北里は臨床医ではなく基礎医学者であったが、日本医師会の初代会長となった

それ以来日本医師会は慶應義塾大学医学部出身者がトップに就くことが多く、
日本医師会を「日本最強の圧力団体」と言われるまでの政治力がある組織に育てたのが、武見太郎である。

「けんか太郎」の異名をもつ武見は、東大・京大や旧帝大などの国公立大学医学部の研究至上主義に対抗して、
私立医学部と開業医の地位の向上に尽力した。
慶應医学部は1970-1980年にかけて東大医学部を偏差値で少し上回っており、
慶應出身者の子弟や臨床医志望の学生を中心として東大理Vを蹴って慶應医学部に進学する者もいた。

頭のよさでは東大医>>>>>>慶應医だが
医者としての技術力では慶應医>>>東大医、
かっこよさでは慶應医>>>東大医とみなされていたのである。

学校としての歴史は幕末に中津藩奥平家の中屋敷内に開いた蘭学塾から始まった慶應義塾の方が東大より古く、
東京帝大の初代教授は外国人以外は慶應から多く来たのである。今の価値観ですべて割り切るのは軽薄すぎる。
慶應とはじめとする私立の医学部はイギリス医学の臨床主義、現場主義、治療中心主義を受け継ぎ、
旧帝のドイツ的研究第一主義と敵対している。

東大医学部の外科の教授が官僚的学者にすぎず、手術の技術も三流の無能であり、いざとなると私立医大のゴッドハンドに泣きつくことは、2014年に全国民に知れ渡ってしまったではないか。
天皇陛下の心臓バイパス手術の際に、東大の心臓外科のペーパードライバー的教授は、全く使い物にならず
近くの順天堂大の神の手・天野篤さまにお頼み申したのである。