者の意識は眠りの意識と同じであるからのう。
死ねば肉体は失うが、意識はあり続けるじゃろう。
思考や修行は出来ないのじゃ。
夢の中ではできないのと同じなのじゃ。 この世の人が煩悩やエゴを少し超えてさとりたいと思った時、この世に人を産みだすことに
疑問を感じて出生数が減ったとしたら、苦の世界に産まれる魂が減るのでいいことですか?
敢えて苦しい世界に悟りを求めて生まれなければいけない魂がたくさんあるので、この世の人は
悟りに近づかず繁殖するのが推奨されますか?
何を考えても分からないことなのでこじつけにもなりえますが 鬼和尚、粘土団子や自然農法で有名な福岡正信氏は、
悟りの段階では、どのあたりまで行っていたのですか? >思考や修行は出来ないのじゃ。
鬼和尚様が死んでも思考できなくなるんですか? ありがとうございます。
サマーディは気が頭の中に入らなければいけないのですね。
普段の生活でも、姿勢を正していた方が気が昇りやすくなりますか?
お腹を膨らませ、丹田で呼吸することは、どのような効果があるのでしょうか?これも、気が昇りやすくなるのですか?
猫背のせいか、最初は座るのも大変でしたがやっと座っていられるようになりました。
最初は結跏趺坐や半跏趺坐を心掛けていたのですが、安定して上半身の力を抜ける座り方を探して、足はしっかり広げた方が楽なのだと気が付きました。
鬼和尚が勧められていた通りヨーガの呼吸法を取り入れてみました。
片鼻呼吸法とバストリカー、カパラバディをやってみております。
呼吸法を取り入れてから、体の調子が良くなってきており、また身体の感覚に気づくやすくなり、瞑想もしやすくなりました。
片鼻呼吸法は鼻の通りが良くなりますし、カパラバディなどを行ったあとに座ると自然と呼吸がお腹で行われ深くなりました。
カパラバディは心地好く、普段 気分転換にも行っています。 よく、悟っても特に何かが変わるわけでも無い、とも聞きますが、何故でしょうか?
様々な観念のしがらみから解放されると、やりたい事をやれなかったり逆にやりたくない事をやっていたり、それが無くなると自然と環境は良い方向へ変わって行くのでは無いかと思います。
そもそも、やりたい事もやるべき事も無くなるから、何も変える必要も無くなるのでしょうか。
また、周りの人は、「この人変わったな」などと変化を感じたりしないのでしょうか?
鬼和尚は普段生活をしていて、周りの人は鬼和尚が悟っておられる事に気付かれているのですか?
普通の人は、悟った人がわからないものですか?
OSHOやグルジエフなどは、その場にいるだけでも目立ちそうな、すごい存在感を放っていますよね。
ラマナ・マハリシの写真などを見ているだけでもこの人の前では何も偽れない、と思うような念を起こさせます。 ダンテスダイジは悟っていなかったんですね。
一時期本を読んだりしていましたが、独特の、詩的で、何というか虚無感?のようなものを感じました。
ニルヴァーナのプロセスとテクニック という本を買ってみたことがあるのですが、何故だか本を持っていることが怖くなってしまい、売ってしまいました。 お金の悩み相談
日々の生活での返済、お支払いでお悩みの方。
急な出費などで、今月の生活費が足りない方。
多重債務でお困りの方。
お金に関するお困り事や法的トラブル等HPに記載以外の事でも、お気軽にご相談下さい。
東京、神奈川、千葉、埼玉にお住まいの方は優遇です。
詳しくはHPをご覧下さい。
npo法人 エスティーエー 同じ才能、強さを持つ人でも、
あっという間に破滅してしまうもの、
一方は淡々と幸せを築いている、
という二者がいます。
違いはなんでしょうか?
あと、見栄と欲の動機で動いていた場合、
それはどうやっても悪事とならざるを得ないのでしょうか? 鬼和尚
夢の世界がこの肉体の脳で作り出された想念の世界であるように
この世界も誰かの脳によって作り出された想念の世界という可能性はありませんか?
またそのようにこの世界をみなすことは修行になりますか? 首のストレッチをしてたら、気持ちよくて少しやりすぎてしまったようで
寝違えたようになってしまいました。
今までなら「何でこんな目に会うんだ。休みも楽しめなくなった。最悪だ。」
と考えてしまうとこなんですが、
今回は「やり過ぎるとこうなってしまうのか。次からはほどほどにしておこう。
今回失敗したおかげでこれ以降はほかの部位でも同じ失敗はしなくて済むな。」
と考えてみるようにしました。
このように良い点を見つけるのを習慣にしていけば実際に良いことがたくさん起こるということでしょうか?
これも全ては心が作り出すゆえですか?
良い点というのは、発生した問題について自由に考え付くものなら何でもよいのですか? >>92 よいことでも悪いことでもないのじゃ。
善意も悪意も無い行ないであるからのう。
慈悲によって行うのが善い事なのじゃ。
悪意によって行うのが悪いことなのじゃ。
そのように見極めるがよいのじゃ。
自分が生みたいと思えば生むとよいのじゃ。
自由なのじゃ。
>>93 知らんのじゃ。
特に修業していなければどこにもいっていないじゃろう。
おぬしのほうが進んでいるじゃろう。
>>94 そうじゃ、死ねば思考は無いのじゃ。
ただ意識が在るだけなのじゃ。
意識に観念が残っていれば生まれかわるのじゃ。
>>95 しようと思えばそうできるのじゃ。
しようとしなければそうではないのじゃ。
自在なのじゃ。 >>96 そうじゃ、普段から姿勢を正していれば気も上りやすいじゃろう。
丹田呼吸は気が多く発生し、上る気も増えるのじゃ。
健康にもよいじゃろう。
よかったのじゃ。
どんどんやるとよいのじゃ。
>>97 それは初めから全ては意識であったと気付くからなのじゃ。
自我も全ては人の謬見であり、それが正されただけなのじゃ。
謬見が無くなっただけであるから、何も変ったところはないのじゃ。
自ら明かさなければ回りのものは気付かないのじゃ。
それが意志であるからのう。
>>98 そうじゃ、捨ててよかったのじゃ。
自らの仏陀を追及するのじゃ。
おぬしを救う者も、証明できる仏陀となるのもおぬし自身のみなのじゃ。
>>101 それは自己イメージが違うのじゃ。
悪い自己イメージを持てば成功に不快感をもってしまい自ら破滅に飛び込むのじゃ。
そのような例は新聞に多く載っているのじゃ。
痴漢で首になった大学教授とかのう。
よい自己イメージがあれば成功に快適を感じ、それを維持しようとするものじゃ。
そのような違いを知るとよいのじゃ。
見栄とよくでも人のためになるならば悪とまではならないのじゃ。
善事ではないが、悪と呼ぶほどでもないのじゃ。
少しはよいことなのじゃ。
>>102 そうじゃ、おぬしの脳によって作られた世界なのじゃ。
両親に教え込まれたことや経験からおぬしの世界はできているのじゃ。
そのように見ることで修業になるじゃろう。
そこから抜け出すために修業に励むがよいのじゃ。
>>103 そうじゃ、そのように考えれば自己イメージも保たれ、世界もよくなるのじゃ。
よいことも起きるじゃろう。
心がよくなれば世界も心で創られているからよくなるのじゃ。
お釈迦様もものごとは心によって作り出されると言っているのじゃ。
そうじゃ、よいことならば自由に考えてよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>104
そうでしょうか、この世の倣いに沿って、生まれることは幸福だからとめでたいとしますよね
普通は。生まれたことを心底祝福してくれないような親に育てられるのもきついですが、実は
祝福ではない、と知っている人はそこで迷いが出るでしょう
そして産むときは善でも悪でもなく産んでも愛が足りなくて産んだ後辛い思いをさせる親もいる
無知によると思います。そこで産むことがいい事なのかと言う疑問が湧くのです
生まれた分だけそういう魂がいたのか、そういう魂が待機しているのか、そういう風に霊界?とかと
リンクしているわけではないのか 付けたしですが、この世に生まれるのは悟りを得るチャンスを与えるからいいのだと鬼和尚さんは言われますが
それはそういう自我の存在が肉体の転生を待っているという事ですか?
