【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】38 [無断転載禁止]©2ch.net
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*悟りを開いた人には偉大な知恵があるらしいわ。
*生活のことなんでも聞いてみましょう。
*あるゆる悩みを聞いてみましょう。
*罵倒、批判だけのレスはスルーよ。
<前スレ>
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ37
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1487255959/150 何やら、昨日まで話していたこと、
自分が本当に恥ずかしく思えてきました。
心の中を全部人に話したら狂人と変わらない。
静かに、励みます。 鬼和尚、お釈迦様は「愚かな者を道連れにしてはならぬ」と言ってますが、
そうすると、私一人になってしまいます。
私は田舎在住なので、周りを見回しても同等か私以上の人物は見当たり
ません。賢い人はみんな都会に出て行ってしまいました。
「犀の角のようにただ一人歩め」とも言ってますが、なかなか難しいです。 >>311>>312 そうじゃろう。
自分に似たものがひきよせられるというからのう。
気付いてよかったのじゃ。
慈悲の心で生きるのじゃ。
>>313 誰かと一緒に住めばよいのじゃ。
婚活とかもしてよいのじゃ。
犬とか猫を買うのもよいのじゃ。
自由なのじゃ。
>>314 世間の者は幸せにはならないのじゃ。
どれほど財産や名声や権力があっても老病死によって失うだけであるからのう。
老病死に倒される哀れな者たちに構わず、真の幸せを求めるのじゃ。
そうすればそのような者たちが泣きながら死ぬ時自分だけは笑って生きられるのじゃ。
>>316 無いのじゃ。
何も気にしないのじゃ。
一人ならば一人で生きるがよいのじゃ。 >>317 そうじや、変らないのじゃ。
同じじゃろう。
人の心は同じ反応をしているからのう。
>>318 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>319 おぬしが教えてやるとよいのじゃ。
瞑想などを教えればおぬしがよい友になれるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 シモネタより下世話な性のネタ、暴言・罵倒、負のオーラ満載の書き込みの際立つ
2ちゃんねるをどう思いますか? >>320
生きながら老病死を超えるって結局どういう状態なのですか?
想像できないので指針を下さい
悟った人でも老病死すると思いますが、本当に全く影響を受けないのですか?
いたとしてもたとえばそのレベルは日本に何人いますか? >>320
>そのような者たちが泣きながら死ぬ時自分だけは笑って生きられるのじゃ。
何か利己的な響きがありますが、「自分だけは笑って生きられる」というのは小乗の悟りではありませんか? >>320
鬼和尚はいつも「自分というものはもはやないのじゃ」と言っていながら、「自分だけは笑って生きられるのじゃ」というのは矛盾ではないですか? 自己観察や自己探究により、自己の業を解き明かし、もはや業が業ではなくなることは、悟りにおいてどのくらい大事なことでしょうか。 遊んでばかりいると、どういう報いがやってくるんでしょうか?
遊ぶのは悪いことですか。
どういう風に遊ぶのがベストでしょうか。 スランプを抜け出すにはどうしたら良いでしょうか。
趣味の創作活動が、1年くらい前からスランプに陥り始め、今ではイメージもさっぱり浮かばない位になってしまいました。
それどころか、他人の創作物にもあまり興味が湧かないのです。 わしは生まれてからずっとスランプなのじゃ。
1年や2年のスランプなんて気にすることもないのじゃ。
興味が薄れて来ているのかもしれんのう。 自他の区別が無い、
他人にしたことは自分に返ってくるということが、
なんとなくわかってきたのですが、
これは、奥深い認識では、「自」と「他」はどちらも同じ認識の「対象」でしか無いから、でしょうか? 因果の世界は、
一般的な世界観である、
「物理的な世界があり、人間があり、世界を感じる器官である五感があり、知覚し認識し、記憶や観念が生じ、今自分はなどと思考している」
これとは逆方向でしょうか?
目を瞑り観察していくと言語化する前の何とも言えない感覚の世界を垣間見ます。
そのようにうごめく感覚世界が、視覚や聴覚などの五感に変換されているのでは、と思いました。
明晰夢などで確かに自分を保ったままに、現実には無い五感があるのを観察することが出来ます。
五感は絶対的に思えるものですが、五感があるからその対象が存在していると言えるものではないのだと思います。 記憶や認識が違えば、全く違った世界が構築されたりもするのかと思いました。
例えば寝ている人に水を掛けてどんな夢を見るかの実験などをしたとしたら、その人の体調や観念、どんな記憶を持っているかによって、
ある人は溺れる怖い夢を見たり、
ある人は海で遊ぶ楽しい夢を見るかも知れません。
鬼和尚が暗闇で縄を蛇と間違う例えを仰るように、縄は縄でしかないけど、人によっては蛇として恐れたり縄跳びして遊んだりも出来る、現実はそのようなものである、と。
ただ、
その夢の原因となる記憶と感覚的刺激、縄という実在、
これらはどこから生じているのでしょうか?
感覚が生じる原因、
また記憶が生じた原因の原因…始まりはあるのでしょうか。 >>317
そうだといいな
>>322
どうでもいいな
ま
フィルタは薄い
>>325
とちゅー
>>327
世の中は押した力で押してくる
そうではない
どうとでも
>>328
結果変えたきゃやり方変えよう
ま
初めから始めるのがとても良い
教えるのはその為に良い
>>330
下手に例えると弓と矢と的だな
ま
定義はやめよう
>>331
X 鬼和尚、自分を観察すれば嫌なものもどうしてもみなくてはならないです。
どのようにすれば自分を愛せるのでしょうか?
それとも、成長を求めるのならば、そうしたいと考えている、と観察すべきなのでしょうか?
おそらく、自分を大事に思う気持ちがなくては何事も大成できないなと思うのです。 >>322 本音が出てよいことじゃ。
自らの本性を知るとよいのじゃ。
>>323 例えば大きな木が自分を葉の一つと想い、それが散るのが自分の死であり消失であると思っているとするのじゃ。
しかし、目覚めて自分は葉ではなく大きな木であるから葉の一枚が散っても何も悪いことはナイト気付くようなものじゃ。
肉体の老病死はそれを自分であり個我と想うものにとっては苦になるのじゃ。
全てであると気づけばもはやそれは苦ではなく、自然な働きの一つであると知れるのじゃ。
そのようにして老病死を超えるのじゃ。
>>324 小乗も大乗も無いのじゃ。
それが現実なのじゃ。
現実を見るのじゃ。
>>325 おぬしが自分はないと想うならば矛盾じゃろう。
しかし今自分があると思う故に矛盾ではないのじゃ。
自分の本心わ観るのじゃ。 >>326 少しも大事ではないのじゃ。
自分を観ることが大事なのじゃ。
>>327 遊び以外には通暁しなくなるじゃろう。
良くも悪くも無いのじゃ。
仕事とか修業を遊びと想ってするのがよいのじゃ。
>>328 今の自分に興味があることをするとよかろう。
自分の本心を見て本当に今楽しいと思えることをするのじゃ。
記憶に頼ってはわからないのじゃ。
>>330 そうじゃ、全ては繋がっているのじゃ。
自他一如なのじゃ。
>>331 逆でもないのじゃ。
それも観念であるからのう。
あるものをありのままに観るのじゃ。
>>332 どこからも起こっていないのじゃ。
ただ分別によってそれがあると思うだけなのじゃ。
分別を離れれば全ては元からただ一つと知れるのじゃ。
>>335 自分の本当によい所を見るがよいのじゃ。
無理に否定することも無く本当に善い事をしたこともあるじゃろう。
それを観るがよいのじゃ。
もしや、良いところ、という意思を持てばいいのでしょうか? 鬼和尚の答、俺は何かだめだな。
無料だとこんなものなのかな。 朝早くから、トラクターや草刈り機の音がうるさいです。
今は全部機械でするから、そんなに忙しくないはずです。
9時ぐらいから仕事をすればいいのに・・・。@農村地帯 >>333
ありがとうございます、
弓が認識で
矢が見るもの(自己)
的が見られるもの(他者) でしょうか
悟りはそれら全てが無いと気付く事でしょうか
定義を辞めた方が良いというのは
悟りの想像をしたり考えたりする事に時間を費やさず、
観察に徹するべき、ということでしょうか
>>338
ありがとうございます。
悟りの事を考えたり想像したりするのは、俗世の雑事に悩まされるよりはマシかも知れませんが観念遊戯に陥っては同じことですよね…
まだまだ精進します。 >>341
健真さんもこの頃疲れてるようだ、
五月病ですか? >>342
リュージュ空だ
ま
例え間違いは構わん
どうせ要らんし
いや
ま
いわば関数化されるので自縄自縛だ
で
観察時も同様だよ
いわば要注意だな 暖かくなってくると草取りやら草刈りに追われるようなる。
まぁ、わしは午前中しか仕事をしないけど疲れる。
悟りどころではなくなるんじゃ。 疲れるのもまた悟り
疲れることを嫌がらず疲れるときは疲れる
するとあら不思議
疲れてるのに疲れていない
心身は疲れていても自分は疲れていない疲れない
自分は何も変わらない 鬼和尚、思い出しました。
以前、スポーツなどで無茶をやっていたのにもかかわらず、
まったく疲れず動くことができていました。
単に老化したのかと思ったのですが、
その時期、感情が割と安定していたようです。
グルジェフの教えを眺めていたのですが、
一見すると、苦行者のように思います。
苦行というとどうしてもお釈迦様が苦しんで
立てないほどというところを想像してしまっていたのですが、
赤痢で倒れかけているにも関わらず、
動き続けた上、
それだけでなく、その状態でサマーディと思しき体験をし、
精神的にかなり安定していたようです。
力を発揮していた人がいてもまったくおかしくない、
そのような環境だったように思えます。
力を得る修行とは、簡単に言ってしまうといわゆる超努力によるものでしょうか? 感情の安定も力の修行も苦がないという状態でなければ意味がないか、
失礼、質問は無視してください。 >>336
肉体を持っている人間が気付きや悟りでどうそれを超えるのか具体的にわかりません
頭がガンガン痛くて薬も効かなければどんなに明るく気丈な人間でも、平常心を保つのも行動も
以前の様にはいかなくなり、いずれ身体に心が負けるのも時間の問題かもしれない、そういう
無慈悲なところがあるのが肉体です
悟った人はその状態でも依然と全く変わらず苦も感じないのですか?
もし病でも健康でも全く変わらないなら鬼和尚さんは健康に気を付けないだろうし、現実レベルでは
肉体に影響を及ぼされるんではないですか? 他人との距離感について
基本的にほとんどの人は一人かあるいは親族と共に生活していると思います。
自分は人との距離感が近すぎると警戒してしまって、
友人であっても一緒に生活するのには抵抗があります。
(緊急事態とか本当に困ってる状況とかなら仕方なく泊めることはあると思いますが)
しかし世の中ではルームシェアというのも広がっていて赤の他人、異性や外人であっても
全く抵抗なく共同生活できる人も多いようです。心がオープンというか自分にとってはとてもできないことですが。
こういう距離感というのは近ければ近いほどよいものなのでしょうか?
自分は警戒してしまってルームシェアなんかはとてもできそうにないですが
そういうのも直して他人にオープンになる方が人間として正しいのでしょうか? 鬼和尚、たびたびすいません。
変わろうと決心した場合、
何かしら環境に自分にとってあまり好ましくない変化というのは
起きるのでしょうか?
それがいわゆる業なのでしょうか。 >>339 自分をありのままに観ればよいのじゃ。
よい所もあるじゃろう。
悪いところしかないというならばそれも否定的に観ているだけなのじゃ。
他人の意見を聞こうとするのもおぬしの善い所なのじゃ。
そのようにありのままに観るのじゃ。
>>340 全てをありのままにさらけ出すのじゃ。
よい所を見せようとすればありきたりの答えしか返らないのじゃ。
自分自身を賭ければ相手も全力で答えるのじゃ。
>>341 目覚ましと想えばよいのじゃ。
起きたついでに瞑想に励むのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>342 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>347 そのようなこともあるじゃろう。
しかし毎日出来るものではないのじゃ。
日々瞑想を続ける効果には及ばないのじゃ。
日々精進あるのみなのじゃ。 >>349 おぬしも髪の毛や爪先がちょっととれた位で苦になることはないじゃろう。
全てが一つの意識と気付いたならば、この肉体全てもそのような小さな髪やつめ先のようなものに過ぎないのじゃ。
悟れば肉体の苦は無いのじゃ。
説法をするために肉体が必要であるから健康にも気をつけるのみなのじゃ。
>>350 近くなくてよいのじゃ。
近すぎれば互いに傷つけあい、やがて別れることにもなるのじゃ。
そのままでよいのじゃ。
自らの道を行くがよいのじゃ。
>>351 起きないのじゃ。
起きたとしたら偶然なのじゃ。
決然として変るとよいのじゃ。 .>>353
意識が肉体から厭離しているため痛覚や具合の悪さも意識には関係ないという事でしょうか?
感じはするが切り離せるのか
観察を続ければ誰もがそのようになれるのですか?ですが難易度は高そうですね 何度も、鬼和尚に肯定も否定もするな、ただ観よといわれているのに、
なんとなく自分が何を自分かと思っているのか、わかった気もします。
無意識の内に抵抗していたようです。
あまり、観察したくはないですが、、、いずれやらなくてはならないか。
数息観、励みます。 >>353
>悟れば肉体の苦は無いのじゃ。
肉体への執着からは自由になれても、痛み(痛覚)からは自由になれないのではないでしょうか?
鬼和尚は体のあちこちに針を刺されても笑っていられるところを、人々の前で公開実演することができますか?
(実際にするかどうかは別にして)鬼和尚は痛みも感じずに笑っていられるのでしょうか?
鬼和尚は麻酔など一切せずに盲腸などの手術を受ける自信もおありなのですか?
>髪の毛や爪先がちょっととれた位で苦になることはないじゃろう。
髪の毛や爪には神経が来ていないので誰も痛みは感じませんが、神経が来ている他の部分も髪の毛や爪と一緒にするのは無理があると思います。 自分の本心がようやく分かりました。
内容は割愛しますが、過去の親や先生からの、スパルタ的な教育が原因と分かりました。わたしにも、そうさせる要因はあったのでしょうけど。
今日の今日まで気づかずにいたので、今まで沢山の人にわるい印象をたくさん与えたと思います。すみませんでした。
でも、今日から新たに生まれ変わったつもりで人生を生きていこうと思います。人生楽しむぞ!!!! 自分をみつめ、わかってあげながら、生きていこうと思います。 たびたび失礼します。一睡もできなかったなぁ
鬼和尚が、何故私に否定も肯定もするな、と話していたかようやく言葉にできます。
何度もそうアドバイスを受けているにも関わらず、それができなかった。
なぜならば感情を自分と思っていたためであり、
考え、行動、記憶、見るものが感情の影響をうけ、
正しく機能していないことを伝えるための頓智でした。
コントロールができないと考えていたようです。
酒に逃げてしまう本当の原因もこれにありました。
それに気づいても、まだ自分がいます。
なので、これは自我ではなかった、もしくは観察が中途半端のどちらかです。
これからはきちんと戒めます。本当にありがとうございました。 自己顕示欲は欲望としては特に害のないものだと考えて大丈夫ですか?
芸能人や女子アナのように人前に出て自分をアピールする仕事の人には必須な欲だと思います。
自分がカッコいい、可愛いという自覚があってそれを武器にしてのし上がる野心家に多い欲ですね。
自己顕示欲が強いのは別に悪いことではないですか?
修行者の視点から見て、野心を持って社会で成功し賞賛を浴びる人を幸福と感じますか? 鬼和尚、西式健康法の朝食抜きは疲れますなぁ。
もう半年続けていて、腹はへっこみ、体重も落ちてかなりスリムになりました。
それは嬉しいのですが、力が出ません。
もう少し続けたら慣れるのでしょうか? >>350
どうとでもx2
ま
楽だ
結局
>>362
如何様にもx3
ま
自由だ 観察の極意は、自分を観て自分に気づくこと。
想えばちゃんと生きてる人ほど、自分を観れているし、自分のことが分かっている。
自分が分かれば周りを観る余裕も生まれ、結果、何不自由ない生活をしている。ように私には見える。
また、自我や観念で苦しんでいる人は、自他一如、みずからと他者を大切にしなさい、という
自我観念からのメッセージが来ているんだ、ととらえてみると苦しみは消えるかな、と私は思う。 ○自我観念からのメッセージが来ているのかな←×自我観念からのメッセージが来ているんだ >>353
付けたしです
>説法をするために肉体が必要であるから健康にも気を付けるのみ
ということは肉体を早く駄目にしないため、ということだけで過程でぼろぼろの肉体でも説法に
差支えませんか?
悟ったからと言って肉体を超越するような超人になるわけではなく、肉体にある以上多かれ少なかれ
肉体に支配されますか?
肉体の苦はないのじゃ、と言い切るという事は超人になると解釈していいですか? やはり、私はずるかった。
自力で気付けたわけではないのに。
幸い、修行のための最高の環境にあります。
もう、自分からは逃げません。 >>354 そのようなものじゃ。
痛みなどはもともと肉体の病や傷の警告に過ぎないものじゃ。
観察すれば誰でも無に出来るのじゃ。
集中しても感じないように出来るのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>355 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>356 痛みなどはもともと肉体の病や傷の警告に過ぎないものじゃ。
昔のテレビではヨガのおっさんがよく体に針をさして実演していたのじゃ。
強く集中すると肉体の警告などは無視できるのじゃ。
おぬしは痛みを恐れすぎているようじゃ。
痛み恐怖症じゃな。
痛みそのものではなく、痛みの記憶や痛みに伴う負のイメージを恐れているのじゃ。
それを自分の心に観察してみるのじゃ。
>>357>>358 善かったのじゃ。
またおいでなさい。 >>359 気付いて善かったのじゃ。
またおいでなさい。
>>362 人を傷つけないならば害は無いじゃろう。
特に悪くも無いのじゃ。
自ら驕り高ぶるのはいかんが、修行するものでないならば特に制御しなくてよいのじゃ。
そのような者も不幸じゃろう。
老病死によってはかなく消えていく名声に時間を費やしてしまうのであるからのう。
>>363 やせてよかったのじゃ。
慣れるじゃろう。
西式の半断食は栄養過多を避けるためであるから、寒天食はよいのじゃ。
今は寒天のゼリーなども売っているから腹が減ったら食べるとよいのじや。
>>365 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。 >>368 肉体がぼろぼろでは説法にも差し支えるじゃろう。
言葉も出ないかもしれんからのう。
肉体の制約はあるじゃろう。
目覚めた人なのじゃ。
>>369 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。 すみません。ご迷惑でしょうが、まだ、少しいさせてください。
そのようなものじゃ、ではないんですね。。
確かに、決然としなければならない二択でした。
何故、気が付いてしまったんだろう。
>>357かぶせる形で書いちゃってすみません。
きづきがほぼ同時におこるなんて、すごいこともあるもんだなぁなんて思ったようです。 >>360
>>362
おかしな態度をとって、不快なおもいをさせてしまい
申し訳ありませんでした。
以後、二度としません。 喝をいれてくださり、ありがとうございます。
確かに半端者が一番危険なうえ、何も得ることはできません。
修行に励みます。 鬼和尚様、間違った方法で修行をしていたこと、
おごり高ぶって罪を犯したことをお許しください。
これから誠心誠意気を付けていきます。 そして、そのような行為はもう二度といたしません。
本当に申し訳ありませんでした。 鬼和尚は悟りを開いてからは医者にも歯医者にもかかったことがないのですか?
今後、虫歯になっても歯医者に行くことはないのですか? 鬼和尚、座禅を始めて1年半が経ちました。もうそろそろ悟れますネ。 >>375 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
>>377 赦すのじゃ。
またおいでなさい。
>>378 無いのじゃ。
塩で磨けば虫歯にならないのじゃ。
いかないじゃろう。
>>379 おぬしのやる気次第なのじゃ。
やる気があれば今夜にも悟れるじゃろう。
恐れがあれば後退するじゃろう。
全ておぬしの思うままなのじゃ。 悟るまでのコツ、悟りやすくなるコツってありますか? いずれ肉体は滅びて愛するものや大切なものと別れなければならない。
しかし、共に過ごした思い出や記憶こそに意味がある。
一瞬一瞬の幸せを噛み締めて人生を生きる価値がある。
多数のポジティブな人々はこのように考えてると思います。
修行者はこういう観点では無いのですか?
死が全てを奪い去っていくから? >>381
吟味だ
>>382,383
どうとでも >>381
やっぱ瞑想と観察じゃないかな。
>>382
修行者というのは要するに凡夫なのでそういう風に考える人も居るだろうしそうでない人も居るだろう。
ただ、サマーディーとか一回でもなっちゃうとそんな妄想はとりあえず吹き飛ぶと思うけどな。 原因を観察していると、
未来への不安が強い場合はどう観察したら良いでしょうか?
例えば、人に攻撃されるかもしれない、という恐れなどです。
原因は過去にいじめられたりしたこともあると思いますし、
それに、直接体験してはいないけど見聞きした話(事実でもそうでなくても)
からの恐怖もあります。
もしその記憶が無ければ…と思っても、それが未来に起こるかもしれないとか、そのことを未来にでも知ったら不安が生じるだろう、と思います。
何が起こるかわからない、ということがそもそも怖いです。 >>381
どんな方法でも真剣に徹底的にやる
観察するなら可能な限りそれだけそればかりやる
疑うなら頭の先から生じる感覚まで徹底的に疑う
考えるなら純粋に余計な主観なく単なる思考のまま突き詰める
何もしないなら完全に死んでるのと同じくらいこのままもう死ぬくらい何もしない
適当にやってダメだからって他の方法試すんじゃなくひとつの方法やるなら徹底的にやる
それ以外だと常に自分(自分の内面)に目を向けとくこととかかな
そうすれば気づきは勝手に起きてくる >>390
参考にします。
ありがとうございます。 >>389
今○○と思っているな、今○○と感じているな、と観察する。
そして「これらはエゴなんだ」と洞察する。
そう思ったとたん、私の場合は自分を笑っておわりです。 (自分の)おもいを観て、そのエゴに気付き、エゴを笑う。
うん。多分そう。やっかいなおもい、その全ては自分のエゴが核心なんだ。 鬼和尚、今日も89歳の先輩の話を聞いてあげました。
私は間違いなく天国に行けますね? 「自分」があるうちはエゴでしょうか。
無心で居たり無我でしていたりするのは覚者から見るとどんな評価なのでしょうか? 自分を不幸にさせるような気持ちが働いているときがあります。
こうしたら良くないだろうな、って微かに分かりつつ、そのようにしてしまいます。
塩を入れ過ぎたり、忘れ物したり、人に誤解されたり、どこかで分かりつつもそうしてしまい、「やっぱりこうなった」という感じです。
すべては気分次第な気がします。
気分が良い時にはそのような事にも比較的気を付けられるのですが、気分が酷い時は、「お前(自分)なんかが」という感じで、気分転換さえ自分に許させないような感じです。 >>392
エゴとはなんですか?
いまいち自我とかエゴとか、何なのかわかりません。 >>398
エゴとは自分の欲や望み
自我とは自分の煩悩
ほぼ同じ様ですが、私の中ではニュアンスが微妙に違いますかね。 >>397
心には天使と悪魔がいると言いますが、悪魔の声に耳を貸してしまうのでしょうね。
やはりそこは自分の意志でもって、良い方向へ軌道修正することが必要でしょうね。 >>381 死ぬ気でやれば悟りやすくなるじゃろう。
もはや死んでもよいと思えば悟りもやってくるのじゃ。
>>382 思い出や記憶もなくなって行くものじゃ。
昔の写真などを見ると思い出せない事も多くあって驚くじゃろう。
それもまた滅していく性質のものなのじゃ。
今ここに永遠の境地もあるのじゃ。
>>389 それが過去の経験を未来にあてはめているだけであると気付くのじゃ。
その働きを完全に観察できれば滅していくのじゃ。
意味が無いと気づくからのう。
>>395 いけるじゃろう。
更に善事を積むとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 >>396 エゴでも無く、エゴで無くもないのじゃ。
ただの観念なのじゃ。
無評価なのじゃ。
何も評価しないのじゃ。
>>397 その原因を心の中に追究するのじゃ。
親に言われたとかの原因があるじゃろう。
その原因からその働きがあり、原因が無ければその働きも無いと心を観察するのじゃ。
そうすれば消えるのじゃ。
なーんか鬼和尚の俺への返答がおかしい。
俺の質問がアレなのか鬼和尚の俺への気分がアレなのか正当な答えなのか。
観念を自分で作っちゃってるってことですね。
ま、わかりました。(・ー・) 自分でもエゴでもそれが在るとか無いとか○○だとか思うのは全部観念だってことでしょ
何かを何かだとみなす自分を作ってそれに同一化してしまっているてことでは お釈迦様は子を望むなと言ってるのに、鬼和尚はナンパしろ、というのはおかしいのではありませんか? >>389
どれも等しくある
ま
備えて憂いを無くして吉
>>396
関連付けがある
特に何も >>406
それ何の経典のどこに書いてあるんだっけ?
どこかで見たような気もするんだがすっかり忘れた。 これか。
84、自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。
邪まな仕方によって、自己の繁栄を望んではならぬ。
(道にかなった)行いあり、明らかな智慧あり、真理に従っておれ。
これは「邪まな仕方によって、自己の繁栄を望んではならぬ。」が肝心な所じゃないのか?
邪でないなら構わんと思うのだが。 おまえら、結婚や恋人・友だちには気をつけろ!
ガイ児に触るとキショイで。
甘ったるい恋愛小説も、ガイ児がからむとオカルトになっちまうww
健常者はガイ児に触るな。
★彩を愛した者 (巷に増殖中のガイ児の話)★
http://slib.net/72935
上松煌(うえまつあきら) 作
プロフィール
http://slib.net/a/21610/ 家族や過去の友達への愛着や情や記憶が薄れ消え無に帰すのはいいことですか?
結局は自分一人ですか?人間としては非常に虚しいようですが、悟ると一人でも全く平気ですか? >>403 そのようなものじゃ。
観念に囚われず実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>406 ナンパしても子が出来るとは限らないのじゃ。
望まなくても子はできるのじゃ。
不思議なことじゃ。
奇跡じゃな。
>>413 苦が少なくなるからよいことじゃろう。
一人ですらないのじゃ。
自分という単位もないのじゃ。
悟れば一人も居ないから平気なのじゃ。 >>414
死ぬ前には、それ以前にも全ての愛着や記憶を消去していくことなのですね
生まれて来てから家族や人間関係の愛情、記憶を大切にして、写真に残したりするのが
人間ですがそれは自我を維持するためで、それを否定するという事になるとじゃあ最初
から生まれてこなければいいじゃないか、という思想も出ますが一理ありますか 自分の外側の人や世界への愛着や期待を捨てられないことが輪廻の原因にもなると
だとしたらこの世で外側のものにひどい目に遭って懲り懲りする方がいいのでしょうか >>415
>生まれて来てから家族や人間関係の愛情、記憶を大切にして、写真に残したりするのが
>人間ですがそれは自我を維持するためで、それを否定するという事
それは小乗仏教じゃな。
しかし、大乗仏教はそのようなこの世の現実を大切にするのじゃ。
なぜなら、悟りの土台(土壌)はこの世の現実にあるのであり、それを離れては
悟りも生まれないからなのじゃ。
幸せな家族との生活を大切にしたいなら、大乗仏教を選ぶとよいのじゃ。
しかし、もう死が近く、身寄りもないような状況であるなら、小乗仏教を選ぶ方が
早く解脱の境地を得やすいのじゃ。
どちらを選ぶかは、一人一人が決めればよいのじゃ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています