50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.3
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
>>841
この頃の箕島の試合は信じられないようなことがよく起こった。
79年夏星稜
82年春明徳
83年夏吉田
それ以外でも選抜決勝の北陽、79年春PL、浪商。
やはり、50以上のおっさんにとって、箕島は伝説の学校。
そして、最後は取手二に大逆転負けをして時代を終えたな。 平成3年選抜大会二回戦大阪桐蔭戦も8回裏一気に逆転されたね。 箕島はあと一人まで追い込まれてから追いついたケースが、70春北陽の10回裏、79春PLの9回裏、79夏星稜の12回裏と16回裏、82春明徳の13回裏、83夏吉田の9回裏と6回もある。
このうち北陽、星稜の16回裏、吉田はあと1球まで追い込まれてからの同点劇だった。 >>853
そうなんだよな
箕島のしぶとさの源泉は何だったのかな?
やつぱ尾藤イズムなのか >>849
箕島の全盛期は「バントの箕島」の異名もあってバントをことごとく決めて得点に結びつけてました。
春夏連覇の年の選抜準々決勝の倉吉北戦ではバント8つ、犠牲フライ2つで1試合10犠打の当時の大会記録で剛腕矢田を攻略。
バントもただボールの勢いを殺すだけでなく、プッシュバントも駆使するなど変幻自在で。 箕島は77年春、78年春夏、と3回続けて甲子園の初戦は1−0のスコアで勝利。 昭和52年春の優勝校・箕島のエース東投手は定時制の選手で努力家だったらしいが、
仕事、野球、学業とやったというのは凄いことですね。
今の高校球児で定時制の選手はいるのでしょうか。 >>853
北陽の高木は端正なマスクのサウスポーでしたね。広島であそこまで活躍しまするとは 今の私立野球強豪校は野球専業でしょう。プロ高校野球プレイヤー。仕事、学業、野球に打ち込むような子が甲子園の土を踏める時代じゃない。間違っている! 昭和49年?の和歌山工業にも工事で働きながら、野球部で頑張る定時制の選手がいましたね。そんな選手こと甲子園の土を踏ませてあげたいと思う俺は古い人間。 >>855
箕島春夏連覇の年も、選抜準決勝のPL戦では9回裏の無死1,2塁の場面で絶不調の4番北野が送りバント失敗の併殺を喫して窮地に追い込まれた。
その直後5番上野の起死回生の3塁打で延長戦に持ち込んだ。
黄金期の箕島の追い詰められた時の底力は凄かった。 80年夏・準々決勝 横浜3-2箕島
この時の箕島は選抜優勝で、夏も優勝候補だった高知商に5-0で完勝。
夏2連覇を目指してたが、
準々決勝で東の横綱横浜と対戦。
前年夏の箕島戦のこともあって、1点差に迫ったときは、
これは箕島が終盤に逆転すると思ったが、
結局、逆転できなかった。
この頃の箕島相手に1点差を逃げ切れるなんて、この時の横浜は改めて強かったんだな思う。 >>855
スクイズで思い出したが、79年夏の決勝の池田戦も
決勝点は8回裏のスクイズ。
外されたがそれに飛びついてのジャンピングスクイズだった。
もし、78年の奇跡のPLと79年の箕島が戦ったら、
どっちが驚異の粘りをみせるだろうか。 79春のPLも、中京商戦、宇都宮商戦と前夏を彷彿させる進撃ぶりだった。
特に2回戦の宇都宮商戦は4点差つけられていた8回に阿部の2ランで追いつき、その阿部が延長10回にサヨナラホームランとミラクルな活躍。
しかし、準決勝の箕島戦では同点の延長10回裏1、3塁のピンチに阿部がリリーフ登板したが、初球に暴投して無念のサヨナラ負け。
そういえば、PL優勝の78年は「不確実の時代」という言葉が流行ってた。 >>861
82年春に初出場した大成の楠井主将も定時制に在籍して、仕事、野球、学業と忙しく。
定時制の部員で話題になったのは箕島、和歌山工、大成と全部和歌山の学校ですな・・・
大成が部員10名での選抜出場で話題になったのはその5年後の87年。
初出場の82年は初戦の静岡市立戦に勝って2回戦では中京に完封負けで中京の甲子園通算100勝目の相手となって球史に名前が・・・ >>868
同点アーチの箕島森川も定時制だったよな。 これだけ色々と語れる、箕島とPLはやはり凄い。
大阪桐蔭では盛り上がらんしな。
箕島、PLの全盛期が重なってるというのも凄いわ。
両校とも奇跡のような試合を何試合もしてるからな。
全盛時代に甲子園で対戦したのはセンバツの2回だけ。
夏はないんだな。 >>870
森川選手も定時制の選手だったんですか。
定時制の選手は3時頃に仕事切り上げて、練習して
6時か7時ころの授業に参加していたのでしょうか。 伊東や中込は全日制を落ちて、定時制にまわっただけ。仕事、学業、野球というわけじゃないでしょう。 桐生高校の全盛期は部員全員定時制に在籍させて、
苦学生はどこへやら、朝から晩まで文字通り野球漬けという異常な実態でした。 >>871
両校の甲子園での対戦は3回あった。
50回選抜準々決勝 箕島2−0PL
51回選抜準決勝 箕島4x−3PL(延長10回)
54回選抜準々決勝 PL1−0箕島 80年のセンバツで箕島が落選したの何故だろう?
ベスト4+平安(地域性)、上宮(初出場)は、順当なんだけど
“ピッチャー石本”の滝川が、3連覇のチャンスがあった箕島を、
上回る決定的な理由が見当たらないんだが? 地元兵庫ということと、滝川は潜在能力は近畿一と言われたくらいだったから。
箕島は投手力があまりにも弱体だった。秋の時点では宮本は投手に転向してなかったと思う。投手は左だったが、左打者になるとストライクが入らないほどひどかった。
たしか近畿の初戦の奈良智弁戦、二人の投手で9四死球を与えているがすべて左打者に与えていたはず。
それにしても秋の近畿の準々で滝川が瀬田工業に2-4と不覚を取ったせいで近畿の7枠目の選考は難航した。
滝川が瀬田工業に順当に勝っていたら、7枠目は箕島と瀬田工業の争いとなり、そうなったら前年春夏連覇のハクがあるのでおそらく箕島が滑り込んでいたことだろう。平安が選ばれてたので京滋から出場は確保できていたから。
滝川が負けたせいで箕島が出られなかった、余計なことしてくれたな、と当時思ったものだ。 センバツたったと思うが元巨人の槙原大府と和歌山の御坊商工の泥んこ試合は大府が負けたんだっけ? >>877
文面をよく読めば分かるはず・・・
選抜優勝で、というのは高知商のことで箕島の事ではないのは。 >>880
4−0で大府が御坊商工に完封負け。
雨でぬかるんだマウンドで豪腕槇原は涙をのんだ・・・ >>882
ありがとうございました。あれは中止させるべきじゃなかったすかねー。日程が詰まってましたっけ >>883
日程が詰まってたというか、あの試合は2回戦最後の試合だった。
既にベスト8の内、7校が決まっていたから、1試合だけ再試合というわけにはいかなかったのだろう。
同じようなことを感じたのが、89年センバツ1回戦の西条vs県岐阜商の試合。
1回戦最後の試合だったが、あの試合さえ消化すれば2回戦8試合は、1日4試合ずつで消化出来ると
オレは思っていたら案の定そうなった。
79年センバツ準々決勝4試合目の東洋大姫路vs池田の試合といい、豪雨の中の試合には必ず
主催者側の思惑が渦巻いてるよ。 >>884
春休みもあるし当時としては批判も少ないし仕方なしですか。県岐阜商対西条のがたびたびあがってますが記憶にないです! >>885
ちょっと脱線するけど、89年の選抜といえば、入場行進曲が光GENJIの「パラダイス銀河」。
翌年がBBクィーンズの「おどるポンポコリン」だったかと。
「パラダイス銀河」はともかく「おどるポンポコリン」とか、よくあんな曲を選んだなと思ったな。 大府と報徳の打ち合いも見応えあったな
槇原ってあのころからよく打たれてた 箕島は77年春や79年の春夏など守備力が完璧でひたむきなチームが、尾藤野球の完成形
だったようだ。80年代前半からは大型チームを指向しはじめて、逆に次第に勝てなくなって
いった。そのなかで80年夏は左腕宮本がダイナミックな投球で横浜を苦しめた >>886
ポンポコリンは91年。
90年は「約束」。 >>882
その試合もグランドは水浸し、外野はもはや無法状態だった。
しかし翌日も雨が降り続いてPL対日立工業はもっとグランド状態が悪くなっていた。さすがに準々は2試合消化して残りは翌日に順延した。
すでに2日間順延していたから高野連は無理したかったんだろうけど。
その試合の8回表、パスボールでホームに飛び込んだ三塁走者とぶつかったPLの控え捕手はヘルメットに頭をぶつけて脳震盪でグランドで倒れたな。 81年選抜優勝投手の西川は5試合中、3試合を完封。
球のキレとコントロールの良さ、相手との駆け引き、フィールディングの良さと勝てる投手の条件を備えてました。
後に法政でリーグ戦での連勝記録樹立、ロス五輪代表なと輝かしい実績を引っ提げてドラフト1位で南海入りしましたが、球のキレと勢いだけを見ると、高校時代が一番あったような・・・? >>888
やはり池田の存在が大きいだろうな。
82年、83年の池田のパワー野球は衝撃的だった。
箕島もそれに影響されたかな。
パワー野球の前では箕島の粘り野球も吹っ飛んでしまう。
特に84年夏は嶋田、杉本という後にドラフト1位で指名された投手が2人もいながら初戦敗退。
あれもその後の箕島にとって大きかったな 池田の選手って高校時代に活躍しても上にあがってから割と伸びてないでしょ逆にPⅬ
は宮本のように高校時代目立ってなくても確変する・・・金属バットが使えるのは高校
までパワー打撃だけでなく守備を含めた細かい技術を教えてないと上にあがってからダ
メなんじゃないのか >>891
西川はプロでやるには球速がなさすぎた。
一年目こそ10勝を挙げたが。
アマ向きの投手だったと思う。昔の山中正竹さんのように。
中村監督も三年の夏が終わったあとに「(プロではなく)大学だったら自信を持って送り出せる」と話していた。 >>889
90年の相川恵里の『約束』は印象が薄いがいい曲だった。毎日放送セブンティーンレポーター達も同じ高校生の相川恵里にインタビューをしていた。 松山商ー三沢の録画を見て思い出したけど、昔は回の始めに投球練習が終わると、捕手が他の野手に向かってしまって行こうーとかあったけど今ははないよね。。。 >>894
西川は優勝した選抜大会で5試合完投して自責点は決勝戦の1点のみ。
その2年後の水野(池田)は5試合で自責点0だった。 81年のPLは恐ろしく貧打で
一回戦→加計学園のエースが風邪でリタイヤ
二回戦→吉村の決勝アーチで辛くも勝ち上がる
準決勝→倉吉北が“代打山根”を出し惜しみしている間に着々加点
と、何処かで躓いてもおかしくなかったw
尤も、荒木や金村、槙原、工藤、藤本、井口、松本、古溝、ナベQ、田子
と対戦がなかったので、いまいち印象が薄い事は否定出来ないw 岡山理大付属の楢崎は大変だったな。
髄膜炎で障害者になって野球が出来なくなって、野球部にいた弟が寿司屋を継ぐ為に退学して、お父さんが自殺してしまった。
楢崎真永で検索すると、今は身体障害者アーチェリー連盟に加盟してるのがわかる。 >>897
西川といえば千葉県民からすれば悪夢だわw
千葉県勢初の選抜優勝かと思いきや、
9回裏1アウトランナー無しから、逆転サヨナラだからな。
あれは悪夢だった。
まあ、あの頃のPLの逆転力というか底力は本当に凄かった。 >>900
同意。40年以上甲子園を見ているが一番悔しい試合。優勝まであと二人まで迫ったのだが…
代打佐藤にやられたな。あのとき中村監督は別の選手を代打に起用するつもりだったのだが、佐藤と目が合って「こいつなら打てる」とインスピレーションが働いたらしい。
おかげでいまだに千葉県の選抜優勝は果たされていない。
この年は夏も銚子商が印旛を準決勝で破り久しぶりの甲子園は間違いないと思われたのに、決勝で銚子西にまさかの敗退。痛恨の思い出の年となっている。 >>892
やまびこ打線登場直前の82年春は箕島が優勝候補筆頭でした。
過去のチームの粘り強さに強打が加わって前評判はかなり高かった。
甲子園でも70イニング無失点だった上尾の日野を初回の速攻でいきなり無失点記録を終わらせて中盤に加点、岩田の2ランでだめ押しと東西の横綱対決に完勝。
2回戦はあの明徳との延長14回の激闘で。
夏にやまびこ打線の池田と箕島の粘りと強打の対決が見られてたらなあ、と当時は思ってました。
箕島が夏に出て来られなかったから・・・ なんとなく思いついた投手ベスト3
@渡辺智男(伊野商)
A田村隆寿(磐城)
B嶋清一(海草) >>902
イレブンで既にセンバツ準優勝は果たしていたが78年の池田も全盛期を予感させるチームであった。エースは翌79夏に準優勝したまだ二年生の橋川。
甲子園どころか77秋78春の四国大会にも進めなかったが、四国の高校球界では
「今年の池田は強い、四国一やな」
ともっぱらの評判であった。蔦監督もいろいろ試行錯誤してたのかも知れないが、打線も活発で強力な…いま思うと後年のやまびこ打線の予兆とさえ思える。 伊野商・渡辺に高知商・中山、岡林に岡
高知はほんまにええ投手が多かった >>902
82年夏の和歌山代表はまさかの南部w
奇しくも初戦で当たったのが、大本命上尾がこけてあれよあれよで甲子園に出てきた熊谷
春選抜とはうって変わってのじみなあ同県対決で見事にリベンジされて消えていった >>899
当時の加計学園、普通の人間は行かなかった。今は随分ましになったが
動物園レベル >>902
上尾戦、8回の岩田のホームランはソロだったと思う。
あの大会の箕島はくじ運が悪すぎた。東の横綱上尾に続いて明徳との大激戦。その翌日にPLだもんな。
かたやPLは東北、浜田とかなり楽な相手だった。
PL戦は前年秋の近畿で投げていた吉井が先発すると思ったけどな。 >>902
82年の箕島は選抜以降は極端な打撃不振に陥った。
細かいプレーで1点を積み重ねる形にシフトチェンジできない
大型チームにありがちな弱さをさらけだしたね。
「上尾・明徳・PLより強いチームは全国には無いから、夏は優勝間違いない!」
と思いこんでいた自分は子供だったな。 >>898
PLの4番は阪神、西武田淵の遠縁の田淵君だったと思うけど、全く期待外れの打棒だったような。 >>911
吉村(巨人)、若井(法政ー日石ー南海、ダイエー)といったプロ入りした選手もいたが、少ない得点で守り勝つチームだった。
それでも、前年秋の近畿大会では吉村抜きで、金村擁する報徳に快勝していた。
夏の大会では、5回戦の商大堺戦1−0の8回に西川が崩れてまさかの終戦。 >>907
熊谷の県大会決勝の相手は後のGの大エースになった齊藤雅樹擁する市立川口でした。
市立川口有利の戦前の下馬評を覆して31年ぶりの甲子園。
齊藤の甲子園でのピッチングを見たかったけど・・・ よくありがちな1勝後、2戦目大敗ってことにならなかった(負け試合も興南に3ー2の接戦)だから力はあったのかな。 興南2-1熊谷だぞ。
両軍無四球、無失策の締まった試合。
熊谷は9安打を放つも決定打が出なかった。
最終回も一死満塁と逆転サヨナラの場面で江頭が初球を打って三塁ゴロ併殺でゲームセット。
試合前は興南の圧勝かと思ったが、熊谷は健闘した。 当時の興南はランナー出して機動力で走りまくっても、なかなかホームまで帰ってこないという斬新な野球だった 昔から、県大会で圧勝したから甲子園でも良い処まで行くだろうと思いきや、井の中の蛙だと思い知らされるんだなよな。 熊谷―興南戦は、第九日第一試合だったが
この年から、第五日と第九日が3試合日になった
第二日第四試合が途中打ち切り→第五日に先送りになったが
もし前年迄のレギュレーションだったら、日程がグデグデになっていた
というか、出場校が32校を超過した時点で気づけよww 神奈川大会開会式
原辰徳(東海大相模卒)と山本昌(日大藤沢卒)が始球式に登場 そう言えば、50歳以上のおっさんが選ぶ、
PL、箕島、池田の3大伝説校の中で、
PL、箕島の名勝負や逆転劇の話題はよくでるが、
池田にはそう言う名勝負がないね。
まあ、あえてあげるとすれば、
荒木大輔を粉砕した早実戦、
守りの野球の象徴の広島商をパワーで粉砕した82年の決勝戦、
事実上の決勝戦と言われた、野中のいた中京との対決、
3期連続優勝が濃厚かと思われたが、1年生桑田に完封されたPL戦 パワー野球で何点か取られてもそれ以上点を取ればいいという感じで、一点を大切にする細かな野球ではないから自然と大味になる。
そういう野球では名勝負というのはなかなか生まれにくい。
最近の甲子園で息詰まる試合が見られないのもそういう理由だと思う。
80年代の池田で一番の名勝負は83年夏の中京戦だろう。早実戦あんな一方的になったし、それまでの概念からいったら名勝負でもなんでもない。 「やまびこ打線」よりS49年の「さわやかイレブン」のほうが印象に残ってるあくまで
個人的感情だけど >>921
なるほどのチョイスだと思います。
>>922
やはり今の高校野球の源流点はS57のやまびこ打線のように思いますね。
>>923
どちらを選ぶかでその人の高校野球を見てきた歴史が垣間見える感じですね。 今の大阪桐蔭は小技もきかせて守り勝つ野球なんで池田よりPLに近いのかな? >>923
あと、79年春の東洋との例の雨中戦、夏の牛島香川の浪商を倒した一戦など、山びこ打線満開以前の池田のほうがたしかに印象深いなあ。
>>925
85年春の佐々木の東北戦、7回にスクイズで決勝点、1-0で辛勝。
「スクイズの1-0で勝つなんて、ここ10年ほどなかった。こんな勝ち方、もういいですわ」と試合後に蔦監督が話していた。 82年夏の早実vs池田は
スコアだけみれば名勝負でもなんでもないかもしれないが、
都会からやってきた甲子園の大ヒーローが、
田舎の公立校にパワーで粉砕されて、
最後の夏を終えるなんてのは、
これ以上ない衝撃だったわ。
それと同様、いや、それ以上の衝撃を受けたのは、
83年夏のPLvs池田。
これもスコアだけ見れば名勝負でもなんでもないかもしれないが、
最強と言われたあの池田の打線を、
まさか、1年生の投手が完封するとは、誰も思わなかったわな。 >>927
ありがとうございます。
水野投手の昭和58年の夏・初戦の太田工戦で無死一、二塁でもバントしなかったので、
山びこ打線にバント攻撃はあったのか と思ったのです。
シラけるかもしれませんが、
宇都宮の野球はバントはしないそうです。
「打つのみや」 池田は早実戦の二回裏にもスクイズしたよな。
荒木がグラブトスしたがオールセーフ。 星稜も色々なことが起こる学校。
箕島戦
明徳義塾戦
小松大谷戦 チバニアンは見直しらしいな。
日本一下品な県が世界に名を残そうなんて図々しいんだよ。
恥を知れ! >>928
田舎の公立校にパワーで粉砕されて最後の夏を終えるとはこれ以上ない衝撃
→そうかな?
池田はそれまでも準優勝二回の実績もあってこのころはオール徳島という感じのメンバーで強力打線、そして畠山の豪腕ぶりはとどろいていた。
大会前も優勝候補の筆頭だった(池田は実力の筆頭、うちは人気の筆頭と自虐的に語っていたのは早実の和田監督だった)。
3回戦までは試合運びがモタモタしていて実力を発揮できないでいたし、荒木があそこまで打ち込まれるのはたしかに予想外だったが、池田が早実に勝つということ自体は意外でもなかったな。
田舎の公立校が優勝候補を破ったことで印象深いのは71年夏の磐城(対日大一)、77年春の中村(対天理)、86年春の新湊(対享栄、拓大紅陵)、ずっと新しくなるが2005年夏の清峰(対名電、済美)など。田舎ではないと思うが88年夏の浦和市立(対宇都宮学園、宇部商)もそうだった。 80年代、なんであんなにストッキング伸ばしてたんだろう?今のスタイルは2000年以降かな〜
流行りは廻りめぐってくるけど、ストッキング伸ばしタイプもくるかなぁ? >>934
ローカットストッキングは90年代後半から主流になったかな?
50代のおっさんからすると昔のようにソックスが見える方がいいけど。 今治西と高知高校は昔からローカット、そう言うと新興高校の襟付きはなんかダサいと思う。 94年あたりが切り替わった時期かな?数年前までハイカットだった山陽や天理が超ローカットになってた。
丁度プロ野球もイチローみたいにストッキングを隠すのが主流になった時期。 ストッキングの横が一本線になるまで伸ばしてた。当時かっこいいとみんな
やってたよ。 >>933
「宇」の付く学校がやたら出てた大会があった気がする
宇部商、宇都宮学園、宇和島東、宇治山田商・・・
さすがに4校同時はなかったか >>941
阪神淡路大震災直後の95年春に兵庫県から神港学園、育英、報徳学園の3校が選抜された時は3校ともストッキングは昔のタイプで中のソックスははっきりと見えてました。
その2年後の97年選抜では兵庫県から報徳学園、育英が出場しましたが、そこっはストッキングはローカットになってました。
報徳のストッキングはグリーンだからよくわかったけど育英の場合はストッキングの下部は白だからソックスの部分と見分けは微妙だけど・・・ 昔の一本戦みたいな履き方は93年の知内高校が最後だと思う。
報徳は95年と97年でそこまで差があるかな?
星稜や仙台育英のようなデザインはローカットより多少ハイカット気味の方がスマート。
今の見せ方はデザイン殺してて勿体ない。
一番衝撃うけたのは97年の堀越の縦線ストッキング。 岡山東と倉敷工
出場回数は19回で互角だが
倉敷工のほうが結構いっぱい勝ってるはず NHK夏の高校野球100回キャンペーン
http://www4.nhk.or.jp/P4832/
昔の試合を見せろと投稿しよう >>974
岡山はもう公立高校は衰退してます。新興私学が圧倒してますが分散されて
どこが強いかはわかりません。
最近は おかやま山陽・創志学園・学芸館高校が・・・本来なら、関西・理大附属が
強いと面白いのですが。 有力校が多数いて戦力が分散して甲子園で勝てなくなる例は岡山に限らずけっこうみられる。
二強時代のころのほうが甲子園で強かった県は多いな。
岡山だと昭和40年代の岡山東商(向井監督)と倉敷工(小沢監督)。
ほかに千葉(銚子商と習志野)、静岡(静岡と静岡商)、石川(星稜と金沢)、愛知(中京と東邦)、広島(広島商と広陵)、高知(高知商と高知)、大分(津久見と大分商)、鹿児島(鹿児島実と樟南)など。 >>947
どうみても50歳以上のおっさんにとっては
岡山東商だろう。
倉敷工ってなんか隠忍公園 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。