(戦争を語る:2)孤児たちの「遺言」 戦争孤児の会代表・金田茉莉さん:朝日新聞デジタル
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13080270.html?rm=150


全国の疎開孤児は、膨大な数だったと思います。孤児施設も極度に不足しており、引き取る親戚がなければ、農家などへ養子にだされました」

 ――いきなり、養子ですか。

 「里親のもとで愛情深く育てられた人もいますが、戦後の混乱期で人心はすさんでいました。働き手を軍隊にとられ、どこも人手不足でした。
こきつかわれ、学校に通えないことも珍しくない。文句を言う親も、行政のチェックも、何もありませんでした」

 ――孤児たちはなぜ、路上をさまようようになったのでしょう。

 「当時5年生だった男性は、集団疎開から戻った上野駅で迎えがなかったそうです。パニック状態になり、焼け跡で家族を捜しても見つからず、日が暮れて駅に戻りました。
『生きていないと親に会えない』と思い、盗みを始めたと打ち明けてくれました。同じ境遇で一緒に地下道にいた3年生の男の子は、何日間も何も口にできず、
『お母さん、どこにいるの』と言った翌日、隣で冷たくなっていた、と。いったん親戚や里親に引き取られても、重労働や虐待に耐えかねて家出をして、
浮浪児になった子も数多くいました」

 ――国は戦争孤児を守ってくれなかったのでしょうか。

 「戦後、戦争孤児の保護対策要綱を決め、集団合宿教育所を全国につくる方針を示しました。しかし、予算も規模もまったく不十分でした。
見かねた民間の篤志家や施設が私財をなげうち、孤児を保護したものの追いつかず、街に浮浪児があふれました」

 ――国の支援不足が浮浪児を生んだ、と。

 「そうです。戦争孤児は、国に棄(す)てられた。私はそう思っています。20代のころに、当時の厚生省(現厚生労働省)に戦没者遺族への補償を受けられないか、問い合わせました。
生活苦で、わらにもすがる思いで。でも『軍人・軍属の遺族ではないので、対象ではない』と言われた。同じ戦争犠牲者でも、民間の空襲被害者は差別されているのです」