50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.18
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
前スレ
50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.17
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/hsb/1596548596/
自演荒らしは出入り禁止
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvv:1000:512:: EXT was configured 自演荒らしの特徴
脊髄反射
一行レス
単発ID
独特のキーワード
決めつけ
話題には全くついてこれない
都合が悪くなると第三者を装い「どっちもどっち論」
ワッチョイ付き、IP付きになったので、もう来ないと思いますが、
万が一来た場合にはどなたでも結構ですから即時退場を命じて下さい。 千葉テレビで独自大会の第一試合と第二試合の合間に過去の千葉大会の決勝の
1時間のダイジェストを放送していたけど、87年の習志野の石井監督と89年の成東の
監督さんのユニフォームは試合中でもロゴのない練習用のユニフォームだった。なんか昭和を感じた。
89年は平成だけど。銚子商の斎藤監督や銚子西の監督、紅陵の小枝監督は80年代でも、
ロゴ入りユニフォームを着ていた。個人の趣味か?
天台球場の外野の定位置の芝生も完全に剥げ上げっていて、いかにも金のない地方
って感じで風情があった。地方球場って、試合の時のきっぷ売り、入場係や
グランド整備を近場の野球部員に任せていることが多く、専任の球場職員ていないんで
しょうね。 >>4
千葉って未だに県大会使用球場でも手書き掲示板が多いよね。 千葉寺球場なんか、選手名書く場所がなかったものな。あんな球場でも県大会決勝やっていた時代が長かった。
ついでに昭和60年時点で内野にネットが張ってなかったから、打球で死者が出るんじゃないかって感じだった。
千葉寺球場最後の公式戦、銚子商−長生を観戦出来た俺は幸運かもしれない。 天台には、飲食店も無くて、クーラーボックスに氷入れて、コーラとか売ってた。 >>7
いや、正面入り口横の階段上がったところに売店が1カ所あった。すぐ売り切れになるがな。
氷いれて売りに来るのは違法に商売しているおっさんで、売店より高い値段で売りつけてる奴。 >>8
ありましたか。ペットボトルのコーラを紙コップに注いでいたのを思い出しました。 松商学園直江投手の息子がプロ初先発か。1986年のチームは甲子園でもベスト8くらいは行けると思ったけど不発だった。 本日、秋期千葉大会、ブロック予選で習志野が市船ではなく県船に延長11回の末6ー3で破れました。県船が県大会へ。習志野は選抜アウト。 浦安南の佐久間君のご子息はまだ高校野球やられてないのですか? 親父のリベンジを楽しみにしている者です。 >>4
85年春の県決勝、銚子西戦で銚子商業の斎藤監督はロゴなしの練習着のようなユニフォームで采配をふるっていた記憶がある。 >>13
はい、ありません。夏と同じで負けたら終わり。しかも春シードないから、ブロックでいきなり強敵と当たるかも。夏ノーシードの習志野は怖いですが。 >>14
85夏の県大会、何度も書きましたが、齋藤先生は、千葉国体時のユニフォームでした。 1991年「熱闘甲子園」の歌が喘ぎ声みたいな、やらしい歌だった。
「今の君に伝えたい・・」とかいう歌。
ただその時の純情球児も今や50歳前の中年男。 >>18
井上昌己の「yell」は、朝日放送全国高校野球選手権大会中継
のテーマソング
1991年の「熱闘甲子園」テーマソングは
浜田麻里の「Precioussummer」だったよーな気がする? >>11
県立船橋の監督は、たしか県立船橋旋風でベスト8進出の時のエース日暮剛平。部長は毎年コンスタントに
高チームを作ってきた増田さん。習志野に勝ったのも偶然じゃないな。日暮は当時千葉で無敵だった中央学院
(秋春とも県大会優勝)を初戦で葬った時のエースで、慶応野球部でも3勝くらいしていたと記憶している。
なにかを持っているんだろうな。 相模の捕手の神里は78年春夏に出場した豊見城のエースの息子だったんだな。
顔も何となく似てるしもしかしたらと思ったが、俺の記憶だと豊見城の神里は「かんざと」だった。
息子は「かみざと」なんだよな。親子で呼び方が違うわけがないから、俺の記憶違いかw >>21
いや、かんざとで、合ってると思うよ。石嶺とバッテリー組んでた。春はくじ運悪く桐生に確か3ー1で負けた。 >>22
やっぱそうだよね。何で息子は「かみざと」なんだろ?
