徳島新聞 オリックス杉本裕太郎 徳島が生んだ大砲 第4回(最終回)
雌伏の時、大学、社会人からプロ入まで
徳島商業卒業後、青山学院大学へ。当時の青山学院大学河原監督の「投手ではなく打者だね」の一言で打者一本でいくことに。
1年からレギュラーになり2年時にはサイクル安打も記録。しかし3年からは研究され外角に逃げる変化球で責められ精彩を欠いた。
4年時にプロの指名はなくJR西日本に入部が決まった。河原監督からは「変化球に対応できていない。今のままでは駄目だ。」
社会人入り後、変化球対応に取り組み1年目から主力を務める。2年目は前年ほどの成績を残せなかったが、何とかオリックスから10位指名された。「1年目と同様の成績なら、もっと上位で獲得した」と関係者から言われた。
プロ入り後も5年間は1軍。2軍を行き来した。小、中、高と同じチームだった友人は、プロ入り後もラインで頻繁にやり取りしていた。「どないしたらいいかわからん」と苦しい胸の内を明かされ、「いつ自由契約になってもおかしくなく、ずっと悩んでいた」と話す。
打力を伸ばすため必死で研究を重ね、同僚の結婚式で同席した他チームの主力には、なりふり構わず打撃のコツを聞いた。

ラオウの愛称で親しまれている杉本。ラオウのセリフ「わが生涯に一片の悔いなし」
小学生時の監督は「悔いが残ることはたくさんあったはず。結果が出てほんとうに良かった」と喜ぶ。
雌伏の時を経て、ついに才能を開花させた杉本。新たなステージに挑む。