【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】38 [無断転載禁止]©2ch.net
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*悟りを開いた人には偉大な知恵があるらしいわ。
*生活のことなんでも聞いてみましょう。
*あるゆる悩みを聞いてみましょう。
*罵倒、批判だけのレスはスルーよ。
<前スレ>
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ37
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1487255959/150 >>571
自我を滅する修行と言うのは観念を滅することと同じではないのですか?
自我が消えても観念が残る、、自我と観念の違いが良く分かりません
観念は思い込み、自我も思い込み、自我に観念が含まれるか同じだと思っていましたが
死ねば自動的に自我は消えるが観念が残るから生まれ変わるのですか? 鬼和尚さんの言っている自我を滅する=悟りということがえ?となります
死ねば自我は消えるんですよね
自我が消えたり滅しても自我と観念を別として考えないと悟れないということになりますが・・ >>587
鬼和尚さんのブログに
( 自我が解体され、観照によって無くなった後、それを観ている阿頼耶識をも厭離した時、完全なる真の悟りが得られた事になる。
自我が無くなっただけでは、完全な悟りとは言えないのじゃ。 )
このように説明してくれてます。
一度読まれてみてはいかがでしょうか >>587
些細なことはどうでもよいのじゃ。
仏教は体験の学問なのじゃ。
実践して体験すことじゃ。 仏教をかたった素朴な体験主義マンセーってそれズバリオウムそのものじゃないですかw
こういうスレってある程度知識がある人が答えれば面白いのかもしれないけど
単なる馬鹿が何にも踏まえずに「〜じゃ」「〜〜じゃよ」とかって馬鹿なこと言ってるだけだと
ただただ悲惨ね >>584 食事に気を使わないほうが不健康なのじゃ。
悪いものばかり食べているとあっさり病になって死ぬこともあるからのう。
食事かよければストレスにも耐えられるのじゃ。
食事を改善するとよいのじゃ。
>>585 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>586 自我とは自分というものに対する観念なのじゃ。
それが阿頼耶識を見る障害になっているのじゃ。
阿頼耶識が観念を作り出しているのじゃ。
自我は消えても観念を生み出す阿頼耶識が残っていれば生まれかわるのじゃ。
>>587 自我を滅しても小悟なのじゃ。
観念を滅して大悟徹底なのじゃ。
わしのブログを読むとよいのじゃ。
>>591 自分を責めてはいかんのじゃ。
他人がオウムに見えるのならば自分がオウムであるからかもしれん。
おぬしがオウムの者でも罪を懺悔告白すれば許されるのじゃ。 >>579
仏教国はどこでも猫さんを大切にしているよね。
台湾・タイ・カンボジア・ビルマなどの東南アジアや、中国でも西安などの古都は
とても猫さんをかわいがっている。
歩いていると猫さんが声をかけてきたり、昭和のころの日本みたいだ。
え便器チョン奸や中国共産党はダメ!
やつら、自分ことしか考えないバカ猿だぜwwww ちがうちがうw
「オウム」ってのは君が思うような単なる悪口として言ってるんじゃないんだよ。
「素朴な体験主義マンセーってそれズバリオウムそのものじゃん」
さんざん分析され言われ尽くされたことだよね。
曲がりなりにも仏教なり宗教に少しでも興味があって、
それが何の指摘なのかすらもわからないという人がいるということにほんとうに驚きを覚えるよ。
つくづくアホウに下限は無いってことを思い知らせてくれるね。逆に何だったら知ってるんだろう、コイツw あぁ軽く遡ってみても本当にただのアホなんだね。
仏教関係ってとりあえず用語いっぱい覚えてその気になってるオタクとかザラにいるからその手合かと思ったら
まったくそんなレベルですらなく。「仏教」ってタイトルに入った本の一冊も読んだことないねコレ オショーキャラやるんだったら煽るにせよフザけるにせよ持論を垂れるにせよ「仏教の論理をもちいて」じゃないと意味ねぇだろw
もちろんただのアホには死んでもできないのわかってて言ってるんだけどねw
罪を許すのどうのってw どの台詞ひとつをとっても一発で底が割れるわw
アホも度を越すと他人を退屈させるためだけに生きるようになる。害にしかならんレベルのアホは死ね。 鬼和尚も名前と身元を隠している間は、本当に悟っているかどうかは疑わしいと言えます。
昔から仏教の指導者達は日常生活の一挙手一投足を見せることによって弟子達を指導していました。
鬼和尚も本当に悟っているなら身元を隠す必要などないはずですから、早く名前と身元を公開して日常生活の見本を私達に見せて頂きたいと思います。
身元を明らかにして鬼和尚に何か不自由が生じるのなら、それは鬼和尚が本当には悟っていないということではないでしょうか? 鬼和尚が今の徒歩配達の仕事を辞めて別の仕事をするなら
どんな仕事をしますか?
