50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.4
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
週刊ベースボール増刊の予選展望号(この年から創刊された)のカラーグラビアで東投手のモーレツな1日の様子が紹介されている。
朝登校して勤務先まで10キロをランニング往復していた。仕事に野球に勉強、帰宅は夜の11時過ぎ。
よく頑張ったものだと思い知らされる。いまこんなことやる甲子園球児いないよね。 むかし、
全日制の高校に受験で失敗したが、どうしてもその高校で野球がやりたくて、
定時制に入学し、野球部に入部し、大活躍。という選手はけっこういたらしい。
また、
受験で失敗したが、誕生日が9月以降だったので、一浪で入学し大活躍の選手もいたという。
地元では一浪してでも入りたい人気校だったそうです。
思ったのですが、いまも、誕生日が夏の選手権以降の場合、一浪しても三年生で夏の大会出場できるのでしょうか。 >>80
そういう話で一番有名なのは、米子東の長島投手だと思う >>81
いい話 教えてくれて
・・ありがとうございます。 米子東長島の場合、満州だか朝鮮からの引き揚げに時間かかって小学校の編入というか転入が遅れたからやない?
安来市に住んでいて松江商行くはずが県外とはいえ一駅の米子東へ行った方が汽車賃が安く済むという理由で米子東へ進んだのでは?
甲子園グラフティに掲載されていなかった? >>80
浪人ではないけど、興南の仲田幸司は83年夏の甲子園出場した時点で19歳になってました。
小中学校時点でアメリカンスクールからの編入があった場合は年齢の縛りがないという話が・・・
83年選抜特集の報知高校野球で仲田幸司の生年月日を見たら、あれっ?夏はもう19歳になっちゃうじゃん、と思ってたら夏も何事もなく出場してたから・・・ 71年選手権で準優勝した磐城のエース田村隆寿も中学浪人 86年夏出場した和歌山桐蔭のエース鹿島も中学浪人だった。
スカウト全盛のいまではありえない話。 >>78
77ですがどうもです。
ところで箕島といえば、校歌の歌詞には驚かされました。
♪冬吹きやまぬ西の風 海からとび立つ黒雲に あたりはおどろの闇となる
さあれ新緑光浴び 有田の谷にほとばしり この学舎に溢る香は
きびしい冬に耐えて来た われらおのこの 凜烈の意気 凜烈の意気 ♪
和歌山県有田市って行ったことないですが、南国らしい気候温暖の地ってイメージが
ありましたから、まるで北国の地のようなこの歌詞にはただビックリしました。
実は有田市って意外と冬の寒さが厳しいところなのかも。
作詞者は存じませんが、何でこんな歌詞なのか是非聞いてみたいです。 >>56
77年というとセンバツだけど、山形の酒田東を思い出してしまう。
というのも山形県酒田市は76年秋に、市の大半を焼き尽くす大火災に見舞われてしまった。
そんな事態のときに酒田東は東北大会で決勝まで進出して、センバツの切符を手に入れる。
まるで一昨年の糸魚川大火の跡地のような廃墟の傍らをランニングする酒田東ナインを
雑誌で見た覚えがあるな。
センバツでは1回戦で豊見城に0-10で敗れてしまったけど。
77年の山形は夏も酒田市から酒田工が出場、酒田工は確か1勝を挙げたよね。
酒田市にとっては”希望の光”っだったろうな。 箕島高校校歌
作詞:田木 繁
作曲:片山 頴太郎
冬吹きやまぬ西の風 海からとび立つ黒雲に
あたりはおどろの闇となる
さあれ新緑光浴び 有田の谷にほとばしり
この学舎に溢る香は きびしい冬に耐えて来た
われらおのこの 凜烈の意気
凜烈の意気
夏降りやまぬまぜの雨 山から押し出す濁流に
見渡すかぎりは川となる
さあれ濃緑霜を受け 有田の山の色変えて
この学舎に映える虹 はげしい夏に耐えて来た
われらおとめの歓びの色
歓びの色 郡山が甲子園に出た時も、中学浪人を経て入学した選手がいて
テレビでそのことを言われていた。 >>89
前にも記憶違いしている人がいたが、酒田東が東北大会で準優勝したのは火災より前のこと。
東北大会は10月の中旬に開催され、火災が起きたのはその月の26、27日あたりだったはず。 おっちゃんやけど
山本譲二が早鞆高校で甲子園出たとか、
ゴルゴ松本が熊谷商業で甲子園出たとか
まるで覚えとらんな。 >>94
ゴルゴの相方レッド吉田も東山で甲子園に。 そう言うと北陽野球部OBの4回戦ポーイのボクシングに松っちゃんが府立体育館で応援してたのに遭遇した。
松っちゃんはそんな人情味はあった、練習じゃ冷酷さが際立っていたのは有名。
弱小北陽をなんとか大阪の看板のひとつにするのには冷酷さも必要であったのかも知れんが。 >>94
そりゃ、補欠で試合に出ていない選手のことまで覚えている人はふつういないだろう(山本譲二は最後に代打で出たそうだが)。よほどの通でないと。
やはり寺田良介(美木良介。岡山東商)とか二戸義則(修徳)みたいに試合に出ていないと「ああ、あのときの…」とは思い出せないな。 >>88
冬に西の風が強く吹くときがありますよ!いわゆる北西の風が吹く季節に! 春に強かった箕島にピッタリな歌詞かも? >>99
二戸なんか、そもそも本人がどこに行ったやらww 二戸って王会長の中学時代の役で映画に出てた記憶があるあと見たことはないが再現ドラ
マで河内(国学院久我山−広島)が江夏の中学時代を演じたのを聞いたことがある
甲子園球児のプロボクサーではS45年の佐伯和志世代のトップバッターの三迫がいた。 >>95
レッド吉田選手は、
東山高校でベンチ入りするくらいの選手で、
控え投手だったそうですが、
本格派だったのでしょうか?
もしかして・・・軟投派?知ってる人おしえて下さい。
個人的には球は速いがノーコン・・であってほしい。 ドカベンが終わるそうですが、水島先生、ドカベンを書き始めた頃はサンデーで
男どアホウ甲子園や一球さん、他にあぶさんとか70年代後半に球道くんとか複数の
漫画雑誌で連載を持っていましたよね。手塚先生や永井豪先生もそうだけど当時の
漫画家はバケモンですね。今は複数連載を持っている漫画家は少ないのでは。 水嶋野球漫画は男どアホう甲子園からのファンやった…。
藤村甲子園「ボクなあ、大きなったら、お兄ちゃんキリキリ舞さしたんねん」
入団して実力を発揮し打ちはじめた頃の若きミスター長嶋にそう言う幼い藤村甲子園のセリフ回しが良かった。
個人的には大人が介在しないちばあきおのキャプテン、プレイボールが好きやった。 >>106
自分も野球狂の詩が一番好き。
水原勇気登場以前の1話完結の頃の話はドラマ性もあって。 >>104
山田2年夏の神奈川県予選、明訓vs白新の10回表、明訓1アウト一、三塁で殿馬のバントの小飛球を
白新ピッチャーの不知火がキャッチ。不知火が三走岩鬼がホームに滑り込んだのを無視して、同じく
一塁を飛び出した山田をアウトにしたシーン。
岩鬼が山田がアウトになる前にホームに滑り込んでたものの、当時のオレは3アウトで無得点と
思い込んでたから、なぜ1点が入るのか、しばらく理解出来なかったな。
オレの他にも理解するのに時間がかかった人、いたんじゃないか?
と思ってたら、何年前だったか忘れたが、熊本の済々黌が鳴門を相手に、このシーンの再現でしっかり
1点取ってたな。 >>110
その場合、
守備側の選手がベンチに戻る途中、
外野の選手がそのルール知ってて、マウンドに置いてあるボールもって
三塁ベースを踏んだらどうなるのかな?
他の野手はベンチに戻ってて、一人だけ残った状態。
第4アウト(?)とか成立して無得点なのかな。 >>111
2010年版野球規則7.10(d)【注2】によれば、投手及び内野手がフェア地域を離れた時点で
アピール権消滅とあるから、外野手はアピールしてもダメ。
2011年以降は規則書が横書き左開きになって読みにくくなったので買ってないが、多分
現在もこのルールは変わってないと思う。 ドカベンの話題で香川に触れんのも気の毒やな。
香川は「デブの割に脚が速い」んじゃなくて、高校時代は普通に脚が速かった。
打撃は周知の通り天才、高校時代はホンマに怪物やった。
プロでは余りに肥り過ぎてしまった。成仏しろよ。合掌(人) 関東大会ベスト4で、明訓に1回コールド負けしたのに選抜出場できた日光学園エース火野のモデルは、上尾の日野投手? >>112
ありがとうございます。
ルールのことで、
自分はドカベンで「臨時代走」というのを知りました。 山田や里中が明訓に入学して最初に出場した大会は74年の56回選手権大会だよな?
土佐丸と同じ宿舎の玄関に「第56回選手権大会神奈川代表 明訓高校」と表示が出ているし、開会式のときの外野の入場口に56と出ている。
なのであの年の出場校は34校。漫画の開会式の実況でも34校と紹介されている。
実際の大会も34校、ということは1回戦は2試合ある。開幕戦に登場した明訓は優勝するには6試合戦わないといけないはずだが、漫画で書かれているのは5試合だけ。つじつまがあわない。
それだけでなく、いわき東を破り優勝、土井垣主将が旗を持ち場内一周のときの実況で「参加校48」と書かれている。 所詮は創作物なんであんまり細かいことは気にしないで楽しめばよいのでは?
あまりリアリティに拘り過ぎるとありふれた日常だけになってしまうしな このスレ、バカな奴が自己レスを繰り返して延々と一人で盛り上がってるけど、こういうみっともないことをコイツはいつまでやる気なんだ?
それにしても、もう少しうまくやればいいものを。
相当なバカだな。 山田と東郷学園の小林との因縁の対決に期待してたが当時他誌の野球漫画で東郷学園と
ういう名前の高校があったのでトラブルを避けて対決見送り歳月を経て現在のドリーム
編でバッテリーを組むチームメイトとして登場そして藤村甲子園と対決とは当初からの
ファンにとっては本当にドリームでした。 >>117
まあそういうことだね。
秋の関東大会なんか、山田らが1年の時には開催県だけが2校参加で、他の6県は1校ずつ。
それが翌年には今と同じく、開催県3校、他6県は2校ずつ参加に様変わりしてたしw
それにしても日光学園の1回コールド負けには驚いた。
当時は東京都だけ夏の予選で3回15点差コールドがあるのを後になって知ったが、
1回コールドなんて初めて聞いた。 ドカベン3年春は大平息子の花巻以外の試合はサクサク進んで、手抜きしてた感じだったな
早く大甲子園を書きたかったんだろうか >>123
大甲子園で
山形の天童高校が将棋の駒の名前の選手たちで、
決勝戦に登場したときはなかったですか? >>122 “一回コールド”は、“漫画としての外連”なんだろうけど
「一般客を待たせる訳にはいかないから、第二試合開始を前倒しするwww」
という理屈は、水島先生の野球観が見えて面白いw
実際は、学校の応援団の準備があるから
試合開始時間は15分しか前倒ししないし
実際、2011年の智弁和歌山vs白樺学園は、試合開始迄1時間位待機していたw >>124
それは極道くんと言う別の漫画で出てきた学校ですな
藤井聡太で将棋ブームになった現在にウケそうな学校ですね >>127
極道くんて主人公が「わお‼」て叫ぶんだっけ? 最近TVCMとそのメイキングらしき物をニュースで見た。
甲子園のCMにダンスは要らんやろ?
ダンス甲子園じゃああるまいに。
高校野球のCMなら、前回大会の名場面をと、天に祈る女子高生。
そしてその娘が見上げる空に照りつける太陽!
てのが決りだ。 >>129
オレは後になってから知ったけど、あの第80回記念大会(いわゆる松坂世代)では
開会式に先立ってジャニーズのパフォーマンスがあったらしい。
あのパフォーマンスが終わるや、詰めかけてた女子高生の大半が開会式を見ずに
そのまま帰っちゃったとかw
なんか感覚がズレてんじゃないかと思うね。 >>110
似たような状況で昭和57年夏の甲子園
一回戦の東海大甲府ー境
3回裏一塁送球で二死目、二塁へ送球間に三塁走者ホームインで直後に一塁走者が二塁でアウト、そして境が先制点かと思いきや無得点。
ドカベン読んでいたから『あれ?』って思ってしまったよ。
ちょくちょく懐古スレに登場する話ですが。 >>117
あえてその細かいことを言うと「ドカベン」は明訓の”疑惑の優勝”があるんだよね。
山田、岩鬼らが2年の春の決勝、対土佐丸戦の12回裏、1アウト一塁から殿馬が即席バットで
大きなライトフライ。
ライトの犬神が当時あったラッキーゾーンの上でキャッチしたが、直後ラッキーゾーンの中に
倒れ込んでしまい、結局逆転サヨナラホームランになって明訓が優勝したが、これは間違い。
野球規則によれば、この場合バッターはアウトでランナーには1個の進塁が認められるので
2アウト二塁で試合続行でなければならない。
さすがにこれは看過出来ないミスなのに、何故かこのくだりが批判されたと言う話は聞いたことがない。 >>132
それは逆転サヨナラホームランの方がストーリーとして面白いから。
後年、ツッコミ所としても楽しめるしね。 アパッチ野球軍ではバックスクリーンに打たれたホームランを、
モンキー(?)が、よじ登って捕球し、アウトになった。
侍ジャイナンツの、ハイジャンプ魔球、分身魔球はボーク。・・だった。
アニメ野球は凄かった。
星飛雄馬は「大リーグボール1号」「消える魔球」そして絶妙のコントロールを駆使し投球すれば、
200勝は軽くいけただろう。大リーグボール3号は必要ないと思う。
「消える魔球」の消えなくても、沈んで浮かんでの球筋でカウントを稼ぎ、
最後は大リーグボール1号、・・星くんは、凄い投手だったのでは。 >>117
野球狂の詩では水原勇気は1勝したことになっているが、勝利投手ルールに照らしてみるとその1勝は実はセーブだったので「水原勇気0勝3敗11セーブ」という本を書いた人がいたな。
その人の集計ではドカベン山田太郎の高校三年間の通算打率は6割9分9厘だったらしい。 >>51
VS取手二ですよね。
確かにあの試合から衰退していった。 >>136
当時は箕島が次に夏の甲子園に出場するのは29年後になるとは想像もつかなかった。
その間には91年春に出場して投の山路、打の林が中心でなかなかの強力チームだったけどそのチームでも夏は逃してた・・・ >>137
ホント91年箕島は夏も見たいチームだったな。小久保の弟がエースだった智弁和歌山に負けたんだったけ? そう、県の3回戦くらいで1-3で敗退。
智弁和歌山は夏の予選での箕島戦の初勝利だった。これから和歌山は一気に智弁和歌山時代へ突入。
箕島凋落の歴史
85年夏 県準決勝で敗退 0-2和歌山工
86年夏 県決勝で敗退 3-5桐蔭
87年夏 県準決勝で敗退 0-2吉備
88年夏 県決勝で敗退 2-6高野山
89年夏 県3回戦で敗退 1-2海南
90年夏 県初戦で敗退 0-1星林 箕島は尾藤監督の勇退後は誰が監督やったんですか?
部長が昇格とか若手の指導者とかかな。
取手二、宇和島東、豊見城・沖水など名監督の後、監督やらされたら大変だったろうな。 2009年春の監督だった松下さんだっけ?
このときはいちど退いて再就任していたときの甲子園出場だったような。
尾藤氏勇退後の三年後の98年夏、不祥事で夏の予選は出場停止になったんだよな。 箕島の尾藤監督といえば、いつの年だったか和歌山県大会の1回戦で、相手はどこだったか
忘れたけど、8回裏まで4−0とリードしてたのに、9回表に一挙7失点して初戦敗退。
ショックを受けたのか、そのまま10日くらい行方をくらました事件があったのを覚えてる。
もう誰も覚えてないかな?この失踪事件。 >>142
気がつけば琵琶湖だった!ちなみに主将は松下氏だった!昭和56年 確かNHKの21時の全国ニュースになった!19時だったかも >>140
尾藤公氏→松下氏→児島→松下氏→岩尾氏→尾藤Jr氏
児島氏は昭和55年宮本−児島のバッテリーで、横浜3-2箕島の時の捕手で、1番打者だったので嶋田二世かと思った。
岩尾氏は箕島OB尾藤Jrね一学年下! 現在小久保の母校星林で監督 >>142
ちなみに串本高校だった! 県内屈指の好投手が串本にいたはず‼ しかし誰もが箕島が勝つと思ったはず >>143
昭和53年春に吉備高校が出場した時、よしび高校と読んでしまった。
昭和53年夏の千葉・我孫子高校を、知り合いの九州男児は
「がそんし高校」と読んでいた。・・ウソのようなホントの話。
自分は「がびこ高校」と読んでしまっていた。 >>141
確か松井と言う好投手がいて期待されていたが、下級生による下級生への… 学校側か自ら辞退したと思う。 >>147
(笑)岡山にも吉備て言う地名ありますね。吉備と箕島は隣の学校で、当時はNo. 2の強豪でした。 「箕吉戦」とも呼ばれてました。
昭和53年の和歌山大会決勝箕吉戦の、有田市内の視聴率が80%越えて、一市町村の日本記録継続中です。 >>138
箕島が久しぶりに甲子園(春)に出て、下馬評では箕島大本命でした。 翌日スポ紙に「横綱倒す」と、出てました。 智辯和歌山の最大の試合だったと思う >>136
雑誌に「夕立に泣いた二人のエース」と、かかれてましたね。打倒PL1番手と言われた強力なチームで、桑田清原の対決を楽しみにしていたが… もう箕島ファンだった方も、若くて40代後半だと思うが、MINOSHIMA 和歌┃山 のユニを甲子園で見たいですね。 >>147
78年夏の千葉代表は我孫子、茨城代表は取手二だったが、我孫子と取手って電車で2駅しか離れていないんだよね。我孫子ってホント茨城との境にあって千葉代表という感じがしなかった。 このスレ、バカな奴が自己レスを繰り返して延々と一人で盛り上がってるけど、こういうみっともないことをコイツはいつまでやる気なんだ?
それにしても、もう少しうまくやればいいものを。
相当なバカだな。 >>149
しかし吉備の甲子園でのあの岐阜戦はひどい試合だった。
岡本はじめ投手陣が17四死球を与える大乱調。8回に一挙7失点と崩壊した。
3時間を超える長い試合となった。
吉備はその後も県内では上位だったが、結局甲子園出場はあの大会だけか。82年夏は箕島を破ったし、87年は春の近畿で準優勝したが夏は県決勝で智弁和歌山の夏初出場をアシストしてしまった。 >>156
87年は強力なチームでしたね。確か乱打戦の末天理に負けたと思いましたが… エースは芝野?だったか、有田の選手が何故か箕島に行かず、ごっそり吉備に進学したと聞いたことがある。 87年和歌山には10人で選抜出場した大成もいたね
夏は部員が増えてパワーアップしたの? >>156
箕島が春夏連覇した79年春にひっそりと出場して大敗した田辺商とか、82年夏に箕島がこけて代わりに出てきたものの熊谷に完封負けした南部とか、この時期の和歌山は箕島以外は微妙な高校が多かった 例外は81年夏の和歌山工業だけかな。
盟主箕島との差がありすぎた。
で、その盟主が凋落すると89年まで初戦11連敗の泥沼にはまった。 >>159
田辺商の戦績を見ると、前年秋は県決勝で箕島に5−7(9回サヨナラ2ラン)、近畿大会では1勝したあと準々決勝でPL学園に2−3の惜敗なんだよね。箕島もPLも準決勝で負けてるが・・・
余談だが田辺商の野球部OBにコニタンがいるね。甲子園世代の2つ上 。 >>160
81年春の御坊商工も。
福島商の古溝、大府の槙原とプロ注目の左右の剛腕を攻略しての8強進出はお見事。 連投すまん。
御坊商工は秋の県大会では箕島を直接対決で下してて、近畿大会では下馬評が高かった東洋大姫路にも快勝。
大物喰いのチームで甲子園でも波乱を、と一部では言われてたけど、雨の中とはいえ大府の槙原まで攻略するとは・・・ >>160
81年の和歌山工のエース中田はサイドハンドからの絶妙のコントロールで
対戦した4校を手玉に取ってたね。
確か3試合連続完封で、初戦の優勝候補星稜に勝ったのには驚いた。 箕島は外弁慶のチームで、県内ではちょくちょく足元をすくわれることかあった。地元中心のチームだったから、他の公立と戦力が分散していたため、他校も活気があった。 智辯和歌山の時代になり、県内全域から有望選手獲得と、県外有望選手が加わり他校を寄せ付けなくなった。 >>164
星稜、近江、熊谷商と3試合連続完封どころかすべて無四球のおまけつき。すさまじい投球だった。
3試合連続無四球は74年夏井神(防府商)、87年夏川島(東亜学園)も記録しているが、無四球完封となるとほかには64年春のジャンボ尾崎(徳島海南)しか思い浮かばない。
星稜の山下監督は和歌山工との対戦が決まったとき、2年前のあの箕島と同じ和歌山勢ということでお蔵入りを決めていた箕島戦時着用のユニフォームを急ぎ着用することにしたらしい。
それが0-4の完敗。「あまりにもあのときの雪辱をと気負いすぎた。やはりあのときのユニフォームを着用すべきでなかった」と後悔したらしい。 サッカーを見ていて26年前の明徳義塾ファンの気持ちがわかる日が来るとは思わなんだ。 7回で7点差でコールド成立の場合
後攻のチームが7回に7点差目をスクイズで取ってコールドにしたら、
ブーイングか
やった高校あるのだろうか。 自分が覚えてることを書くために、わざわざ複数人を装って書くのはやめてくれないか?
自らそれなりのサイトを立ち上げて、一人でやってろよ
いい歳してこういう見ている側が恥ずかしく思うような、こんなみっともないことを連日続けている人間の顔が見たい >>164
国体でも早実の荒木投手と投げ合い延長18回を1点に抑え引き分けていますから、まぐれではないですね >>169
=118、154と思われるが、自演となんで決めつけているのか、どうしてそう解釈するのかが理解できないわ。なんか証拠でもあるのか?ひねくれているというか屈折しているというか。
そんな自演をする住人だけのスレのわけないだろうよ。
そんなにこのスレが不満ならお前が来なけりゃいいだけだろうよ、お前こそバカだわ。
高校野球の昔話をしたくてこのスレにきているのに、お前みたいな書き込みがあると不愉快だわ、二度と現れるな。 >>172
滋賀国体の年で皇子山での試合だったかな。
早実は芳賀一荒木のリレーで、和工は中田が一人で投げて延長18回1-1の引き分け。
再試合は4-1で早実が勝ったんだったかな。
優勝は早実を2-1で破った今治西。藤本一武田の二年生バッテリーで翌年が期待されたが… >>174
今治西は国体決勝では藤本でなくおなじ2年の渡辺等が投げているはず 投手2枚と強打の武田が残って期待されたけど甲子園に行けなかったですね 皮肉にもひとつ下の小粒なチームが翌年選抜に出場し、駒大岩見沢に初戦で完敗しています >>170
むかし、
北がミサイル発射するたび、不具合が生じ、竹島に落ちてくれないか
と、思ってしまったよ。
あの岩が跡形もなく消えたら、
「独島は日本領、謝罪、賠償せよ!」なのかな。 >>175
秋の県大会は準決勝で松山商に1-4。翌年夏の予選も決勝で川之江に0-3。
渡辺は巨漢でパワフルな感じ、甲子園では新発田農戦に投げた記憶がある。
巨漢といえば、名前は忘れたが卒業後に大相撲の藤島部屋に入門した補欠の選手がいたな。 >>177
今治西は青菜という名前の選手だった。
準々決勝の報徳学園戦にセンターで出場して、センターフライを目に当てて退場。
「自分は野球に向いてない」と、野球を諦めて角界に進んだ。
新発田農の須藤、粘り強いピッチングだったね、まさかあの広島商相手に勝つとは思わなかった。
卒業後、野球を辞めて地元の農協に就職したという記事を読んで驚いたよ。
大学とかノンプロとか行く気は無かったんかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています