>>411
当て身を禁止したんじゃなくて、当時の古流の伝統を継承した
当時、当て身を自由乱取りでやってるところは基本的に無かった訳で
唐手にしても型しかなかったんだから
その上で嘉納自身としては当て身を重視していた
形で当て身をやらせ、自由乱取りに組み込もうと研究していた

で、一流派の講道館が考え採用した様々な制度が歴史を大きく変えて、
講道館が柔術諸流派を吸収していって、講道館=柔術諸流派の総合=柔道になったんだよ
当時の古流ってのは流派毎に方向性が全く異なっていた上で、
立ちも寝技もどの流派でも参加できる試合形式を採用し武徳会で共通ルールとなる
形によって行われる当て身や武器術や極め技も、講道館が諸流派の技を統合して柔術共通形として古流をまとめることになる

寝技に関しては確かに遅れをとって引き込み禁止等のことはやっている
嘉納個人は当て身を重視する考えで寝技を軽視していたところはあった
ただ、柔術の総合になった柔道は古流の人材を吸収していく上で、嘉納の思惑を越えて寝技の技術もまとめ発展させていく
前田光世とその系譜のブラ柔にしても、川石酒造之助の川石メソッドにしても、
三船久蔵の様々な形にしても、牛島辰熊のプロ柔道にしても、
当時の戦前の柔道家は寝技も深いところまで身に付けて研究している者が多い
現在の世界の格闘技で行われている寝技のルーツのほとんどが柔道に見られる訳だから