そして、この世と言う自我の幻想に自我を生れさせることを肯定するということは、それが
延々続くということではないでしょうか、もしこの世の人はこの世は自我の幻想だとはっきり気付いたら、
人を産みださない、そうしたら自我は消えるのでしょうか
この世や人間の終わりを本当に望まない限り、悟りゲームは続くんじゃないですか インネンふっかけてくるヤクザもどきのような人が怖いのですが
殴られる覚悟を決めて生きてないとだめでしょうか ありがとうございます。
鬼和尚からは「自分は」という自我の片鱗を感じられないので凄いと思います。
鬼和尚は前世ではお釈迦様の弟子であり、今世では悟って、このように人を導くために産まれて来たのでしょうか?
私も悟ることが出来たなら必ず人を助けたいと思います。
幼い頃から漠然と求め続けていたものは、悟りだったのだと思います。 >>103
そうでもないな。
もちろん、どうとでもなるのが、お前の言う事だ。
>>110
そうでもないよ。
法を維持する軍勢は強いので、法を意識した備えを取るのがクレバーだな。 「世間」と言うのは観念ですよね?
日本人の心に未だ巣食う代表的な観念が世間ではないでしょうか。
我が子が犯罪を犯したら親が出てきて世間に「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と謝罪する。
あれは何なんですか?子が謝罪して償うだけでいいように思うのですが。
家、家族というのも幻想ですよね?
しかし日本人はこれらの観念にひどく縛られてるように見えるのです。
家や世間という幻想から日本人が脱却するには、どうすればいいんでしょうか。 クンダリニー症候群は、何故起きるのでしょうか?
修行をしていて、クンダリニー症候群になってしまうことは、ないでしょうか? 確かに、私はせっかく幸運を得てきていたのに、
壊してきてしまっています。
本当に自己イメージが悪かったのでしょう。
おそらく、自分のイメージを良くしない限り、
どこにいっても壁にぶつかる気がします。
ありがとうございました。 人と打ち解けるのが苦手でなかなかできません。
人といると仲良くなりたいのに、ストレスでクタクタです。
どうしたら、人と打ち解ける仲になれるでしょうか? >>107 おぬし次第なのじゃ。
おぬしが慈悲の心で生めば善事じゃろう。
悪意で生めば悪事になるのじゃ。
心によって善悪は決まるのじゃ。
>>108 そうじゃ、おぬしも選んで生まれてきたのじゃ。
思い出すとよいのじゃ。
>>109 おぬしがそう思えばそうじゃろう。
おぬしの世界はおぬしの心が創っているからのう。
観念遊戯を捨てるがよいのじゃ。
>>110 体を鬼のように鍛えたらよいのじゃ。
ちんぴらは強そうな者にはいんねんもふっかけないのじゃ。
試してみるのじゃ。
>>111 そうじゃ、自ら決めて来たのじゃ。
おぬしもそうじゃろう。
自らの志を思い出したのじゃ。
どんどん進んでいくがよいのじゃ。 >>113 そうじゃ、観念なのじゃ。
観念による慣習なのじや。
観察によって幻想から脱却するじゃろう。
おぬしがどんどん広めれば多くの者が幻想から脱却するのじゃ。
>>114 エネルギーが多くなるからなのじゃ。
下腹に力が入ればなるじゃろう。
気を下におろす方法を知っていれば大丈夫なのじゃ。
>>115 そうじゃ、自己イメージを改善するのじゃ。
まずは自分が自分をどのように観ているのかしるとよいのじゃ。
それも観察によって明らかになるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>116 テレビの芸人などを見て人付き合いの技を学べばよいのじゃ。
それもまた技術によって容易になるのじゃ。
なれればストレスもなくなるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。 >>116
それは自分という厚い殻を作って生きているからじゃな。
自分が作り上げたその殻をなくさなければ他人と一緒にいてリラックスすることはできないのじゃ。
壁が異常に厚くなっていると精神障害を起こしやすいから気を付けるのじゃ。 >>118
私は子供を欲しいと思ったことがないのでわからないのです、その感覚が。
自分のコピーも愛着物もいりませんし
観念遊戯がこの世界全体なら、最初にこの世や人間が生まれた時、人の数は少なかったですよね
そしてどんどん増えるにつれ、人間の数だけ苦や観念の数や輪廻転生の無意味な繰り返しが増えた
という事ではないでしょうか?
そこで観念を終えるためには、その無意味なことをやめる必要がある、その気づきも悟りの
一つではないでしょうか、悟りを得るために命を与えることが必要、その根本自体幻想で観念
なのではないですか? 鬼和尚、私は人付き合いが苦手です。
他人がすべて人格者ならいいのですが、そうでないのが現実です。
つまらないエゴ(欲)が嫌いです。
つまらない人と話したくありません。
だから、人前ではできるだけ黙っています。
これでいいですよね? >>121
> この世や人間が生まれた
これも観念だよね。「この世」とか「人間」って部分。
何言ってんのあるでしょう、と思うかも知れないが、ではそれは何かと問われて出てくる答えは何だろうか?
何が「人間」で何が「この世」なのか? 記憶に基づく漠然としたイメージがあるだけであって一体それが何なのかは未だにわかってないのではないか?
勝手にこういうものだと決めつけていることはあるかも知れないけどね。 >>121 おぬしがそう考えたいならば自由なのじゃ。
誰も止めはしないのじゃ。
思想の自由なのじゃ。
>>122 それでよいのじゃ。
お釈迦様も善い友とだけ付き合えと言っているのじゃ。
悪い友は付き合わなくて善いのじゃ。
年収250万でも劣等感に苛まれず、豊かに幸せに暮らす方法はありますか?
労働意欲がそんなに高くないので、転職とか資格とるとか興味が持てません。
安月給でも楽な方がいいなと思ってるくせに世間体を気にしてる自分がいます。
あと金がないと思われるのが怖いので、人前で気前のいいところを見せすぎて毎月赤字です。
ちゃんと生活を立て直したい。何をすればいいですか。
鬼和尚が働いてるのは、何のためなんですか? >>125
それほとんど自分で答え書いちゃってるような気がするが、世間体を気にすることや
人前で気前のいいところを見せすぎることを縮小できれば、つまり劣等感を小さく
できればいいだけでは? (逆に言うと劣等感そのままだと金が幾らあっても足りなく
なって心理的な欠乏感に変化はないと思う)。
ここで一つ重要なことは、今持っていないものを沢山持って人を抜かせば劣等感が
なくなるわけではないということ。人と戦って勝とうとしても上には上が居るので勝てる
日は永遠に来ない。特定の分野で世界一になることは可能かも知れないがすぐに
誰かに抜かされる。人との競争はやってもいいがあまり意味がなく幸せとは無関係だ。
勝った直後はあたかも幸せになったかのような錯覚はあるかも知れないけどね。
それはそれまで自分で自分に対して勝利を無理強いしていたのが一時的に停止
して楽になるからだ。しかし放っておくとまたその脳内の回路が動き始めて苦しくなる。 鬼和尚、私は前の世で修行者だったとはなしていましたが、
誰のもとで学んでいたのでしょうか?
少し、気になってしまいました。
変なこと等はしてなかったでしょうか? 鬼和尚は、上司に怒鳴られたり嫌味を言われたことはありますか?
もしあるなら、その時はどうしましたか? >>125 簡単なことじゃ。
劣等感とはおぬしの心の中にだけあるものであるからのう。
他の者は誰もそれを劣等と思っていないのじゃ。
なぜ劣等感があるのか、なぜお金が無いと想われるのが怖いのか自分の心の中に原因を探してみるのじゃ。
昔、お金が無くて嫌な思いをしたからかもしれん。
その原因があるから劣等感や恐れがあり、原因が無いときは劣等感や恐れも無かったと心を観察するのじゃ。
そうすれば劣等感も無く豊かに暮らせるじゃろう。
収入の範囲内で生活すれば生活も立て直せるじゃろう。
わしは働く者の心を知るために働くのじゃ。
>>128 そこまではしらんのじゃ。
自ら思い出してみるのじゃ。
>>129 特に無いのじゃ。
相手にしないのじゃ。
確かに、変な質問ではありました。コテをつけて聞いてはいけないことではあります。
失礼しました。 >他の者は誰もそれを劣等と思っていないのじゃ。
質問者ではありませんが
自分が「劣等だ」と思っていることを
現在実際に他人が「劣等だ」と思っていたり言ってくる場合は
自分の心の中だけにあるわけではないと思いますが、どうなのでしょうか? 鬼和尚、孤独が辛くなってきています。
どのように向き合うべきでしょうか? >>132
わしは初老の域に入り頭もボケてきたので、書くことが思い浮かばないのじゃ。
坐禅は毎日やっているが、「悟り」からは離れていってるのかもしれん。 わしは鬼和尚が2ちゃんで説法を始めた頃、最初に弟子入りした
一番弟子なのじゃ。もう15年ほど前になるのじゃ。
考えてみれば、修業はあんまり進んでいないかもしれん。
でも、サティやサマーディの経験はあるのじゃ。
もう遠い昔じゃがのう。
今は晴耕雨読の生活をしておるのじゃ。
今年の若葉の頃は山がきれいじゃった。
ヤマザクラ・ヤマブキ・ミツバツツジの季節も終わり、フジの花が咲きはじめた。
季節は一刻一刻と進んでおるようじゃ。
人間が植えたものより自然のものがいいのう。 あまり、言うべきことではないのかもしれませんが、
過去の経験について、鬼和尚に教えてほしいと思うことがあります。
制感の法を独学で行っていたときです。
知人が失恋し苦しんでいる話を聞いていると、
別れが必ず訪れてしまう、と察知したのか、
目の前がそのとき歪んで見えたのです。
悟ったと勘違いし、その上泣いてばかりいたのを覚えています。
それからというもの、両親や他人、酒にも思い切り依存しています。
私が見たものは一体何だったのでしょうか? >>131 そうじゃ、自ら思い出してみるのじゃ。
恐れを超えれば出来るじゃろう。
またおいでなさぃ。
>>133 他人もまた自分の心の現われなのじゃ。
別のことを言っていても自分のことを言っていると思えるのじゃ。
その他人も自分の事で頭が一杯なのじゃ。
自分がそうであるようにのう。
他人が何を言っても自分の心に劣等感があれば自分のことを言っているようにきこえるのじゃ。
>>134 ただ観察すればよいのじゃ。
孤独そのものと、孤独への恐れと、孤独への恐れから逃避が起こるとよくみてみるのじゃ。
そうすれば孤独も自分のものではないと気付くじゃろう。 >>137 他人の話による愛別離苦が同化してしまったようじゃのう。
その苦が自分であり、自分のものと認識してしまったのじゃ。
悟りならば泣くことも無く、依存することも無いのじゃ。
>>9さまへ。
両手じゃないと出来ない動作、色々あります。
たとえばビンのフタあけるとか...
中でも難しいのを、どうにか片手でやれないかなと、考えてました。
それで方法みつけたら、その指のかたち使うと、手から気が出るようになったんです。
気てゆうと怪しげだけど、世間的には神通力てゆわれるの、一部現れたりも...
5月4日、わたしの32の誕生日に、降りてきた。
でも>>9さまの解いたのは、そおゆうなんてゆうか、小手先じゃないんですよね、多分...
えー、なんだろう一体。
ちょっとズレたとこ伺いますと、>>9さまはこだわり消えたのに伴い、健康面の変化はありましたか? 鬼和尚はやる事が無くて暇だなぁと思う時間はないんですか?
ゴロゴロしたり時間を持て余すことはないんですか。
仕事と家事と睡眠と修行以外は何をして過ごしてるんですか。 >>140
おもしろいですね。
断食療法やってた知り合いが真面目に断食してる人達はみんな気みたいなの見えてたって言ってました。
持っていた身体感覚が弱まったりリセットされると今までわからなかった別の感覚が出てくるのはあるんじゃないかなあと思います。
公案も観念が弱まったりリセットされるだろうからいろいろ起こるかもしれないですね〜。
右手で右手首をつかんでみるのもいいんじゃないでしょうか。
普通に考えるとできるわけないですけど、できそうな気もしますね。
できないことができそうな気がするのはなんででしょうねえ。
こだわりが少なくなって健康に関してもこだわりが少なくなりましたね。
心身は心身自体が勝手に面倒見てくれるだろうという感じで、気にしないぶん健康になったと思います。
心身が自由になってそれで快調になるかんじでしょうか〜。 鬼和尚、気分が落ち込んだ時はどうしたらいいですか? 鬼和尚、ある古ぼけた喫茶店で、中学校の恩師(89歳)の話を
よく聞いています。
恩師は豪快な人です。私は繊細な方です。
性格が反対なのに話がよく合います。
これは善行になりますか? 鬼和尚さん
日常生活の苦痛を色々と観察していたら、自分の人見知りが原因ではないかと思い至りました
この人見知り病を破壊する方法を何か教えていただけないでしょうか >>138>>139
結局、何かそのための逃避に出て行ったところで、
解決にならないどころか余計な苦を作ってきたのが
私でした。
今もまったく同じことをしようとしているようです。
あまり、他人は見ないほうがいいようですね、
ありがとうございました。 >>141 むしろ時間が足りないぐらいなのじゃ。
本を読んだり経を読んだりしているのじゃ。
勉強あるのみなのじゃ。
>>143 善い事を思い出すのじゃ。
昔、海岸にリゾートに行って楽しかったとか、山に行って面白かったとか思い出すとよいのじゃ。
ホームランを打ったとか、シュートしたとかでもよいのじゃ。
常日頃からそれらを思い出して気分転換に使うとよいのじゃ。
>>144 なるじゃろう。
やさしく話しかけるのも善行であるからのう。
どんどんやるとよいのじゃ。
>>145 それにもまた原因があるじゃろう。
それを追求するのじゃ。
原因から人見知りが起こり、原因が無かった時には人見知りも無かったと観察すれば破壊されるのじしゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>146 そうじゃ、それに気付いてよかったのじゃ。
またおいでなさい。 鬼和尚、私は朝の寝起きの気分がいつも悪いです。
小さい時から行きたくもない学校に行かされ、
したくもない仕事をしていたから習慣になっているのだと思います。
私は家でぶらぶらしているのが一番良かったのだと思います。
でも、生活の糧は稼がなければならないから、仕方ないです。
寝起きの気分を良くするには、どうしたらいいですか? >>148
人見知りをさらに観察ですか。まだまだ実践不足でした。アドバイスありがとうございました >>150 朝目がさめたら直ぐに見える場所に好きな絵とか気分がよくなる言葉を掲げておくとよいのじゃ。
今日は最高の一日になるとか、資産がどんどん増えていくとか、書くのじゃ。
好きな音楽がボタン一つで直ぐになるようにしてもよいのじゃ。
いろいろ工夫してみるのじゃ。
>>151 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。 昔から女性より男性の方が出家したり修行したり俗世を捨てて求道者になる割合が高いように感じます。
なぜでしょうか?男の方が悩み苦しみが大きいんでしょうか。
性差でどのような違いがあるんでしょう。 >>153
どこにそのようなデータがあるか教えてください 鬼和尚、人間にはやっぱり相性がありますね。
教養とか趣味とか性格とかによって・・・。
なぜ、人間はマチマチなんでしょうか? 悪い感情には同調、同化しないことが大事なんですね。
同化するなんてどうかしてました。 鬼和尚、優劣というのもただの観念なのでしょうか?
悟っている人にとって優劣というものは存在しませんか? >>153 女子は社会的に縛られていたからじゃろう。
子供が居れば育てなければならんしのう。
源氏物語のように女子が出家したいと想っても旦那が止めることもあったじゃろう。
女子は菩提心があっても意のままにならなかっただけなのじゃ。
>>157 生まれつきの生死と育った環境や体験が違うからなのじゃ。
人は生まれつきの性質に環境による体験を性格に反映するからいろいろいるのじゃ。
それを観察によって知るとよいのじゃ。
>>158 そうじゃ、同化しないことじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>159 そうじゃ、それも観念なのじゃ。
悟れば無くなるのじゃ。
何かの特徴で優れていてもそれが劣ったことになるのもよくあることじゃ。
象は体がでかいから多くの獣に優るが、沼地に行くと重くて沈んでしまうとかのう。
優劣もまた幻想なのじゃ。
最低なサイコパス人間に心を許してしまったというか、オーラを開いてしまった黒歴史があってトラウマになっています。
当時の自分は正気ではありませんでした。
あれから十年以上つきまとわれています。
しっかりしてなかった世間知らずの自分が悔やまれてなりません。
相手は凄まじい妄執で付き纏ってきます。
縁をもってしまった自分を殴りに行きたいです
若気の至りでしたテヘペロとすましていいでしょうか。 追記
今思うと、最初から獲物を狙うサイコパスオーラ丸出しだったのに、
当時人から話しかけられることが滅多にない劣等感の塊だったので
深く考えずに知り合ってしまいました。
本当にのたうち回るくらいダサくて恥ずかしくて黒歴史にもほどがあります。
相手は心のない爬虫類に悪魔と寄生虫をたしたような者です。
ちょっと吐露して楽になりました。 鬼和尚、世の中は良くなっていきますか?
いつの時代でも同じですか。 女性のきれいな裸を見ると癒されます。
これも欲ですか? >>161>>162 そうじゃ、教訓にしたらよいのじゃ。
そのような者もえらいえらいとおだてて操ったらよいのじゃ。
役に立つじゃろう。
>>164 おぬしが修業して楽になれば世の中もよくなるのじゃ。
全ておぬし次第なのじゃ。
>>166 それはまだ欲ではないのじゃ。
好みなのじゃ。
何度も見たいとか触りたいと想うのが欲なのじゃ。
世の中の人は、毎日毎日よく仕事しますね。
私はもう仕事するのに疲れました。ゆっくりしたいです。
仕事はもう辞めましたが、農作業があります。
農作業は力仕事なので、しんどいです。
人間は仕事をしなければいけない生き物なんですか? >>168
何か食って栄養補給をしないと体が飢えて死ぬようになってるだけで、こうしなければいけないとかはない。
ないが、人とトラブルにならずに体を生かすことを実現する最も簡単な方法は働いて金を得てそれで食料を買って食うことだ。 人間にとって唯一の仕事は生きることだからな
生き方はどうでもいいおまけみたいなもんだし悟りを目指すか意志があるかどうかの違いくらい 鬼和尚、鏡の法則ってのがありますが、年中ニコニコして心穏やかにしてたら良い結果が出るんですか?
興味がある反面、ものすごくナヨナヨした人間になりそうで恐いっすわ >>168 資産があれば働かなくてよいのじゃ。
しかし、体を常に動かしているとよいのじゃ。
体を動かすと病にもなりにくいのじゃ。
止まっているとやがて死んでしまうのじゃ。
動く物と書いて動物なのじゃ。
>>174 よい結果が出るじゃろう。
ナンパにも成功しやすいじゃろう。
笑顔で居てもなよなよしないものになると良いのじゃ。
そのような自分をイメージするのじゃ。 悟りを開いた人から見て、オシャレってどう言うのが本物だと思われますか?
オシャレを気取ってる人はたくさんいますが、大抵は誰かの真似だったり自己満足に見えます。
そんな自分に酔っている姿を見ると、なんか痛々しい。
けど、なにをしてる人が本物のオシャレな人間なのかわからない。
本当の意味でオシャレって、どう言う状態ですか?
もしやオシャレというのも幻想だったりしますか。 一般的な人(特に修行とかしてない)が植物状態になった場合、その人の本体?はどうなっていますか?
肉体が生きている限り体とリンクしていますか?
実は早く呼吸器を外してほしいとか思っていますか?
それともすでに体から離れて死者の意識と変わらないですか? 自分の中にある嫌な性質を観れて気付けたときと、
自己否定の違いは何でしょうか?
ある種の保険のように
「どーせ俺は」
と考えている状況とは違うような気がしています。 >>178
ゴラアー、ちゃんと修行せんかい!
怠けたらアカンがな。弱虫!意気地なし!お前のカーチャン出べそ! >>176
定義してよい
が
守破離は標準だ
>>179
考え方を考えよう >>181
ありがとうございます。
多分、揚棄の癖です、確かにやめるべきですね。 すみません、もう一つです。
冷徹に見なさいと鬼和尚はおっしゃってましたね。
座れないほど心がまずいことになっていたのか、
数息観を始めたらまた楽になりだしました。
ですが、やめるとあっという間に元通りになってしまい、
楽になった、もう大丈夫だ、しばらくしてやめる、
また苦しみだす、しばらくして楽になってまた始める、のループがずっと続いています。
観察が不完全だと習慣、心、その他諸々ももとに戻るようにできているのでしょうか?
苦滅の法もきちんとできてなかったようです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています