PL全盛の時代、
四国にとって難敵の高校がもう1校あった。
和歌山の箕島高校。
甲子園での対箕島 1勝5敗。
特に、1977年春 決勝 中村0−3箕島と
    1979年夏 決勝 池田3−4箕島

これ以外に1982年春、明徳甲子園初出場2回戦 明徳3−4箕島(延長14回)の死闘。(週刊ベースボールは、センバツ名勝負伝説10にこの試合を選んでいる)

甲子園準優勝2回76歳、明徳・松田監督が生涯甲子園優勝4回39歳、箕島・尾藤監督に残した言葉

「これで勝ったと思ってほっとすると、追いつかれる。まあ、力尽きたと
 
 いうことですかな。あの粘り強さに、わしのコンピュータまで故障してし
 
 まいました。老いた武蔵が若い小次郎にしてやられてしもうた。時代は変

 わりましたのお」