候補を3つ教えて下さい。 >>597
そりゃ色々面倒だろう。宗教関係は危ないキチガイみたいなやつが集まり易いんだから盲信して崇めるやつから暗殺しようとするやつまで出てきて対応が面倒になると思うなあ。
そう言えばOSHOなんかはそんな感じじゃなかったか? >>599
お寺で説法しているお坊さん達はみんな住所と氏名を公表している。
「宗教関係は危ないキチガイみたいなやつが集まり易い」からと言って
住所も氏名も公開していないお坊さんなど一人もいない。
そんなことを怖れるのなら、そもそも「悟っている」などとは言えない。 >>600
だって誰も寺の坊さんが悟ってるなんて思わんだろう。大半が本当に仕事として葬式とかやってるだけだからな。
そういう社会的に公認されたような偽物にわざわざ人は集まらんよ。 >>601
悟りや救いを説いているお坊さんはたくさん居る。
禅の専門道場や浄土真宗系の念仏道場には、現代でも本物のお坊さんがたくさんいる。
偽和尚は無知なオカルト坊やだから何も知らないだけ。 >>594>>596 他人がアホウに見えるのならば自分がアホウであるからかもしれん。
自分の本心をよくみてみるのじゃ。
>>597 もっと疑ってよいのじゃ。
おぬしが悟っていないと思うならばそれがおぬしの世界なのじゃ。
他人が悟っているとわかるのは自分自身悟った者か、よほど学んだものだけなのじゃ。
>>598 銀行の頭取じゃな。
百円ライターの修理屋じゃな。
宿屋の下足番じゃな。 >>603
>おぬしが悟っていないと思うならばそれがおぬしの世界なのじゃ。
また、いつもの論法で逃げましたね。
私は鬼和尚が悟っていないとは言っていないのです。
ただ、本当には悟っていない(7割ぐらいの悟りにとどまっている)と言いたいのです。
鬼和尚は「もはや、自分という者はいない」とまで言われているのですから、それが本当なら
名前や身元を明かしても何の問題もないのではありませんか?
それらはすべて観念であり、イメージに過ぎないものなのでしょ?
ところが、鬼和尚も現実ではそれにこだわって隠しているということは、そこに鬼和尚の「我」
が残っているということではないのですか? 熱中できるものがありません。
好きなことは全部、現実から目を逸らすものばかりです。
やけ食い、爆音で音楽を聴く、自慰行為、女遊び、衝動買い。
自らを破滅に追い込むような行動ばかりに執着しています。
一瞬の快楽に浸っている時だけが例え現実逃避であっても嫌なことを忘れることができます。
家族や友達からイジメや過保護、厳しいことばかり言われて育ちました。
あらゆるものから逃げ回っているうちに、自分は何がしたくて何が好きなのかわからなくなってしまいました。
私には現実社会は辛いものでしかありません。
私は呪われているのでしょうか。人生こうなることは決まってたんでしょうか。 気が上にのぼると、何か良いことはあるのでしょうか? 鬼和尚さんのブログを阿頼耶識で検索しましたが、知識、勉強不足で阿頼耶識が
良く分かりません
自我より前にあるものなのでしょうか、分かりやすく教えて下さい >>605 自分が無いのであるから身元も名前もないのじゃ。
それらは観念であり、イメージなのじゃ。
現実もないのじゃ。
名や身元を欲するものは観念を追っているのじゃ。
過去の仏陀たちが何をしたか全く関係ないのじゃ。
新たな仏陀の国土と経綸が始まろうとしているのじゃ。
>>606 呪いではなく多くの者と同じ逃避の生涯であっただけなのじゃ。
大抵の者はそうなのじゃ。
本当はすきでもないのに一時の逃避で遊戯に浸っているのじゃ。
それを悔やむのならば、今から数息観を行い自らの本心を観察して、少しずつでも苦を滅するとよいのじゃ。
本心は観ようとすれば観られるものじゃ。
自らを知れば苦は滅し、真の安楽も訪れるのじゃ。
わしのブログなどを参考に実践あるのみなのじゃ。
>>608 頭頂のブラフマランドラに気が入れば思考が自然に停止するじゃろう。
あまり多いと眠れなくなるがのう。
>>610 わかるのじゃ。
大抵意味もない言葉遊びであるがのう。
言葉に引っかかるかどうか観ているだけなのじゃ。
>>611 それは記憶に依存した認識方法なのじゃ。
椅子を見れば椅子の記憶からその名前とイメージが浮かぶと言うようにのう。
それが阿頼耶識なのじゃ。 >>615
>自分が無いのであるから身元も名前もないのじゃ。
>新たな仏陀の国土と経綸が始まろうとしているのじゃ。
そんな子供だましでごまかそうとしてはいけません。
鬼和尚は自分の声すら他人に知られるのを怖れているでしょう。
怖れとは無縁なはずの鬼和尚が、なぜそんなことまで怖れているのですか?
身元や名前が明らかになったら何か困ることがあるからでしょう。
その困ることがあるというのは、まだ「自分」があるからではありませんか?
鬼和尚が
「わしもかなり深い悟りを得たが、身元と名前を明らかにした上で説法できるほどの
完全な悟りはまだ得ていないのじゃ」と正直に告白されることを願っています。 「苦」を感じる事自体が、何らかの「カルマ(自らの業)」ですか?
時代や文化、国が違えば、同じ性質でも褒められたり貶されたりします。
人間の精神性が成長すれば、悟りの真実が世に広まり、死は恐れる事でも無く、自他を同じと見、今の世とは全く違う世界観で、苦の少ない世の中になるかも知れません。
性質自体に苦はなく、それをどう見るかによって多くの苦が生み出されています。
何故このような世に産まれたのでしょうか?それもやはり自分の心に原因があるのでしょうか? 色界、無色界、というのは、本当にあるのでしょうか?
次産まれるなら色界が良いです。
でも色界などでは悟りを求められないのでしょうか。 >>617 他人がそのように見えるのならばおぬしがそうであるからかもしれん。
自分の本心を見るのじゃ。
>>618 そうともいえるのじゃ。
苦を感じる身に生まれることがなければ苦は感じないからのう。
悟りを得ていればもはや苦はないのじゃ。
それを実現しなかった報いともいえるのじゃ。
永遠に苦を滅するために今の世で実践あるのみなのじゃ。
>>619 あるのじゃ。
全ては心が作り出すのであるからのう。
楽しみに耽り過ぎていては悟りも求めないじゃろう。
本人しだいなのじゃ。 自力の念仏では化土=仮の浄土にしか逝けないとお聴きしたのですが、私にとっては仮でも浄土であるならば
この生き地獄から逃げたいので今すぐにでも自殺して化土に逝きたいのです。
化土はどのようなところでしょうか? 自分を丸ごと受け入れてほしい時、どうすりゃいいんでしょうか。
自分は相手を丸ごと受け入れる器量は全くありません。
身勝手なのは自覚してますが、そういう心の余裕が持てないんです。
愛されて大切にされた実感が全く無い。
だから他人を愛するということが理解できない。
けど、丸ごと肯定されて愛されたい。
否定されるとキレそうになる。許せないって思う。
肯定されない自分が惨めで情けなくて哀しくて、その現実を認めたくない。
結局、どうすりゃいいのかわからない。自分の気持ちも理解できない。
他者から全肯定されるってありえない幻想なんでしょうか。 初めの方で人が100人いたとして(元は二人だったのか)子を産み増やして1000人になったとき、
多くは前世がない事になります
カルマがないのにこうして人が増えてきたのは何故ですか
ただの肉体の煩悩による繁殖で苦が増えてきたのですか? >>622
相手を選ばなければ少しは可能性があるのでは 結跏趺坐は右が下で左が上らしいですが逆の方がやりやすいです。逆でも問題無いですか? >>622
私もそういう恋愛がしてみたかった。
一時的にはあると思うけど、一緒に生活を始めてみるとそれが幻想だと
気づくのではないでしょうか。 罪悪感は人間が持つ感情の中で最も苦しいものですか?
もしくは恐怖でしょうか。
長い転生の中では、前世に、酷い目に遭ったことも遭わせたこともあるのでは無いでしょうか。
それこそ、ニュースなどを見て気がおかしくなりそうな事件や残虐な戦争など、自分もそのような、加害者であり被害者であった生もあるのでしょうか?
正常な感覚では、その事は到底受け入れられず、目の前に現れたら気が狂いそうになると思います。
(もちろん、そんな酷い生だけではなく、普通の人生、幸せな人生もあると思います。)
書いているだけでも恐ろしく動悸が激しくなります。
だからこそ人は、過去世を思い出せないのだと思ったのですが、いかがでしょうか?
そのような過去世を見れるようになるには、不動心が必要なのではないでしょうか? 生菜食に鶏肉を足していいですか?
豚、牛、魚をみても美味しそうと感じないのですが、鶏だけはよだれが止まりません そういったものを無理に見ようとせずとも悟りは得られるでしょうか?
必要な過程でしょうか?
修行が進めば無理なく見れるようになるのでしょうか?
>>625
横から失礼...
結跏趺坐は、右が上でいいらしいよ。
わたしかかってるお医者さま、いわゆる超能力使うけど、医学的にも超能力的 (笑) にも、右がいんだって。 >>621 化土とは自力の行者が往生した後に行く所で、自殺してもいけないのじゃ。
自殺すれば苦はより大きく多くなるじゃろう。
生きている今、苦をよく観察して少しずつでも楽になることが出来るのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>622 現実ではそれを実現することは不可能なのじゃ。
他の人間も自分の欲求があり、それを守らなければならないからのう。
おぬしも観世音菩薩と普賢菩薩の瞑想をするとよいのじゃ。
観世音菩薩は理想の母親のイメージなのじゃ。
普賢菩薩は理想の父親のイメージなのじゃ。
おぬしは赤子になり、両菩薩に抱かれているとイメージするのじゃ。
自分がかけて欲しかった言葉などを、菩薩がおぬしにかけているとイメージするのじゃ。
心が落ち着くじゃろう。
>>623 動物とか虫とかが人になったのじゃ。
それらは減っているのじゃ。
人に殺されて悪事の報いが終わったから人になれているのかもしれん。 >>625 それでよいのじゃ。
自分がやり易い方法でやるがよいのじゃ。
それがおぬしの道となるのじゃ。
>>627 人によって違うのじゃ。
大抵は恐れじゃろう。
それもあるじゃろう。
昔は戦乱も多かったからのう。
そのようなこともあるじゃろう。
そうじゃ、心が不動になれば恐れも超えていけるのじゃ。
>>628 よいのじゃ。
鶏肉は健康によいというのじゃ。
手羽先とかもコラーゲンが多いと言うのじゃ。
どんどん食べるとよいのじゃ。
>>629 そうじゃ、見なくとも悟りは得られるのじゃ。
不必要なのじゃ。
集中力が身につけば観られるようになるが、見なくてもよいのじゃ。 >>632
ありがとうございます。
怖いものは無理に見なくても良いのですね、今は無理に意識しないでおきます。
ただ、現世の何かの恐怖の原因が過去世にある場合などもあるのでしょうか?
退行催眠で、恐怖症の原因が過去世にありそれを思い出したら治った、なんて話もありますよね。
(催眠時の記憶は実は捏造だった、という話もあるようですが…)
現在理由のわからない恐怖はぜんせあなどに原因があり、それを見なければ解消出来ないのでは?と思い、気になってご質問させて頂きました。 死の恐怖について、教えてください。
私はパニック障害で、ロープウェイ等がだめなのですが、その恐怖の元は主に死と発狂の恐怖です。
乗り物から落ちるかもしれない、などと本気で思ってしまうと、普通の意識を保てません。
これも自我の死の恐怖なのでしょうか?
このような恐怖を直視し乗り越えて行かねばならないのでしょうか?
普段、死の事を思っても実感持てず、いつか死ぬ事や自我を失う事もそんなに怖く思えないのですが、
それは本気で考えられていないからでしょうか? また、恐怖自体を恐れてしまうところがありますが、それはどのように対処したら良いでしょうか? >>630
ありがとうございます、超能力を使うお医者様とは凄いですね。
>>632
結跏趺坐は右が上でも良いのですね、ありがとうございます。 訳が分かりません
なぜ生まれてきたのか、カルマの解消、苦しくても死んではいけない
生き地獄に人を産みだすことをよしとする
最初の生物や人間は何のカルマで発生したのでしょう
また治らない病気やどうしても自分の意図を生きれないような状況で
ネガティブな感情やカルマを生み出すより、地震で人生を終了させる
ことは良い悪いではなく赦されることだ、とある本にありましたが
自分もそれが更なる苦しみになるとか罰になるという考えは本当なのか
と、そこまで無慈悲なシステムなんですかこの世や輪廻は
だったら生まれることは良いことだという考えは全くの嘘になると思います
悟りのチャンスと言うのは無理やり創りだした目的のような遠いもので
わざわざ抜けられない輪廻に入って苦を味わう方が大きいんですから >>637
>訳が分かりません
当然のことじゃ。
お釈迦様も悟りを開いてすべてが解決したのじゃ。
迷いの中にいる者には訳が分からないのは当然なのじゃ。
「迷いの中にいながら分かろうとしている」ことが根本的に間違っておることに気付くことが大切じゃ。
仏道に励んで悟りを開く以外には解決はないのじゃ。 >>639
その悟りが非常に遠くにしか感じられません
現実問題に思えない
簡単に人間的、物理的条件の変化などに心が打ちのめされている弱い人間には >>641
たゆまず努力精進していれば、
遠くに思えていても、今起きるかも知れんのじゃ。
迷っている状態の頭で理解しようなどとは思わないことじゃ。
迷いの頭で理解してみても妄想の理解に過ぎないのじゃ。 鬼和尚さん
私の部屋には見えない隙間からムカデなどの虫が入ってくるのですが、
虫を殺すのは悪いことですか?
生命を殺すことは良くないし、心が痛むのですが、害がある虫に対してはどうするべきなんでしょうか。
寝るときに虫が気になってしかたなかったり、他人を呼ぶのに躊躇してしまって悩んでいます。 >>633 一切の恐れの原因は最後には自分があるという観念に帰るのじゃ。
自分があるという観念から全ての恐れは生じるのじゃ。
恐れの根本原因は自分があるという観念なのじゃ。
そうであるから今の自分の知ることの出来ない原因は無いといえるのじゃ。
安心して苦を滅するとよいのじゃ。
>>634 そうじゃ、自分が無くなるという恐れじゃろう。
それが修業の妨げになるならば観察して無くすとよいのじゃ。
それほどでもないならば放って置いてよいのじゃ。
そのように感じられることは死を思う役に立つといえるのじゃ。
そうじゃろう。
死から逃避し続けてきた大抵の人間は、逆に死のことも本気で思えなくなるものじゃ。
おぬしには高所の恐れが死を思うのに役立つかしもれんのじゃ。
死もまた修行を導く道しるべと言えるのじゃ。
>>635 それもありのままに観察すればよいのじゃ。
死の恐れそのものを恐れ、逃避していると観察するのじゃ。
そうすればそれもなくなるのじゃ。
>>636 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。 >>637 もっと楽になるためじゃ。
今苦を滅すれば永遠に安楽になれるのじゃ。
お得な時間なのじゃ。
死んだ後にはそうはなれないのじゃ。
>>643 自分の身体を守るためにはよいのじゃ。
害意を持って生き物をいたずら殺傷するのが悪なのじゃ。
生き物を食べるのも自分の肉体を保つためであるからよいのじゃ。
虫なども放って置くと自分の身体に害があるならば退治してよいのじゃ。
殺虫剤とか虫の来ない薬とかを使うのじゃ。
穴もふさぐとよいのじゃ。 >>644
ありがとうございます。
修行に役立て観察して参ります。 鬼和尚、西式健康法の「朝食抜きの半日断食」を半年以上実行していますが、
なかなか慣れません。
とにかく腹が減って、力仕事(たまに)が億劫になります。
このまま続ければ慣れますか? >>645
初めの人間か生物は何故発生したのですか
発生前にカルマがあったんですか >>646 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>647 続ければ慣れるが、腹が減ったら寒天とかを食べてよいのじゃ。
断食は摂取カロリーを減らし、腸をきれいにするためであるからのう。
試してみるとよいのじゃ。
>>648 人間と言うものが特に発生したわけではないのじゃ。
獣から賢くなっていったのじゃ。
それも苦から逃れたいとか向上したいと言う想いからなのじゃ。
鬼和尚の古いスレで阿頼耶識は首の後ろ側にあるというようなやり取りを拝見したせいか、日常の瞬間に、ふと首の後ろに意識を感じる時が出てきました。ほんの一瞬ですが、自分という乗り物に乗っているような、少し離れた感じの、傍観者のような意識です。
そこに集中していたらうっかりすれ違う人との距離感を取り忘れて近付き過ぎてしまいました。
今まで、自分の意識や感覚を探した時に何処に感じるか…と探すと、大体、目のあたりに自分を感じていました。今も、心とか心臓付近より、頭、目の奥あたりに、自分を感じます。
(これは思考に同一化しているのでしょうか??)
ところが、その首の後ろの意識からだと、目が自分より上にあるように感じました。
自分を感じる中心点(?)がズレるのは珍しいというか今まで感じられなかった感覚でした。
この感覚に集中することは修行にとって有益でしょうか?この感覚と観察は思い込みなど誤ったものではないでしょうか? 街を歩いていると刺激や誘惑が多すぎます。
宣伝広告の類とか、美人や露出の高い人などを見ると気の休まる暇が無い。
街を歩くな人を見るな、と言われてもそんな簡単には実行できない。
刺激の多い場所にいても心惑わされず囚われず疲れずにいれる方法を教えてください。 >美人や露出の高い人などを見ると気の休まる暇が無い。
私は癒されます。田舎在住だからジジババばかりです。 世の中には平和や平等のために活動する人がたくさんいますが
本当にそれらを実現へと導ける人とそうでない人との違いはどこにあるのでしょうか? >>645 >>643です。自分の保健のためには退治してもいいんですね。食事はともかく殺すべきではないと思っていました。
柔軟に対応しろということでしょうか。
他の質問です。
殺虫剤が虫などの害から体を守るのと同じように、武器にも自衛の目的があると思うのですが、
人間同士がそれぞれ武器を所持していた場合や、国々が核武装している場合、それ自体が戦争の原因になりかねない
と思います。
これは日本国が抱えている問題でもあると思うのですが、どうすれば平和を維持できるのでしょうか。 >>650 よい修業になるのじゃ。
その感覚は思い込みではないのじゃ。
意識の集中で起こるものじゃ。
やがて意識は肉体の外にもあるとわかるじゃろう。
どんどん実践するとよいのじゃ。
>>651 町を歩くときに修行者は前方一メートル位先を見て他のものは観てはいけないと言うのじゃ。
或いは広告はみずに美人だけをみるとかするのじゃ。
選択的に観れば目もそんなに疲れないのじゃ。
露出が高くても不細工とわかればみないようにできるからのう。
>>654 私心があるかないかで違うのじゃろう。
本当に私欲でなく平和に心身を捧げていれば他人も感動して多数の者が付き従うのじゃ。
そうすれば政治も動くしかなくなるのじゃ。
私欲で動けば他人に見透かされて孤立し、何も出来ないのじゃ。
人を動かすのは私欲の無い誠実な心なのじゃ。 >>655 そうじゃ、囚われなくてよいのじゃ。
互いに誠意を持って話し合う内は平和で居られるのじゃ。
それがなくなると戦争になるのじゃ。
なかなか難しいことであるがのう。
戦争になるのもお互いに騙しあって疑心暗鬼に陥り、恐れが広がって暴発すると言うことがおおいのじゃ。
>>636
超能力てゆうと怪しい感じするけど、世の中お金欲しさの詐欺だけじゃないみたいだよ...
センセの場合診察後雑談とき何気なく見せたりだから...
たとえば缶ジュース飲みたいて言う。
したらガチャンとどっからか缶が落ちてきて...
オニギリんときもあった。
天井に仕掛けは無さそう。
出てくるの1秒とかそれぐらい。
仕掛けを使うにしても早すぎるし、あれはほんとどうやってんだろ?
ごめんね、さとりに関係ない話で。(汗) 悟ってそのまま死ぬ人もいるとの事ですが、どのように死ぬのですか?
食事をとらずに衰弱死なのですか。
それとも、肉体の機能をコントロールすることができるのですか。 役に立つ直観は智慧と言えますか?
それは何処から生じるのですか。 因があっても、縁が無ければ何も起きないのでしょうか?
因は自らの行いそのものですか?
縁はどのように生じるのですか?
>>660-662
さとると迷わないから、衰弱とか変なことしないみたいだよ...
松果体ゆるむとよく気づくようになります。
ご縁は気づきそのものです。 鬼和尚、疑心暗鬼から感情が暴走し体を悪くして逃避に至るパターンを
これまでの人生の要所要所で繰り返してきました。
どうしたらこのループから脱出することができますか?
他人の言動に影響を受けやすい脆い自我が原因だとは見えます。 >>660 食べないで死ぬのじゃ。
マハリシも座ったままで食べなかったというのじゃ。
信者が口に食べ物わいれていたというのじゃ。
>>661 言えるじゃろう。
無我の意識からなのじゃ。
自我が働く直前に智慧が働くのじゃ。
>>662 縁が無くとも起こることはあるじゃろう。
因とは直接的な要因であり、縁とは間接的な要因なのじゃ。
例えば例えば雨で地面がぬれていれば滑るじゃろう。
地面が雨でぬれていた事が直接的な原因であり、滑りやすい靴を履いていたことが間接的な要因と言えるのじゃ。
滑りにくい靴を履いていても地面がぬれていては滑ることはあるじゃろう。
行いが因となることもあるじゃろう。
縁はさまざまな因縁によって起こるじゃろう。 >>664 それを正しく観察するのじゃ。
それが本当の原因ならば既に解消しているのじゃ。
何が疑心暗鬼を起こすのか正しく観察して原因を探すのじゃ。
親がいつも人を疑えとか教えたからかもしれん。
友達や親類などに裏切られた経験かもしれん。
そのような真の原因を探して観察すると善いのじゃ。 我々が暮らすこの社会や都市は虚像なんでしょうか?
時々思うのは、この社会や都市が夢や幻の中の世界のように感じる。
どこか儚くてあやふやな感覚です。
生活の中で「現実感」というものを感じていたい。
その感覚を研ぎ澄ますために、何をすればいいでしょうか?
そもそも本物の「現実」は一体どこにあるんでしょうか。
悟りを開いた人から見て「現実」とは何ですか。 鬼和尚、人生が嫌になってきました。
私は一人暮らしで、田畑の管理(作物は何も作っていない)をしてます。
草取りやら草刈りをしています。
田舎は頭脳流出で、知的な人は一人もいません。
近所には話し相手がほとんど居ません。
私は教師を50歳で辞め、母の面倒をみて、母が亡くなって4年経ちます。
生きる張り合いがないのです。
何かアドバイスをお願いします。 鬼和尚、ご無沙汰しています。
名を返すと言ったのに、何故だか今法から離れては大変なことにならないか、
だとかいろいろな恐ろしさを感じてしまいました。
申し訳ありませんでした。
あまり言葉にできないのですが、
他人や自分を客観視する力が
私にはほとんど働いていなかったようです。
漠然と、他人と不和をもたらしていたのはこれだったのではないかと
考えているのですが、正しく観れていたのでしょうか? あと、自分の性質が相当自分にとって都合が悪く、
嫌なものだったりした場合、
強烈に苦しいものになりますが、
大抵、気づきのあと徐々にそれがやってきます。
それも同様、囚われてはいけないものでしょうか? 思考を観察するには、どの辺に意識を置けば良いでしょうか?
感情の観察は、主に肉体感覚として観察出来たのですが、思考の場合はどのように観察し、距離を感じることが出来るでしょうか? 数息観をしているとき、
落ち着いてくるとじわじわ夢の意識に侵食されてハッとなったり、自然に体が傾いてビクッとなる時があります。
これは集中が足りずNGですよね?
眠気の対処の仕方はありますでしょうか?
また、眠気とか睡眠の意識とは何なのでしょうか?自分がじわじわ飲み込まれるような感じがします。 >>667 虚構なのじゃ。
今ここにあり、観察できるものが現実と言えるのじゃ。
思考するのではなく、今ここにあるものを実際に観て触れて味わい感じるのじゃ。
そうすれば現実が感じられるじゃろう。
>>668 それはこうありたいとか捉われることがあると思うのじゃ。
今ここにあるものを観ればただ存在するだけで喜びが有ると知れるじゃろう。
昔、子供の頃などに楽しかったとか面白かったとか感じていたことをやってみるとよいのじゃ。
一人ならばもはや笑うものも居ないのじゃ。
子供の頃はただ野山を駆け回ったり、川海にいくだけで楽しかったじゃろう。
そのような喜びを取り戻したらよいのじゃ。
>>669 おぬしがそう気付いたならばそれでよいのじゃ。
正しく気付いたならばそれだけで変るじゃろう。
更に精進あるのみなのじゃ。
>>670 そうじゃ、囚われてはいかんのじゃ。
なにものにも囚われずに進むのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>671 おぬしがそれが起きていると感じるところに意識を置けばよいのじゃ。
わしは脳の前方に思考が起こると感じるがのう。
人それぞれ違うから自ら観察して見分けなければならないのじゃ。
それもまた修業なのじゃ。
>>672 それもよいのじゃ。
NGとか思わずに流していけばよいのじゃ。
眠ってもよいのじゃ。
その間も意識があると気付いていれば深い瞑想に入っているのじゃ。
眠りは肉体の休眠なのじゃ。
意識が肉体に同化していると自分が飲み込まれるように感じるのじゃ。
さらに熟達すれば肉体が完全に寝ても意識は肉体に縛られずにあると気付くじゃろう。
それまで精進あるのみなのじゃ。 >>657 恐れが戦争の原因であるということは、日常で起こる喧嘩と根本的には同じことですね。
まずは自分の恐れをおさめていきたいと思います。
質問に答えていただき、ありがとうございました。 >>674
ありがとうございます。
私も先日、首の後ろあたりから観た時、思考すると頭の前の方に感覚を感じました。
普段の私は、主体の感覚が頭にあるようです。丁度目の後ろあたりに自分があり、視界を見ている者であり、思考と距離が無い感じです。
なぜか、買い物しているときにふと、首の後ろあたりの視点が起き(?感じ?)ます。(何故買い物なのかはわかりませんが… ふだんと違う場所の方が投射が無く客観的になるのかもしれません)
なので、意識の先ではなく、観る主体を何処に置くべきなのかお聞きしたいと思いました。
しかし、今のところ主体の感覚は自由に動かせるものではなく、
意識的に首の後ろに集中してみても、「目の後ろにいる自分」が「首の後ろを意識している」感じになり、何か違う感じです。 >>674
眠気についてもありがとうございます。
NGとか思わなくて良いのですね。
そのようにしていけるよう精進して参ります。 >>675 どういたしまして、またおいでなさい。
>>676 強く集中していると、意識の先が観る主体になるのじゃ。
対象と一つになり、そこから観るのじゃ。
それが集中の次の段階なのじゃ。
今は意識的に出来なくとも、続けていればできるようになるじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
>>677 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。 昔、体だけの関係だった女性がいました。
デートっぽいこともしましたが、恋とか愛という感情は二人の間には無かったと思います。
彼女は情緒不安定なところがあって、訳もなく急に泣き出したり泥酔して深夜に突然押しかけてきたり
突飛な行動が多い人でした。生まれた時から父親がいなかったそうです。
初めて会ったその日に関係を持ちました。
とても軽い感じだったのですが、自分も欲望があったから深く考えずにお互い求め合いました。
しばらくそんな日々が続いた後、なんとなく気まずい雰囲気になって自然と会わなくなりました。
正直、幸せそうな人に見えなかったので私も都合のいい関係で終わらせたいという気持ちがあったのかもしれません。
彼女も私も心の中の欠けた何かを必死に埋めるように快楽だけを貪りあっていたような気がします。
いま彼女がどんな風に生きているのか複雑な心境ですが、もう忘れて考えない方がいいですか? 行きずりの軽い関係だったのじゃ。
お互い感謝して別れたのじゃ。
とらわれなくて良いのじゃ。 >>679 考えてよいのじゃ。
その女子はもしかすると愛を求めていたのかもしれん。
もっと慈悲を持てばよかったのかもしれん。
そのように省みて次の女子には慈悲を持って接するとよいのじゃ。
鬼和尚、歌舞伎聚楽主という経がありますが、
いわゆるコメディアンは危ないと
お釈迦様はその経で話しています。
この質問者はおそらく修行者ではなかったのだと思いますが、
にもかかわらずお釈迦様はかなり強い口調で警告しています。
本当に危険なのでしょうか? ディズニーランドやUSJみたいなテーマパークって、虚構を売り物にして
客はその虚構の世界を本物であるかのように楽しんでる訳ですが、虚構に虚構を上塗りしたような
安心安全に楽しめるファンタジーを求める心が人間にある事を運営側も知っていて経営してるんでしょうかね?
それが金儲けになるとわかっている、と私には思えてなりません。
善い悪いの話ではないんですが。
その虚構がストレスの発散になるのなら悪いものでもないかなと思うんですが、
虚構を所詮は虚構だと気づくのが大事ですか?
虚構にも役に立つ側面や意味というのは存在するでしょうか? >>682 毎日一所懸命勉強したんじゃろう。
日々の精進が大事なのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>683 それはお釈迦様の言うとおり、無意味な事で人心を弄するならばそうじゃろう。
時間を浪費し、間違った思想を植えつけてしまうからのう。
慈悲が大事とか勇気が必要とか教えるならば善にもなるのじゃ。
どんな職業も心がけ次第なのじゃ。
>>684 わかっているじゃろう。
そうじゃ、それが大事なのじゃ。
慈悲が大事とか、勇気が必要とか教えるならば、善にもなるじゃろう。
本人に善意があるかどうかが基準なのじゃ。
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