30歳以上のおっさんが高校野球を語る27
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俺もあんまり甲子園に詳しくなかった中坊だった頃の87年当時、関西高校を普通にかんさい高校と読んでたわw
なんで岡山なのに関西なんやとw >>216
PLと大阪桐蔭は同じくらい優勝しているが
→この春の優勝で、
優勝回数(春3回、夏4回)
春夏連覇
選抜連覇
すべて並んだ。 春夏甲子園勝率(但し出場3回以上) 1位 大阪桐蔭 .826 2位 PL .762
春夏甲子園本塁打数 1位 PL 70本 2位 大阪桐蔭 65本
甲子園で1試合3本塁打を記録の2人 PL 清原(1984夏1回戦 対享栄) 大阪桐蔭 平田(2005夏準々決勝 対東北)
などもあるな。 まさに高校野球の盟主という感じだね
PLは教団の協力が得られなくなって徐々に力を失っていったけど、大阪桐蔭は力を持続することができるか 大阪桐蔭の特筆するとこは不祥事が一切ない
PLは中村監督が退いた後からの不祥事連発が痛かった
藤原元監督が暴力は完全にはなくらなかったとか言ってるくらいやから というかPLは元々不祥事多いから中村監督も嫌気が差して辞めたんだと思う
97年も下級生に暴力振るう事件あり >>223
不祥事はあったよ
2004年の選抜前に、2003年の部内暴力を隠蔽していた事が発覚
選抜大会では、監督の西谷と部長の有友が謹慎を受けてベンチ入りを禁じられた
この年の選抜では、ダルビッシュ擁する東北高校と対戦しているにもかかわらず、
お喋りの西谷がダルビッシュの事を一切語っていないのは、この不祥事によってベンチにいなかったから
あとは2011年の部内暴力
現在プロ野球選手のYが当時1年生の部員を殴り顔面陥没骨折させた事件
これは高野連に報告しなかったので、処分を受ける事はなかった
まあ有名な話だね 山足とか中田とか森とか福田光輝とか、暴力ない訳ないだろっていうメンツ。
野球のレベルが上がるにつれて優しいヤツは淘汰されて、人間性劣悪なヤツが残るシステムになってるから。 >>223みたいに暴力が一切ないって思っているオタがいるんだ、ビックリだわ。 まぁスポット的な事件はどこもあるけど、PLみたいに常態化してたのはそう無いんじゃない?
2001年の出場辞退も言うほど驚かなかった
いつか起こることがついに来たな、と 負けそうになったら相手エースにデッドボール食らわせるのは
わりと常態化してるだろw しかし天理と松商学園なんか高野連から何度も罰を食らっても
立ち直るよな >>230
89年夏の京都決勝、平安のエースにぶつけた京都西 >>231
天理は森川監督で不祥事起こすたびに橋本監督に戻ってたな 橋本さんは確か天理教の職員やろ?
融通がきくわな、異動みたいなもんやから 天理というと、80年秋の県優勝後に発覚した不祥事は痛恨だったな。
夏の甲子園ベスト4のメンバーがほぼ残り、翌年の優勝も夢ではないと評判高かったから。
過去にもいろいろ不祥事を隠蔽していたようだが、このときは隠しきれなかったらしい。
責任をとって清水監督が辞任した。
昔から不祥事が多い学校であることは間違いない。 94年に北田とバッテリー組んでた捕手が監督から暴力行為があったと島?監督を訴えたよな。 70年代の天理は毎回のように投手が制球に苦しんだな、お家芸のようだった。
72年夏の金森、75年春の猪口、76年夏の福家、79年春の高松 当時の強豪と呼ばれた学校で野球の粗さは天理と柳川商が双璧だったような。
どちらも大型選手を揃えて打線が自慢だったけど脆さの方が目立って・・・ http://www.hb-nippon.com/report/1800-hb-nippon-game2018/17945-20180527001
の記事で大阪桐蔭が4年制抜きの日体大を破ったとか。桐蔭が木製バットなら勝てない気もしますが、
2010年の選抜前も一二三の東海大相模が東海大と練習試合をしていたようですし、いつから
大学生との試合ができるようになったのでしょうか?昔はあまり聞いたことがなかったです。
1981年にアメリカでアリゾナ州立大に練習試合で負けた関根監督時代の大洋が5月頭まで
セリーグの首位を走って、日本の野球のレベル、低!って思ったこともありましたが。 むかし清原の記事で、
清原は天理に進学も考えたが、天理の監督は一年生は夏は使わない みたいな
情報が入って進学を辞めた とあった。
むかしの天理は夏の大会は三年生、二年生で戦うという、部の方針みたいのがあったのですか?
今は一年生で甲子園にベンチ入りしてる選手いるけど。 門田が野村と揉めて、引退しようとして、結局天理高校の監督の仲裁で元の鞘に戻ったと書いてあったが、高校野球の監督が、野村をたしなめる力があるのだろうか? >>242
柳川商は大型チームの時よりも、対江川のプッシュ打法のほうが印象に残っているという・・・ むかしの荒削りの打の天理は魅力ががあった。が、86年90年とチームが攻撃型でないときに
限って全国制覇している。 >>247
でも甲子園では勝ち進めなかったがやはり76年のチームが印象に残る。
久保、立花、末次。前年秋のチーム結成以来、夏の甲子園出場を決めるまで85勝2敗。 清原がもし天理に行ってたら、1年夏(83年夏)と3年春(85年春)のたった2回しか甲子園出場できなかったことになるのか。ホントにPL選んでよかったな 清原がいたらもう少し出られたかもしれないが、13本もホームラン打てなかったのは間違いないだろうね 桑田は中学時代にバッテリーを組んでいた西山秀二とともに上宮から誘われていたのかな。 83年夏の天理は弱かったな。
ロッテに行った南渕はいたが。 >>252
誘われてたというか、中学側が桑田の他数人も上宮が受け入れるという条件で無理矢理入学させようとしてた
それに反発した桑田が中学3年の3学期に転校してPLに入学してる >>250
投手としても大成し、大谷の30年近く前に二刀流として大活躍していたかもしれない >>253
天理が弱かったのとその年の奈良県のレベルが低かったともいえますね。
※昭和57年秋季近畿大会
智辯、奈良広陵、二階堂全て0勝
※昭和58年春季近畿大会
生駒 0勝 ふと思ったけど↑のあたりの奈良県のチームってあまり勝てなかったな。
昭和55年夏・・・天理(4強)
昭和56年春・・・無し
昭和56年夏・・・智辯(初戦敗退)
昭和57年春・・・郡山(8強)
昭和57年夏・・・智辯(初戦敗退)
昭和58年春・・・無し
昭和58年夏・・・天理(初戦敗退)
昭和59年春・・・智辯(初戦敗退)
昭和59年夏・・・智辯(初戦敗退)
昭和60年春・・・天理(8強)
昭和60年春・・・奈良広陵(初戦敗退)
昭和60年夏・・・智辯(初戦敗退)
昭和61年春・・・智辯(初戦敗退)
昭和61年夏・・・天理(優勝)
こうして見ると寺下監督時代の智辯の戦績がガンだな。 奈良県勢、夏に関しては5年連続初戦敗退とか。
そして代わりに低迷期に入ったのが和歌山県勢
昭和58年夏・・・箕島(3回戦)
昭和59年春・・・和歌山工(初戦敗退)
昭和59年夏・・・箕島(初戦敗退)
昭和60年春・・・智辯和歌山(初戦敗退)
昭和60年夏・・・和歌山工(初戦敗退)
昭和61年春・・・御坊商工(初戦敗退)
昭和61年夏・・・桐蔭(初戦敗退)
昭和62年春・・・大成(初戦敗退)
昭和62年夏・・・智辯和歌山(初戦敗退)
昭和63年春・・・無し
昭和63年夏・・・高野山(初戦敗退)
平成01年春・・・日高(初戦敗退)
平成01年夏・・・智辯和歌山(初戦敗退)
平成02年春・・・無し
平成02年夏・・・星林(3回戦)
箕島没落後〜智辯和歌山台頭前の和歌山も大概やな。 >>258
61年夏に桐蔭が箕島に勝って甲子園を決めたのには驚いたね。
2年生の尾藤Jr.が投げていた年。 >>257
智辯は前監督の故上村さん時代から徐々に強くなり、その教え子の小阪現監督が就任後、選抜優勝し今に至る 小阪さんは智辯和歌山の高島さんの孫弟子だな >>257
昭和61年春 天理(2回戦敗退)
がもれているぞ >>257
奈良県は81年から85年まで夏の甲子園で初戦敗退だったが、直前の80年まではなんと71年から初戦10連勝だった。極端すぎるな。
71年 郡山8-3PL(ベスト4)
72年 天理6-4東北(ベスト4)
73年 天理6-0青森商(3回戦)
