【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】38 [無断転載禁止]©2ch.net
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*悟りを開いた人には偉大な知恵があるらしいわ。
*生活のことなんでも聞いてみましょう。
*あるゆる悩みを聞いてみましょう。
*罵倒、批判だけのレスはスルーよ。
<前スレ>
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ37
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1487255959/150 >>435
悟りを開いたのは20代じゃろう。
現在は50代の中頃じゃろう。 >>437
即身成仏なされたのかた自身は、もちろんそれが唯物論であるとは認識しておられないでしょうし
唯物論を実践しよう!などという目的意識なぞ確かにもってのほかであると存じます
しかしながら、第三者が客観的に調べて、みえてきた正覚の状態の実態像は、唯物論のそれと等しいものと解釈できると思うのです
「全てのものは物質で構成されている。人間の意識や意志、自我さえも肉体という物質が見せる幻にすぎない」という唯物論
これはまさしく、色即是空の精神そのものではないでしょうか?
唯物論の実践=悟り、によって得られる真理とは、自分とは物質であり、世界全てもまた物質なのであるから、世界と自分は同一である、という感覚なのでは?
「菩薩様と同一存在になれる」というのも、菩薩様は悟りに至り、世界という物質自体と同一になられたので、我々が悟り、世界と同一存在であるという感覚を得れば、
「間接的に、自分=世界=菩薩様、という等号が成り立つ」という解釈ができるのです。
いかがでしょうか? 和尚様
間違っているなら、できれば具体的に違う箇所をしてきしていただきたいと思っております。
大変恐縮ですが、どうかよろしくお願いいたします。 >>438 >>440
>間違っているなら、できれば具体的に違う箇所をしてきしていただきたい
最初から最後まですべてが間違っておるのじゃ。
おぬしの間違いの根本は、(多くの者がそうであるが) 迷いの状態にいながら正しい理解が得られると
思っている点なのじゃ。
仏教の正しい理解というものは迷いから覚めた時にわかるものであって、迷いの状態でいくら考えても
わからんのじゃ。
迷いの意識の中で何かがわかったと思っても、それは錯覚の知的納得に過ぎないので、自分自身は何も
変わっていないことに気付くじゃろう。目覚める以外に真実を知る方法はないということじゃ。
>>440 のような自分勝手な思考を一切やめて、ひたすら仏道を学び修行することが大切なのじゃ。 >>437
歳もわからなくなるほど観念が消えると、生活に支障はありませんでしたか?
悟ってしまえば肉体や生活のことなどもはや気にならなくなっていると思いますが、
悟りの前後の期間、数年くらいは、
普通に仕事をして社会生活を送れるような状態ではないということでしょうか?
仕事をし家庭を持ち社会での生活を維持しながら修行をしている者は、鬼和尚のように認識を滅する大悟を目指すのは難しいでしょうか。
在家の者は、
どの悟りの段階まで行けるのでしょうか。 >>442
出家しなければ悟りは難しいじゃろう。
西行のように妻子を捨て、一人諸国を遍歴しながら修業に励むのじゃ。 >>433
構わないよう
あるのが標準だ
自ら解体しよう >>441
和尚様
失礼ながら、誤解をなされているようなのですが、私は、自身が悟りに至ろう、悟り至りたい、などという志は、現在のところ、はっきり申しまして、ございません
悟りへ至るための修業過程を調べ、そして、悟りに至ったかたの感覚を伝聞として聞くにおよび、
それを私は「解釈」した程度にすぎないのです。もちろんのことながら、解釈しただけで「実践」ができるわけもないことは重々承知した上であります。
また、悟りというものを否定したい、などという不遜な下心も決してございません。それは誓って、声を大にして申し上げます。
私が和尚様にお尋ねしたいのは、その解釈の、どういった点が間違っていて、または、合っているのか? ということなのであります。
どうか返信よろしくお願いいたします。 >>440 >>445
ワシは誤解などしておらんのじゃ。
>その解釈の、どういった点が間違っていて、または、合っているのか? ということなのであります。
根本的に言えば、合っているところは一つもないのじゃよ。
なぜかと言えば、悟りは「我」が消滅した世界の話であるから、「我」があることを前提にして
考えたことはすべて妄想なのじゃ。
>私は、自身が悟りに至ろう、悟り至りたい、などという志は、現在のところ、はっきり申しまして、ございません
それなら、なぜ仏教に関心を持つのじゃ?
悟らなければ時間の無駄になるだけじゃろう。
>悟りへ至るための修業過程を調べ、そして、悟りに至ったかたの感覚を伝聞として聞くにおよび、
それを私は「解釈」した程度にすぎないのです。
そんな「解釈」を考える暇があれば、瞑想をしたり、心を空しくして仏典を読むことが大切じゃな。
頭を使いたいのなら、禅の「公案」などを考えればよいじゃろう。
>悟り、によって得られる真理とは、自分とは物質であり、世界全てもまた物質なのであるから、世界と自分は同一である、という感覚なのでは?
エタノールも物質でありメタノールも物質であるから、エタノールもメタノールも同一である、などと
考える者がおるじゃろうか? エタノールの代わりにメタノールを飲めば失明して後悔するだけじゃろう。
「ともに物質であるから同一」なのではないのじゃ。すべての存在は自己の意識内の存在であることに気付く
ことが仏教の入り口であって、対象的に見て同一だと考えているのではないのじゃよ。
(そもそも、世界が物質であると考える唯物論というのは仏教とは対極にある考え方なのじゃ。) >>445
仏教というのは、世界に対する対象的な理解ではないのじゃよ。
対象的な理解というものは、その内容がどのようなものであれ、それを見ている主体が残るじゃろう。
その主体を対象(客体)にすれば、その瞬間にそれを見ている主体が生じることになるのじゃ。
そして、真に問題であるのは対象(客体)ではなく主体なのであるから、対象的な理解によって真実を
知ることはできないことがわかるじゃろう。 >>446
>なぜかと言えば、悟りは「我」が消滅した世界の話であるから、「我」があることを前提にして考えたことはすべて妄想なのじゃ。
はっきりと申し上げます。唯物論も「我」の存在は認めておりません。
>それなら、なぜ仏教に関心を持つのじゃ? 悟らなければ時間の無駄になるだけじゃろう。そんな「解釈」を考える暇があれば、瞑想をしたり、心を空しくして仏典を読むことが大切じゃな。
悟りを客観的に解釈したいのです。悟りに至れば主客一体となった純粋経験となりましょう。
したがって、無明における、悟りに対しての客観的な観点が喪失してしまいます。
私は無明の今のうちに、客観的な観点で悟りの解釈をしておきたいのです。
>エタノールも物質でありメタノールも物質であるから、エタノールもメタノールも同一である、などと考える者がおるじゃろうか? エタノールの代わりにメタノールを飲めば失明して後悔するだけじゃろう。
それは言葉の綾でございます。「同一」という言葉を私は用いましたが、「同格、あるいは同価値、等質、同等、同程度、または、同存在の一部分」などといったニュアンスとしてご理解くださいませ。 >>446
>「ともに物質であるから同一」なのではないのじゃ。すべての存在は自己の意識内の存在であることに気付くことが仏教の入り口であって、
唯物論においても、世界というものは、肉体という物質が感知し、それを生体信号として送ってきて、自己の意識内に投影された存在にすぎない、という考え方でありますから「すべての存在は自己の意識内の存在であること」に矛盾しません。
>対象的に見て同一だと考えているのではないのじゃよ。
誤解であります。その考えは無明の私の観点から見た分析であり、正覚の者がそう考えている、といった意図ではございません。正覚した者は考えるのでなく、「体験」しているのですから。
>(そもそも、世界が物質であると考える唯物論というのは仏教とは対極にある考え方なのじゃ。)
前述のように、共通項があり、矛盾がないように思えますから、悟りとは無明の者の語る唯物論で解釈可能なのではないか? という試みをしているのであります。
どういった点が対極的なのでございましょうか?
