1979年12月2日。モスクワ五輪マラソン代表選考会を兼ねた第14回福岡国際マラソンが
開催された。快晴の暖かいコンディション。12時スタート。
朴虎吉氏(当時32歳)は、この日、大阪から福岡に駆け付けて、このレースを観戦していた。
理由は初めてこの大会に祖国・北朝鮮の選手がエントリーしてきたからである。
朴氏は在日同胞の金田一明氏と金本英龍氏、さらに孫安愛氏(女性)ら、大阪市生野区の
一帯に住む「北の人」たちと祖国の仲間を応援しに来たのである。
出場する選手たちと面識があったわけではない。ただ、少しでも「北朝鮮の空気」を共有
したかったのである。

レースは序盤、大久保初男と古田匡彦の日本人選手、さらには米国のジョン・ロドウィック
の3選手が飛び出した。ただ無謀なペースだったわけではない。最初の5kmは15分15
秒での通過。むしろ後続集団が自重気味だった。
10秒ほど遅れて大集団。この大集団には瀬古利彦や宗茂・宗猛の宗兄弟。喜多秀喜に
武富豊の神戸製鋼勢。さらにスピードがある鎌田俊明に伊藤国光のカネボウ勢など多数
の日本人選手が含まれていた。前年、この大会を2時間10分21秒で優勝し、一躍、
モスクワ五輪の星に躍り出た瀬古利彦は早稲田大学の4年。79年は、まず正月の箱根
駅伝の2区で区間新記録を大幅に更新。4月のボストン・マラソンでは第一人者と目され
た米国のビル・ロジャースに惜しくも敗れたものの、2時間10分12秒の自己ベストを更新
して、さらにモスクワ五輪へ期待感を増した。既に世界にその名を知られていた。
宗兄弟も注目の存在だった。なかでも双子の兄の茂は前年2月に別府大分毎日マラソン
で2時間09分05秒6という世界歴代2位・日本最高記録で優勝していた。79年は7月に
モスクワで開催されたプレ五輪(スパルタキアード)で地元・ソ連のレオニード・モセーエフ
と同タイムで胸の差で惜しくも2位だったが、まぎれもなく、その実力が世界水準にある
ことを示した。
「世界で通用する種目」として認知されたマラソンは日本国民にとって期待の種目だった。
ただ、沿道で北朝鮮の小旗を振る朴虎吉氏にとっては、在住地の日本は関心の外であった。
北朝鮮の選手が福岡を制す。そのことに期待して朴氏は福岡の地に立っていたのである。