74年 郡山4-0秋田市立(ベスト8)
75年 天理9-0堀越(ベスト8)
76年 天理10-5塩山商(3回戦)
77年 智弁学園2-1星稜(3回戦)
78年 天理6-0松商学園(ベスト8)
79年 天理5-4日大三(2回戦)
80年 天理5-4新発田農(ベスト4)
しかも79年の天理以外は必ず2勝か3勝している。しかしそれ以上は勝てなかった。天理が3勝の壁を破ったのが78年だった。 >>257
寺下監督時代の智辯学園は春夏通じて6回甲子園出場して全部初戦敗退。
勝利監督インタビューではなくて敗戦後の談話しか聞けなかった・・・
84年夏に浜松商相手に7−0から逆転されたのが痛恨だった・・・ >>264
寺下監督時代は野球が大味だった
監督が変わり緻密や野球になってから智辯は甲子園で12年ぶりの勝利、95年夏に福留や前川のいたPLに勝って4強入りしてから天理と肩を並べる奈良の強豪になった >>259
この年の箕島は県内の中堅校に接戦していたので、歴代甲子園出場チームに比較したら劣っていた。
桐蔭・河野監督は実力差はかなりあった。あの試合よく勝てたものだ。と後年話していたけど。 >>265
95年の主砲の小坂はそこそこイケメンだったな。
今じゃ頭皮が福留と揃って… >>259 >>266
桐蔭は尾藤ジュニアの箕島だけでなく、藪恵壹の新宮も倒した
オールドファン以外は「余計なことすんなよ。桐蔭め!」と思ってた。
甲子園で一つでも勝てば救いはあったんだが、初戦逆転負けだけに・・・・・。
なお、この試合は試合途中で相手チームの校名表記が変わったことで知られる。 桐蔭に逆転負けした箕島はその後坂道をころげ落ちるように凋落していったな。
翌年には智弁和歌山が夏の甲子園に初出場。
88年の予選前には尾藤監督の「やる気がないなら帰れ」の一言に部員が反発してみんな練習を引き上げてしまった事件も起きた。
新宮といえば、84年の山崎慎太郎のチームを甲子園で見たかった。春の近畿で優勝、嶋田弟には負けなしだったが、夏は箕島とあたる前に準決勝で和歌山工によもやの完敗。 >>271
和歌山工はこの年の春に選抜出場。
初戦敗退だったけど有力校に挙がっていた都城相手に2年生左腕森岡が好投して接戦での惜敗だったから新宮と力の差は前評判ほどはなかったかと。 >>273
相撲の久島といえば、明徳に秋本っていたよな、時期は久島と同じくらいだったっけ? 箕島高校のアイドルだった投手の娘が
テレビ朝日の女性アナになって結婚したけど、すぐ離婚しちゃったね。
早朝の生番組に出てるけど。
元野球選手の娘がエンタメの世界に行くのはよくある。
福山雅治さんの奥さんの父親も近鉄の選手。
そう言えば福山さん、100回大会を迎えるにあたりNHKで初めて作るテーマソングを担当することになったそうだ。
福山さんの長崎では、海星高校のすごい投手が話題になったね。 久島啓太(故人)と津野浩と古田敦也は生年月日が同じ
ハム太郎も同じ誕生日だが生まれ年は知らん >>270
>>271
86年の箕島は準決勝の2回に尾藤ジュニアが足に打球を受けたため降板
本来はショートの原井が100球以上投げることに。翌日の決勝では疲れがあり本来の投球ではなかったという不運。
88年の箕島は前評判は低かったが、
初戦で松本(現ロッテスカウト部)がエース四番をつとめ優勝候補の市和歌山商に大勝して波に乗る。
決勝では甲子園を意識してか選手の動きが硬くエラーが続出、
打線も高野山の2番手投手の縦カーブに強振し凡打の山と完敗だった。 >>277
吹石一恵の弟は奈良智辯のキャッチャーでキャプテンを務め夏の甲子園へ出ている >>277
福山雅治の母校長崎工業は甲子園に出たことがないが、81年秋、82年春と県で優勝して夏は大本命だったが夏は敗退。エースは山崎とかいう投手だったかな。
この夏は長崎大水害の年、大会中の惨事だった。香田の佐世保工業が長崎商業を破って優勝したな。 サッシーも結局地味な中継ぎピッチャーに終わってしまった。
まだ体が出来てない1年目から客寄せパンダで先発に起用され、土台造りが足りなかったと思う。 福山雅治世代の86年長崎代表は島原中央だったな
確かベンチ入り選手のほとんどが福岡出身じゃなかったけ? >>283
国見高校野球部、サッカー部が水害被災者の救助して表彰されていたね。
サッカーの小嶺監督就任前かな。
>>285
島原第三中出身者など島原市内の選手がレギュラーで3人ほどいたかな。
決勝戦で負けた佐世保実業井上監督は外人部隊の批判していたそうですね。
監督が長崎人じゃないのがお気に召さないようで。
島原中央には女の先輩がバレーボール部だったかなバスケットボール部だったかな?
推薦でいったな。ちょうど野球部が甲子園初出場した年に。浜松の中学校から。
やっぱりいろんなスポーツに力を入れていたんですねぇ。 福山がNHKの高校野球放送のテーマソングを作るということは、
現在使われている古関裕而氏作曲の「スポーツショー行進曲」は
もう高校野球では聞けなくなるということなのだろうか。
それは非常に残念なことだ。 福山って長崎工業なんて高校だったんだ。
もうちょっとインテリ系な学校出身かと思っていたわ。 イメージ的に海星や南山とかのキリスト系の学校だな。 >>284
高卒ルーキーで開幕直後に予告先発で登板したこともあったな。たしか神宮での大洋戦で7回2失点だから及第点だったが。
巨人戦では王さんにホームラン打たれた。
地元長崎で行われた試合でも先発したがこの試合で負け投手となり二軍落ちしたと思う。 酒井や崇徳の黒田がヤクルトで敗戦処理に甘んじてるのは、何とも言えない気分だった。
黒田は高卒でプロに行ってたら、また違ってたかも知れない。 >>292
黒田は社会人で酒の飲み過ぎで肝機能障害になるなど、若いときは節制がまるでできなかったから、高卒プロ入りでも変わらないような気がします >>293
黒田は高卒時に日ハムの1位指名を拒否。
大沢親分が直々に交渉に臨んだけど、「日ハムは嫌だ」と・・・
今じゃ考えられないけど当時はパリーグの不人気球団には行きたくないからと入団拒否の例が結構ありました。 >>293
敗戦処理に甘んじているのは、なんともいえない気分だった
→同意。
酒井は6勝12敗4セーブ
黒田は0勝7敗2セーブ
がプロでの成績だったか。
86年のプロ選手名鑑を見てみると、ポジション、背番号順に掲載されているので22番の黒田と23番の酒井(入団当初は18番だったがのちに剥奪された)が並んで掲載されている。
あの甲子園から10年、落ちぶれ果てた二人の姿にため息が出た。 S55年のドラフトでもドラ1で指名された秋田商高山(日ハムから)・
松商学園川村(阪急から)が拒否してプリンスホテルに就職したな。 少し年代が新しくなるけど、松坂が中日で復活するとはね
肩がはまったとの事らしいが、想像以上に活躍していて良いね
平成に入ってからの甲子園優勝投手の中で、一番世間で騒がれ話題になった平成の怪物が、平成最後の年で復活する
高校野球時代も凄かったが、今もよく出来たシナリオだな
事実は小説よりも奇なりだわ >>296
翌81年のドラフト1位候補だった秋田経大付・松本は事前にプロ入り拒否宣言して住友金属に就職。
後に大洋入りしたけど、何の特徴もない投手になっていてガッカリしたな。
高山・川村とこの松本は高校卒業時にプロ入りするべきだったね。 >>298
自分も秋商・高山、松商・川村はすぐプロに行けばいいのに・・、と当時思ってました。
ちょっと違うかもしれないが、早実の投手で、
「ハンカチ王子」がすぐプロ野球に入団していたら・・、
また荒木大輔投手が早大経由でプロにいってたら、
どうなってたんだろうかね。
ハンカチ王子はヤクルトにトレードしてもらって神宮のマウンドで投げれば、
目覚めるのではないだろうか・・。 >>299
札幌ドームでもろくに勝てないのに、12球団のフランチャイズ球場で最もホームラン出やすい神宮で投げたりしたらどうなることか 81年の投手では槇原、松本がツートップの評価で
その次ぐらいが工藤、西川だったような記憶がある。 ラジオ深夜便 6月10日
午前4時05分
森田美由紀
▽スポーツ名場面の裏側で
「延長18回引分け再試合」
プロ野球解説者…太田幸司
きき逃しサービスで後から聞けるが貼っておきます 高山、川村は過大評価と思った。中西の評価が選手権で落ちまくったが、結局プロで活躍したのは中西だった。 >>279
新宮卒業生です
前岡さんは、学校創立100年事業の一環だった硬式野球部の招待試合で当時全国制覇した智弁和歌山との試合で始球式をされてました
年齢を重ねていましたけど上背もあり、オーラがありました
(尚、開催は秋の為、智弁和歌山は新チームでした) >>301
夏の甲子園大会が終わってからのプロのスカウト間の評価は大会ナンバーワンは松本だった。
ただスカウトの評価は辛くて、松本がナンバーワンというのは今大会で松本以上の投手がいないから、というスカウトもいた。槇原は予選敗退だったが、この年の高校球界ではナンバーワンという声も多かった。
工藤はカーブがすごかったが身長がもう少しほしいという声があった、たしか174センチくらいだったっけ?
打者はなんといっても金村で、中西太みたいになれるとえらい評判だった。
>>303
高山は148キロと当時のスピードガンでは最高級の数値だったが、なにかモロさを感じさせたな、あの体型、風貌と相まって。
川村は中西と互角の投げ合いを演じて評価が上がったが、高山より落ちると感じたな。
やはり中西はコントロールもよかったし、投手の総合力では高山、川村より上だった。 >>301
工藤は体が大きくないから評価が低めだったね
あのカーブの落差と直球の切れなら即プロで通用しそうだったけど
実際、西武で1年目から大事なところで活躍 >>305
高山は故障がちで大きな身体をもて余してたような。
甲子園ではスピード以外では本領発揮とはいかなかった。
高山、松本と2年連続で秋田県から全国で注目された右腕が出現したけど、二人とも高校から直接プロ入りしてれば・・・と思った人は多いでしょう。 >>259
尾藤監督がここ1番の勝負どころで、息子の強さんの名前を呼んでしまった事で空気が変わった、痛恨の一言。 >>84
静岡自動車工は校内に自動車学校があって袴田は便利で良かったと言っていた。
その袴田もレジェンド村田兆治には、随分酷い仕打ちを受けたらしい(笑) 昔からNHKでは全国放送してたみたいですがABC(朝日放送)の中継は関西だけだったんでしょうか? スピードガン導入後に高山が148キロで最速ならば江川は155キロはでていたな。
酒井も高山より速かったと思う。 中西の方が、ピッチャーとして優れていると思ったけどな。プロは球が速いのが大好きだから。投球術は生まれもったセンスと自分は思う。 80年甲子園のNo.1打者は広陵の原伸次でOKかな?
甲子園では前評判通りのバッティングをみせてたとは思いますが。
熊本工の伊東、鳴門の秦と後にプロでキャッチャーとしては原以上に活躍した選手が同じ年にいたけど。
他に横浜の愛甲も打者としての評価が投手よりも高かった・・・ あくまで80年春夏甲子園でのNo.1打者ということで原伸次が一番印象に自分は残ってたので。
原伸次は小柄ながらバッティングは力強かった印象が。
今でいうと大阪桐蔭〜西武の森友哉とほぼ同じ体格で左打ちの強打のキャッチャーみたいな。
プロでは伊東、秦の方がはるかに上になってた・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています