帝国軍人が創ったMARCHの理工学部
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血塗られた歴史 MARCHの工学部
早稲田と日大の理工学部がエンジニア育成の為に
自力で作られたのに対し
第2次大戦のさなか帝国軍人が大量殺戮の為に創ったのが
MARCHの工学部。
帝国軍人が戦争をあくまで遂行するために
急遽創ったのがMARCHの理工学部。戦車や大砲を作るために
創られたのがMARCHの工学部です。
昭和19年:青山学院大学(青山学院工業専門学校)
昭和19年:立教大学 (立教理科専門学校)
昭和19年:法政大学 (航空工業専門学校)
昭和19年:明治大学 (東京明治工業専門学校)
昭和19年:中央大学 (工業専門学校)
〇MARCHの理系は私はお勧めしません。東条英機ら軍部の造った
最低の理系です。 出自を隠して「本学の使命の対極にある」
と虚言を吐く田中優子法政大学総長ッテおかしくない。 なんのことか分からない?
大學にもいろいろな歴史があります。
歴史の謎を解いていきます。 日大は創設者が人殺なんだっけ?
愛のエメラルドこと藤枝市の松浦孝治爺 狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html
「兵は隊伍に偏し、銃砲を取り敵前に進ましむることを以て、
本務とすべからず、人民一般の知識敵兵に超越するを以て最要とす」。
山田顯義はヨーロッパ視察後、「軍政建白書」という長大な意見書を
提出しているが、その中に次のような一節がある。
「兵は隊伍に偏し、銃砲を取り敵前に進ましむることを以て、
本務とすべからず、人民一般の知識敵兵に超越するを以て最要とす。
ここにおいて、国民中貴賤貧富の別なく、幼稚のときより
郷学において、普通学を教え、兼ねて銃器訓練を行はしむ」 工学部という学部を私立大学が一般的に持つようになったのは、
太平洋戦争以後のことである。
戦前に本格的な工学部を持っていたのは、早稲田大学と
日本大学ぐらいのものであって、その他の多くの私立大学は
法、文、経の学部だけしか持っていなかった。
そういう点では、戦前の大部分の私立大学は、総合大学という名に
ふさわしいものでなかったと言える。
法政の工学部も、その前身は戦時中に設立された
航空工業専門学校である。 航空工業専門学校を創立しようという議が起ったのは、
太平洋戦争もしだいに困難な段階に立ち至っていた昭和18年
(1943)のころであって、いわゆる国家の要請というものに
基づいてであった。そのころ航空技術者の不足をおぎなうため、
各地の官立の工業専門学校には航空学科を、また
私立大学には航空工業専門学校を新設することになり、
法政大学も、明治、中央、青山、立教その他とともに、
その創立の準備にとりかかることとなった。 しかし、その当時は実験実習の資材に乏しく、また教育に
あたるべき人材も、それぞれの部署に動員配置されていたので、
設立の準備も、なかなかたやすくは進まなかったのである。
当時の川崎市木月の予科が、航空局航空試験所のすぐそばにあったので、
実験実習はこの試験所の設備をそのまま利用することとし、
わずかの教員を東大の航空研究所その他から得て、一応、
昭和19年(1944)四月に、木月の予科の校舎内に竹内賀久治(法政)総長の校長
兼任のもとに創設され、第一年生三〇〇名を入学させて教育が始まったわけである。
開設当初の専任教員は二名、あとは兼任講師であった。 しかし、その翌年の夏には、太平洋戦争は敗戦になって終り、
最初の創立の目的は達せられなかったが、昭和二〇年一〇月、
法政工業専門学校として継続され、校長に塩原時三郎が就任し、
機械科の1科に改編されてつづけられた。
この終戦の時に、航空工業専門学校をどう処理するかは、その私大の
心構えをテストする一つの機会となったといえる。 明治、中央は法政とともに工業専門学校として
続けることに決まったが、青山学院その他の学校のように、
この機会に廃止してしまうものもあったし、
一方において、立教大学の様に、一応は工業専門学校としたが、
さらにこれを一層充実して、新学制施行とともに
理学部に改編したものもあった。
これら科学技術を放棄しなかった大学は、その後約一〇年にして
押しよせてきた科学技術教育振興の波を、当時すでに
予見していたと考えるべきであろう。
参考資料 法政大学八十年史 昭和三六年八月一日発行 ヤフオク!
自主盤・GS・岩本善行「愛のエメラルド/霧の街角」グループ
カテゴリ レコード > ジャパニーズポップス > その他
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EP 岩本善行 「愛のエメラルド/霧の街角」 【自主制作/FO-46】
2,000円より
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h298036655 法政大学さんほどラッキーな大学はないと思うぞ。
明治10年代、明治大学さんとの授業料値下げ競争に敗れ
お先真っ暗な法政に、ボアソナードとの信頼厚い山田顯義司法大臣が
司法省から補助金を出してくれるんだな。そのお金で九段上(富士見町)
に移転し校舎を新築するんだな。東京法学社と東京仏学校の合併、
教職員の人事刷新まで山田顯義伯爵がやってくれました。
帝国議会がスタートするまでは
各大臣の「人間力」で明治政府が動いていたのだな。
工学部の創立もMARCHにとっては災い転じて福を成すで大変ラッキー
でした。軍事協力がMARC法政に幸運を齎しました。 ニッコマンの兄弟校 法政ボーイ
ボアソナードは経営の苦しいフランス派の拠点 法政大学の為に私財を投げ出し奮闘するんだがな。 [無断転載禁止]2ch.net
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/joke/1502677275/
高慢ちき?なボアソナードが日本で働けたのは 大木喬任や山田顯義司法大臣らが親身になって [無断転載禁止]2ch.net
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/joke/1502794322/
どうだい。法政大学にもう一つ 山田法典伯タワーを立てるのわ。 [無断転載禁止]2ch.net
http://medaka.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1502794279/
な。 法政大学は創立当時から経営基盤が弱く、首脳陣は 夜逃げしたり病死したりと頼 [無断転載禁止]2ch.net
http://medaka.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1502677371/
法政と日大のライバル関係 (41)
https://2ch.vet/re_nozomi_jsaloon_1506938916_a_0 たかが大学史で志望校を変えるガイジがいたら指差して笑ってやるよ 戦時教育体制の強化
太平洋戦争の逼(ひつ)迫は残された唯一の戦力たるべき学徒の全面的動員を迫ってきた。
昭和十八年十月閣議決定の「教育に関する戦時非常措置方策」は、このきびしい要請に
こたえたもので、理工科系統および教員養成諸学校学生を除き、一般学生の徴兵猶予を停止し、
学校・学科・教員・学生の転換・整理・統合の断行を図ったものである。
この緊急措置の結果学徒の全面的な出陣となり、高等教育の戦時体制は急激な強化を
見るようになった。この緊急方策によって文科系大学および専門学校はこれを転換・整理・統合し、
理工科大学および専門学校は整備・拡充し、高等学校については入学定員を文科にあっては
全国を通じて従前の三分の一をこえず、理科にあっては所要の拡充を行なうことにした。
特に私立の文科系大学および専門学校については、相当数の大学を専門学校に転換させ、
専門学校の入学定員はおおむね従前の二分の一程度になるように整理・統合するなどの措置を講じ、
勤労動員についてはこれを教育実践の一環としていっそう強化し、在学期間中一年につき
おおむね三分の一相当期間の動員を実施することとした。 法政大学航空専門学校の新設 1
「竹内賀久治伝」によると、昭和18年 (1943)ごろ、
軍部には、理工系学部をもたない法文系の私立大学を
無用視して、これを二年制専門学校へ格下げしようとする
意向があったらしい。
これを聞くと、竹内(法政)総長は直ぐ明治、中央、
青山、立教など同系列の私立大学に喚尾かけて猛烈に、
反対を唱え、その実現を喰い止めることに
奔走したとある。 「竹内賀久治伝」によると、昭和18年 (1943)ごろ、 軍部には、
理工系学部をもたない法文系の私立大学を 無用視して、
これを二年制専門学校へ格下げしようとする意向があったらしい。
これを聞くと、竹内(法政)総長は直ぐ明治、中央、
青山、立教など同系列の私立大学に喚びかけて猛烈に、
反対を唱え、その実現を喰い止めることに 奔走したとある。
その代わりにこれらの大学では航空技術者養成を
目的とする 航空工業専門学校を設けることに
なったらしい。 法政大学航空専門学校の新設 2
法政大学でも神奈川県川崎市木月の予科の校舎内に
法政大学航空工業専門学校をつくった。
これが戦後一時法政大学工業専門学校と改称され、
やがて昭和二五年(1950)に昇格して工学部に
なった。
□ 残念ながら当時の資料は東京大空襲によって
殆どが燃えてしまったとのこと。
法政大学の麹町にあった本部の建物は昭和二〇年(1945)
五月の大空襲によってその殆どが殆ど火災に会い、保管さ
れていた重要書類なども烏有に帰してしまった。そして
間もなく日本の無条件降伏によって戦争は終わったのである。 この終戦の時に、航空工業専門学校をどう処理するかは、その私大の
心構えをテストする一つの機会となったといえる。
□ 法政工業専門学校は、このような事情で一応出発することになったが、
その後のあゆみは困難に満ちていた。
学科は機械科ただ一つであって、これではやっていけない。あと
二つ三つの学科を増設しなくては、専門学科としてまとまらない。
そのうえ、木月の予科の校舎から出て、千葉県の総武線津田沼駅から
さらに徒歩で五`ばかり奥にある習志野の、もとの陸軍の
騎兵学校のあとに移転しなくてはならない事情があった。
昭和二一年(1946)四月に塩原学長は辞任し、その年の一二月に
松浦四郎が校長に就任したが、新任そうそう学生から習志野移転
反対の運動が向けられた。
そこで、ともかく第1期生が卒業するまでは木月の校舎で授業することになり
、昭和二二年三月に第1回の卒業式を約一八〇名の学生のために
おこなった。戦時中の昭和一九年に入学した三〇〇名のうち、
その六割が卒業したことになる。 □法政、電気通信科、建築科(土木専修・建築専修)を昭和22年、新設
昭和二二年(1947)四月からの新学年は習志野の原っぱの中の
殺風景なところで開始した。
この移転はずいぶんやっかいなことであったが、ガスも水道もない
騎兵学校あとの馬小屋の雑居する建物の中に、工業教育施設を
しようというのであるから、いまから考えると大胆というか、
無謀というか、まったく話にならないことをやりかかったものである。
そううえ、習志野移転とともに、学科を増設して、従来の機械科の
ほかに、電気通信科、建築科(土木専修・建築専修)を同時に新設したのであるから、
新しい教授の招じ入れに、不便な場所で一層の混乱を来した。
もちろん、移転に同行しない教授もあった。 こうしてあわただしい習志野での一年はすぎて、昭和23年(1948)
三月に、第二回の卒業生約一二〇名を送り出すことができた。
これは、戦争末期の昭和二〇年に航空高専として入学した者である。
習志野移転の機会に、中央大学や明治大学などに転学した者が多数
あって、残ったのはこの一二〇名にすぎなかったのである。 ところが、この昭和二三年には、学制が新しく改訂されて、
専門学校というものが、将来新制大学に改編しないかぎり
廃止されることになった。
そこで、法政大学では、この習志野の工業専門学校を
拡充して工学部とすることになり、その申請を文部省に提出した。
しかし、専門学校としてさえ設備が不備であったものが、
大學としての審査に合格するはずはないのであって、
審査の結果は留保ということになり、昭和二四年度(1949)からの
工学部昇格は不成功に終わってしまった。
参考資料 法政大学八十年史 昭和三六年 非売品 工学部開設 ー富士見町時代ー
工学部として新発足
昭和二四年(1949)の新学年からは、加茂正雄が校長に就任し、
新たに経営科を設けて陣容を整え、工学部への昇格に対する
準備をすることになった。
しかし資力にとぼしい法政として、習志野の原っぱの中に、近代設備
を必要とする工学部を整備することはとうてい不可能であることが
わかったので、富士見町校舎のなかに工学部を置くこととし、
文部省の審査を受けることになった。
この審査にはいろいろの条件がつけられたが、ともかく通過したので、
昭和二五年(1950)四月、工学部が富士見町校舎内に開設され、
加茂正雄が工学部長に就任し、学科は機械工学科、電気工学科、
建築学科(建築学専攻、土木工学専攻)、および経営工学科の
四学科編成として発足した。 しかし工業専門学校の在学生のうち大学に移行しない者には、
そのまま習志野で授業が続けられ、それらの学生一九〇名は翌年の
二六年三月に第五回卒業生として巣立っていき、工業専門学校は
満七ヵ年の齢をもって廃止された。 敗色濃く切羽詰まった軍当局のメチャクチャともいえる
理不尽な要求を見事に切り返した竹内賀久治法政大総長は
、今のキャンキャン娘?総長と違ってヤリ手だと思うぞ。
平和が続くとな、平和ボケする連中が出て来ます。
まぁ 航空工業専門学校が戦後、工学部として誕生するまでの苦労は
並大抵なものではなかったと思うぞ。
田中優子法政大総長は先人の苦労が分かっていない。
明治時代も、明治大学との授業料値下げ競争で敗北した時に
温かく手を差し伸べてくれた山田顯義司法大臣らの
思いやりを忘れてはなりません。 恩を忘れて卑屈になり、下に威張り散らすのが法政の学風 「竹内賀久治伝」によると、昭和18年 (1943)ごろ、 軍部には、
理工系学部をもたない法文系の私立大学を 無用視して、
これを二年制専門学校へ格下げしようとする意向があったらしい。
これを聞くと、竹内(法政)総長は直ぐ明治、中央、
青山、立教など同系列の私立大学に喚びかけて猛烈に、
反対を唱え、その実現を喰い止めることに 奔走したとある。
□ 竹内(法政)総長の切り返しは見事だよなぁ。
軍部の圧力横暴に屈していれば今のMARCHの工学部は
ありません。青山学院短大とか明治大学短大とか、
立教大学短大とか中央大学短大とかに成って居たですね。
まぁ青学短大が昨年、廃止になったのは
残念でした(笑) 工学部昇格の苦労
□ 工学部の昇格にも相当の苦労があったようです。
役人というのは汚いところがあるからね。
我慢に我慢を重ねて昇格を勝ち取ったようです。 工学部昇格の苦労
つぎに、新学制切り替え当時の文部省の大学設置審議会について、
記録しておかねばならぬことがある。この審議会は新制大学の設立や
専門学校の大学昇格などについて審査をするものであり、その後も
ずっと続いているが、制度切替え当時の昭和二三、二四年ごろは、
ずいぶん各地でいろんなスキャンダルがあったことを耳にしていた。
委員は主として国立私立の大学教授たちであるが、いわば同業者が
お互いに審査するのであるから、その間に種々の事情が介入することも
或いはやむを得ないことであったろう。
ところが、二五年度に対する審査にあたって、主査であった当時のある
国立大学長が法政の教授を引き抜いたことは心外であった。
審査の主査である地位を利用して、審査の対象になっている学校の優秀な
教授を引き抜いたことは心外であった。
審査の主査である地位を利用して、審査の対象になっている学校の優秀な
教授を自分の大学にもらいたいと申し出たのである。
しかし、なにをおいても審査にパスすることが絶対に必要であった
法政としては、すべてを忍んだのであった。 富士見町時代は、昭和二五年と六年の二年間で、工学部開設の
時代である。なにぶんにも工学部昇格の難産であった理由が、
大学の資力の弱体による設備の不備であったと認められたので、
習志野からの移転を機会に、法政を去っていった教授もあったが、
それでも大部分の強力な教授たちは居残って、加茂学部長を中心に
新学部の充実に力を尽くすことになった。
しかし移転につぐ移転で、まとまった施設は、なにひとつ
出来上がっていない。
しかも法政が移転に空費していた年月中に、明治、中央などの
工学部は着々と基礎を固めている。
はたして昭和二五年度工学部第一回の学生応募者はきわめて
少数であって、前途を心配させるものがあった。 ありがたいお話だよな。帝国軍人が残した
プレゼントがMARCHの工学部だよな。
軍事協力から何時の間にか平和産業に貢献する形です。 帝国軍人の置き土産という、
棚から牡丹餅の形ではあったんだが、
軍事産業から平和産業に
我慢に我慢を重ねて工学部を誕生させた
当時のMARCH関係者の努力は尊いな。 帝国軍人が作った日本大学はどうでしょう?
人殺しの大学が医学部持ってるのか 日本軍隊を誕生させたのは山田顯義と
大村益次郎の2トップで間違いはないんだけどな。
でもなこの2人は徒党を組んで威張り散らしたり
乱暴を働く軍人が大嫌いなんだな。驕慢な兵士が大嫌い。
日本軍隊は数年で山縣有朋と西郷隆盛に乗っ取られるんだが
山田顯義は国土を守る必要最小限の軍隊を提唱するんだな。
征台論、征韓論にも反対して辞表を出しています。
山田顯義は軍事よりも大切なものは法律と教育だと云うんです。
日大、國學院だけでなくて法政大学にも
大きな貢献をしています。
狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html >>38
通えるよ
電車が速いから東京横浜間と変わらない 山田顯義(市之允)は医療にも貢献していますよ。
もともと市ィーの師匠の大村益次郎はお医者さんだしね。
西南戦争で山田顯義将軍は腸チフスにかかるんだな。
長崎の温泉や伊香保温泉で温泉療養に努めています。
晩年も熱海温泉でリュウマチの療養。市ィーの奥さんは
温泉街の旅館の箱入り娘さんだもんね。
温泉に浸かっていたばかりではなくて
山田顯義は日本衛生学会の会頭をやっていますよ。
今でいえば日本医師会の会長さんかな。 まぁ なんとも堅苦しいお話をしているんだがお役に立っているだろうか。
MARCHの工学部系の諸君はもちろん、5チャンネルの受験ネタサポーターも
初耳のお話が多いのではなかろうか。法政大学の工学部の誕生秘話を
今は展開しているんだが後二回、昭和二六年度で一度打ち切って、次は
御茶ノ水の名門日大理工学部誕生秘話にお話を移そうか。
「頭のいいのは日大生」と言われていたころのお話です。 愛エメ 歴史は後世の人々が判断すること
山田アキヨシとやらは日本史にも法政大学サイトにも全く登場しない
それが全てだ。 ★東京理科大学★
東京理科大学の前身はひとも知る『東京物理学校』で
ある。
1881年、明治14年東京帝国大学物理学 科初の
卒業生21名が
「理学の普及を以って国運発展 の基礎を為す。」
を建学精神として立ち上げた。
創設者は寺尾寿、桜井房記等、いずれ も日本の基礎
科学の立役者である。
1883年には、東京帝国大学と共同で 『物理学訳
語会』を作り、 『物理』 『力学 』『運動量』『慣性
の法則』『質量 』など物理用語を確定 した。
1897年に京都帝国大学が設置されるまでの間、自然科学の教育を施したのは東京帝国大学と東京物理学校だけであり、自然科学教育を施す高等教育機関としては2番目に長い歴史を持ち、理学教育を行う私立の
理系学校としては最古の歴史を持っている。
また、教育方針は厳しく、容易には卒業させないとい
うフラ ンス流の教育方針をとった。従い、卒業生は
優秀で官民の分野で大活躍をすることになった。
特筆すべきは、当時、エリート養成 機関である旧制
中学(今の高校)の理科、数学の教員 になって活躍
したのは同校出身者であり、正に、理学 の普及に尽
力した事である。つまり、今の技術立国 日本は東京
物理学校の建学理念を具現化したものと言え、この功
績は計り知れない。
(物理科学月刊誌『パリティ』早稲田大学名誉教授
大槻義彦) 歴史から消えて言った人物を再発掘するのが
私の仕事です。山田顯義(市之允)は生前、法典編纂の
功績を称せられ、憲法を制定した伊藤博文と共に
正二位に進んでいます。
山田顯義は今では日大生に知られていますが最近までは無名でした。
明治時代の主役でも振り向いてくれる人がいなければ路傍の石です。
日大創立者の山田顕義だが
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/school/1381/1074683735/ 法政大に恋い焦がれた山田アキヨシとやらを偉人として評価しろって可笑しくないですか
法政大学に恋い焦がれた日本大学卒郵便局員を定年退職したアンタを誰が尊敬出来ますか 工学部昇格後の苦悩
まず教室と実験室を持たなくては教育はできない。
そこで、いまの大学院(五三年館)のある処が空き地になっていて、
法政大学工学部建設用地という立札が建っていた。
そこへ、立札だけでなく、ほんものの校舎を建てようということになり
設計図面が作られ、いよいよ建設業者に入札させる段階にまで
こぎつけたのが、昭和二六年(1951)の夏のことであった。
ところがここで、また問題がおこった。
それは、かねてから不振であった麻布の中央労働学園大学を
法政大学に合併する議が起り、その中央労働学園の校舎を工学部が
合併後の社会学部と共用するという案である。
つまり、工学部を麻布に移転するという案である。工専時代からかぞえて、
木月、習志野、富士見町、麻布と、五年館に四回も居所をかえることになる。
まじめにものを考える教師ならば、たいてい嫌になってしまう。
しかし、これも、理事会の説得力と、教授たちの忍耐力との結果、
話し合いがきれいにできて、昭和二七年(1952)四月から麻布に
移転することになった。なおすでに二六年度から一年生は木月の
教養部に収容していたが、二七年度も一年生は木月に収容し、
したがって二七年四月から麻布で教育がはじめられたのは
二年生以上であった。 >>45
法政大学は山田伯に援助された側ですよ
ただ単に法政大学が恩知らずの恥ずかしい学風なだけ >>48
事実確認はしましたか?
まさかソースはごちゃんのコピペではないですか 初代司法大臣が設立されたばかりの一法律学校に過ぎない
吹けば飛ぶような和仏法律学校に恋焦がれたって何のギャグですか?
平成の世の中と違って、明治の司法大臣といったら絶大な権力者ですよ
国費を投じるのだって思いのまま
どう考えたって法政大学が援助される側 援助したという事実もなければされたという記録もない
これをどうしろと 日本大学工科の歌 〜若きエンジニア2016〜
http://www.youtube.com/watch?v=72bzUgVELGM
1 昭煥の日いづる國こそ わが祖國
其の名をば担いて 聳ゆわが母校
伸び行く日本の力は 茲に
地を拓きゆく者 若きエンジニア
2 青春に夢あり 宇宙に眞理あり
現實と理想を 結ぶ者我等
科學の力と 不屈の意志を
武器として進まん 若きエンジニア
3 永遠の光りを 現世に與うべく
限りなき奉仕と 愛の心もて
新たに幸ある世界を築く
わが腕に栄えあり 若きエンジニア
http://www.koyukai-cst-nu.jp/engi1.html >>52
法政大学の側に史料はなくても明治大学の側に
史料がありました。幾ら人のいい明治大学でも
こりゃぁ怒るよ。明治大との授業料値下げ競争で敗れた
法政大学を見捨てることは山田顯義司法大臣伯爵には
出来ませんでした。
□ 英吉利法律法律学校の菊池武夫氏と東京佛学校の栗塚省吾氏とは、
共に司法大臣秘書官たり、且つ
東京佛学校は従来普通学科のみなりしに、
補助金の議あるに及びて、俄かに法律学科を設けたる等の事あり、
物議躁然として起こり、山田伯と我が校との間、亦、
多少の誤解を生じ推薦の事、為に遷延を来したりしなり。
而して是れ亦些かも根拠なき行為にして、山田伯固より異意なく、
我が校亦固より此の如き事実に噛む所なく、光風明月、
胸襟漸くにして相徹し、茲に初志に依りて推薦を
実行したりしなり。
参考明治大学史 正価50銭 明治34年 1908 早稲田理工科
1920 日大高等工学校 〇
1944 東京明治工業専門学校(1949 建築) 法政大学航空工業専門学校(1947 建築土木)
27〜29年もあとに出来た建築学科が勝てるわけ無いでしょ
建築学科の評価は偏差値順ではなく、歴史順
日大理工建築は早稲田建築に12〜11年遅れてマーチ建築に27〜29年先行している 大正九年 日本大学工学部(現在の理工学部)の創設
明治から大正時代にかけて、わが国の教育界の、特に
私学の発達には、まことに著しいものがあった。
しかし、私立大学において理・工学系の教育施設を有して
いたのは、独り早稲田大学に理工学部あるのみで、
これにはいろいろな原因もあったが、施設に莫大なる
費用を要することと、法・文系学部に比較して、専任教授
を迎えることの困難であったことが、最大の
原因である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています