【さわやかイレブン】池田高校の記憶【やまびこ打線】
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阿波の攻めダルマこと故・蔦文也監督に率いられた徳島の山あいの高校が
文字通り全国を席捲して、多くの越境ファンを獲得した昭和時代。
高校野球史に残る池田高校を地味に語るスレッドです。 3番 江上
4番 畠山
5番 水野
は覚えてるけど水野が3年のときのクリーンナップは思い出せない
水野は当然4番だったよな? 早実と対戦した時はヒール扱いされていたのを覚えている。 全盛期、俺は子供だったから意識しなかったが公立なんだよな。
公立がこんな凄いチーム作ったなんて。 あの頃の池田高校は伝説、レジェンド以外の何者でもない。 この前の総選挙で池田14位にはガチで腹が立った。一体どんなド素人にアンケート取ったのかと。池田を舐めるなよ、と。 鳴門を見に甲子園に行ったついでに甲子園歴史館寄ったら
入場券が池田高校の写真だったw
さわやかイレブンの写真。蔦監督、白川部長が若かったw 野球に無理解な校長を池に投げ飛ばしてしまったという蔦監督 >>16
決勝で報徳に敗れてベンチ前に並んだときの写真だな。
当時50歳だけど非常に蔦さんが若々しい。
小柄な選手ばかりで後年の山びこ打線の面影はまったくなかった。あの大会は木製バットでの最後の大会だった。 報徳とは、翌年も対戦するも返り討ち。兵庫と相性が悪かった。 爽やかイレブンって池田だけ11人で試合できんのか。 >>19
長井のホームラン、あれは絶対に前の走者を追い越していたんだが。 79年も惜しかった。牛島&香川の浪商に勝って決勝で箕島に惜敗。 >>23
春の雨中戦の東洋大姫路戦、最終回の執念の反撃は忘れられない。 >>25
この試合雨の中、甲子園で見ていたわ。
前の試合が浪商ー川ノ江、鍋島投手の踏ん張りで確か延長だったと思う。
最後まで雨の中観てて、おかげで風邪をひいてしもたわw この頃の金属バットは、
打った瞬間に気持ちの良いくらい凄い音がしてる。
平凡なフライも打った瞬間の音で凄い当たりのように感じる。
ちょうど池田の打撃とミックスして、わまびこ打線となった。
また、この頃の金属バットの音に戻して欲しいわ。 智弁和にもつい最近練試に勝つまで最近はずっと負けっぱなしやったで 今年は地味に優勝候補の一角で久々に出てくるかな、と期待していた。
没落はしていない様子。
和歌山の箕島とセットで久々に甲子園で見たい。 86年春にも全国優勝しているが、この時のチームがあまり語られないのは気の毒。 >>32
優勝候補がいない大会と言われたからね。池田より新湊が大会の主役みたいな扱いをされた。むしろ次の年のチームが力があった。 KKが卒業した翌年で、ややスケールダウンした年でもあった。
ただ、プロに行った人は大成した世代でもある。 池田はレジェンド校と言われるが、
意外に名勝負と言われるものはない。
荒木大輔を粉砕した早実戦、
守りの野球の象徴の広島商を粉砕した試合や、
まさまの、1年の桑田に完封された試合とか、
衝撃的な試合はあるが、いずれも大差で名勝負とは言えないね。
そんな中でも最高の名勝負は中京戦かね。
今も映像が見れるが思わず見入ってしまう。
あれを突破して3季連続優勝は確実かと思ったが。 中京(現・中京大中京)の野中はメチャクチャかっこいい男だった。
あの試合は「事実上の決勝戦」と言われた大一番。中京を突破した時点で、
池田の3連覇を確信したのだが・・・・・・・・ >>36
野中は三年のときは腰を痛めて球の威力が落ちていた。
最盛期は前年の夏だった。
前年の夏の決勝で山びこ打線との対決が見たかった。 昔あった アイドル月刊誌の明星にも 池田特集やったからな 一時、観光バスも池田高校に立ち寄った時代もあったというから。
紀行作家の宮脇俊三氏(故人)も池田高校の校歌を歌えるとどこかでコメントしていた。 グラウンドに迷い込んだ野良犬にノックの打球を一発で命中させて退散させた蔦監督 NHK朝ドラ観てて思うんだけど、いつか蔦監督の奥さんを主人公にしたら面白いなって
蔦監督の苦悩や寮生活の選手を支える奥さんの目線で
(前半)負け続け時代からさわやかイレブンで甲子園初出場までの苦労
(後半)新しい発想で高校野球の革命を起こしたやまびこ打線を作り上げるまで
NHKの中では候補にはあがっているはずだが、
実在する高校の宣伝につながるからNGなのかな? 池田が甲子園初出場した昭和46年は蔦監督すでに48歳の年。そこから白星を重ねた晩成型監督 荒木大輔 鼻つまむ!
植草アナもまさか35年後に改めてこの迷実況を全国放送でプレイバック
されるとは思わなかったでしょうね 畠山水野時代もええけど 負けたけど 雨の中たんぼみたいなグランドで試合して 1塁にヘッスラしたら顔真っ黒で タオルで拭きながら試合してたやつが印象的
相手 東洋大姫路かな? 打撃が注目されてばかりいる池高ですが、思い返すと、
ドラ1で指名された二人はともに当時は「投手」としてプロ入りしています
(畠山は後に野手転向したことは知っています)
二人とも元々はポテンシャルは高かったのでしょうが、
蔦監督は投手育成にも手腕があったのでしょうか?
今の時代なら、水野は二刀流の可能性もあったんじゃないかと… 水野は打者として行くべきだった。投手よりもスケール感があったもの。 >>48
79年春の東洋大姫路です。準々決勝。82年夏の準決勝で雪辱。 >>50
高三のときも投手でいくか打者でいくか話題になってたな。
打撃は金属バットの打法だから…と言葉を濁していたスカウトが多かった。 荒木大輔からバックスクリーン横に叩き込んだ残像が焼き付いて離れない。 あの池田でも2回ヒールがあった。
1回目は浪商と準決勝で対戦した時。
第一試合で箕島が勝って決勝進出。
第二試合は牛島、ドカベンがいて大人気だった、地元の浪商が決勝進出して、
箕島との再選を期待していたら、池田勝利
2回目は早実戦 79年。浪商が勝っていたら春夏とも決勝戦が同一カードだったことになる。 池田が常勝だったのは82年〜87年だが、その期間の選手は卒業後活躍したのが少ない。
畠山(南海→横浜)、水野(巨人)、梶田(筑波大→日本生命)、九鬼(松下電器。息子が秀岳館で出場した)くらいか。
江上、坂本、吉田、宮内らはさっぱりだった。
やはり金属バットに頼った選手だったからか。 蔦さんは江上には「勘違いしてプロに行こうと思うな。それよりお前は、アマチュア野球界を
背負って立つ男になれ」と言い聞かせていたらしいです。
プロの世界も実は経験している蔦さん、さすがの炯眼ですね。 82年夏。池田・早実・中京(中京大中京)が3強だったと記憶 数年前、荒木大輔(日本ハム2軍監督)が池田町を訪れて地元民から熱烈歓迎を
受けたそうだ。 池田高校は阿波池田駅から徒歩5分。高台にある。蔦監督の銅像が建っているのを見た。 おじいちゃんなのに新しモノ好きだったと言われている。
筋トレ導入も早かった。 静岡県の高校野球ファンです。
池田高校が夏の大会初優勝した初戦で静岡高が当たっている。当時は池田高校を知らなく、静岡高も前評判は高かったけど、まさかその後の凄さには感服しましたね。
その後、同じく夏の大会で浜松商が初戦で当たって延長14回で勝ったり、常葉菊川の打撃は蔦監督からアドバイスをもらったりしたことなど関わりは多いような気がします。ちなみに個人的にも池田高校は一番記憶に残る学校ですね。 >>42
その点、映画「蔦監督」は、監督の奥さんの蔦 キミ子さん目線で、
蔦文也・野球部の生徒・池田高校が描かれていた。
人間、蔦監督の強い面、弱い面。池田高校野球部の選手の成長など。
http://tsutakantoku.com/ >>30
智弁和歌山の強打の原点は池田高校だった。
高嶋監督が就任して当時まだ新設校だった智弁和歌山が、
徳島へ練習試合へ行って30点近い大差でボコボコにされ
監督曰く「なんで相手の投手は140キロ投げるのにうちは120キロなのか?」
「なんで相手の打者は1番から9番までホームランが打てるのにうちは打てないのか?」
と、かなりの衝撃を受けて、筋トレや専属トレーナーなどを導入して作り上げた。
練習中に水を飲ませるなども池田から学んだらしい。 水を飲ませたのも早かった。原貢氏や木内幸男氏もそうだが。 青葉真司(A型、メガネ、デブ、障害者、向精神薬、自傷行為、アスペ)の父親の先祖は農家(百姓)だった
子供を9人も作ってる
先祖が百姓の奴は障害者指数が高い
障害者指数が高い家系では児童虐待が文化になってる
先祖が百姓だった奴らは戦争中もたくさん子供を作ってた
戦争で人が死んでるときに子供をどんどん作ってたのね(5人以上)
"お見合い結婚"してね
しかも"お見合い結婚"を"恋愛結婚"だと思い込んでるからね
これが極左か極右になった
共産党の弁護士、医師の先祖は百姓だよ
だから共産党、左翼はろくなのいない
先祖が百姓の奴らは感情的な声を出したり、大きい声で話したりする
性格が最悪なのに声色で自分を良い人だとアピールし、子供をたくさん作って繁殖して領土を拡大してる
青葉の父親も母親もこんな感じでしょ
このような家系の奴は論理的に考えられないので文系、美術にいく
■文系、文学、心理学、精神医学、体育会系はカルト宗教と同じで有害なだけなので廃止すべき
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炭水化物(砂糖)ばかり食べると統合失調症と躁鬱病とリーキーガット症候群になって音に敏感になってキレやすくなる
太る原因は炭水化物
砂糖は血液に5グラムあればいいだけ
日本人の大人はほぼ全員、炭水化物(砂糖)の食べすぎで統合失調症と躁鬱病になってて、7割がリーキーガット症候群になってる
炭水化物が日本を滅ぼす >>29池田は明徳に弱い
「あの子もまだまだじゃのう」と松田に子供扱いされた蔦。
蔦にも、子供扱いされた時代があった。
初の全国制覇を果たす1年前の1981年秋。エース畠山を擁した池田は、徳島大会で準優勝し、四国大会へ進んだ。
しかし、1回戦で松田昇監督率いる明徳(現明徳義塾)に0−1で敗戦。再三好機をつかみながら、得点に結びつけることができなかった
その試合後、松田監督のインタビューでの言葉が今でも印象に残る。
「蔦の作戦はお見通しじゃ。“あの子”もまだまだじゃのう」。当時、松田75歳、蔦58歳だった。
松田昇
高知商監督時代
甲子園 春5回 夏5回
18勝10敗
準優勝1 ベスト4 1 ベスト8 6
高知商部長時代
甲子園 春1 夏1
4勝1敗
準優勝1
明徳監督時代
甲子園 春1回
1勝1敗
明徳時代の松田監督
https://www.youtube.com/watch?v=LOCJNeDd6so >>72
訂正
高知商部長時代
甲子園 春1 夏1
4勝2敗
準優勝1 蔦さんの出すサインは単純過ぎて徳島県内ではバレバレだった。しかもしばしばサインを出し間違えていた(笑)そんな妙なところもあるが氏は「高校野球界の長嶋茂雄」スケールがデカいのだ。 蔦さん「おい、このサイン、ちゃんとわかっているか?」
選手「分かってますよ。(相手が)←これは心の中で言いました」 ポカリスエットって初めはアルカリ飲料って言ってたけど
消費者生活センターが調べたら酸性飲料だったんだよな 池田高校が全国で勝てるようになったのは細かいことが苦手な蔦さんが細かいことをしなくても通用するチームを確立したから。 >>78
決勝の徳島商戦のダブルスチールで決勝点は、池田高校らしくない点の取り方だったな。 >>80
83年夏の決勝の7回表だな。
何年だか説明しないと分からない人もいるだろうから書いてくれ。
このとき優勝直後に選手がうれしそうな態度をとらなかったものだからけっこうたたかれたな。 >>82
そう、その試合だよ。
あの池田高校が機動力野球やったと驚きの表現が伝えられたけど、
蔦監督からすれば、あんなの機動力野球でもなんでもない!野球とはああいうものだ!
と記者に一喝してたな。 さわやかイレブンの池田野球は、足でかき回す機動力野球ではなかった?
ダブルスチール、ホームスチール、ツーランスクイズ等のゲリラ戦法。
何をするかわからない池田で各校に恐れられていた。 >>83
負け試合が相手のミスでかってに甲子園行けただけ 86年の春の選抜で『偽装スクイズ』というのをやった。
ランナー1・3塁でスクイズ失敗・・・・・・・と思いきや3塁ランナーは、すぐ帰塁。
その間に、まんまと1塁ランナーが2塁盗塁を決めていた。 >>84
四国の本盗王 雲本
甲子園でも開幕戦の函館有斗戦で記録した。 >>86
86年春はスクイズ失敗でダブルプレーの後に森の同点ツーランってのもあったな。 昭和54年夏の箕島との決勝を、
改めて見てみると、
まだ、やまびこ打線と言うほどではないが、
強打の片鱗が見えるんだよな。
この時の主役は箕島、浪商だったが。
その3年後には高校野球の主役にっていく。
しかし、あの山の中にある公立高校が、
高校野球に大革命をおこすとは、まさにミラクルだよ。 金属バットを氷水で冷やすとか蔦監督のこだわりは相当なもんだね。
今じゃ金属バットで打球が飛びすぎる、打球が早すぎて危険で
木製又は低反発金属導入が議論されてるからまた時代が変わりそうだね。 >>86
これより二年前、プロで創立50年を迎えた巨人(王監督)がよくやっていた。 豪快なイメージのある蔦監督だが実際は育ちのいいお坊ちゃんで
勝負ごとに向いていない性格だったという。 個人的に愛知の中京大中京(当時は中京)の試合の新聞記事で、テレビで観ていた人が興奮して倒れたというのが翌朝の新聞に載っていたが今でも忘れませんね。 中京と準々で当たるのはあまりにも惜しかった。
準々でPLと当たっていたらどうだったのかな。 あれは事実上の決勝戦と言われていたカード。そこを突破したことで楽観ムードが支配してしまったのかも 79年春の東洋との泥んこゲームは40年経っても忘れられない。
もう一度あの試合のビデオ見たいな。
誰か持っていないですか?
70年代の池田のある試合のビデオ持っているので交換してくれないかな? >>87
後に残念なことが起こった
あれ報道されたのは徳島だけだったのかな >>99
いや、報知高校野球のにゅーずぎゃらりーで「さわやかじゃないヤツだ」の見出しつきで報じられた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています