大八木の勝気さを表すエピソードはたくさんある。
話は前後するが、四篠の次の学年のチーム(85年)も、左腕の福田和幸という好投手がいて、かなり力のあるチームだった。
しかしこの年の甲子園は、桑田真澄・清原和博のKKコンビを擁するPL学園という、絶対的優勝候補が存在していた。
夏の甲子園に出場を決めた大八木は、「1回戦でPLと当たりたい」と口にしていた。
強がりでもリップサービスでもない。本音だった。普通なら強い相手とはなるべくあとで、と考えるものだ。
特に優勝を狙う場合には。もちろん、優勝を狙っていた。そして優勝以外なら、準優勝も初戦敗退も一緒と考えた。
0か100かの勝負だった。それくらいのリスクを背負わなければ、PLという巨大な壁は破れなかった。
「PLはものすごく細かい分析をしていると聞いていたからね。何試合もやって、散々ビデオを回されたら、
ウチの野球、ウチの選手が丸裸にされてしまう。そうなったら、あのメンバーを見たらちょっと勝ち目はない。
でも、そうなる前に当たったら、一番いいのは相手に何もデータがない段階の初戦で当たったら、食える可能性が
あるんじゃないかと考えたんです。PLさえ消してしまえば、あとは横一線。なんとか優勝できるんじゃないかとね」
結局、東海大甲府はPLと当たることなく勝ち進んだが、準決勝で宇部商業に逆転サヨナラ負けを喫し、
PLの待つ決勝戦にコマを進めることはできなかった。

甲子園の光と影
頂点に立てなかった名将
東海大甲府・相洋/大八木治監督