1920年代くらいの日大
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天下の日大とか
司法の日大と言われていました。
司法試験もただ合格するだけでなくて
トップクラスの成績でした。
東京大学が日本大学に負けた時代が
あったのです。 天皇陛下の日大ロースクール
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/11831/1439366112/-100
司法卿山田顕義伯爵の創立した司法の名門日本大学法学部出身の
日本弁護士連合会会長さんは辻誠、谷川八郎、江尻平八郎、
島田武夫、高橋義次氏の5名。 当時は明治や中央や日大の学士なら同世代上位5%以内のエリートだ。
当時は旧制中学に行ける人間ですら相当限られていた。 わいの祖先は日大いって
オリンピックも出たんやがすごい? テレビ番組「天皇の料理番」に出て来る明治37年当時の日本大学法律科は
昼間の東大法科、夜間の日大法科と云われ
質も上々だったようです。
埼玉のイモねーちゃんの通うMARCHや、関関同立との違いは
日大法科には実績があることです。MARCHが腰を抜かすぐらいの実績がね。
大正10年10月15日に発行された日大新聞創刊号の記事を紹介します。
在学生も通過せる半検事弁護士試験
本学出身の合格者55名 優秀なる此の成績を見よ・・・
半検事弁護士試験の結果は、此の程発表されたが例の如く
本学出身者の成績は、非常に良好である。
半検事試験に於いては首席より3番まであい並んで本学の占める所となり
6番9番も同様。したがって10番以内の合格者、本学出身者は其の半ばを
領している。
弁護士の方は2番より4番まで、7番より9番までこれ又本学出身者の占める所
10番以内の合格者6名は本学。
合格者数は半検事十名。弁護士45名。其のうち古野徳、小黒善蔵両氏は、
両方とも同時に合格し、また山田寛、宮崎巌雄、軸原宿一の3君は在学中である。 戦前の大学卒(学士)は非常に限られていたので、たとえ私大卒でも「学士様」と呼ばれて妬みや羨望の対象だった。
ただ大卒というだけで業界団体の会長に祭り上げられたり、田舎の町村では町長や村長に担ぎ上げられたりしていた。
今では考えられないことだが。
東京帝大の工学部卒の工学士とかはさらに凄く、大企業(三菱等の財閥系企業)の役員昇進率は5割以上だった。
東京帝大の工学部を出て海軍の技術士官になると、将官(少将以上)の昇進率がこれまた5割をこえていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています