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誇り高き野球部員へ

福岡県高等学校野球連盟
会 長 土 田 秀 夫


私が幼い頃、テレビで盛り上がる家族をみて「これ何?」と聞いたことがある。すると母が「こうしえんよ」「こうし
えん?」漢字も分からず先に覚えたのは、「甲子園」だったのか、「野球」だったのかも定かではない。とにかくテ
レビの前で父も母も、兄も盛り上がっていた。友人にそのことを話すとどうも、この現象は我が家だけでないこと
が分かった。それが私と「甲子園」との最初の出会いであった。来る年、来る年、春と夏には、画面の中で、体格
の良いお兄ちゃん達が、大観衆の中で野球をやっていた。その頃「甲子園」は、球場の名前なのだとわかった。
家の近くで私と同じ低学年の小学生が、野球らしきものをやっていた。「甲子園」のお兄ちゃんほどではないが、
私よりは明らかに上手である。私もチームに入りたい。いやもしかしたら父がチームに入ろうと言った結果かもし
れない。記憶はハッキリしない。しかし、父も母も私が野球を始めたことを喜んでくれていた記憶は確かに残って
いる。土、日の練習は父も母も参加してくれていた。私はそれは当たり前だと思っていた。小学校高学年となり、
私も少しは上手になった。しかし、野球が分かってくればくるほど、「甲子園」のお兄さん達のプレーに圧倒された。
中学生になり、同じチームの先輩が高校に進学し高校野球を始めた。「甲子園」がグッと身近に感じたのはこ
の頃だ。私も「甲子園」に行きたい。いやいつの間にか「甲子園」は、私だけでなく一家の「目標」、「夢」となって
いた。 福岡県は、強豪校が多くどこに進学すれば夢が実現するのか、私は家族だけではなく中学校の指導者
とも良く相談し、A高校への進学を決めた。A高校に入るために勉強もした。憧れのユニホームに袖を通すことが
出来た。レギュラーを目指しチームメイトと切磋琢磨した。練習の厳しさは言葉では表現できない。「甲子園」に
出る為には、皆こうしてきたのか。これほどまでにしないと「甲子園」行けないのか。これほどまでしてでも「甲子
園」行けば報われるのか。何度もくじけそうになる私を、チームメイトと「甲子園」が救ってくれた。
気が付いたら「甲子園」には、お兄さんでなく全国の同級生が、出場していた。そして迎えた最終学年の春、新
型コロナウイルスの影響で全国の「センバツ」を決めていた同級生が過去に前例のない涙をのんだ。その悔しさ
は、想像に余りある。
いよいよ夏の一本勝負。「センバツ」を逃したチームは、これまで以上の闘志で夏を目指してくるであろう。臨む
ところだ、こちらも「ラストサマー」に全てを掛ける。夏がなくなるかもしれないという不安は、少なくとも「センバツ」
が中止になった頃には思いもしなかった。しかし、一向にコロナ禍は、終息の兆しを見せない。「2020オリンピッ
ク」が延期になった頃、チームメイトの中に「もしかしたら夏も・・・」と言う者もいた。そんなチームメイトに私は怒り
さえ覚えた。「そんな暇があったらバットを振れ。」そう思った。先日「高校総体」が中止になった。「甲子園」が中
止になった訳でもないのに私は「ショック」だった。「そんな暇があったらバットを振れ。」そう思っていた私がその
日はバットを振れなかった。
「何故よりによって今年なのだ」と思う自分がいた。「じゃあ来年だったら良かったというのか」と自問自答した。
私はここまで器の小さな人間だったのか。自己嫌悪に陥った。ここまで一緒に支えてくれた父も母もこれまで通り、
いやこれまで以上に励ましてくれる。家族の期待に応えられない自分に腹が立つ。「甲子園」に行けるチームは
1チームである。至難の業であることは分かっている。「甲子園」に行けないのは仕方ない。しかし「甲子園」への
挑戦さえもさせてもらえないのか。
来年からは「甲子園」はお兄さんではなく後輩、年下の大会となる。全てはコロナ禍の為、理屈ではわかっている
つもりである。こうして文章にしてみることで頭の中を整理してみた。
私が高校3年生だったらきっとこう思ったでしょう。
3年間野球をやり抜くこと、とにかく1勝すること、県大会に出場すること、甲子園に出場すること、甲子園で勝
つこと、そしてそれらをマネージャーとしてサポートすること。今年も福岡県球児にとってそれぞれの「甲子園」が
繰り広げられてきました。夢の実現に挑戦させてあげられなかったことを、大変申し訳なく思います。
君達は先輩方同様、誇り高き福岡県高校野球部員です。高校野球で学んだことと、今回の本当に厳しい経験
をこれからの人生に役立て欲しいと切に願います。
令和2年5月25日