もしかして豊見城の「かんざと」が「かみざと」という家に婿養子にでも行ったか?w 高野連への提出資料にふりがなをそう書いたのかも。本人が学校で普通の呼び名で呼んでもらってて誰も疑問に思わず浸透してたとか。
豊見城とか、正に50歳以上のおっさんだわ。 >>24
まあ最後の出場が42年前だからな。若い奴はもしかしたら「とみぐすく」と読むかも知れないなw
スマホで「とみしろ」と打っても出て来なくて、「とみぐすく」だと出て来るからなw >>20
埼玉も県立浦和が秋季は3年連続県16強なんだが、埼玉高野連は21世紀枠に何望んでるのか推薦してくれないんだよ。
ラグビーは今年正月の花園で2勝して全国16強だし、東大合格者数では日比谷に次いで関東の公立高校で2位の正真正銘の文武両道なのにね。
でも、腐っちゃいないよ。どの高校も少子化、野球離れにコロナで戦力ダウンしてる中、今年は1年が29人も入学して逆に戦力アップしてるから4年連続16は最低ノルマ、8以上で21世紀枠決めて欲しい。
決まれば昭和12年以来通算3度目の出場になる。流石に前回出場を覚えてる人はいないか? >>21
いや、お父さんは当時確かに「かんざと」と呼ばれていた。だから本名は「かんざと」で間違いない。
沖縄の人から聞いた話だが、いまは本土で呼びやすいような読み方にしているらしい。だから神里は「かみざと」で呼ぶことにしているとのこと。 >>27
なるほど!これで謎が解けた。ありがとう。 >>28
金城は「きんじょう」が本当だが、最近は「かねしろ」で呼ぶとか。
金城といえば、豊見城で76年は四番打っていたのに翌年は控えになってしまい、広島商業戦で決勝ホームランした選手が有名だが。彼も当時は「きんじょう」と呼ばれていた。 >>29
古い話で申し訳ないですが、広島カープ初優勝の時のアンダーハンドはかねしろでしたよね。 >>30
そうそう、昭和50年前半に活躍してた広島の投手は「かねしろ」だったから子供ながらにそう読むもんだと思ってたら、大人になって横浜で首位打者になった選手が「きんじょう」というからあれ?となった。 >>31
2人とも戦前に大阪神戸に移り住んだしまんちゅの孫世代だね >>29
ところが相模の金城はそのまんま「きんじょう」なんだよなwその辺がようわからん。
金城は興南の四番とか、前原のピッチャーとかいろいろいるね。沖縄だと多い苗字なんだろうな。
でも沖縄で一番多い苗字は比嘉らしいね。 >>34
そうそう。近大附属で金城-藤井のバッテリーで大阪大会決勝がPLでエース松井稼頭夫と福留もいて勝った試合をテレビで見てた 【URLお知らせ動画】
篠塚 高校時代 昭和49年夏 決勝
防府商 対 銚子商【篠塚、土屋】
https://youtu.be/0p3r1QSzKTo
(21時間前に公開) 広島の金城はその後南海の抑えのイメージだから江夏との交換トレードだな。 https://youtu.be/UJD8-yKU1h8
早実・荒木と市立川口・斎藤の練習試合
(斎藤は荒木の外れ1位で巨人入り) >>38
もう本人によって削除されてる。見たかったのに…。 >>41
奴の上げた動画は完全には信用するなw
だが、再度上げたようだぞ
ほれ
↓
【史上最高クラス高校】昭和49年夏
決勝 防府商 対 銚子商
https://youtu.be/GWipORs4eOQ
(5分前に公開) 1:42:52 >>41
その銚子商の試合を見た人が、レベルが低すぎる、あんなので全国制覇できるなら、今の千葉の私立高校(あえて校名は伏せますが)なら甲子園10連覇出来る、とかのたまっていた。早速5人くらいにこれでもか、って言うくらい叩かれていたけど。どう思います?そうそう巨人のレギュラーになって、セリーグの首位打者取るくらいの選手は出てこないと思うのですが。ちなみにその高校からは、全然大したプロ野球選手は出てません。 星飛雄馬 対 里中智【伝説のノーカット版】
昭和53年夏 1回戦 箕島 対 能代 【高松直志】
https://youtu.be/Mgrzfqq7B90
(10分前に公開) 1:55:43 >>42
ありがとうございます。見れました。
いや〜久々にテンポの速い昭和夏バージョンの銚子商の校歌が聞けて感動しました。
良いですね〜。懐かしかったです。 >>44
主審が西大立目さんって懐かしい。この頃、郷司さんとかダルマ(漢字忘れた)さんという審判も良く覚えてる。別に知り合いでなく子供ながらに単に珍しかったから印象に残ってる。
箕島は伝説の星稜戦と少しスタメン違うね。延長で星稜加藤一塁手の落球直後に奇跡の同点ホームラン打った森川選手がいないような。 >>47
そら伝説の箕島×星稜戦の1年前ですからw森川はスタンドで応援してたと思いますよw
箕島は西川、石井が主軸だったけど、西川は訳アリでベンチだったんだよね。 >>47
ダルマさんは達摩さんね。
息子さんが昭和57年のセンバツに桜宮の選手として出場したね。 同じ金城って名字で祖父母が「かなぐしく」と読んで、孫が「きんじょう」って読むケースがけっこうあったって聞いた。
理由はよくわからない。 >>48
なるほど。この石井-嶋田兄は2年生バッテリーだったんですね。6番の北野選手は翌年の4番ですよね。
じゃあ、自分が小4の頃、高松投手の方が印象に残ってます。中学部活入る前の夏休みは朝から晩までテレビにかじり付いて見てたなぁ。
小4〜6の夏は50余年の人生で最も高校野球を見ていた時代で懐かしい。あの頃に戻りたい。 >>43
篠塚は早々にレギュラーになっていない
入団5年目で台頭し、6年目にレギュラー、首位打者はもっと後
49 >>53
74年銚子商の評価を下げるのは誤りということはおっしゃる通りだが、事実でないことを反論に織り込むと説得力がなくなる >>32 37
こらこら、金城龍彦は在日コリアンの子だぞ
金城の苗字は本名キムから来ている
広島カープの優勝投手金城も在日コリアンの子
金村と同期でドラ1で南海へ入った金城も在日
金城には、沖縄由来と朝鮮人のキムさん由来の2種あるので注意 >>56
まだ甲子園のベンチ入りが15人の時代でしたな。程なくして16人になり数年後に18人に。20人になるのも時間の問題か。個人的にベンチ入り選手の増枠は私学を利するだけの気がする。 木暮阿久沢のときの桐生もベンチ入り15人で部員16人
当時の監督が、なんとかベンチ入り16人にできないものかと言っていたのが印象に残っている >>58
甲子園のベンチ入りが15人になったのは78年夏から >>58
そう、78年春までベンチ入りは14人まで。このときの桐生は部員15人だった。監督は英語教諭の関口先生だった。
81年春の築上中部は部員16人、当時のベンチ入りは15人。桐生と同じく1人だけベンチ外になってしまったが、このときはその選手を取り上げようとマスコミの取材が執拗で当の選手が泣いてしまったという話を聞いた。 >>53
原の入団1年目だね。当初は原セカンド、中畑サードだったが、中畑が怪我で離脱して原がサード行ったときに篠塚がセカンドに入った。
その後、中畑復帰するもファーストでこれが固定した。 漫画ドカベンの明訓高校1年春、ごぼう抜きノックだったと思うが
徳川監督のノックでレギュラーが決まる、その数が14人だったかな?
1980年頃だったと思うが、大阪夏予選が始まる前の新聞に
参加全ての高校の、出場選手の名が記載されていた
どの高校も15名で、1校か2校ぐらい15名未満の高校があったのを覚えてる
昔は3年になっても15名に入れない選手は多かったが
今は9名集まらず、合同チームもあるからな さだまさしの甲子園という唄のフレーズに「背番号14の白いユニフォームが彼の青春の最初で最后の打席に入ったところ」という思い出代打のシーンがある。
ドカベンは俺が小3〜4の頃はじまったので掲載当時は14人で、途中から15人になったと思われる。さだまさしのは高校生の頃のアルバムなので最終番号とは限らないね。自己解決。 >>45
個人的に銚子商業の校歌は全国でもトップクラスの格好良さだと思ってるんだけど、
前奏部分は今でも県大会で使われてるバージョンの方がいいと思う。
>>53
そうそうの意味取り違えてない?
>>43の言いたかったのは、篠塚のような選手はそうそう出てこないって意味だろ >>64
俺はあのテンポの速さが好きなんですよ。と言うか江川の作新に勝った時から
ずっとテンポの速いあの校歌ばかり聴いてきたから、自分の中では銚子商の校歌は
あのテンポの速い夏バージョンの校歌が完全にデフォルトになってしまった。
だから77年春に大鉄に勝って流れた校歌を聴いた時、テンポが遅かったので、甲子園のテープのデッキがぶっ壊れてるんじゃないかと思ったw
でも本当はこれが本来の速さなんだよね。 >>64
篠塚さんの件に関してはその通りです。
また校歌に関しても澤井の時からのんびり調になってしまった。常連だった頃、銚子商と高知商が勝つと校旗あげる人が大変だったとか。10数秒で終わってしまうので。この両校の対戦の時は上げる人が終了時に、普段1人なのを2人でセッセと上げていたそうです。 追伸、銚子商の校歌は、作詞作曲、早稲田大学と同じ人です。相馬御風と東儀鉄笛です。 >>23
会社の同僚で藤平=トウヘイが居る
本当はフジヒラなんだけど親父がガキの頃から
周りにトウヘイと言われてたんで親父の代から
藤平=トウヘイに変えたと言ってた >>68
変えたって、どうやったら名字の読みを変えることできるの? >>64
取り違えるような悪文を書くなということよ
そうそうは、巨人のレギュラーにかかるか、出てこないにかかるか曖昧
そもそも句読点の打ち方が無茶苦茶だし、まあその程度の人が書いたと思えば腹も立たんだろ よく1985年銚子商が話題に上ってるが八木正義はベンチ入りしてたのかな?
1986年7月に理髪店のソファーでデイリースポーツ読んだら「習志野 大塚!!」とあり
「今年の目玉は大塚という投手なのか・・」と思ってたら下位指名だった。
しかも南海。 >>71
はい。県大会は1年生で唯一ベンチ入りしてたのですが、甲子園では外れてます。1年生の秋からエースだったのですが、2年夏は東海大浦安にベスト8でコールド負け。彼が主将の時は打線がダメでしたね。不運でした。とにかく打てなかった。2点取るのが精一杯。八木は取られて2点でしたから。最後の夏は塁審の誤審もあって1ー0で負けました。援護がなく孤軍奮闘を絵に描いたような投手でした。 >>70
そうゆう場合、早々にレギュラーに収まり。と書きます。難しい書き方してゴメンね。 >>70
俺が悪文書いたとか意味を取り違えたわけじゃないのに、俺に言ったってしょうがないだろうが 「彼女は夢の中で踊る」で賞受賞の「天才」横山雄二監督は1984年日向学院高の「1番 センター」で
県大会でプロ注目の田口(都城高)芝(高鍋高)相手にマルチ安打を打ったことが自慢。
ビートたけしチルドレンでもあり「ビートたけしのオールナイト・ニッポン」では「水上」と並ぶハガキ職人だった。 1984年春に「京都西の通算50本塁打男 は7番打者」の森っていたな。
彼はどこの大学へ行ったのだろう?同大とか? >>71
春先からベンチ入りはしていた。内野も無難にこなす速球投手という触れ込みだった。
夏の大会天羽戦で1イニングだけ投げたが、そこで炎上。県大会はその後登板機会なし。
甲子園入りのメンバーからは外れた。彼は連れて行くべきだったと俺は思っている。 昭和54年夏 1回戦 浪商 対 上尾
https://youtu.be/wkPmLcMG6qw
(5分前に公開) 6:47
(主な出場選手)
牛島和彦=浪商3年
香川伸行=浪商3年
二村徹=上尾3年
など >>72
八木の学年は新入部員が10人しかいない訳ありの学年。斎藤おろしに熱心な一部父兄とOBが
あることないこといろいろな中学に触れて回っていた。だから八木の学年とその1年上の
学年は異常に部員数が少ない。あの年代が貧打だった大きな理由だよ。なんせ中学野球部の
父母会に一部父兄とOBがなだれ込んできて、「斎藤を辞めさせろ!」と小一時間演説ぶってったくらいだ。
俺の知り合いの父兄がその席の書記をやってて、さすがに凍り付いたって言っていたよ。 >>77
池内という秋の近畿大会でホームランを連発した打者がいて、確か選抜初戦でも1本打った打者かいたけど、森は覚えていない >>80
85年夏、久しぶりに出場したとき、「銚子商斎藤監督のいじめ抜かれた9年間」の大見出しで日刊ゲンダイに記事が載っていたなあ。 >>82
強くなるとアンチが湧くよね。きっかけは使ってもらえなかった父兄のモンペなんだろうな。
結果弱体化して良いことないのにね。
少年野球で10年位監督やってたんだけど、たまにしか来ない父兄が一番面倒くさい。表面的な一部分を批判するばかり、そこに至るまでの感謝も何もない。 >>79
この試合は小5の頃、甲子園大好きな親父に連れられて東北から見に行った。
9回二死無走者まで上尾が2-0とリード。子供ながらに前評判の高かったドカベン香川がここで負けちゃうの? と思ってたら3番香川の次を打つ4番がヒットで出て、5番牛島が左ポール際に同点ホームラン! ちょうど一塁内野席から切れるなーと祈ってたのを覚えてる。
その後、浪商は延長を制して4強まで勝ち上がって大会を盛り上げたが、この試合を落としたらなかったことで、歴史的な好試合に出会えたこと親父に感謝してる。 >>80
OBと言うと、1人しか思い浮かばないけど。あの人が齋藤先生を裏切るとは思えないけどなあ。 >>69
遅れてすまん
俺も不思議に思って聞いたら
手続きは大変だが
本名を通称名に変える、旧姓に戻す。のは
出来るらしい。 清原の高3春まで俺は即戦力クラスという評価には懐疑的だった。
懐が浅く手首をこねるようにして打つアッパースイング。「当てただけでボールが落ちてこずスタンドイン」という
イメージで高校野球では通用してもプロ相手では・・とにらんでた。
ところがどうだ。高3夏には、その「クセのすごい」フォームは見違えるほどノーマルになり懐も深くなった。
刹那的、快楽主義者の清原もこの時期だけは努力家だったんだなと感じる。 清原はプロ一年目がピークで後は大したことないと
早い時期から見抜いていた落合の炯眼はやはり見事。 清原の高3夏とか今見ても半端ないわ
ギリギリまでボール呼び込んで最短距離で叩いてる
それもめちゃめちゃ速いスイングで >>79
仁村徹がサイドハンドの軟投派だったと初めて知ったわ
牛島は素人目にもどっしりしたいいフォームに見える >>84
うろ覚えスマン。
見返したら9回一死から香川がヒットで出て4番山本が倒れてからの牛島の同点ホームランと訂正願います。40年前の記憶はアテにならん。 >>84
それまで低め低めに精密機械のようにコントロールされていた仁村の牛島への一球が魅入られたように高めの甘いコースに入ってしまった
見逃さずに仕留めた牛島を褒めるしかないだろうがね 昔、たまたま新婚さんいらっしゃいを見てたら浪商の山本が出て来て、桂三枝さんと甲子園でヒットを何本打ったとか話してた記憶があるわ >>57
甲子園のベンチ入りが15人となったのは現行の四十九代表制が始まった1978年夏、16人となったのは1994年春、現在の18人となったのは2003年夏からですね。 >>60
1988年春に部員16人(女子マネージャー除く)で甲子園初出場した倉吉東でも、ベンチ外の選手に対する取材がひどくて当の選手が泣いてしまったことが『報知高校野球』編集後記に載っていました(倉吉東は翌年春も甲子園出場して、その選手もベンチ入り出来ました)。 >>88
プロで525本塁打記録して大したことないって頭おかしいんじゃないの? 落合博満氏は
秋田工時代、入退部を何回もくり返したと言っていたのだが、
どこで、いつプロ野球で成功するような体力をつけていたのだろうか。
大学野球も途中で退部したみたいで、プロのボウリング選手目指したときもあるみたいだが、
ボウリングの練習がプロ野球選手につながるのか。
落合選手のようなプロ野球選手、他にいますか? >>90
俺、1979年横浜スタジアムで横浜−上尾の試合見てるけど、技巧派っていう印象はなかったな。
前の年甲子園で活躍した安西だの田代だのがきりきり舞いの力のピッチングって印象だった。
その年の決勝戦上尾−銚子商はテレビで見たけど、常に攻めのピッチングって感じたな。 ちなみにその試合、愛甲は試合に全く出ていなかった。
選手名簿にも名前がなかったかもしれない。なんで愛甲がいないんだ?って思ったくらいだった。 >>96
清原1年目前半は苦戦したが、後半凄い勢いで打ちまくり
打撃タイトルには届かなかったが
2年連続三冠王バース落合と比べ、後半だけの成績なら両者に並ぶ成績だったと思う
その落合が中日へトレードされ
来年のセはバース落合の三冠争い、パは清原が三冠取ってしまうのか?
高3からプロ1年目までの清原期待値は、王貞治を超えるか?そんな高さだった
その頃のマスコミは誰もが清原を絶賛、たまたま歯医者で読んだ週刊誌の片隅に
5行ぐらいの短い文章だったが
「清原は1年目からレフトへ打たず、ライト方向へ楽な打ち方で成績を上げたが
こんなやり方だったら、今後は伸び悩むだろう」
多分どこかのライターが書いたんだろうが、他とは反対意見を読み妙に記憶に残った
このライターは技術的には、そんな大したもんがあった訳ではないのかもしれんが
結果から考えると、誰もが右と断言しても、左の意見にも耳を傾けるべきだという教訓を得た ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています