「早慶明」という言葉は大正時代からあった。
当時の早稲田と慶應は非常に仲が悪く、野球の早慶戦も満足に行えない状況だったので、
明治大学が仲介者としての役目を果たすことを期待されていたのだ。

横井春野 『日本野球戦史』 日東書院、1932年
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213344

早慶戦復活の事情について飛田忠順氏は語る。

大体早慶戦復活のことは、大正3年大学リーグ(当時は慶明早三大学の変形リーグ)を
明治大学が主唱して組織したときから、主唱者たる明治が、早慶を握手せしめて
同一グラウンドに立たせた以上、当然早慶試合の復活を如実にすべく尽力することを誓っていた。
しかるにその後法政が参加して四大学となり、さらに立教、帝大が加わって
六大学となったけれども、依然たる変形リーグを持続し、試合日割から
早慶戦というものは、いつまでも浮かれて世間的にも非難が高まっていた。

私は大正3年リーグが成立したときには、東京運動記者クラブの委員として
この協議会に立ち合い、猛然と早慶試合復活を主張し、明大の田島理事と
激論したくらいであるから、明治が責任をもって早慶試合を復活するという
声明に対しては生き証人というべきものであった。ゆえに折に触れて
明治方へその実行を迫っていた。しかし明治は早慶の後輩としてことごとに
遠慮がちに慶應に対しても極めて微温的交渉にとどまり、積極的態度に
出るようなことがなかったから、頑強なる復活反対論を支持する
慶應幹部を説得するなどは思いもよらなかった。

然るに時は自然に来た。大正12年以来湯浅の出現によってティーム力を増加した
明治は、その覇業を成すためには、戦わざる早慶を前後にうけて戦うの
頗る不利なる状態となり、明治は一方を倒し得ても、一方虚を衝く利便を持つ
早慶を同時に倒すことの困難を感ずるようになっていた。時たまたま慶應には
人格最も優秀真に日本球界のためを思うの志士桐原真二君が現われ、
内面的に復活に奔走し、リーグは六大学になってようやく陣容を整え
法政の監督たりし武満国雄君が強硬に復活を主張し、もし慶應容れざれば
ただちにリーグを解散して、吾々は理由なく試合を拒むティームと別れて
新たに連盟を作るほかなしと声明するに至った。

大正13、4年は慶應ティームがことさら悲境にあった時代で、明治の台頭にほとんど
連敗の憂目を見ていたから、心ある先輩はこの苦境を脱する一法としても早慶復活の
急務なることを考えていたに相違ない。そこへ桐原君のような人物の奔走と、
法政の武満、明治の内海教授などが、この機逸すべからずと慶應方を攻めたてたので、
時の審判と人の力と相合して遂に大正14年秋単独復活の名義をもって
20年の確執から開放され、めでたく復活戦を戸塚球場に行うことになった。
(新青年野球と極東大会号)