【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】38 [無断転載禁止]©2ch.net
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*悟りを開いた人には偉大な知恵があるらしいわ。
*生活のことなんでも聞いてみましょう。
*あるゆる悩みを聞いてみましょう。
*罵倒、批判だけのレスはスルーよ。
<前スレ>
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ37
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1487255959/150 >>263 おぬしに苦があるのならば、それはおぬしの心に原因があるからなのじゃ。
他人のしたことやしなかったことではなく、自分のしたこととしなかったことをみるのじゃ。
おぬしが自分の苦を滅しようとすればできるじゃろう。
他人にはおぬしの苦を滅することは出来ないのじゃ。
>>265 痴漢と言えるじゃろう。
下のほうが悪質じゃろう。
悪を避けるならば女子の近くにはいかないほうがよいのじゃ。
自ら己を律すれば何も恐れることはないのじゃ。
>>267 本当は何か作りたいのかもしれん。
誰にでも何かを作りたいという欲求はあるというからのう。
自分の本心がわからないから何をすべきかわからないのじゃ。
水やりとか草取りとかの手間がかかるから躊躇しているのかもしれん。
まずは自らの本心に何がしたいのか訊いてみるのじゃ。
>>268 間違いは正した方がよいじゃろう。
間違った言動でいずれ傷つくのは相手のほうであるからのう。
相手を思いやる慈悲によって間違いを正すならば善事なのじゃ。
いかりとか攻撃欲でいうならば悪になるのじゃ。
慈悲によって全てを行うのじゃ。
>>271 わしは何でも食べるのじゃ。
出来るならばそうしたほうがよいじゃろう。
今はそれをするのに大金がかかってしまうからのう。
粗食で長生きできるじゃろう。
サプリなども主成分は大豆だったりするのじゃ。
普通に豆を食ったほうがよいのじゃ。 >>272>>274
相手が間違ってるとしか思えないことで傷ついたり怒って、相手を正したいとか赦せない時
そこに自我があって、そのまま攻撃や裁きに向かうと自我の思う壷で
それを防ぐには自分の中で自我の敗北や自我の犠牲の過程があるのでしょうか 鬼和尚、生きる意欲はどうしたら出てきますか?
私は一人暮らしで天涯孤独みたいなものです。
施設に入るのは嫌だし、今後、どうしようかと思います。 鬼和尚、昔悪口を言われてから醜形恐怖症になったんですけど
悪口を言われなかったら〜としたときの心の反応を見れば治るんでしょうか? >>275
何も犠牲にする必要はないし怒りまくってなんとかしたとしても別に構わないんだけど根本解決にはならないだけのことだよ。まずはなんで怒らねばならない状態になっているのかよく考えてみた方がいいと思う。
例えば広大な自分の土地があって、何故か人や動物が入り込む事が多いとする。するとそのたびに追い出す必要が出てくる。で、毎回面倒なので塀を作ったり人間向けに警告表示を貼っておいたりする。
するとわざわざ乗り越える動物とついうっかり迷い込んで入り込む人ぐらいになる。もっと減らしたい場合は塀を高くしたり警告を強化したりになる。しかしこれには切りがない。
ということで、切りがなくて疲れ果てたので土地の売却を検討し、売ってもいいと認めた人に売る。するとその土地に関しては自分は何もする必要がなくなって永遠に開放される。
この場合はこれが根本解決と言える。
まあ全ての場合に当てはめられるわけではないだろうが手放すことによって安楽の境地に到れるものもあることは覚えておいた方がいい。 >>278
横から失礼します。
手放す、というのは、自我を捨てる、観照が起こる、ということでしょうか?
自我を捨てたい、捨てたい、と自我がいくら思っても、
思っているのが自我自身なので、捨てられないと思います…
疲れ果てて手放したいと思っているのに、
何故か手放せない場合は、本当はまだ手放したくないのでしょうか? >>280
手放したくないというか、手放したら大変なことになるとか死ぬとか信じ込んでいるから手放せなくなっているのでは? >>278
読んでいると楽になれるような感じです、たしかにそうですね
自分の領土(プライドや自己イメージや)を守ろとして苦しんだり怒ったり
ただ問題なのは自分の身体です。生きている限り身体は手放せません、自由になるには手放せれば一番いいですが
身体を傷つけられたり侵害されるとその後いろいろな面で質が落ちます
身体がどんな状態でもそれを超えて霊的に超越していられるという事が保障されていたり信じられれば
生きながら全てから解放されると思えますが、そこらへんが信じられないので自我を手放す、ということに
恐れや不信が残ります >>275 そのようなものは必要ないのじゃ。
慈悲があればよいのじゃ。
間違いは正すがよいのじゃ。
慈悲があれば善事となるが、慈悲がなくとも間違いを正すのは普通のことなのじゃ。
実践するとよいのじゃ。
>>276 それは目的があれば出るじゃろう。
例えば悟りを得るという目的があればそのために生きるという意欲も出るのじゃ。
特に悟りを得るという目的でなくとも、目的があれば出るじゃろう。
試してみるのじゃ。
>>277 原因から起こる今の反応が観察できれば治るじゃろう。
治らないならばただしい原因ではないのじゃ。
正しい原因を探すのじゃ。 >>283
怒りが湧いているときは慈悲よりも自我の自己保身が勝っているときです
その時に慈悲を出そうとするのはかなり難しいです
ですが、自我を守ろうとしても全てが悪くなるばかりなので切り替えていきたいと思います かんねんでわけわかめになったら、小さい子供やもっといくと植物とか花とかを見習えばいいでしょうか。 和尚、本屋で正負の法則という本を見たんですが、こういうの本当にある? 他人の過失や欠点は見るなと仰ってますが、では他人の良いところを見るのは問題ありませんか?
性格、ファッション、ライフスタイルなど。
それとも他人のことは良いも悪いも含めて一切見ない方がいいのか。
他人を見てて羨ましいとか妬みなど心が乱れるような感情が生まれたら、それは危険信号ですか。
感情が生まれた時点で人を見るのはやめた方がいいでしょうか。 >>282
その辺は観察によって見抜くしかないとは思うけど、本当は体は最初から自分ではないということだな。 鬼和尚、白隠禅師は「ひげ長く腰曲がるまで生きたくば、食をひかえて
独り寝をせよ」と言ってますが、本当ですか? >>284 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>285 そうじゃ、見習うとよいのじゃ。
それらのように今ここにあるものを観るのじゃ。
そうすれば観念によって惑わされないのじゃ。
>>286 無いのじゃ。
悪いことをするものには悪い報いがあるじゃろう。
善い事をする者にはよい報いがあるじゃろう。
善事を積むとよいのじゃ。
>>287 そうじゃ、よい所をみて見習うのはよいのじゃ。
全く他人を見ないことも不可能であろうからのう。
羨望とかがでたらやめるとよいのじゃ。
そのように自ら加減するとよいのじゃ。
>>289 本当なのじゃ。
粗食小食がよいのじゃ。
一人寝もよいのじゃ。
実践してみるとよいのじゃ。 鬼和尚、
私に喝をください。
良い所と悪い所も教えて下さい。 >>290
287さんではないですが、他人の欠点・過失を観察して反面教師として見習うのはどうなんでしょうか? >>285
考える方が良い
>>286
関連付けるなら
>>287
どうとでも
ま
それ込みの認識だ
で
定義をやめよう 鬼和尚
前に死者について
「死者は観念のみを認識するのじゃ」
というような趣旨の回答があったように思いますが
それならば
たとえば死者は葬儀をしてもらっても
実際の葬儀の様子などは認識せず
各人それぞれの葬儀の想念を認識するということでしょうか? >>291 活っ!!
なのじゃ。
自ら己を観察してみるのじゃ。
何度でも実践するのじゃ。
それが全てなのじゃ。
>>292 それもよいじゃろう。
他人を責めるためでなければよいのじゃ。
実践してみるのじゃ。
>>294 そうじや、認識しないこともあるのじゃ。
寝ているのと同じであるからのう。
死んだこともわからない者も居るのじゃ。
逃避は良くない事のようですが、正しい逃避というのは存在しないのでしょうか?
こう言う時は逃避してもいいよと言う例があれば知りたいです。 >>296
良いか悪いかの問題ではなくて多くの場合逃避したままだと問題が保留されたままになるだけのことだ。
それについて良いかどうかは本人の問題で人が評価することはできない。絶対的な基準はないから。
ただ、問題が保留されたままならずっと重荷を背負ってるのと同じだからずっと苦しいままになるだろうね。
苦しいのを一時的に麻痺させるために逃避をしても何れ効き目が切れてまた逃避したくなるだろう。
これは無駄だよね。かといっていつ如何なる時も絶対に逃避しない方が良いということはない。
手術の時に麻酔せずに常に痛みを感じなければいけないなんてことはないのと同じこと。それは無意味だ。
ただ、素人が用量用法や危険性を考慮せず延々と繰り返し使い続けるのならそれは止めた方が良いとは言える。 我々は普段から逃避している。
いずれやって来る死を考えないようにしてる。
自分も「逃げるが勝ち」でいきたいが、鬼和尚に叱られる。 鬼和尚、あっという間に変われてしまう人と、
そうでない人がいます。
現状、何をしたって再起不能なんじゃないかと考えています。
長年引きこもっていたせいか、
社会に出るのも怖い上、
コミュニケーションの能力、その他容姿も醜いものとなっていることに気が付きました。
強く生きるにはどのようにしたらいいでしょうか? 間違いを指摘した後に罪悪感を感じるのは少しでも批判心、審判する裁きの心があるからでしょうか
相手を責める気持ちがなければ、指摘しても罪悪感は感じないでしょうか
でもその境地なら敢えて言わないかもしれません 思えば昔から間違っていたり傷つくようなことをされても言い返せない人間でした
自尊心や自我が構築される前の中学時代に荒れていたクラスでいじめられたときは、自分が悪いから
いじめられるんだ、と正しい言い返しや拒否が出来ず、回復するのに何年もかかるような心の傷を負い
続けました
そういう事が出来ない、罪悪感を感じるのも弱いからですよね 鬼和尚、あともう一つです。
おそらく、引きこもりや孤独に悩んでる人が
外部に助けを求めてもよくなるケースは稀なのではないでしょうか?
それどころか、虐待一歩手前の指導を受けて余計に酷いことになっているニュースをみました。
治してしまう方法はあるのでしょうか? 悪口の根底にあるのはどういう心理でしょうか?
自分の優位性を示すため、あるいは嫉妬でしょうか?
東京が〜という話題が上がると突然気が狂ったかのように批判を展開する人が
ネット上でも現実でも結構います。
悪口というのも、「東京は人の住む場所じゃない」「東京人は総じて性格が悪い」
「どこを見渡してもビルしかない」「うまい食べ物がない」みたいな話がほとんどです。
東京育ちの自分はすごく気分が悪いですが、基本的に「ふーん」いう感じで反論はしません。
ただ東京が最悪の都市で自分の出身地がそれほど優れていると思うならどうしてそこまで言うのか理解できません。
最近はマウンティングという言葉をよく聞くのですが、(例えば、学歴や資産など自分の優位性を誇示する行為のようです)
地方出身であることの優位性を示したいから東京叩きをするのかな、とも思えますし、
実は言わないけれど嫉妬する気持ちがあるのかなとも感じます。
こういう批判の根底には優位性なのか嫉妬なのかあるいは他の心理があるのか気になってしまいます。 >>304
東京一極集中が進んでいるからだよ。
政治も東京、経済も東京、テレビも東京、芸能人も東京、作家も東京等々。 鬼和尚
他人のことには気付きやすいのに、自分のことは気付けないのは何故でしょうか? >>304
自分の方が弱いと思っていて、それだから身を守ろうとして必死に攻撃している感じだろうな。劣等感が強いということ。
しかしそもそも自分の方が弱いというのが観念であり妄想なので、そんなことする必要は最初からないの。 ちっちゃい犬がおっきい犬に吠えるアレですか。みんなちっちゃい犬ですか、そうですか(激しく理解) >>296 車が自分に向かって走ってきたら誰でも避けるじゃろう。
そのように命が危ないときには逃避してよいのじゃ。
その他財産が危険とか、頭のおかしいものが来るときなども逃避してよいのじゃ。
自分の身体や財産などが危険なときは逃避してよいのじゃ。
自分の本心を観る時は逃避してはいかんのじゃ。
>>300 本当に変ろうと思う者が変るのじゃ。
何をしたって再起不能とか想う者は、何をしたって再起不能になるじゃろう。
正にそのように考えているという理由によってのう。
変りたいと想う者は変り、何をしたって再起不能になると思う者は何をしたって再起不能になるのじゃ。
自分は強くなれると思う者は強くなれるのじゃ。
強く想い、信じることが実現するのじゃ。
>>301>>302 そのように条件付けされているからなのじゃ。
その条件付けがなくなれば罪悪感もなくなるのじゃ。
その原因を心の中に探してみるのじゃ。
原因から罪悪感がおきていることが観察できたならば、罪悪感は消えるのじゃ。 >>303 そうじゃ、他人は他人で愚かに迷い、攻撃欲から行動している故に役に立たないのじゃ。
自らを助けると決意し、自らの本心を観察すれば治るのじゃ。
自分とその方法を頼りにするのじゃ。
>>304 それも攻撃欲なのじゃ。
物理的な暴力を封じられると言葉で攻撃するのじゃ。・
>>306 自分が観ているという観念があるからなのじゃ。
見る主体であるから見られることに盲点が生じるのじゃ。
子供が人数分のお菓子を配るときに自分を省いて数えるようなものじゃ。
ありがとうございます、
実は自分にも自他に対し攻撃欲があると感じています。
想いや考えにはよく注意します。
ふと思い出すと、そのようなコミュニケーションやらを
教えてくれるところにいるとき、
鬼和尚はコミュニケーションはそこで学ぶな、
すぐに離れなさいとおっしゃっていました。
今思うと、
他人が一切当てにならないことを学ぶきっかけでもあったように思えます。
自分の心に原因があるから攻撃欲で動く人と出会ってしまう、
そしてそのような状況を招いてしまう、
と考えるのが正解なのでしょうか? 確かに、いくら正しくても攻撃欲で動いていた場合、
それはどうしても悪にならざるを得ないようですね
迷っているのならば猶更まずい。
気が付けました、ありがとうございました。 鬼和尚、一人暮らしは寂しいです。
気楽なのはいいのですが、やっぱり侘しいです。 自分を傷つけた奴等がのうのうと人生を謳歌してるのに腹が立ちます
最高の復讐は自分が幸せになることというのはよく聞きますが
自分が幸せでもそいつらも幸せなら意味がないのでは? >>301,302
思いやるからだ
>>304
体勢の立て直し
ま
怖がるからだ
>>314
そうではない
ま
皆幸せで超吉
で
お前はまっとうに生きよう 鬼和尚さんは一人暮らしをしたことはないですか?
だとすると親から独立しなければならない、などは特に気にしなかったという事ですか コンピューターをはじめとして科学技術の発展は目まぐるしいものがあり
少し前までは努力して獲得するような技術や知識が全く不必要になったり
価値観がひっくり返るようなことがこの先まだまだ起きそうな気がします。
自分がこの先何十年生きたとしても、仏教の説く真理は全く変わらないないものですか?
苦が起こる仕組みとそれを滅する方法は遥か彼方の未来でも同じですか? 何やら、昨日まで話していたこと、
自分が本当に恥ずかしく思えてきました。
心の中を全部人に話したら狂人と変わらない。
静かに、励みます。 鬼和尚、お釈迦様は「愚かな者を道連れにしてはならぬ」と言ってますが、
そうすると、私一人になってしまいます。
私は田舎在住なので、周りを見回しても同等か私以上の人物は見当たり
ません。賢い人はみんな都会に出て行ってしまいました。
「犀の角のようにただ一人歩め」とも言ってますが、なかなか難しいです。 >>311>>312 そうじゃろう。
自分に似たものがひきよせられるというからのう。
気付いてよかったのじゃ。
慈悲の心で生きるのじゃ。
>>313 誰かと一緒に住めばよいのじゃ。
婚活とかもしてよいのじゃ。
犬とか猫を買うのもよいのじゃ。
自由なのじゃ。
>>314 世間の者は幸せにはならないのじゃ。
どれほど財産や名声や権力があっても老病死によって失うだけであるからのう。
老病死に倒される哀れな者たちに構わず、真の幸せを求めるのじゃ。
そうすればそのような者たちが泣きながら死ぬ時自分だけは笑って生きられるのじゃ。
>>316 無いのじゃ。
何も気にしないのじゃ。
一人ならば一人で生きるがよいのじゃ。 >>317 そうじや、変らないのじゃ。
同じじゃろう。
人の心は同じ反応をしているからのう。
>>318 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>319 おぬしが教えてやるとよいのじゃ。
瞑想などを教えればおぬしがよい友になれるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 シモネタより下世話な性のネタ、暴言・罵倒、負のオーラ満載の書き込みの際立つ
2ちゃんねるをどう思いますか? >>320
生きながら老病死を超えるって結局どういう状態なのですか?
想像できないので指針を下さい
悟った人でも老病死すると思いますが、本当に全く影響を受けないのですか?
いたとしてもたとえばそのレベルは日本に何人いますか? >>320
>そのような者たちが泣きながら死ぬ時自分だけは笑って生きられるのじゃ。
何か利己的な響きがありますが、「自分だけは笑って生きられる」というのは小乗の悟りではありませんか? >>320
鬼和尚はいつも「自分というものはもはやないのじゃ」と言っていながら、「自分だけは笑って生きられるのじゃ」というのは矛盾ではないですか? 自己観察や自己探究により、自己の業を解き明かし、もはや業が業ではなくなることは、悟りにおいてどのくらい大事なことでしょうか。 遊んでばかりいると、どういう報いがやってくるんでしょうか?
遊ぶのは悪いことですか。
どういう風に遊ぶのがベストでしょうか。 スランプを抜け出すにはどうしたら良いでしょうか。
趣味の創作活動が、1年くらい前からスランプに陥り始め、今ではイメージもさっぱり浮かばない位になってしまいました。
それどころか、他人の創作物にもあまり興味が湧かないのです。 わしは生まれてからずっとスランプなのじゃ。
1年や2年のスランプなんて気にすることもないのじゃ。
興味が薄れて来ているのかもしれんのう。 自他の区別が無い、
他人にしたことは自分に返ってくるということが、
なんとなくわかってきたのですが、
これは、奥深い認識では、「自」と「他」はどちらも同じ認識の「対象」でしか無いから、でしょうか? 因果の世界は、
一般的な世界観である、
「物理的な世界があり、人間があり、世界を感じる器官である五感があり、知覚し認識し、記憶や観念が生じ、今自分はなどと思考している」
これとは逆方向でしょうか?
目を瞑り観察していくと言語化する前の何とも言えない感覚の世界を垣間見ます。
そのようにうごめく感覚世界が、視覚や聴覚などの五感に変換されているのでは、と思いました。
明晰夢などで確かに自分を保ったままに、現実には無い五感があるのを観察することが出来ます。
五感は絶対的に思えるものですが、五感があるからその対象が存在していると言えるものではないのだと思います。 記憶や認識が違えば、全く違った世界が構築されたりもするのかと思いました。
例えば寝ている人に水を掛けてどんな夢を見るかの実験などをしたとしたら、その人の体調や観念、どんな記憶を持っているかによって、
ある人は溺れる怖い夢を見たり、
ある人は海で遊ぶ楽しい夢を見るかも知れません。
鬼和尚が暗闇で縄を蛇と間違う例えを仰るように、縄は縄でしかないけど、人によっては蛇として恐れたり縄跳びして遊んだりも出来る、現実はそのようなものである、と。
ただ、
その夢の原因となる記憶と感覚的刺激、縄という実在、
これらはどこから生じているのでしょうか?
感覚が生じる原因、
また記憶が生じた原因の原因…始まりはあるのでしょうか。 >>317
そうだといいな
>>322
どうでもいいな
ま
フィルタは薄い
>>325
とちゅー
>>327
世の中は押した力で押してくる
そうではない
どうとでも
>>328
結果変えたきゃやり方変えよう
ま
初めから始めるのがとても良い
教えるのはその為に良い
>>330
下手に例えると弓と矢と的だな
ま
定義はやめよう
>>331
X 鬼和尚、自分を観察すれば嫌なものもどうしてもみなくてはならないです。
どのようにすれば自分を愛せるのでしょうか?
それとも、成長を求めるのならば、そうしたいと考えている、と観察すべきなのでしょうか?
おそらく、自分を大事に思う気持ちがなくては何事も大成できないなと思うのです。 >>322 本音が出てよいことじゃ。
自らの本性を知るとよいのじゃ。
>>323 例えば大きな木が自分を葉の一つと想い、それが散るのが自分の死であり消失であると思っているとするのじゃ。
しかし、目覚めて自分は葉ではなく大きな木であるから葉の一枚が散っても何も悪いことはナイト気付くようなものじゃ。
肉体の老病死はそれを自分であり個我と想うものにとっては苦になるのじゃ。
全てであると気づけばもはやそれは苦ではなく、自然な働きの一つであると知れるのじゃ。
そのようにして老病死を超えるのじゃ。
>>324 小乗も大乗も無いのじゃ。
それが現実なのじゃ。
現実を見るのじゃ。
>>325 おぬしが自分はないと想うならば矛盾じゃろう。
しかし今自分があると思う故に矛盾ではないのじゃ。
自分の本心わ観るのじゃ。 >>326 少しも大事ではないのじゃ。
自分を観ることが大事なのじゃ。
>>327 遊び以外には通暁しなくなるじゃろう。
良くも悪くも無いのじゃ。
仕事とか修業を遊びと想ってするのがよいのじゃ。
>>328 今の自分に興味があることをするとよかろう。
自分の本心を見て本当に今楽しいと思えることをするのじゃ。
記憶に頼ってはわからないのじゃ。
>>330 そうじゃ、全ては繋がっているのじゃ。
自他一如なのじゃ。
>>331 逆でもないのじゃ。
それも観念であるからのう。
あるものをありのままに観るのじゃ。
>>332 どこからも起こっていないのじゃ。
ただ分別によってそれがあると思うだけなのじゃ。
分別を離れれば全ては元からただ一つと知れるのじゃ。
>>335 自分の本当によい所を見るがよいのじゃ。
無理に否定することも無く本当に善い事をしたこともあるじゃろう。
それを観るがよいのじゃ。
もしや、良いところ、という意思を持てばいいのでしょうか? 鬼和尚の答、俺は何かだめだな。
無料だとこんなものなのかな。 朝早くから、トラクターや草刈り機の音がうるさいです。
今は全部機械でするから、そんなに忙しくないはずです。
9時ぐらいから仕事をすればいいのに・・・。@農村地帯 >>333
ありがとうございます、
弓が認識で
矢が見るもの(自己)
的が見られるもの(他者) でしょうか
悟りはそれら全てが無いと気付く事でしょうか
定義を辞めた方が良いというのは
悟りの想像をしたり考えたりする事に時間を費やさず、
観察に徹するべき、ということでしょうか
>>338
ありがとうございます。
悟りの事を考えたり想像したりするのは、俗世の雑事に悩まされるよりはマシかも知れませんが観念遊戯に陥っては同じことですよね…
まだまだ精進します。 >>341
健真さんもこの頃疲れてるようだ、
五月病ですか? >>342
リュージュ空だ
ま
例え間違いは構わん
どうせ要らんし
いや
ま
いわば関数化されるので自縄自縛だ
で
観察時も同様だよ
いわば要注意だな 暖かくなってくると草取りやら草刈りに追われるようなる。
まぁ、わしは午前中しか仕事をしないけど疲れる。
悟りどころではなくなるんじゃ。 疲れるのもまた悟り
疲れることを嫌がらず疲れるときは疲れる
するとあら不思議
疲れてるのに疲れていない
心身は疲れていても自分は疲れていない疲れない
自分は何も変わらない 鬼和尚、思い出しました。
以前、スポーツなどで無茶をやっていたのにもかかわらず、
まったく疲れず動くことができていました。
単に老化したのかと思ったのですが、
その時期、感情が割と安定していたようです。
グルジェフの教えを眺めていたのですが、
一見すると、苦行者のように思います。
苦行というとどうしてもお釈迦様が苦しんで
立てないほどというところを想像してしまっていたのですが、
赤痢で倒れかけているにも関わらず、
動き続けた上、
それだけでなく、その状態でサマーディと思しき体験をし、
精神的にかなり安定していたようです。
力を発揮していた人がいてもまったくおかしくない、
そのような環境だったように思えます。
力を得る修行とは、簡単に言ってしまうといわゆる超努力によるものでしょうか? 感情の安定も力の修行も苦がないという状態でなければ意味がないか、
失礼、質問は無視してください。 >>336
肉体を持っている人間が気付きや悟りでどうそれを超えるのか具体的にわかりません
頭がガンガン痛くて薬も効かなければどんなに明るく気丈な人間でも、平常心を保つのも行動も
以前の様にはいかなくなり、いずれ身体に心が負けるのも時間の問題かもしれない、そういう
無慈悲なところがあるのが肉体です
悟った人はその状態でも依然と全く変わらず苦も感じないのですか?
もし病でも健康でも全く変わらないなら鬼和尚さんは健康に気を付けないだろうし、現実レベルでは
肉体に影響を及ぼされるんではないですか? 他人との距離感について
基本的にほとんどの人は一人かあるいは親族と共に生活していると思います。
自分は人との距離感が近すぎると警戒してしまって、
友人であっても一緒に生活するのには抵抗があります。
(緊急事態とか本当に困ってる状況とかなら仕方なく泊めることはあると思いますが)
しかし世の中ではルームシェアというのも広がっていて赤の他人、異性や外人であっても
全く抵抗なく共同生活できる人も多いようです。心がオープンというか自分にとってはとてもできないことですが。
こういう距離感というのは近ければ近いほどよいものなのでしょうか?
自分は警戒してしまってルームシェアなんかはとてもできそうにないですが
そういうのも直して他人にオープンになる方が人間として正しいのでしょうか? 鬼和尚、たびたびすいません。
変わろうと決心した場合、
何かしら環境に自分にとってあまり好ましくない変化というのは
起きるのでしょうか?
それがいわゆる業なのでしょうか。 >>339 自分をありのままに観ればよいのじゃ。
よい所もあるじゃろう。
悪いところしかないというならばそれも否定的に観ているだけなのじゃ。
他人の意見を聞こうとするのもおぬしの善い所なのじゃ。
そのようにありのままに観るのじゃ。
>>340 全てをありのままにさらけ出すのじゃ。
よい所を見せようとすればありきたりの答えしか返らないのじゃ。
自分自身を賭ければ相手も全力で答えるのじゃ。
>>341 目覚ましと想えばよいのじゃ。
起きたついでに瞑想に励むのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>342 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>347 そのようなこともあるじゃろう。
しかし毎日出来るものではないのじゃ。
日々瞑想を続ける効果には及ばないのじゃ。
日々精進あるのみなのじゃ。 >>349 おぬしも髪の毛や爪先がちょっととれた位で苦になることはないじゃろう。
全てが一つの意識と気付いたならば、この肉体全てもそのような小さな髪やつめ先のようなものに過ぎないのじゃ。
悟れば肉体の苦は無いのじゃ。
説法をするために肉体が必要であるから健康にも気をつけるのみなのじゃ。
>>350 近くなくてよいのじゃ。
近すぎれば互いに傷つけあい、やがて別れることにもなるのじゃ。
そのままでよいのじゃ。
自らの道を行くがよいのじゃ。
>>351 起きないのじゃ。
起きたとしたら偶然なのじゃ。
決然として変るとよいのじゃ。 .>>353
意識が肉体から厭離しているため痛覚や具合の悪さも意識には関係ないという事でしょうか?
感じはするが切り離せるのか
観察を続ければ誰もがそのようになれるのですか?ですが難易度は高そうですね 何度も、鬼和尚に肯定も否定もするな、ただ観よといわれているのに、
なんとなく自分が何を自分かと思っているのか、わかった気もします。
無意識の内に抵抗していたようです。
あまり、観察したくはないですが、、、いずれやらなくてはならないか。
数息観、励みます。 >>353
>悟れば肉体の苦は無いのじゃ。
肉体への執着からは自由になれても、痛み(痛覚)からは自由になれないのではないでしょうか?
鬼和尚は体のあちこちに針を刺されても笑っていられるところを、人々の前で公開実演することができますか?
(実際にするかどうかは別にして)鬼和尚は痛みも感じずに笑っていられるのでしょうか?
鬼和尚は麻酔など一切せずに盲腸などの手術を受ける自信もおありなのですか?
>髪の毛や爪先がちょっととれた位で苦になることはないじゃろう。
髪の毛や爪には神経が来ていないので誰も痛みは感じませんが、神経が来ている他の部分も髪の毛や爪と一緒にするのは無理があると思います。 自分の本心がようやく分かりました。
内容は割愛しますが、過去の親や先生からの、スパルタ的な教育が原因と分かりました。わたしにも、そうさせる要因はあったのでしょうけど。
今日の今日まで気づかずにいたので、今まで沢山の人にわるい印象をたくさん与えたと思います。すみませんでした。
でも、今日から新たに生まれ変わったつもりで人生を生きていこうと思います。人生楽しむぞ!!!! 自分をみつめ、わかってあげながら、生きていこうと思います。 たびたび失礼します。一睡もできなかったなぁ
鬼和尚が、何故私に否定も肯定もするな、と話していたかようやく言葉にできます。
何度もそうアドバイスを受けているにも関わらず、それができなかった。
なぜならば感情を自分と思っていたためであり、
考え、行動、記憶、見るものが感情の影響をうけ、
正しく機能していないことを伝えるための頓智でした。
コントロールができないと考えていたようです。
酒に逃げてしまう本当の原因もこれにありました。
それに気づいても、まだ自分がいます。
なので、これは自我ではなかった、もしくは観察が中途半端のどちらかです。
これからはきちんと戒めます。本当にありがとうございました。 自己顕示欲は欲望としては特に害のないものだと考えて大丈夫ですか?
芸能人や女子アナのように人前に出て自分をアピールする仕事の人には必須な欲だと思います。
自分がカッコいい、可愛いという自覚があってそれを武器にしてのし上がる野心家に多い欲ですね。
自己顕示欲が強いのは別に悪いことではないですか?
修行者の視点から見て、野心を持って社会で成功し賞賛を浴びる人を幸福と感じますか? 鬼和尚、西式健康法の朝食抜きは疲れますなぁ。
もう半年続けていて、腹はへっこみ、体重も落ちてかなりスリムになりました。
それは嬉しいのですが、力が出ません。
もう少し続けたら慣れるのでしょうか? >>350
どうとでもx2
ま
楽だ
結局
>>362
如何様にもx3
ま
自由だ 観察の極意は、自分を観て自分に気づくこと。
想えばちゃんと生きてる人ほど、自分を観れているし、自分のことが分かっている。
自分が分かれば周りを観る余裕も生まれ、結果、何不自由ない生活をしている。ように私には見える。
また、自我や観念で苦しんでいる人は、自他一如、みずからと他者を大切にしなさい、という
自我観念からのメッセージが来ているんだ、ととらえてみると苦しみは消えるかな、と私は思う。 ○自我観念からのメッセージが来ているのかな←×自我観念からのメッセージが来ているんだ >>353
付けたしです
>説法をするために肉体が必要であるから健康にも気を付けるのみ
ということは肉体を早く駄目にしないため、ということだけで過程でぼろぼろの肉体でも説法に
差支えませんか?
悟ったからと言って肉体を超越するような超人になるわけではなく、肉体にある以上多かれ少なかれ
肉体に支配されますか?
肉体の苦はないのじゃ、と言い切るという事は超人になると解釈していいですか? やはり、私はずるかった。
自力で気付けたわけではないのに。
幸い、修行のための最高の環境にあります。
もう、自分からは逃げません。 >>354 そのようなものじゃ。
痛みなどはもともと肉体の病や傷の警告に過ぎないものじゃ。
観察すれば誰でも無に出来るのじゃ。
集中しても感じないように出来るのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>355 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>356 痛みなどはもともと肉体の病や傷の警告に過ぎないものじゃ。
昔のテレビではヨガのおっさんがよく体に針をさして実演していたのじゃ。
強く集中すると肉体の警告などは無視できるのじゃ。
おぬしは痛みを恐れすぎているようじゃ。
痛み恐怖症じゃな。
痛みそのものではなく、痛みの記憶や痛みに伴う負のイメージを恐れているのじゃ。
それを自分の心に観察してみるのじゃ。
>>357>>358 善かったのじゃ。
またおいでなさい。 >>359 気付いて善かったのじゃ。
またおいでなさい。
>>362 人を傷つけないならば害は無いじゃろう。
特に悪くも無いのじゃ。
自ら驕り高ぶるのはいかんが、修行するものでないならば特に制御しなくてよいのじゃ。
そのような者も不幸じゃろう。
老病死によってはかなく消えていく名声に時間を費やしてしまうのであるからのう。
>>363 やせてよかったのじゃ。
慣れるじゃろう。
西式の半断食は栄養過多を避けるためであるから、寒天食はよいのじゃ。
今は寒天のゼリーなども売っているから腹が減ったら食べるとよいのじや。
>>365 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。 >>368 肉体がぼろぼろでは説法にも差し支えるじゃろう。
言葉も出ないかもしれんからのう。
肉体の制約はあるじゃろう。
目覚めた人なのじゃ。
>>369 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
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