お手数ではございますが、返信をお願い致します。よろしくお願いします。 >>448-449
>唯物論も「我」の存在は認めておりません。
それは理屈の上だけの話じゃろう。その証拠に、唯物論の信奉者はみな「死」を怖れて
おるじゃろう。それは心の底では 「我」 があることを認めているからなのじゃ。
理屈の上では認めていないと言い張っても、その信奉者はちゃんと 「我」 の存在を認めて
生きているということなのじゃ。
>私は無明の今のうちに、客観的な観点で悟りの解釈をしておきたいのです。
無明というのは夢を見ているようなものじゃから、その内容(悟りの解釈)はどのようなもの
であっても空しいものじゃ。価値があるのは夢から覚めることだけなのじゃよ。
>唯物論においても、世界というものは、肉体という物質が感知し、それを生体信号として送ってきて、自己の意識内に投影された存在にすぎない、という考え方でありますから「すべての存在は自己の意識内の存在であること」に矛盾しません。
>>447 で書いたことがまったく理解できていないようじゃな。
>悟りとは無明の者の語る唯物論で解釈可能なのではないか? という試みをしているのであります。
そのような試みをするのは悟りを得たい為じゃろう。悟りにつながらなければ空しいじゃろう。
思索することが好きなのであれば、龍樹菩薩の「中論」などを読むのがよいじゃろう。
龍樹の哲学は学ぶ者を悟りに引き入れる力を持っているのじゃ。
>どういった点が対極的なのでございましょうか?
西洋では唯物論の対極は唯心論・観念論じゃな。仏教は唯心論・観念論の極致と言ってもよいのじゃ。
ただ、西洋哲学の唯心論・観念論とは全く違っていて、それが真実だとして説いているのではなく、
学ぶ者を悟りの境地に引き入れる為の思想(手段)としての説明なのじゃ。
唯物論は唯物史観につながって行ったように、個々人を「ものを生産する <ロボット> 」として見る
考え方が根底にあるのじゃ。それは、一見、仏教の「無我」に近いように見えるが、その実は仏教とは
正反対であって、個々人を生き生きとさせるベクトルを全く有しない観念の妄想に過ぎない理論だった
ことは共産主義・社会主義の歴史がみごとに証明しておるじゃろう。 わしは長文は読まんのじゃ。大体が中身がないからじゃ。 >>450
すいません。少し頭が疲れてしまいました
失礼ながら、返信が滞ってしまうことをお許しください
ひとまずは、おっしゃっていただいた内容を真摯に受けとめ、唯識論に関して理解を深めたのちに、またお話しを拝聴したく存じます。
よろしくお願いします。
その前にひとつ、誤解を解いておこうと思います。すいませんがお聞きください。
>それは理屈の上だけの話じゃろう。その証拠に、唯物論の信奉者はみな「死」を怖れておるじゃろう。
誤解とはこのところであります。私はまさしく「理屈の上だけの話」をしているのです。「唯物論者=正覚の者」なんぞとは、一切、これっぽっちも考えてはおりません。
私は「正覚の者=唯物論の体現者」なのではないか? と推測しているのです。もちろん「それが唯物論である」などという認識は全く不必要なのです。
>無明というのは夢を見ているようなものじゃから、その内容(悟りの解釈)はどのようなものであっても空しいものじゃ。価値があるのは夢から覚めることだけなのじゃよ。
>そのような試みをするのは悟りを得たい為じゃろう。悟りにつながらなければ空しいじゃろう。
ご忠告大変感謝いたします。しかし、失礼ながら、今しばらくの間は、もう少しだけ愚かながら、主観的なこの無明の価値を追ってみたいと思います。申し訳ありません。
よろしくお願いいたします。 >>438 おぬしの自我も生まれて育つ過程でできたものじゃろう。
生まれる前は自我は無いのじゃ。
自我が悟らなければならないということはないのじゃ。
無いものが悟れるはずも無いのじゃ。
ただ個我の観念を持つ意識が解放されるのみなのじゃ。
>>440 肉体も無いのじゃ。
空間とも同一なのじゃ。
菩薩は悟っていない修行者なのじゃ。
なにやら混乱しているようじゃのう。
>>442 いろいろあったようじゃ。
わしは何も気にしなかったがのう。
人によってはそうかもしれん。
やる気があれば簡単じゃろう。
仕事はやめてしまうかもしれんがのう。
やる気があれば誰でも大悟徹底できるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 >>453
ではわざわざないものが生まれて解放する過程が特に必要ではないですよね
生まれてしまった以上仕方ないですが、それも悟れない自我が輪廻転生しているんじゃないですか? 自分の性的イメージが極度に歪んでいます。
特に女性に対する認知が歪んでいて、どこか差別的な意識があります。
昔、女子に虐められたせいか、女性を征服して屈服させたいのかもしれません。
イヤがってるかもしれないのに「それくらい良いじゃない」とか軽く考えてしまいます。
妄想が肥大してて、そのイメージでしか興奮できない
アダルトコンテンツを見る時間も多いです。性的な情報に触れるのも早かった。
他人に不快な思いをさせるタイプの変態だと思う。
自分の快楽優先でバレなきゃ何してもいいやって、どこかでそう思ってる。
きっと良くないことが起こりそうなので、歪みを矯正したいんですけど治りますか? 悟りを得ると、
こうして感じたり考えたりする存在としてはあれなくなると思うと、それはそれで少し寂しいような気もします。
自分は人間だったとか、悟りを得たとか、そういった記憶も全て無くなるのでしょうか?
悟りを得なくても、自然に無くなってしまうものかもしれないですが…。
また何かに産まれて、どうなるか分からないのも、恐ろしいことです。
(悟りを得なければ何が何かもわからないまま、夢の中で輪廻の渦に翻弄され、悟りを得られる機会がまたすぐに来るとも限らず、長い時間、苦の中に放り込まれるかも知れない。)
悟りを得たら、無のような感じでしょうか?
思考や記憶も自覚も無く自他も無く時間も無い、永遠の至福としてあり続ける、そこではあるとかないとかも消失して、あるとも言えない状態のように思えてしまいます。 >>455
同じような趣向の人とお付き合いできれば問題ないと思います 鬼和尚は何度かダンマパダを経典として勧められていたかと思います。
本格的な修行者だけでなく仏教の教えを指針に生きようとする在家の者にとっても
最も勧められる経典はやはりダンマパダでしょうか?
岩波文庫の心理のことば(ダンマパダ)には感興のことば(ウダーナヴァルガ)も
収められていますが、こちらも同じように役立つものでしょうか? >>454 必要が無くとも起こるのじゃ。
自我は輪廻しないのじゃ。
>>455 それも原因から観察すれば治るじゃろう。
いじめられた時の怒りが原因かもしれん。
或いはもっと昔の母親が理解してくれないこととかが原因かもしれん。
そのような原因から歪みがあり、原因が無ければ歪みが無いと観察すれば治るじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>456 記憶はあるのじゃ。
少し減ったりするがのう。
必要ではない記憶は捨ててしまうのじゃ。
悟りを得たら無我であり、無認識であるから全てなのじゃ。
天も地も山も川も海も宇宙も全てなのじゃ。
全てが全てと合一するのじゃ。
人の考える至福を超えた至福なのじゃ。
>>458 そうじゃ、善事を積む事が教えられているからのう。
例え悟りを求めなくとも善事を積んでこの世で福楽を得て、死後には善い所に生まれることもわかるのじゃ。
ウダーナヴァルガも大体同じことが教えられているのじゃ。
善事に疑問を持った時などに読み返してやる気をもりかえすとよいのじゃ。
そのように役立つじゃろう。
>>459 赦すのじゃ。 >>460
必要がなくとも起こっているように思えるのが幻想で、それがなければ、生まれなければ
悟りがないとはおかしいと思えます
徹底的に幻想が必要としない、ない、と言うのが悟りなら
輪廻しているのは自我以外の何なのですか?いい所や悪い所に生まれ変わったりして悟れないでいるのは 魂って単語だけでも人によって捉え方は様々ですね。
霊魂、観念、意識、生命力、本質。
魂って何でしょうね。 >>465
国語辞典で調べるのじゃ。
魂なんていう紛らわしい言葉は使わない方がよいのじゃ。 >>464
おぬしも国語辞典で調べるのじゃ。
次に、鬼和尚のブログを読むのじゃ。
それでもわからなければ、尋ねるのじゃ。 和尚様
もしも全人類が正覚に至った場合、人間社会はどうなるのですか?
共産主義は崩壊し、資本主義も限界が見えてきた現代、理想郷の在処が知りたいのです
皆が智恵を得ているわけですから、とりあえず民主主義は意味を失うとして、社会主義も“人間社会”を想定しているので喪失しますよね
より良い方向に向かう〜とかそういう言い方ではなく、できうる限り具体的にお教えいただけたなら幸いです >>462 ナッシングじゃ。
>>463 おぬしがおかしいと思っても思わなくても幻想は幻想なのじゃ。
輪廻しているというのも幻想なのじゃ。
個我があると認識する者にのみ、輪廻もあると幻想が起こるのじゃ。
そして自分という者があるという幻想も起こるのじゃ。
自らの本心を観察して確めるのじゃ。
>>464 悟りとは幻想の観念を滅し、自我を滅して真実に回帰することなのじゃ。
観念があり、自分があるという認識がある限り一切は苦になり、延々と続くのじゃ。
自我を滅し、一切の観念を滅して真実に立ち返って永遠に安楽になるのが悟りなのじゃ。
>>465 観念なのじゃ。
存在しないものに名前を付けているだけなのじゃ。
わかりやすく輪廻するものがあることを説明するのに作成しただけなのじゃ。
>>468 社会はもとから無いものじゃ。
ただ人間の集まりをそのように名づけただけなのじゃ。
無いものはどのようにしても変らないのじゃ。
国家とかはきえるじゃろう。
戦争もなくなるじゃろう。
主義主張もなくなるのじゃ。
鬼和尚は、悟って以来、ずっと至福の状態が続いているのですか? >>469
>国家とかはきえるじゃろう。戦争もなくなるじゃろう。主義主張もなくなるのじゃ。
失礼ながら、そんな程度のことは正覚に至っていない僕にも想像つきます
具体的に人々がどんな暮らしをするようになるのかが知りたいのです
僕はまだ成所作智を得ておらず、縁起の囁き(?)が聞こえないので、人々の暮らしが想像ができないのです
すいませんが、暮らしぶりを具体的にお教えください。その片鱗でも僕が想像できるように。お願い致します >>469
生まれなければ悟りもないのじゃと鬼和尚さんが幻想を一種肯定しているではないですか
個我があるという迷いが継続している原因は自我なんじゃないですか? 善事と悪事の両方を行うものは、死後どのような世界に行くんですか?
仕事は真面目で周囲の人に優しく温和な性格の持ち主が、プライベートで下着窃盗の常習犯だったり。
邪魔者を死に追いやる事も厭わず生き物の命を全く尊重しない冷血漢が、寄付に熱心だったり。
これは極端な例ですが、善事と悪事がどういうバランスだと善いところ悪いところに生まれるのか。
基準が良くわかりません。 面倒臭い、だるい、憂鬱、という想いが癖になっているようです。
身体がだるいけどやらなきゃならない、面倒臭いなぁ、憂鬱だなぁ、、というような流れがあります。
日常的にこのような感じで、これも苦なので滅したいですが、この場合、どのように観察して行けば良いでしょうか?
ここで内心、「なぜ私が」というような、受動的な被害者意識のようなものもあるようです。
「私の環境」、「私に起こること」は、私の意志では選べず、
「私という感覚も気づけば勝手に起こっていた」と思います。
そのためか、「私に起こることは私の意志が及ばない」といった無気力感もあるようです。 >>473
世界というか、自分のやった事がそのまま返ってくると考えればいいと思う。
ただし、それが来世になるか明日になるか一分後になるかはわからない。 以前瞑想の直後に少しの間だけ、身体の感覚と自分が一致しない不思議な感覚になったことがありました。
集中はいつも通り、自分では深いのかどうかよくわからないのですが、
観察していたのは、目を瞑り身体の感覚に集中していると、そこには身体のイメージがある、ということです。
しかしすぐに普通の意識に戻ってしまいましたし、今もう1度やろうとしても出来ないようです。
1度そのような体験があったということは、まずは体の感覚と体のイメージを観察する方法で観察して行った方が良いでしょうか?
それ以来は起きていないのですが、
どうしたら、もっと深めて行けるでしょうか? 身体の感覚と自分が一致しないのではなく、
感覚と身体イメージが一致しない、という感じでした。
体の感覚は少し離れて感じ、「自分」はそれより大きいような高い位置にあるような、変な感じでした。 鬼和尚さん、世界中にいろんな宗教があっていろんな死後の世界を説明していますが、
生前持っていたイメージがそのまま体験されるんですか?
日本でよく言われる「先祖が供養を欲しがってる」って、いったいどういう状態なんでしょうか
死んだら子孫にいつまでも供養してもらうんだ、と信じて亡くなった人が
信じてたとおりの世界を形成し、いつまでも次の転生先へ赴かず家系に執着して
やれ供養が足りない、墓が掃除されてない、〇回忌をしてくれなかったとか言って
何も知らずに生きてる罪のない子孫にタカってくることはあるんですか? あと、本当に亡くなった人は線香や供物を供えてもらうと嬉しいんですか?
生前お経をロクに唱えたことも聞いたことも仏教の勉強もしたことなかった人でも
読経されると心地よいと感じるんですか?
それから、子孫が続かず家が絶える家系は、先祖全般に徳のない人が多かったとか
先祖が徳を積まなかったから、とかいう因果関係があったりしますか?
女子ばかりで子孫が他家に嫁に行ってしまった家の先祖も、姓の変わった子孫に
供養をタカってきたりするんでしょうか? >>470 常に至福にいることもできるがとめることも出来るのじゃ。
わしは至福さえ脱しているのじゃ。
苦を抱えて生きる衆生の心を知るために至福からも遠ざかっているのじゃ。
>>471 それぞれ好きなように暮らすじゃろう。
全て同じという訳は無いのじゃ。
悟ってもそれまでの暮らしが違うからのう。
そのまま涅槃に入るものも居れば、お釈迦様のようにとどまるものも居るのじゃ。
ただあるがままにあるだけなのじゃ。
>>472 肯定も否定も無いのじゃ。
それが真実なのじゃ。
個我があるという認識を保つのは慣習なのじゃ。
>>473 それに見合った世界に引かれていくじゃろう。
昼は暖かいが夜は物凄く寒い処とか。
動物に生まれるがよい人に飼われるとか。
心のありように従って世界はいくつもありえるのじゃ。
>>475 それは先ず本当に体だるいのか観察してみなければならんのじゃ。
肉体が不調で本当にだるいのならば、それを直していくのじゃ。
無理をして病が重くなれば逆効果であるからのう。
西式健康法などをするとよいのじゃ。
特に首の後ろの筋肉をマッサージしたり、温冷浴で血行をよくするのじゃ。
首前にも甲状腺があり、やる気がでるからマッサージするとよいのじゃ。
それでも面倒とか思うならば心に原因が無いか調べてみるのじゃ。
本当はやるべきではないこととか、昔それで酷い目にあったとかの原因を探すのじゃ。
その被害氏や意識の原因も探すのじゃ。
そして原因があるときそれがあり、原因が無いときそれもないと観察するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>477 厭離が少し起こったのじゃな。
そのように観察してみるとよいのじゃ。
その現象をもう一度体験しようとしてはいかんのじゃ。
記憶を追っていることになるからのう。
ただひたすらに集中と観察するのみなのじゃ。
そうすればいつのまにか深くなって行くものじゃ。
>>479 ならないのじゃ。
自分のしてきたこととしなかったことに従って体験されるのじゃ。
うそなのじゃ。
にせものが布施を欲しがってそういうのじゃ。
騙されてはいかんのじゃ。
>>480 線香もお経もいらんのじゃ。
おぬしが生前好きだったものなどをあげたとイメージすれば届くのじゃ。
死者は夢の中であるからのう。
心象だけが届くのじゃ。
先祖の因果はないのじゃ。
自分のしてきたことで福楽もあるのじゃ。
善事を積めば福楽も付き従うのじゃ。
先祖はたからないのじゃ。 >>481
返信ありがとうございます
やっぱりよくわからないので、僕の想像を聞いていただいて、間違っている部分を指摘していただく形式をとらせてください
人類が皆が悟りに至ります。すると苦しみや不満を訴える者が居なくなりますので、(必要は発明の母と言いますし)科学は消滅し、文明が停止します
故にエボラのようなウィルスや伝染病、または食料難、エネルギー不足が致命的なほどに深刻化しても、皆がそれを受け入れ、誰も対策しません
結果、人類は(幸福なままにですが)滅びます。(どうせいつかは滅ぶ運命でしょうが、その天命よりも1000年くらいは早期にです)
この想像は合っていますか?合っているのなら和尚様は人類の滅亡を早める結果になるとわかっていながら、なぜこうしたスレで啓蒙活動をしているのですか? >>484
>人類が皆が悟りに至ります。
悟っていない赤ん坊がどんどん生まれて来るので、人類が皆悟りに至ることはありません。
赤ん坊はみんな悟っていないのですよ。
10万人の赤ちゃんのうち悟りを開くのは1〜2人なので、「皆が悟りに至る」どころか、時代が進むにつれて悟っていない人の割合がどんどん大きくなって行きます。
つまり、どんどん「末法」の世の中になって行くのです。 >>485
あなたのレスを鵜呑みにするのなら
いくら頑張っても悟りに至れない人々の存在は仏教の不完全性の証明ですし
また、不特定多数が閲覧するこのスレやブログ等で悟りの素晴らしさを喧伝するというのは、上記の人々に対して余りにも残酷な行為です
それはどう考えても悟りに至った人間のすることとは思えません
いかがでしょうか? >>486
そうです。だからこそ大乗仏教の価値が大きくなって来るのです。
煩悩を滅する原始仏教の悟りではなく、煩悩のあるままで救われる大乗仏教こそ
末法の世で人々の光になるのです。
この世を幻の無価値なものとして捨て去るのではなく、この現実の世の中を
「仏国土(ぶっこくど)」にして行こうというのが大乗仏教なのです。 >>487
>そうです。
これは私のどのセンテンスに対しての言葉ですか?
>それはどう考えても悟りに至った人間のすることとは思えません
この部分ですか? もしそうなら、このスレにいる和尚たちは悟りに至っていないと判断してよろしいのでしょうか?
違うのでしたら、悟りに至っている和尚様たちが残酷な行為をするのはなぜなのかを教えてください >>476
横からですが、シリアなどに生まれた被害者は全てこの生以外で同じようなことを他人に
したのでしょうか?この世が不条理であることを考えると全てが自分の報いとは思えません
残酷な人間が、いきなり次の生で弱い人間に変るとも思えないし >>487
「そうです」というのは
「仏教の不完全性の証明です・・」」に対してのものです。
つまり、原始仏教の煩悩を滅して悟りに至るという考え方は不完全だったのです。
だからこそ、後になって大乗仏教が生まれたのです。
>このスレにいる和尚たちは悟りに至っていないと判断してよろしいのでしょうか?
このスレに書き込んでいる人々の中で悟っていると言えるのは「鬼和尚」だけです。
鬼和尚は過去世での修行の功徳によって原始仏教の悟りを得られた人ですが、一般の
人々が鬼和尚のような悟りを開くことは至難のことなのです。
しかし、鬼和尚の法話を聴くことは多くの人々の心を耕して悟りの準備を整えてくれる
ものなので価値は大きいのです。この世では実を結ばなくても来世、再来世に実を結ぶ
ことにつながるのです。 >>490
↑ アンカーミス
>>487 ではなくて >>488 でした。 >>490
しかしながら、やはり鬼和尚様がこのスレで悟りの素晴らしさを語ることは残酷な行為に感じます
例えるなら、(無明の者の悩み相談を受ける)食べ物に飢えた子供に「食べたいものはある?」と尋ねた上で
(悟りに至りましょうと回答する)その食べ物の写真を見せつつ、自分が食べた時いかに美味しかったかという感想を懇切丁寧に聞かせるような行為で
(いちおうは、修行に励むモチベーションを保てるという利はあるが)
(一生悟りに至れない人々が存在する)その上さらに、その子供が生涯それを食べることなく人生を終えるというのですから、救いようもありません
これはもはや、考えるまでもないほど明確な残虐行為でしょう? 悟りに至っているはずの人間がする行為とは到底思えません
どの部分が間違っているのでしょうか? 教えてほしいです 恐縮ですがもう就寝しますので明日レスを読ませていただきます
申し訳ありません
おやすみなさい >>492-493
>>492
その例えはまったく不適切ですね。
>>490 の最後の部分で書いたでしょう。将来役に立つのです。
勉強と同じですから、今すぐに役に立つとは限りません。
原始仏教でも大乗仏教でもコツコツと学びと努力を積み上げた人だけが
安らかな境地に至ることができるのです。
また、悟った人の話というのは直ぐに悟りにはつながらなくても、部分的に気持ちが
楽になるなどの良い点もあるのですから、残虐行為などと考えるのは大きな誤まりです。 >>482
ありがとうございます。
首周りはいつも凝っていて、最近は何故か鎖骨の周りが特に凝っていて、凄く気になります。
鎖骨の凝りは、呼吸法をやってから気になり始めたので、急にやり過ぎたのかまたは間違った方法なのかと思い、一旦ストップしてみましたが、関係無いようでした。
胸式呼吸法だと肩が凝る、という情報も見付けました。
元々呼吸がとても浅かったので、深い呼吸や複式呼吸を心掛けてはいますが、変な所に力が入ってしまっているのかもしれません。
または、今まで肩首がガチガチだったので鎖骨に気付いて居なかっただけなのかも知れません。
しばらく、首周りのマッサージ、血行を良くすることを心掛けてみます。
あと、ふと気になったのですが、
気が、中途半端に増えて頭まで登りきらず、首周りに溜まるということは、有り得ますでしょうか? >>475
せんでいい
で
念頭から外そう
が
全てはお前始まりだよ
>>477
いや
流し込み
が
やめとこう >>495
サロンパスを貼るのじゃ。
気のことは考えなくても良いのじゃ。
姿勢が正しいか確認してみるのじゃ。 >>494
返信が遅くなってしまい申し訳ありません
悟りは「いま、ここを生きる」の精神ではないのですか?
他人の悩みをわざわざ聞いておいて(このスレでは相談者は自分の意思で相談の書き込みをしますが、鬼和尚様がそれを読もうとスレを開く時点で“わざわざ”です)
「悟りに至れば悩みはなくなります(“今は苦しい”でしょうが、“これからツラい”修行に励んで、何年後か何十年後か、または来世か来々世か、“いつかの安らぎの境地”を目指しましょう)」
“今の苦しみ”をわざわざ聞いておいて、“未来の安らぎ”を説く
これが「いま、ここに生きている人間」の行為でしょうか?
僕がひねくれているだけですかね? >>489
おぬしは言葉をひねくり回しているだけじゃ。
意味がさっぱりわからんのじゃ。
三行以内にまとめるのじゃ。 >>499
横から失礼
アンカー含め三行の文章を三行以内にまとめよとは、なかなかにウィットに富んだ言葉のひねくり回しですね
内容を噛み砕いて平易にせよという意味合いですよね、承知の上でしたが、嫌味でなく単純に面白かったので口を挟んでしまいました
ご容赦ください >>498
>僕がひねくれているだけですかね?
ひねくれていると言うよりも、「宗教・仏教というものがわかっていない」
ということですね。
何年後か何十年後かも、または来世か来々世かもわかりません。
ですから、明日かも知れません。今日起こるかも知れないのです。
仏道修行とはそういうものです。
>悟りは「いま、ここを生きる」の精神ではないのですか?
迷いの意識状態で「今、ここ」を生きようとしても空しいでしょう。
本質を言えば、「悟りは今ここにある」のですが、それに気付くのに
時間がかかるということですね。
>“今の苦しみ”をわざわざ聞いておいて、“未来の安らぎ”を説く
本当は未来などないのです。それがわからないために“未来の安らぎ”を
説いているように思ってしまうのです。
その“未来”とは、実は“今”であることに気付かなければなりません。
未来というのも今の意識内容なのです。
迷いの状態にありながら「悟り」を理解することは絶対にできません。
ですから、仏教の教えを頭で理解しようとすることはやめる方がよいのです。
頭を空っぽにして、仏典や覚者の言葉に耳を傾け続けていけば少しずつ意識が変容
して行って、やがて真実の世界が見えるようになるでしょう。 >>501
なるほど、仰られたこと全てを理解できたなどという傲慢を言うつもりはありません。しかし、大変、大変参考になりました。ありがとうございました
ひとつ気になったのが、悟りは絶対的な真理だとして、「頭を空っぽにして聞きましょう」というのは、確かにそれを実行すれば正しい行為だと納得できるのでしょうが
「考えなくていいから、いいから、絶対よくなるから」という宣伝方法は、俗世間では不信感を招くだけという気がします
無明の者の立場に立って、我々が「考えなくていい」ことを“頭で”納得できるような宣伝方法は、急務の懸案事項だと思います
レジュメにしてまとめあげることをご検討いただければ幸いです
よろしいお願い申し上げます
最後になりますが、貴重なお時間を使って私なんぞにお付き合いいただき、本当にありがとうございました >鬼和尚さん、
> 自分のしてきたこととしなかったことに従って体験されるのじゃ。
では、時代や地域差も思想や宗教や文化的背景に関係なく、死後は生前の行い次第で
「夢の中」の世界が決定されるのですか?
それを決定する基準は各自のどの辺の意識なのですか?マナ識やアラヤ識ですか?
生前自覚なく悪事を重ねた人は、死んだらすぐにそれが認識できるんですか?
>おぬしが生前好きだったものなどをあげたとイメージすれば届くのじゃ。
会ったことも話にも聞いたことがない数代前やもっと昔の先祖にはどういう心象を
送ればいいですか?
>先祖の因果はないのじゃ。自分のしてきたことで福楽もあるのじゃ。
先祖は子孫に何らの影響も及ぼせない、てことですか?死後どんなに苦しんでいてもですか?
自分の今の環境は、すべて自分ひとりの今生なり過去世なりの結果のみですか? >>484 すでにある化学や文明はなくならないのじゃ。
おぬしも悟った者が不自由になったり、あほになると思っているのじゃな。
悟れば悟りを得ないもののすることは全て出来るのじゃ。
特殊な能力を除いてのう。
それが必要と思うものは残し、皆適当に暮らすじゃろう。
無理に滅亡を早めることもしないのじゃ。
>>495 それもあるのじゃ。
首や喉の辺りが凝っていると気が詰まり易いとはヨーガでも気功法でも言われているのじゃ。
そうすると却って健康に悪いのじゃ。
先ずは首や喉の周りの血行をよくすることが大事なのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>503 そうじゃ、自らの行いが報いとなるのじゃ。
マナ識や阿頼耶識が単独で働くことは無いのじゃ。
それらの識が連動して自らの行いに相応しい報いを選ぶのじゃ。
できるじゃろう。
他人にしたことが自分にかえってくるのじゃ。
すでに生まれかわっているであろうから、送らなくてよいのじゃ。
あえて送るのならば普通に昔のうまいものとかなのじゃ。
そうじゃ、先祖の死後の苦は自分に影響しないのじゃ。
自分の今の環境は自らのしたこととしなかったことの結果なのじゃ。 >>504
>>>484 すでにある化学や文明はなくならないのじゃ。おぬしも悟った者が不自由になったり、あほになると思っているのじゃな。
悟った者に対してだけでなく、あまねく全ての人々に対して、アホだとかそんな不遜で愚かしい認識を、私は絶対にしません
>悟れば悟りを得ないもののすることは全て出来るのじゃ。特殊な能力を除いてのう。
逆に言えば、悟りを得た者にもできないことは、無明者は絶対にできないということですね?
あれれ? おかしいなぁ私が正覚者を侮ってなどいないということを、わかってくれる無明者はきっといるだろうになぁ?
はい、すいません。こんな重箱の隅をつつくようなイヤラシイ与太話などどうでもいいですね
私は科学は無くなると申しましたが文明は停止すると表現したと思います。科学はなくならない、そう認識を改めます。しかし、文明に関してはどうでしょうか?
全人類正覚者の世界でも文明は発達していくのですか? そもそも発達させる必要がないと想像しています
趣味程度の研究は続けられるとして、大規模なコスト(施設や人員)を必要とする研究は、執着を捨てた正覚者はしないと思います
よって、文明は多少は進むものの、やがて収束し、いずれは停止するのでは?
そうなれば、やはりこれも大規模なコストを必要とする人類にとって致命的な問題の解決に取り組むとは思えません
よって、やはり多少は人類の滅亡は早まる気がするのですが?
あと、全く別の話になって恐縮ですが、正覚者に物理哲学の「観測者問題」を解決してほしいのですが、どう依頼すれば叶えていただけますか?
2重スリットの実験 https://www.youtube.com/watch?v=vnJre6NzlOQ
この動画の4:00〜すぎごろの途中観測による実験結果がヤバすぎます。お知恵をお貸しください。よろしくお願いいたします >>499
酬いの理論を当てはめるとひどい目に遭っている人は、以前にそれと同じことを
したことになるが全てがそうだとは到底信じられないという事です
例えば悪いことをした人がシリアに集結して生まれ、罰を受けているのか 家族が高額な心理カウンセリングにハマっています。
カウンセラー養成学校?のようなところを出た、プロの臨床心理士ではない方のセミナーです。
大学で学んでいたのではなく、自身の不幸な体験から心の世界に入りカウンセラーとして起業した、と言う方だそうです。
私も関連書籍を読んでみましたが、よくある引き寄せ系の類でした。
インチキとは思わないけど、どっかで引用してきただけの内容だなぁという印象を受けました。
問題はセミナーがかなり高額で、そこまで払う価値があるのかな?と。
調べてみるとこの手の起業家カウンセラー?は世間にはたくさんいるようで、似たようなビジネスをしてる人は多いです。
本人に「行くのはいいけど高すぎるんじゃない?少し冷静になってみては」と話してみたんですが、
「共感してくれない!応援してくれない!悲しい!」と感情的に泣かれて話になりません。
ひょっとしたら洗脳されてるんじゃないか、騙されてやしないかと心配です。
本人もカウンセラーになりたいようですが、金儲けのためにハマってる訳ではないようです。
止めた方がいいのか好きにさせればいいのか、わからなくて悩んでいます。
どのように接するのが良いでしょうか? >>508
横からすいません
(性別は想像ですが)女性の行動をコントロールするコツは人海戦術と感情論です
お金がどうのとか、そういった詐欺がたくさんあってとか、そんな論理的な説得は全く効果がありません
もっともらしく出来るのならでっち上げでも構わないので
「あなたが騙されてるのかもって考えるだけで、すごく悲しくなっちゃうんだ」とか
「〇〇さんも、××さんも、みんな心配してたよ」とか
(心配だとか悲しいんだとか言ってやってくれ、と根回しした上で実際に〇〇さんと会わせるのもとても効果的です)
詐欺の手口ではなく、騙された人たちの体験談をいくつか用意して読ませるのも良いでしょう(できる限り感情面に言及しているものを選べばもっと効果的です)
参考までにどうぞ。 >>508
何でもやってみれば良いのじゃ。
やってみなければ、何もわからんのじゃ。 >>508
家族会議が標準だ
が
とことん自己診断させよう >>489
実際には報いは自分で自分に返してると思って良い。罪悪感に従って自分で自分を裁くということ。なので物理的に同じ事が起こるのではない。
(ただし物理的な事は物理的な事に従って返ってきたりはする。平均化するから穴開ければ自然に埋まるし山作れば自然に平らになる。怪我が自然に治るようにだいたいは放置しておくと本来のありように戻る)。
では罪悪感を感じないやつは何やっても返らないのかというと、返らないだろうがそんな状態は起こらない。いくら感じていないふりしようとも逃避しようとも無駄。
誰も無意識の動きには勝てない。誰からも行けと言われてないのに自ら被害を受けやすい環境に無自覚に行ってしまったりする。
>>142
先週土曜、うしろの髪切るため三面鏡使ってた。
そしたら、ん? と思った。
鏡の中の自分の右手に (ほんとは左手) 、右手伸ばしってたら〜〜 なんと掴めました☆
...もちろん答がこんなのじゃないの、薄々わかります。
でも隻手の公案もだけど、考えさせてくれるのありがとうです。
いっぱい考えたおかげで、さとりに直接関係ないけど、株の必勝法みつけました。
これは前スレの、株で億資産つくったお話にも影響受けた... 初めてひとつきも経ってないのに、すごいお金入ってきたよ♪
ただそれでも体治せない現実が重くのしかかってきます。
皮肉にもお金全然意味ないの痛感して... >>142さまのこだわり無くすと健康になるお話に、今は一番すがってます。 >>142
断食ってのは鬱病を擬似的、一時的に改善させる効果があるんだけど
それは身体がこのままじゃ死ぬと判断して、脳内麻薬をドバドバ出して、単に頭をおかしくさせるってだけの話
あまりにも強烈な傷みにはアドレナリン(これも脳内麻薬の一種)を出して不感にさせるとか、そういう類いの話と一緒
単なる肉体の物理的な防衛反応
本当に頭がおかしくなってる状態 >>506
>2重スリットの実験 https://www.youtube.com/watch?v=vnJre6NzlOQ
それは仏教的に見れば簡単なことです。
物理学(自然科学)というのは、「(観察する)人間があり、(観察される)外界がある」という
仏教的に言えば <迷いによる認識> が土台になっている世界なのです。
「見ている者と見られている物は同一である」という体験(これは対象化されないので、理論ではなく
体験なのです)から見れば何も不思議なことはないのです。
「この世はバーチャルリアルティである」などと言ってみても、そのように言っている <主体> は
常にその理論の外に存在することになるので、肝心の <主体> については何もわからないのです。
「悟り」を知らない物理学者たちがどのような理論を作り上げても、人間の本質は何も解明できません。
それがどのような理論であっても、それを述べている本人はその対象の外に存在しているからです。
その自分を対象化して考察しようとしてみても、考察を行なう自分が対象の外に残ってしまうのです。
(ですから、天才的学者が人間と宇宙に関してどんなに <合理的な> 理論を作り上げても、みんな私生活
では迷いや怒りや性欲などに振り回された <不合理な> 日常生活を送らざるを得ないのです。)
名古屋大学で量子力学の研究をしていた村上光照という人は、物理学によっては真理に到達出来ないことに
気が付いて禅僧となり、現在は道元禅師の教えを広める活動をされています。
真理を知りたければ、物理学のような煩悩による「知恵」ではなく、仏教の「智慧」を学ぶべきでしょう。 >>515
そのようなことは常識なのじゃ。
>物理学のような煩悩による「知恵」
煩悩による知恵ではなく、純粋な知的好奇心からなのじゃ。
おぬしは研究したことがないからわからないだけじゃ。 鬼和尚さん、死後から転生するまでの時間は個人差があると思いますが、
どのくらいですか?(こっちの世界の時間で) >>506 文明と言うものが人を真実に導くものならば最高の文明を達したといえるじゃろう。
そうでないならば無くてよいものじゃ。
その観察結果はただ単に人は自分の認識によって現実を解釈すると言うだけなのじゃ。
そうであるから観察によって現実が変っても不思議は無いのじゃ。
>>508 それによって今まで失った金や時間や信頼関係などを一覧表にして見えるところにはっておくとよいのじゃ。
さらに金をつぎ込むならばそれも足していくのじゃ。
泣いたりするようであれば、すぐなく情緒不安定になったと書き込むのじゃ。
そうすれば客観的に自分をみられるようになり、冷静になるのじゃ。
冷静になったら自分で決めればよいのじゃ。
>>516
純粋な知的好奇心ではなく、煩悩による知的好奇心なのじゃ。
認識の土台に無明があるのじゃ。
ハッタリを言っていないで仏教をきちんと勉強することじゃ。 >>519
>>>506 文明と言うものが人を真実に導くものならば最高の文明を達したといえるじゃろう。そうでないならば無くてよいものじゃ。
なるほど、確かに文明が終着点に至ったのだと言えますね。大変参考になりました。本当にありがとうございました。
>その観察結果はただ単に人は自分の認識によって現実を解釈すると言うだけなのじゃ。そうであるから観察によって現実が変っても不思議は無いのじゃ。
私の力不足で恐縮ですが、ちょっと仰っている内容を上手く噛み砕けません
「人は自分の認識によって現実を解釈する」ので、「例えば観察によって変ってしまうような現実」は、人の認識が及ばないから解釈も不可能である、という内容で合っていますか?
そうであるならばとても残念です。学者たちは観測者問題を未来永劫解決できないのですね……
まぁ、学問や科学なぞ、万能なはずはないと、わかってはいましたが、いざ具体的な話として突き付けられてしまうと、やはり残念、残念としか言えないです
>>520
数学や物理学の研究自体は、ほとんどパズルを解くような行為と同じなので、無明だとか悟りだとかは無関係だと思います
その副読本の類いは無明のなせるわざでしょうけれど >>521
>無明だとか悟りだとかは無関係だと思います
無関係どころか、根本的に関係しているのですよ。
https://www.youtube.com/watch?v=vnJre6NzlOQ
の続編の映像で「この世はバーチャルリアルティである」という話が出て来ますが、
仏教の立場から言えば、それも完全に誤まりなのです。
仏教的真実から言えば時間も空間も幻(まぼろし)ですから、無明の意識によって
とらえられた時間と空間を基礎にした学問的結論はすべて幻(まぼろし)になるのです。 湯川秀樹博士も晩年に自然科学ではなく中国哲学の思想によって空間概念をとらえ
直そうとしていたのは有名な話です。
湯川秀樹博士の時代に、もう既に常識的な時間と空間の概念は物理学においてさまざま
な矛盾を生じることが指摘されていたのです。 >>522
単純に僕は科学が好きなので、その限界を目の当たりにするのは、一抹の寂寥感を覚えるという感じです
こんな説明でよろしいでしょうか?
>>523
「その副読本の類いは無明のなせるわざ」、と先に書きましたよね?
学問研究自体のモチベーションは、それが幻かどうかは関係なく、論理ゲームをやっていたいってことだと思いますよ
ゲームを終えた後で、その結果を解釈しようと思ったら間違えちゃった、という話で、ゲーム最中の態度は無明だとか無関係だと思います
宗教思想を否定してやろう、みたいなモチベーションで研究に取り組んでいては、絶対に一流の研究者にはなれません
(そもそも、宗教と科学は相反するわけではありませんし)
少し学問を敵視しすぎというか、否定ありきで考えていませんか? >>525
「・・は無明のなせるわざ」と書いているが、君は「無明」の意味も知らないでしょう。
自然科学研究の「モチベーション」ではなく、自然科学研究の「内容」のことですよ。
>>515 で書いたことが理解できれば「科学」と「宗教」の違いがわかるはずです。
科学も粗い段階では常識的な時間・空間の概念で済みますが、厳密になればなるほど
(極微になればなるほど)それでは矛盾が出て来るのです。
「2重スリットの実験」でも、大きなスリットに野球の球(や卓球の球)が通過する
場合には何の矛盾も起きませんが、電子のような極微な物体が極小のスリットを通過
する場合に常識とは矛盾する現象が現われて来ます。
昔から超一流の科学者ほど晩年には宗教に関心を持つ人が多かったのは、自然科学の方法
では究極の真実には至れないことを感じるようになるからでしょう。 >>526
貴方は科学の内容の話をしているのですね。私は科学者の態度の話をしています
>>520の>純粋な知的好奇心ではなく、煩悩による知的好奇心なのじゃ。
という部分や
>>515の>真理を知りたければ、物理学のような煩悩
という部分に対するレスですから。
物理学を研究することは“煩悩”と蔑まれるほどの悪徳なのか? と自問自答した結果ですので、
物理学研究者の態度はそもそも(真理を知りたいからではなく)ゲームを楽しんでいるだけであり、よって悪徳ではない、という旨の発言をさせていただきました
貴方の挙げられた学者たちは、時系列で言えば、物理学が楽しくて学び始め、極めていくうちに、段々と真理が知りたくなってきたので、宗教に傾倒するようになったのでは?
ですから、物理学を学ぼうという態度は“純粋な知的好奇心”、物理学で真理を表そうという態度が“煩悩による知的好奇心”なのではないでしょうか?
違うのであれば遠慮なくズバリお教えください
と、返信を求めておきながら大変恐縮ですが、今からしばらく私は書き込みできませんのでご容赦ください >>527
>物理学を研究することは“煩悩”と蔑まれるほどの悪徳なのか?
確かに <煩悩による> というのは言葉が適切ではなかったと思います。
その点は訂正させて頂き、お詫びしたいと思います。
私が意図したのは、煩悩の元である <無明> による知的好奇心 という意味だったのです。
どんなに純粋であっても <無明> から出発している、と言いたかったのです。
<無明> の状態と <無明が晴れた状態> とでは、時間・空間認識が大きく異なるのです。
無明の状態での科学研究は常識的な時間・空間の概念を元にした研究にならざるを得ないので、
厳密な研究(極微の研究)になるとさまざまな矛盾が出て来て行き詰ってしまうのです。
「自我」 と 「自我と対峙する外界」 を分離したものとして見て、外界や現象を 「対象」 として
研究するということは、<無明> の意識がとらえた時間・空間の概念が前提となっている為に、
<無明が晴れた状態> から見る世界とはまったくかけ離れた世界観が現われてしまうということ
を言いたかったのです。ですから、「科学者の態度の話」 ではなく、その 「研究内容についての話」
になる訳なのです。 何を書いてるのか、わからんのじゃ。
3行内にまとめるのじゃ。 >>512
偶然の災いと言うものはなくすべて自分の心が原因なのですか? >>528
なるほど、仰りたいことは(私なりにですが)飲み込めたと思います
その上で敢えて口を挟ませていただくのなら、産まれた瞬間は人は誰しもが無明(お釈迦様のような例は極々稀。また、正覚であるのなら無明に回帰することはない)ですから、
「科学が無明から出発する」のは無理もない、必然的なことだと思います(科学でなくともほぼ全ての行為がそうだと思います)
無明から出発した上で、世界の真理を知りたいという欲求が生まれるならば、
それは正覚に関心を持つきっかけになりうるのですから(もちろん科学を追究すれば分かると勘違いしてしまう者も多く現れますが)、
やはり科学に価値はあるのだと、私が思いたいのだという話です
我が儘を失礼いたしました 鬼和尚、こんにちわ。
いつもありがとうございます。
この人の体験はサマーディでしょうか?
死ぬ気で瞑想していたら別人になってしまったんだが
(カオスちゃんねる)
http://chaos2ch.com/archives/4619752.html 体験後は、以前とは違うにしろ、自我が戻ってしまったようです。
精神を崩し精神科の薬を飲んでいるそうです。
師も無く事前知識も無く、
悟りを求めるでもなく、
このような深い瞑想に入った者は、
精神をおかしくした、と思ってしまうのでしょうか? このような体験をした人が、巷では「悟りを開いた」と思っている人が多いのでしょうか?
また、認識を滅したわけではないので、自我が戻っているということは、輪廻もあるのでしょうか? >>531
>やはり科学に価値はあるのだと・・
そうですね。科学は形而下の問題に対しては非常に役に立つので、その方面では大いに価値があると
言えますね。ただ、それによって形而上の問題も解決できると考えると行き詰まる(壁にぶつかる)
ということですね。 鬼和尚、覚者は何故、他の人を強制的に目覚めさせる事が出来ない(出来るけどしない?)のでしょうか?
また、悟りを客観的に観察する事が出来ないのは、何故なのでしょうか?
私は主観を超えたいと思っているのですが、もし自分がサマーディの体験をする事が出来たとしても、それが幻覚のようなものではないかなど、自らへの疑いが晴れないような気もするのです。 >>536
おぬしはサティもサマーディも経験してないのかのう。
疑うようなものではないのじゃ。
体験じゃからのう。
精神的に切羽詰まった状態になれば、誰でも起こり得るのじゃ。 >>530
災いとは災いと認識したもののことなので何が起きれば災いとなるかは固定的に考えることはできない。
つまり認識の問題だ。同じ事が起きてもそれを災いと感じる状態から全くそう感じない状態までありうる。
全てが偶然起きていてもそれを災いと捉えるなら結局は同じこと。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています