50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.3
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>>352
中条の2年春から3年春まで甲子園での四球連発を見てて、これでよく名門校のエースになれてしかも甲子園に出場できたな、と思ってました。
下級生ながら名門校のエースとして甲子園出場してきたのだから地区大会では四球連発なんてことはなかったのでしょうが、あれだけの大乱調を何度も見せられると・・・ 連投すまん。
3季連続で中条の大乱調を見てたから、最後の夏も果たして、なんて思いながら開幕戦を見てたら今まで見られなかった中条の甲子園での本領発揮が・・・
相手の瓊浦も中条の今までの甲子園での大乱調は知ってたから組みしやすし、と思ってたらテンポよくストライクを取られて中条の投げ込むキレのよいボールに何もできないまま完封で・・・ 千葉県民だが中条にはやられた。
この時の習志野は全国優勝して、
まだ、5年しかたってなく、
それなりに評判もよかったが、
中条に手も足も出ずに0-7の完敗 >>360
同じ千葉県人だが、あのときの習志野のふがいなさにはがっかりした。
74、75年の甲子園連覇のあと、77年から夏の大会で三年連続初戦敗退、選抜も79年に出場なしという低迷期に突入していた。
しかしそれは初出場校が続いたからであって、習志野、銚子商でないとやはり勝てないという声(いまから考えれば楽観論だったな)が県民のなかで多かったのも事実。
そして80年、習志野が久しぶりに充実した戦力で本命視され、下馬評どおり県を勝ち抜いて満を持しての出場という感じだったんだが。
初戦は勝つには勝ったが倉吉北の坂本に苦しめられた。この試合を観戦した東北の中条は「大したことない。もう一つ勝てる」と自信をもったそうだ。
東北戦はそれこそなすすべなしの完敗。名門習志野をもってしてもこのていたらく、いよいよ千葉勢の実力低下が歴然としてきて絶望的な気持ちになったな。
翌年春には印旛が活躍して一息ついたものの、その夏ときたら銚子西などというところが勝ってしまったんだから…あのときは頭を抱えたものだ。 >>361
銚子西に決勝で敗れた銚子商なら、甲子園でかなり戦えましたか? 知り合いに銚子の中学から茨城の波崎高校に進学したのがいたのだが、
逆に茨城から銚子商とか市立銚子に来る選手はいましたか? 大本命がコケた時、その本命を破ったチームを考察すると面白いだろう。たとえば昭和48年
春に横浜が優勝したが、夏は予選敗退、代表は藤沢商。神奈川県人の嘆きは地軸をも揺らす
ほどだったでしょう。近くは05年兵庫、好投手大西のいる神戸国際大付が期待を集めたが
予選決勝で姫路工に敗退。 最近だとベタだが大谷の花巻東だね
盛岡大付属も大谷倒して出たはいいが、案の定の初戦敗退で誰もが空気読めと思ったはず
あとは中田の大阪桐蔭倒した金光大阪
こちらも初戦敗退
地方大会で大本命を破って出てきた所はそこで力使い果たして甲子園では初戦敗退というケースが多い >>365
下山田か
習志野の投手はヤクルト監督の小川だったね
線が細くて頼りなかったな >>368
まあね。
81年夏は銚子西でなく印旛が出場してれば、
少なくとも福井商相手に初戦敗退はなかったはず。 銚子西は、創部以来夏の初勝利から甲子園出場まで勝ち上がった奇跡の学校だった
県大会初戦に勝った翌日のサンスポ関東面に、小さな記事が校長の写真入りで載っていた >>369
甲子園に行くのが目的のところと
リアルに全国制覇を意識できる学校の差かね。
まあ高校球児は皆頑張ってるよ。 >>369
同じ岩手だが、昭和54年夏の超スローボール北田を擁する久慈もそうだったね。
予選の準決勝で高校左腕トップとまで言われた盛岡工の田鎖に勝利したが、
甲子園では全く通用せず、島根の浜田にボコボコにされてあえなく沈没した。 >>370
小川さんは3試合連続完封もあったから頼りないというのは言い過ぎだわ
決勝戦では肩が半分壊れていたし 新居浜商の岡本と下山田は東洋大でチームメイトになった >>369
昨年の東筑も本命大濠に決勝で勝ち
甲子園で… 習志野の石井監督は当時25、6歳だったよね?
怖いイメージ >>369
でも大谷は甲子園で消耗しなくてすんだから、かえって良かったと思うよ >>363
あの年の銚子商は速球派の竹中、技巧派の有馬と投手が2枚いて、黒田を中心とした攻撃もスケールこそ小さくなっていたがまとまっていた。竹中は準決勝で印旛を3安打完封。
甲子園に出ていたらベスト8にいけるくらいの力はあった。いまでも残念に思う。
>>372
その初戦の相手は八千代東。この学校も2009年にまさかの出場を果たした。
まあ前年秋には県ベスト4だったし、銚子西と違って全くのノーマークではなかったけど。出場校中で最弱と大会前では巷で言われていたが、そんなことはなかった。 >>379
小川投手のことをお坊ちゃんだからだとか言ってこき下ろしてなかったっけ? 大地主のボンボンだから甘ちゃんなんだよ
と言っていたな >>379
昭和60年代の習志野・石井監督は
高校野球関係のマスコミ・報道の人たちと、
確執みたいのなかったか?
石井監督は
取材、インタビューを拒否している と新聞に載っていた。 >>384
石井監督って、習志野市と確執があるみたいな報道されてたよね?
全くの事実無根なのに、そんな報道されたらそりゃ取材拒否したくなるだろうな。 それは違うんだな。
85年の夏に習志野は準々決勝で、
9年振りに銚子商と対戦する予定だったが、
当日の朝に突然に出場辞退
それが原因だよ 80年センバツに千葉から八千代松陰って初出場で出てましたよね。名前忘れたけど左腕の好投手だった。
同じ年の夏、大会が始まる前に新聞社の優勝候補の中に、福井の敦賀があったと記憶してたんだけど大会がはじまると空気のようなチームだった。何故優勝候補だったのか不思議だった記憶が。 >>361
いや〜、全くその通りですね。そう考えてた千葉の人は多かったでしょうね。
俺が高校野球を見だしたのが1977年夏から。
最初は千葉代表なら何処でも応援していたが、
77年夏千葉商が初戦敗退、78年春・印旛初戦敗退、78年夏・我孫子初戦敗退、
79年春出場なし。
もう、さすがにこの辺から千葉は習志野か銚子商が出ないと駄目だと思い始める。
習志野の方が家から近かったので、自然と習志野を応援するようになり、
79年夏は決勝まで行くが市立銚子に敗退。その市立銚子は案の定初戦敗退。
80年春の八千代松陰は話題性は抜群だったが初戦敗退。
80年夏は千葉県予選の初戦から習志野を応援したね〜
そして見事習志野が出場して倉吉北に勝った時は嬉しかったね、
千葉県勢が甲子園で勝ったのを生まれて初めて見た。
次の東北は雪国代表だったので、次も勝ってもっと上に行けると思ったので
あの敗戦は衝撃だったな。
ただ、主将の加瀬と投手の小林は当時はヒーローだったね。 >>389
78年春の印旛・菊池は高校球界No.1の剛速球投手といわれてましたよね?
それが肩かヒジか痛めて、本来の投球が全く出来ずに甲子園を去りました。
あのPL学園を相手に、三振の山を築くシーンを見てみたかった投手でしたよ。 >>387
敦賀って優勝候補だったか?
春の北信越大会優勝校で前年のエースと4番打者が残っていたからそこそこは力があったんだろうがねえ 初戦を勝って石本擁する滝川に1点差負けだったはず 同意。敦賀が優勝候補だったなんて初耳。
エース大矢、四番刀根(南海入り)と投打の柱がいて力はあったと思うが。豪腕川村の松商学園のほうが評価は上だっただろう。
あの年は東が横浜と秋田商、西が高知商と広陵が有力候補と大会前の週刊ベースボールの展望で挙げられていたかな。秋田商は高山がいたからだが、過大評価と思ったな。
この年は週刊朝日が予選展望号を出していて、予選が始まる前というのに甲子園での優勝候補を占っていた。いくらなんでも早すぎだっただろう。
上で話題になった習志野の評価がすごく高かったのには驚いた記憶がある。春の関東ベスト4だったが、野球王国千葉の幻想がマスコミにもあったんだなと感じる。 >>393
予選段階では東洋大姫路も過大評価されていたなあ 誰がみても滝川のほうが強いのに、春大会で尼崎北と滝川を連破しただけで評価されていてワラタ 80年夏1回戦で山形南に勝った敦賀、ゲームセットの瞬間、喜びのあまり敦賀アルプスからグラウンドに物がいっぱい投げ込まれていたw >>388
部員同士のけんからしい。ソースは87甲子園大会号。 高校時代の水戸雄仁の球速ってどれくらいあったの?
YouTube見るととんでもなく速いんだけど >>398
そんなもん? YouTubeで見ても、当時の記憶でもものすごく速く感じたけど >>399
でも当時のレベルからしたら相対的に見て速球派の投手というのは間違いないしね
桑田が145くらい投げてたから水野もそんなもんかなと
それにしても桑田の投げ方は今甲子園に出ても違和感無いくらい素晴らしいね >>395
二年前にも県岐商の応援団が京都商戦の8回に追いついたか逆転したときにグランドに物が投げ込まれて注意受けていたよな。 >>399
あのPLの1年生四番打者の清原が4打席4三振だったからな。 >>389
361だが、77年夏から見始めたとは千葉の暗黒時代突入と同時でしたね。
やはり盟主だった銚子商の没落が最たる理由でしょうな。その年から千葉の加盟校が100の大台を超えて選手が分散してしまったこと。
銚子も77年夏の千葉商には従来では考えられないミス(7回裏あの牽制アウトと8、9回の正念場でのエラー)が出て敗れ、そして翌年は印旛と我孫子という新興チームに秋春夏すべての大会で名をなさしめてしまい、他の学校に「俺たちにも勝てる」と自信をつけさせてしまった。
斎藤監督の体調悪化も大きな理由だろう。
斎藤監督は81年の朝日新聞の取材に「74年に全国制覇してからは野球と教育を結びつける風潮が強くなってきた。不思議なことにそれから勝てなくなった」と語っていた。
それにしても坂道をころげ落ちるように勝てなくなってしまった。80年夏の柏日体戦、2安打に抑えられて初戦敗退したときは県内では大事件だった。 79年夏の大会決算号のアサヒグラフに、予選敗退の銚子商の特集があった。
市銚子敗戦の知らせを聞いた斎藤監督は、「ピッチャーだけのチームは怖いね」。 石毛宏典は74年全国制覇した銚子商の世代と同学年に当たるのに、なぜか市立銚子に進んでるんだよな
強いチームを倒したい反逆精神でもあったんだろうか? 市立銚子でも工業化学科ですね。銚子商業には学力的に厳しかったんじゃないのかな? 銚子に銚子工業高校はないのか・・。
関東で工業高校の甲子園出場ないのは千葉だけ? >>408
千葉は工業高校が出場したことないな。千葉工業は元大洋の関根がいたときに78年秋の関東大会に出たが初戦敗退。夏は77年のベスト4が最高かな。
東京もないだろう。76年夏の東東京で突如大森工業が決勝に進出したが日体荏原に敗れた。 >>403
昭和40年代から千葉の高校野球を見てる人は、
圧倒的に習志野、銚子商だが、
昭和53〜61年ぐらいは印旛が頑張った。
わずか3回の甲子園ながら、
菊池やセンバツ準優勝でインパクトを残した。
特にPLとの決勝は悪夢だった。 昔、市立銚子が甲子園出場したときの
銚子投手が懐かしいな。 79夏の市立銚子は、銚子投手のワンマンチームだったね。甲子園でも銚子がホームラン
を打ったが、投ゴロを顔面に受けて負傷退場してからチームは意気消沈して負けたという
感じだった。戸田の鉾田一と並ぶ70年代の極端なワンマンチームだった。
最近このようなチームは甲子園に出場していないな。 >>413
元気のようだ。
先月、千葉日報の回顧連載に登場した。78歳になられたが教え子からの会合の誘いが多く、指導者冥利に尽きると語っていた。
選手と一緒に汗を流して強くなっていく、真の高校野球の指導者だったと思う。スカウトなんかして強化する監督よりはるかにすごい。 昔のユニでストッキングがローカットタイプって今と比べて少なかったような。昔のローカットの代表は高知高校と勝手に思ってたけど違いますかね? 選抜優勝時の高知高校はローカット。
アンダーソックスの白が見えない
くらいのローカット。
自分は当時中学校の野球部員で、
高知高校の選手は憧れの的。
真似してストッキングの下を
切って短くして、
それを縫い合わせて超ローカットに
していました。 >>419
ありがとうございます。今だとローカットは普通にありますが、昔は珍しくて高知高校以外あまり見なかったと思ってましたね。
ローカットは個人的に昔はあまり好きではなかったのですが、今はカッコよく見えます。 >>421
どこかの代表で「井(い)」という選手いなかったか・・。
漢字は忘れたが あほ選手。 80年の選抜に出場した丸亀商にいたな。井選手。
安保(あぼ)は同じ年の秋田商にいた。 >>423
秋田商・安保投手は「あんぽ」じゃなかったか? >>423
井は滝川戦で決勝アーチ、翌日の東北戦でも二試合連続ホームラン。たしか控えの選手だったかな。
安保は春は背番号1だったが高山が主戦格だった。静岡戦には安保が先発したが鈴木に先制3ランされてすぐ高山に交代させられた。 >>426
秋商・安保投手の読みは「あぽ」・「あんぽ」? いつの年の何高校だったか全然覚えてないが、信長って選手もいたような。 御所工業だったか、紀という選手がいたような気がする。
誰か覚えてないかな? >>430
上尾の井も徳島商戦でライトへホームラン打ってた。
2年生の4番でした。
上尾もこの時が直近では最後の甲子園出場。
まだ埼玉県は公立王国でした。 記なら上宮太子にいた。
他にも箸尾谷や口脇など独特の苗字の選手が数人いた。 大谷が二刀流で騒がれてるけど桑田もセンスあったよな一年で水野からスタンド放り込んり
二番ショートで投手も兼ねるみたいな選手になれたかもなプロでも見たかった時代がそれを許さなかった
大谷はそれらを遥かにスケール大きくした存在
アメリカはアメフトや野球バスケをこなし掛け持ちも多いドラフトでアメフト野球同時に指名されるケースも多々ある
だから野球の二刀流なんて誰でもやってる思うけどメジャーでは100年存在してないのが凄い
アメリカもスポーツは保守的で固定観念があるんだなって
全米が熱狂は盛りすぎだけど選手間ではかなり注目されてる成功するか否かで概念覆るかもと >>430
御所工の3番打者で横浜の永川から初打席初球をクリーンヒットしている 苗字の読みはきだった >>438
連投失礼。
銚子商の八角はそのとおり、はっかく。
72年春のベスト4のときにも、95年春夏出場のときにもいた。
印象深いのは75年春報徳の天王寺谷。兵庫にある姓なのかな。2005年春の神村学園に同じ天王寺谷がいたので真っ先に75年春の選手を思い出した。
神村のほうはやはり兵庫からの留学選手だったんだな。大学に進んで恐喝かなにか問題起こして逮捕されなかったか。 >>440
報徳の天王寺谷と神村の天王寺谷は親子だったような?
子どもの方は後々やらかして世間を・・・
伊丹に天王寺谷という地名があるから由来はそこから?
報徳からドラ1で日ハムに入った尾崎の出身中学は天王寺谷中学で。 >>443
そうか、天王寺谷は親子なのか。
出場がちょうど30年違いだから親子でもおかしくないね。
ただ、神村が出場するときに親子出場と話題になった記憶がない。 都道府県の姓で、ないのが愛媛姓と聞いたが本当か。
漢字で東京、という姓はあるのか。(東 京太郎ではなく) >>437
たしか永川が一死から四球を出して、三番の紀にカーブをレフトにもっていかれたんじゃなかったっけ?
この試合、御所工業はこの紀のヒットを最後にランナーを出すことができなかった。 >>415
銚子は投打ともに良い選手だったが。
銚子の小学校の頃は銚子商の全盛期で、
しかも、銚子が中学1年の時に、銚子商が全国制覇してる。
銚子はプロになったくらいの選手だから、
おそらく小学校のころから、ずば抜けて野球が上手かったと思うが、
そんな腕に自信のある少年が、なぜ銚子商でなく市立銚子だったのか、
普通なら銚子商行くと思うが。元西武の石毛もそうだが。 銚子はお兄さんが市立銚子だったから。
お兄さんの洋二投手は74年夏の県決勝でこの年全国制覇する銚子商と対戦して0-2で敗れた。
春の県大会では1回戦で選抜帰りの銚子商に4-2で勝ち、結局優勝している。そのため銚子商は夏はノーシードだった。
このときの一番打者が石毛。夏の決勝では土屋に2三振を喫している。
お兄さんは早稲田に進んだ。 石毛選手は中学時代は特に注目された選手ではなかった。 そういや、95年に広島1位指名された市立銚子の長谷川ていうピッチャーがいたなあ
しかも選抜で銚子商が準優勝した世代だよな
長谷川はその当時の千葉で目立った存在だったの? ジャイアンツから近鉄にきた石毛投手も市立銚子じゃなかったか。
ある新聞に「石毛投手は高校一年のときが一番速かった」と載っていたときがあった。
一年秋のことかもしれないが、そういう投手もいるんだな と思った。 >>454
騒がれてたか分からんが高校野球雑誌ではそこそこ名前出ていた。南京都の斎藤と双璧くらいの評価。 >>452
銚子洋二先生も3月で定年退職されました。
野球部の監督として黎明期の波崎柳川で関東大会進出を果たすなど期待されましたがその後赴任した高校で起きた不祥事から野球部の監督を外れましたね。
Facebook見る限りゴルフを楽しんでいるようですな。 石毛博史は中学生時点で肘を故障していたそういう不安も有り市立銚子に進んだ。
長谷川は茨城の中学野球では有名な選手だったが、兄が市立銚子だったから。
銚子商の野球部の練習や上下関係の厳しさを避けて、市立銚子に進学する選手も
当時かなりいた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています