【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】38 [無断転載禁止]©2ch.net
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*悟りを開いた人には偉大な知恵があるらしいわ。
*生活のことなんでも聞いてみましょう。
*あるゆる悩みを聞いてみましょう。
*罵倒、批判だけのレスはスルーよ。
<前スレ>
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ37
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1487255959/150 喝をいれてくださり、ありがとうございます。
確かに半端者が一番危険なうえ、何も得ることはできません。
修行に励みます。 鬼和尚様、間違った方法で修行をしていたこと、
おごり高ぶって罪を犯したことをお許しください。
これから誠心誠意気を付けていきます。 そして、そのような行為はもう二度といたしません。
本当に申し訳ありませんでした。 鬼和尚は悟りを開いてからは医者にも歯医者にもかかったことがないのですか?
今後、虫歯になっても歯医者に行くことはないのですか? 鬼和尚、座禅を始めて1年半が経ちました。もうそろそろ悟れますネ。 >>375 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
>>377 赦すのじゃ。
またおいでなさい。
>>378 無いのじゃ。
塩で磨けば虫歯にならないのじゃ。
いかないじゃろう。
>>379 おぬしのやる気次第なのじゃ。
やる気があれば今夜にも悟れるじゃろう。
恐れがあれば後退するじゃろう。
全ておぬしの思うままなのじゃ。 悟るまでのコツ、悟りやすくなるコツってありますか? いずれ肉体は滅びて愛するものや大切なものと別れなければならない。
しかし、共に過ごした思い出や記憶こそに意味がある。
一瞬一瞬の幸せを噛み締めて人生を生きる価値がある。
多数のポジティブな人々はこのように考えてると思います。
修行者はこういう観点では無いのですか?
死が全てを奪い去っていくから? >>381
吟味だ
>>382,383
どうとでも >>381
やっぱ瞑想と観察じゃないかな。
>>382
修行者というのは要するに凡夫なのでそういう風に考える人も居るだろうしそうでない人も居るだろう。
ただ、サマーディーとか一回でもなっちゃうとそんな妄想はとりあえず吹き飛ぶと思うけどな。 原因を観察していると、
未来への不安が強い場合はどう観察したら良いでしょうか?
例えば、人に攻撃されるかもしれない、という恐れなどです。
原因は過去にいじめられたりしたこともあると思いますし、
それに、直接体験してはいないけど見聞きした話(事実でもそうでなくても)
からの恐怖もあります。
もしその記憶が無ければ…と思っても、それが未来に起こるかもしれないとか、そのことを未来にでも知ったら不安が生じるだろう、と思います。
何が起こるかわからない、ということがそもそも怖いです。 >>381
どんな方法でも真剣に徹底的にやる
観察するなら可能な限りそれだけそればかりやる
疑うなら頭の先から生じる感覚まで徹底的に疑う
考えるなら純粋に余計な主観なく単なる思考のまま突き詰める
何もしないなら完全に死んでるのと同じくらいこのままもう死ぬくらい何もしない
適当にやってダメだからって他の方法試すんじゃなくひとつの方法やるなら徹底的にやる
それ以外だと常に自分(自分の内面)に目を向けとくこととかかな
そうすれば気づきは勝手に起きてくる >>390
参考にします。
ありがとうございます。 >>389
今○○と思っているな、今○○と感じているな、と観察する。
そして「これらはエゴなんだ」と洞察する。
そう思ったとたん、私の場合は自分を笑っておわりです。 (自分の)おもいを観て、そのエゴに気付き、エゴを笑う。
うん。多分そう。やっかいなおもい、その全ては自分のエゴが核心なんだ。 鬼和尚、今日も89歳の先輩の話を聞いてあげました。
私は間違いなく天国に行けますね? 「自分」があるうちはエゴでしょうか。
無心で居たり無我でしていたりするのは覚者から見るとどんな評価なのでしょうか? 自分を不幸にさせるような気持ちが働いているときがあります。
こうしたら良くないだろうな、って微かに分かりつつ、そのようにしてしまいます。
塩を入れ過ぎたり、忘れ物したり、人に誤解されたり、どこかで分かりつつもそうしてしまい、「やっぱりこうなった」という感じです。
すべては気分次第な気がします。
気分が良い時にはそのような事にも比較的気を付けられるのですが、気分が酷い時は、「お前(自分)なんかが」という感じで、気分転換さえ自分に許させないような感じです。 >>392
エゴとはなんですか?
いまいち自我とかエゴとか、何なのかわかりません。 >>398
エゴとは自分の欲や望み
自我とは自分の煩悩
ほぼ同じ様ですが、私の中ではニュアンスが微妙に違いますかね。 >>397
心には天使と悪魔がいると言いますが、悪魔の声に耳を貸してしまうのでしょうね。
やはりそこは自分の意志でもって、良い方向へ軌道修正することが必要でしょうね。 >>381 死ぬ気でやれば悟りやすくなるじゃろう。
もはや死んでもよいと思えば悟りもやってくるのじゃ。
>>382 思い出や記憶もなくなって行くものじゃ。
昔の写真などを見ると思い出せない事も多くあって驚くじゃろう。
それもまた滅していく性質のものなのじゃ。
今ここに永遠の境地もあるのじゃ。
>>389 それが過去の経験を未来にあてはめているだけであると気付くのじゃ。
その働きを完全に観察できれば滅していくのじゃ。
意味が無いと気づくからのう。
>>395 いけるじゃろう。
更に善事を積むとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>396 エゴでも無く、エゴで無くもないのじゃ。
ただの観念なのじゃ。
無評価なのじゃ。
何も評価しないのじゃ。
>>397 その原因を心の中に追究するのじゃ。
親に言われたとかの原因があるじゃろう。
その原因からその働きがあり、原因が無ければその働きも無いと心を観察するのじゃ。
そうすれば消えるのじゃ。
なーんか鬼和尚の俺への返答がおかしい。
俺の質問がアレなのか鬼和尚の俺への気分がアレなのか正当な答えなのか。
観念を自分で作っちゃってるってことですね。
ま、わかりました。(・ー・) 自分でもエゴでもそれが在るとか無いとか○○だとか思うのは全部観念だってことでしょ
何かを何かだとみなす自分を作ってそれに同一化してしまっているてことでは お釈迦様は子を望むなと言ってるのに、鬼和尚はナンパしろ、というのはおかしいのではありませんか? >>389
どれも等しくある
ま
備えて憂いを無くして吉
>>396
関連付けがある
特に何も >>406
それ何の経典のどこに書いてあるんだっけ?
どこかで見たような気もするんだがすっかり忘れた。 これか。
84、自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。
邪まな仕方によって、自己の繁栄を望んではならぬ。
(道にかなった)行いあり、明らかな智慧あり、真理に従っておれ。
これは「邪まな仕方によって、自己の繁栄を望んではならぬ。」が肝心な所じゃないのか?
邪でないなら構わんと思うのだが。 おまえら、結婚や恋人・友だちには気をつけろ!
ガイ児に触るとキショイで。
甘ったるい恋愛小説も、ガイ児がからむとオカルトになっちまうww
健常者はガイ児に触るな。
★彩を愛した者 (巷に増殖中のガイ児の話)★
http://slib.net/72935
上松煌(うえまつあきら) 作
プロフィール
http://slib.net/a/21610/ 家族や過去の友達への愛着や情や記憶が薄れ消え無に帰すのはいいことですか?
結局は自分一人ですか?人間としては非常に虚しいようですが、悟ると一人でも全く平気ですか? >>403 そのようなものじゃ。
観念に囚われず実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>406 ナンパしても子が出来るとは限らないのじゃ。
望まなくても子はできるのじゃ。
不思議なことじゃ。
奇跡じゃな。
>>413 苦が少なくなるからよいことじゃろう。
一人ですらないのじゃ。
自分という単位もないのじゃ。
悟れば一人も居ないから平気なのじゃ。 >>414
死ぬ前には、それ以前にも全ての愛着や記憶を消去していくことなのですね
生まれて来てから家族や人間関係の愛情、記憶を大切にして、写真に残したりするのが
人間ですがそれは自我を維持するためで、それを否定するという事になるとじゃあ最初
から生まれてこなければいいじゃないか、という思想も出ますが一理ありますか 自分の外側の人や世界への愛着や期待を捨てられないことが輪廻の原因にもなると
だとしたらこの世で外側のものにひどい目に遭って懲り懲りする方がいいのでしょうか >>415
>生まれて来てから家族や人間関係の愛情、記憶を大切にして、写真に残したりするのが
>人間ですがそれは自我を維持するためで、それを否定するという事
それは小乗仏教じゃな。
しかし、大乗仏教はそのようなこの世の現実を大切にするのじゃ。
なぜなら、悟りの土台(土壌)はこの世の現実にあるのであり、それを離れては
悟りも生まれないからなのじゃ。
幸せな家族との生活を大切にしたいなら、大乗仏教を選ぶとよいのじゃ。
しかし、もう死が近く、身寄りもないような状況であるなら、小乗仏教を選ぶ方が
早く解脱の境地を得やすいのじゃ。
どちらを選ぶかは、一人一人が決めればよいのじゃ。 >>414 鬼和尚、答えになっていません。
もう一度尋ねます。今度はきちんと答えて下さい。
お釈迦様は子を望むなと言ってるのに、鬼和尚はナンパしろ、というのはおかしいのではありませんか? お釈迦様の弟子に伴侶いた話あったね。
第23章 象
328 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、
あらゆる危機困難に打ち克って、こころ喜び、念(おもい)をおちつけて、ともに歩め。 >>416
ひどい目にあっても執着心がそのままなら恨んで余計に執着しちゃうんじゃないかな。 苦手な場に行かなければならない時など、即効性のある術がありましたら、教えて下さい。
苦滅の法と、数息観(さぼりがちでした、がんばります)を続けておりますが、まだまだ精進が足りないようです。
対人の苦手だけでも早く何とかしたいと思っていますが、根が深く絡まっているようで、なかなか取れません。
もうすぐ保護者の集まりに行かねばならなく、とても憂鬱です。これからもそうゆう場がたくさんあります。 >>421
良く思われようとしないで、保護者はカボチャだと考えて話せばいい。 第六感というのは実際に存在しますか?
予知能力とまでいかなくても、虫の知らせとか何かしらの予感など
五感以上の何かは存在する気がします。
こういうのは仏教でいうところの智慧は関係しますか? 子を「望むな」って話で作るなって話じゃない
望まず作ってもいいし望まず女性と接してもいい
食でも睡眠でも生活でも望めば自我の欲だし望まず行えばただの行為 >>415 生まれなければ悟りを得ることも出来ないのじゃ。
記憶が総てではないのじゃ。
記憶も出来ては消えていく泡のようなものじゃ。
そのために生きることがあるわけでもないのじゃ。
>>416 そうともいえるじゃろう。
全てのものごとが執着によって苦になると気付くだけでもよいのじゃ。
世間には真の安楽はないとわかるじゃろう。
>>418 お釈迦様はそのようなことを言っていないのじゃ。
もっとよく経を読んでみるのじゃ。
前にもそのような疑問に答えたのじゃ。
>>421 自分は誰とでも仲良く楽しく会話出来るとか唱えるとよいのじゃ。
相手をミッキーマウスとイメージするのじゃ。
好きなアニメのキャラクターでもよいのじゃ。
そうすれば楽しくなるじゃろう。
>>423 あるじゃろう。
それは神通による智慧なのじゃ。
他人の心がわかる他心通とか、前世がわかる宿命通とかじゃな。
最近の鬼和尚の説法は説得力がない。
ただの繰り返しだ。
対機説法にもなってない。
社会の現実が鬼和尚にはわかっていない。 解脱した人に社会の現実云々言っても馬耳東風でしょう 他人の痛みを直視できません。
どこか共感能力がないところがあります。
他人の気持ちがわからないし、自分の身に置き換えて考えることができない。
例えば不倫や浮気で傷つく人の気持ちを考えられない。
他人のプライバシーを侵害することが悪いことだと言われてもピンとこない。
人の秘密をこっそり知ると妙にドキドキして興奮して快楽を感じます。
その時、善とか悪とかいう気持ちはどこかにすっ飛んでいます。
サイコパスなんでしょうか?
人の嫌がることをしてはいけない、と言うことを表面的にしか理解していません。
家庭環境も良くなかったし、学校生活もいじめ暴力を受け続ける悲惨な日常だった。
自分の心の痛みでいっぱいの毎日のせいか、ひん曲がってしまったのだと思う。
もはや地獄へ行くより仕方ないんでしょうか。 体がだるい。死にそうだ。生きる気力もない。
64歳だが生きる目的が無くなった。天涯孤独だ。 >>428
そこまで自分で気づいたのならなんとかなるのでは?
とにかく今後は人を傷つけるようなことしないように努めれば良い。
そうしないよりかはましになるだろう。
>>429
鬱または鬱症状を起こさせる病気なのでは?
何れにしても医者に相談した方が良いと思う。 >>421
念頭から外そう
>>428
そうでもない
そうではない
ま
プログラムしよう
で
お前はまっとうに生きて吉 今まで逃避して来たものを、逃げない事はとても苦痛なことだと思います。
何が苦痛なのかも分からないくらいぐちゃぐちゃな想いで泣いたりします。
自分の大切なものを壊されたり、そんなイメージが、あります。
私が持たねばならなかった私という人格や存在を他人が粗末に扱ったりする時に、私は私をどう思えば良いのでしょうか。
修行を進める過程において、そういった苦しみの時期というのは、あるのでしょうか?
あるとしたら、どのように乗り越えるべきでしょうか。 和尚様
正覚についていろいろ当たって調べてみたのですが、
これって「(原理主義的な意味での)唯物論の実践」と理解してもよろしいのでしょうか?
返信求めます。
よろしくお願いいたします。 >>428 それはただ経験が不足しているだけなのじゃ。
誰でもそのようなものじゃ。
おぬしが特別でもないのじゃ。
そのような者でも悪事をせずに、善事を重ねればよいところに行くじゃろう。
今の世でも福楽は付き従うのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>429 おぬしのようなものこそ悟りを得るために修業したらよいのじゃ。
ヨーガとか気功法とか西式健康法とかをするとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>433 自分は理想的な者と想えばよいのじゃ。
あるものも居るじゃろう。
人の道はそれぞれ違う故に他人と比べても無意味なのじゃ。
おぬしのような者こそ心を整えて真の安楽に近くいけるかもしれんのじゃ。
ただひたすらに心を整えたらよいのじゃ。
いつかそのような苦が自分にあったことを笑いながら思い出せる日が来ると想って進むのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 >>434 違うのじゃ。
覚れば何の論もないのじゃ。
>>435 その時は一切の観念が消えていた故に、年もわからなくなったのじゃ。
もはや年はないのじゃ。
>>417>>425
ちょっと良く分かりません、生まれた時点で苦の原因である肉体と自我があるわけですが
だからこそ悟る必要があると
それを分かったうえで肉体を生み出すこと、この世に意義があるというんですね
という事はこの世や肉体の前に既に、悟らなければいけない自我があるという事ですか >>435
悟りを開いたのは20代じゃろう。
現在は50代の中頃じゃろう。 >>437
即身成仏なされたのかた自身は、もちろんそれが唯物論であるとは認識しておられないでしょうし
唯物論を実践しよう!などという目的意識なぞ確かにもってのほかであると存じます
しかしながら、第三者が客観的に調べて、みえてきた正覚の状態の実態像は、唯物論のそれと等しいものと解釈できると思うのです
「全てのものは物質で構成されている。人間の意識や意志、自我さえも肉体という物質が見せる幻にすぎない」という唯物論
これはまさしく、色即是空の精神そのものではないでしょうか?
唯物論の実践=悟り、によって得られる真理とは、自分とは物質であり、世界全てもまた物質なのであるから、世界と自分は同一である、という感覚なのでは?
「菩薩様と同一存在になれる」というのも、菩薩様は悟りに至り、世界という物質自体と同一になられたので、我々が悟り、世界と同一存在であるという感覚を得れば、
「間接的に、自分=世界=菩薩様、という等号が成り立つ」という解釈ができるのです。
いかがでしょうか? 和尚様
間違っているなら、できれば具体的に違う箇所をしてきしていただきたいと思っております。
大変恐縮ですが、どうかよろしくお願いいたします。 >>438 >>440
>間違っているなら、できれば具体的に違う箇所をしてきしていただきたい
最初から最後まですべてが間違っておるのじゃ。
おぬしの間違いの根本は、(多くの者がそうであるが) 迷いの状態にいながら正しい理解が得られると
思っている点なのじゃ。
仏教の正しい理解というものは迷いから覚めた時にわかるものであって、迷いの状態でいくら考えても
わからんのじゃ。
迷いの意識の中で何かがわかったと思っても、それは錯覚の知的納得に過ぎないので、自分自身は何も
変わっていないことに気付くじゃろう。目覚める以外に真実を知る方法はないということじゃ。
>>440 のような自分勝手な思考を一切やめて、ひたすら仏道を学び修行することが大切なのじゃ。 >>437
歳もわからなくなるほど観念が消えると、生活に支障はありませんでしたか?
悟ってしまえば肉体や生活のことなどもはや気にならなくなっていると思いますが、
悟りの前後の期間、数年くらいは、
普通に仕事をして社会生活を送れるような状態ではないということでしょうか?
仕事をし家庭を持ち社会での生活を維持しながら修行をしている者は、鬼和尚のように認識を滅する大悟を目指すのは難しいでしょうか。
在家の者は、
どの悟りの段階まで行けるのでしょうか。 >>442
出家しなければ悟りは難しいじゃろう。
西行のように妻子を捨て、一人諸国を遍歴しながら修業に励むのじゃ。 >>433
構わないよう
あるのが標準だ
自ら解体しよう >>441
和尚様
失礼ながら、誤解をなされているようなのですが、私は、自身が悟りに至ろう、悟り至りたい、などという志は、現在のところ、はっきり申しまして、ございません
悟りへ至るための修業過程を調べ、そして、悟りに至ったかたの感覚を伝聞として聞くにおよび、
それを私は「解釈」した程度にすぎないのです。もちろんのことながら、解釈しただけで「実践」ができるわけもないことは重々承知した上であります。
また、悟りというものを否定したい、などという不遜な下心も決してございません。それは誓って、声を大にして申し上げます。
私が和尚様にお尋ねしたいのは、その解釈の、どういった点が間違っていて、または、合っているのか? ということなのであります。
どうか返信よろしくお願いいたします。 >>440 >>445
ワシは誤解などしておらんのじゃ。
>その解釈の、どういった点が間違っていて、または、合っているのか? ということなのであります。
根本的に言えば、合っているところは一つもないのじゃよ。
なぜかと言えば、悟りは「我」が消滅した世界の話であるから、「我」があることを前提にして
考えたことはすべて妄想なのじゃ。
>私は、自身が悟りに至ろう、悟り至りたい、などという志は、現在のところ、はっきり申しまして、ございません
それなら、なぜ仏教に関心を持つのじゃ?
悟らなければ時間の無駄になるだけじゃろう。
>悟りへ至るための修業過程を調べ、そして、悟りに至ったかたの感覚を伝聞として聞くにおよび、
それを私は「解釈」した程度にすぎないのです。
そんな「解釈」を考える暇があれば、瞑想をしたり、心を空しくして仏典を読むことが大切じゃな。
頭を使いたいのなら、禅の「公案」などを考えればよいじゃろう。
>悟り、によって得られる真理とは、自分とは物質であり、世界全てもまた物質なのであるから、世界と自分は同一である、という感覚なのでは?
エタノールも物質でありメタノールも物質であるから、エタノールもメタノールも同一である、などと
考える者がおるじゃろうか? エタノールの代わりにメタノールを飲めば失明して後悔するだけじゃろう。
「ともに物質であるから同一」なのではないのじゃ。すべての存在は自己の意識内の存在であることに気付く
ことが仏教の入り口であって、対象的に見て同一だと考えているのではないのじゃよ。
(そもそも、世界が物質であると考える唯物論というのは仏教とは対極にある考え方なのじゃ。) >>445
仏教というのは、世界に対する対象的な理解ではないのじゃよ。
対象的な理解というものは、その内容がどのようなものであれ、それを見ている主体が残るじゃろう。
その主体を対象(客体)にすれば、その瞬間にそれを見ている主体が生じることになるのじゃ。
そして、真に問題であるのは対象(客体)ではなく主体なのであるから、対象的な理解によって真実を
知ることはできないことがわかるじゃろう。 >>446
>なぜかと言えば、悟りは「我」が消滅した世界の話であるから、「我」があることを前提にして考えたことはすべて妄想なのじゃ。
はっきりと申し上げます。唯物論も「我」の存在は認めておりません。
>それなら、なぜ仏教に関心を持つのじゃ? 悟らなければ時間の無駄になるだけじゃろう。そんな「解釈」を考える暇があれば、瞑想をしたり、心を空しくして仏典を読むことが大切じゃな。
悟りを客観的に解釈したいのです。悟りに至れば主客一体となった純粋経験となりましょう。
したがって、無明における、悟りに対しての客観的な観点が喪失してしまいます。
私は無明の今のうちに、客観的な観点で悟りの解釈をしておきたいのです。
>エタノールも物質でありメタノールも物質であるから、エタノールもメタノールも同一である、などと考える者がおるじゃろうか? エタノールの代わりにメタノールを飲めば失明して後悔するだけじゃろう。
それは言葉の綾でございます。「同一」という言葉を私は用いましたが、「同格、あるいは同価値、等質、同等、同程度、または、同存在の一部分」などといったニュアンスとしてご理解くださいませ。 >>446
>「ともに物質であるから同一」なのではないのじゃ。すべての存在は自己の意識内の存在であることに気付くことが仏教の入り口であって、
唯物論においても、世界というものは、肉体という物質が感知し、それを生体信号として送ってきて、自己の意識内に投影された存在にすぎない、という考え方でありますから「すべての存在は自己の意識内の存在であること」に矛盾しません。
>対象的に見て同一だと考えているのではないのじゃよ。
誤解であります。その考えは無明の私の観点から見た分析であり、正覚の者がそう考えている、といった意図ではございません。正覚した者は考えるのでなく、「体験」しているのですから。
>(そもそも、世界が物質であると考える唯物論というのは仏教とは対極にある考え方なのじゃ。)
前述のように、共通項があり、矛盾がないように思えますから、悟りとは無明の者の語る唯物論で解釈可能なのではないか? という試みをしているのであります。
どういった点が対極的なのでございましょうか?
お手数ではございますが、返信をお願い致します。よろしくお願いします。 >>448-449
>唯物論も「我」の存在は認めておりません。
それは理屈の上だけの話じゃろう。その証拠に、唯物論の信奉者はみな「死」を怖れて
おるじゃろう。それは心の底では 「我」 があることを認めているからなのじゃ。
理屈の上では認めていないと言い張っても、その信奉者はちゃんと 「我」 の存在を認めて
生きているということなのじゃ。
>私は無明の今のうちに、客観的な観点で悟りの解釈をしておきたいのです。
無明というのは夢を見ているようなものじゃから、その内容(悟りの解釈)はどのようなもの
であっても空しいものじゃ。価値があるのは夢から覚めることだけなのじゃよ。
>唯物論においても、世界というものは、肉体という物質が感知し、それを生体信号として送ってきて、自己の意識内に投影された存在にすぎない、という考え方でありますから「すべての存在は自己の意識内の存在であること」に矛盾しません。
>>447 で書いたことがまったく理解できていないようじゃな。
>悟りとは無明の者の語る唯物論で解釈可能なのではないか? という試みをしているのであります。
そのような試みをするのは悟りを得たい為じゃろう。悟りにつながらなければ空しいじゃろう。
思索することが好きなのであれば、龍樹菩薩の「中論」などを読むのがよいじゃろう。
龍樹の哲学は学ぶ者を悟りに引き入れる力を持っているのじゃ。
>どういった点が対極的なのでございましょうか?
西洋では唯物論の対極は唯心論・観念論じゃな。仏教は唯心論・観念論の極致と言ってもよいのじゃ。
ただ、西洋哲学の唯心論・観念論とは全く違っていて、それが真実だとして説いているのではなく、
学ぶ者を悟りの境地に引き入れる為の思想(手段)としての説明なのじゃ。
唯物論は唯物史観につながって行ったように、個々人を「ものを生産する <ロボット> 」として見る
考え方が根底にあるのじゃ。それは、一見、仏教の「無我」に近いように見えるが、その実は仏教とは
正反対であって、個々人を生き生きとさせるベクトルを全く有しない観念の妄想に過ぎない理論だった
ことは共産主義・社会主義の歴史がみごとに証明しておるじゃろう。 わしは長文は読まんのじゃ。大体が中身がないからじゃ。 >>450
すいません。少し頭が疲れてしまいました
失礼ながら、返信が滞ってしまうことをお許しください
ひとまずは、おっしゃっていただいた内容を真摯に受けとめ、唯識論に関して理解を深めたのちに、またお話しを拝聴したく存じます。
よろしくお願いします。
その前にひとつ、誤解を解いておこうと思います。すいませんがお聞きください。
>それは理屈の上だけの話じゃろう。その証拠に、唯物論の信奉者はみな「死」を怖れておるじゃろう。
誤解とはこのところであります。私はまさしく「理屈の上だけの話」をしているのです。「唯物論者=正覚の者」なんぞとは、一切、これっぽっちも考えてはおりません。
私は「正覚の者=唯物論の体現者」なのではないか? と推測しているのです。もちろん「それが唯物論である」などという認識は全く不必要なのです。
>無明というのは夢を見ているようなものじゃから、その内容(悟りの解釈)はどのようなものであっても空しいものじゃ。価値があるのは夢から覚めることだけなのじゃよ。
>そのような試みをするのは悟りを得たい為じゃろう。悟りにつながらなければ空しいじゃろう。
ご忠告大変感謝いたします。しかし、失礼ながら、今しばらくの間は、もう少しだけ愚かながら、主観的なこの無明の価値を追ってみたいと思います。申し訳ありません。
よろしくお願いいたします。 >>438 おぬしの自我も生まれて育つ過程でできたものじゃろう。
生まれる前は自我は無いのじゃ。
自我が悟らなければならないということはないのじゃ。
無いものが悟れるはずも無いのじゃ。
ただ個我の観念を持つ意識が解放されるのみなのじゃ。
>>440 肉体も無いのじゃ。
空間とも同一なのじゃ。
菩薩は悟っていない修行者なのじゃ。
なにやら混乱しているようじゃのう。
>>442 いろいろあったようじゃ。
わしは何も気にしなかったがのう。
人によってはそうかもしれん。
やる気があれば簡単じゃろう。
仕事はやめてしまうかもしれんがのう。
やる気があれば誰でも大悟徹底できるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。 >>453
ではわざわざないものが生まれて解放する過程が特に必要ではないですよね
生まれてしまった以上仕方ないですが、それも悟れない自我が輪廻転生しているんじゃないですか? 自分の性的イメージが極度に歪んでいます。
特に女性に対する認知が歪んでいて、どこか差別的な意識があります。
昔、女子に虐められたせいか、女性を征服して屈服させたいのかもしれません。
イヤがってるかもしれないのに「それくらい良いじゃない」とか軽く考えてしまいます。
妄想が肥大してて、そのイメージでしか興奮できない
アダルトコンテンツを見る時間も多いです。性的な情報に触れるのも早かった。
他人に不快な思いをさせるタイプの変態だと思う。
自分の快楽優先でバレなきゃ何してもいいやって、どこかでそう思ってる。
きっと良くないことが起こりそうなので、歪みを矯正したいんですけど治りますか? 悟りを得ると、
こうして感じたり考えたりする存在としてはあれなくなると思うと、それはそれで少し寂しいような気もします。
自分は人間だったとか、悟りを得たとか、そういった記憶も全て無くなるのでしょうか?
悟りを得なくても、自然に無くなってしまうものかもしれないですが…。
また何かに産まれて、どうなるか分からないのも、恐ろしいことです。
(悟りを得なければ何が何かもわからないまま、夢の中で輪廻の渦に翻弄され、悟りを得られる機会がまたすぐに来るとも限らず、長い時間、苦の中に放り込まれるかも知れない。)
悟りを得たら、無のような感じでしょうか?
思考や記憶も自覚も無く自他も無く時間も無い、永遠の至福としてあり続ける、そこではあるとかないとかも消失して、あるとも言えない状態のように思えてしまいます。 >>455
同じような趣向の人とお付き合いできれば問題ないと思います 鬼和尚は何度かダンマパダを経典として勧められていたかと思います。
本格的な修行者だけでなく仏教の教えを指針に生きようとする在家の者にとっても
最も勧められる経典はやはりダンマパダでしょうか?
岩波文庫の心理のことば(ダンマパダ)には感興のことば(ウダーナヴァルガ)も
収められていますが、こちらも同じように役立つものでしょうか? >>454 必要が無くとも起こるのじゃ。
自我は輪廻しないのじゃ。
>>455 それも原因から観察すれば治るじゃろう。
いじめられた時の怒りが原因かもしれん。
或いはもっと昔の母親が理解してくれないこととかが原因かもしれん。
そのような原因から歪みがあり、原因が無ければ歪みが無いと観察すれば治るじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>456 記憶はあるのじゃ。
少し減ったりするがのう。
必要ではない記憶は捨ててしまうのじゃ。
悟りを得たら無我であり、無認識であるから全てなのじゃ。
天も地も山も川も海も宇宙も全てなのじゃ。
全てが全てと合一するのじゃ。
人の考える至福を超えた至福なのじゃ。
>>458 そうじゃ、善事を積む事が教えられているからのう。
例え悟りを求めなくとも善事を積んでこの世で福楽を得て、死後には善い所に生まれることもわかるのじゃ。
ウダーナヴァルガも大体同じことが教えられているのじゃ。
善事に疑問を持った時などに読み返してやる気をもりかえすとよいのじゃ。
そのように役立つじゃろう。
>>459 赦すのじゃ。 >>460
必要がなくとも起こっているように思えるのが幻想で、それがなければ、生まれなければ
悟りがないとはおかしいと思えます
徹底的に幻想が必要としない、ない、と言うのが悟りなら
輪廻しているのは自我以外の何なのですか?いい所や悪い所に生まれ変わったりして悟れないでいるのは 魂って単語だけでも人によって捉え方は様々ですね。
霊魂、観念、意識、生命力、本質。
魂って何でしょうね。 >>465
国語辞典で調べるのじゃ。
魂なんていう紛らわしい言葉は使わない方がよいのじゃ。 >>464
おぬしも国語辞典で調べるのじゃ。
次に、鬼和尚のブログを読むのじゃ。
それでもわからなければ、尋ねるのじゃ。 和尚様
もしも全人類が正覚に至った場合、人間社会はどうなるのですか?
共産主義は崩壊し、資本主義も限界が見えてきた現代、理想郷の在処が知りたいのです
皆が智恵を得ているわけですから、とりあえず民主主義は意味を失うとして、社会主義も“人間社会”を想定しているので喪失しますよね
より良い方向に向かう〜とかそういう言い方ではなく、できうる限り具体的にお教えいただけたなら幸いです >>462 ナッシングじゃ。
>>463 おぬしがおかしいと思っても思わなくても幻想は幻想なのじゃ。
輪廻しているというのも幻想なのじゃ。
個我があると認識する者にのみ、輪廻もあると幻想が起こるのじゃ。
そして自分という者があるという幻想も起こるのじゃ。
自らの本心を観察して確めるのじゃ。
>>464 悟りとは幻想の観念を滅し、自我を滅して真実に回帰することなのじゃ。
観念があり、自分があるという認識がある限り一切は苦になり、延々と続くのじゃ。
自我を滅し、一切の観念を滅して真実に立ち返って永遠に安楽になるのが悟りなのじゃ。
>>465 観念なのじゃ。
存在しないものに名前を付けているだけなのじゃ。
わかりやすく輪廻するものがあることを説明するのに作成しただけなのじゃ。
>>468 社会はもとから無いものじゃ。
ただ人間の集まりをそのように名づけただけなのじゃ。
無いものはどのようにしても変らないのじゃ。
国家とかはきえるじゃろう。
戦争もなくなるじゃろう。
主義主張もなくなるのじゃ。
鬼和尚は、悟って以来、ずっと至福の状態が続いているのですか? >>469
>国家とかはきえるじゃろう。戦争もなくなるじゃろう。主義主張もなくなるのじゃ。
失礼ながら、そんな程度のことは正覚に至っていない僕にも想像つきます
具体的に人々がどんな暮らしをするようになるのかが知りたいのです
僕はまだ成所作智を得ておらず、縁起の囁き(?)が聞こえないので、人々の暮らしが想像ができないのです
すいませんが、暮らしぶりを具体的にお教えください。その片鱗でも僕が想像できるように。お願い致します >>469
生まれなければ悟りもないのじゃと鬼和尚さんが幻想を一種肯定しているではないですか
個我があるという迷いが継続している原因は自我なんじゃないですか? 善事と悪事の両方を行うものは、死後どのような世界に行くんですか?
仕事は真面目で周囲の人に優しく温和な性格の持ち主が、プライベートで下着窃盗の常習犯だったり。
邪魔者を死に追いやる事も厭わず生き物の命を全く尊重しない冷血漢が、寄付に熱心だったり。
これは極端な例ですが、善事と悪事がどういうバランスだと善いところ悪いところに生まれるのか。
基準が良くわかりません。 面倒臭い、だるい、憂鬱、という想いが癖になっているようです。
身体がだるいけどやらなきゃならない、面倒臭いなぁ、憂鬱だなぁ、、というような流れがあります。
日常的にこのような感じで、これも苦なので滅したいですが、この場合、どのように観察して行けば良いでしょうか?
ここで内心、「なぜ私が」というような、受動的な被害者意識のようなものもあるようです。
「私の環境」、「私に起こること」は、私の意志では選べず、
「私という感覚も気づけば勝手に起こっていた」と思います。
そのためか、「私に起こることは私の意志が及ばない」といった無気力感もあるようです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています