50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.3
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>>202
広島の祟徳も 関東の子供だったがなぜか好きだった カッコよく感じたなぁ >>232
崇徳は、ユニフォームが格好いい。
選手も、実年齢よりも大人の感じが漂っていた。 >>216
法政二、新宮は新しすぎる。
第一神港商、和歌山中、海草中でしょ。
山下実はいい打者だった。 79年辺りで今治西のPがナイターで投げてた時凄く大人に見えた 77年夏の三谷、釧路江南戦じゃないのか。
メガネかけていたし、あの風貌だったから。
智弁学園戦の1安打完封は圧巻だった。 逆に今年の選抜の近江の林は中学生か、下手すれば小学生に見えた。
今の方が相対的に若く見える。 センバツ決勝は智弁と桐蔭が濃厚ですな
大阪和歌山の決勝戦は1970年、1979年ぐらいかいな? 永川、土屋、工藤、定岡の高校ビッグ4(関東ビッグ3+定岡)と
言われてたのにプロでなんとかモノになったのは定岡だけ >>240
工藤のほうが定岡より生涯勝利数は多いんだが 定岡が言ってたが野球より芸能界のが楽で金儲け出きるって言ってたな。
とんねるず筆頭にたけし、さんまに重宝されてたな。
ボクシングの渡嘉敷や具志堅も芸能界は金が良いって言ってた。 イレブン池田が準優勝した翌年の選抜で再び対戦した池田と報徳の1回戦
池田1点リードで8回報徳の攻撃は1死1,3塁だったと思うが
ここでホームランを打った打者が1,2塁間で1塁走者を追い越してしまった
この場合無死、1死であれば走者の得点は認められるが
打者は追い越した時点でアウトになり記録はシングルヒットのはず
池田の抗議も空しく主審はホームランを認めた >>243
長井のホームランは一死一二塁の場面だったと思う。
長井は完全に一塁走者を追い越していた。追い越したのは二塁を回ったあたりじゃなかったか。
翌日の読売新聞の社会面に追い越した決定的瞬間の写真が載った。
朝日は並んだ瞬間の写真が、主催の毎日はさすがに追い付きかねないときの写真が載った。
このときの主審は郷司氏だったと思う。「打球がレフトフェンスを越えるか確認していたので長井が追い越すのは見ていなかった」とかいう談話を試合後していた。 全力で投げた大府の槇原以上のストレート見たことないんだが >>244
野球の場合、主審ではなく球審というらしいのだが、
50代以上はむかし「主審」を使ってなかったか?
自分はこの前、「主審ではなく球審ですよ」と若い人に注意されました。 50歳以上のおっさんの嫌いな学校
光星学院、青森山田、盛岡大付、酒田南、聖光学院、
明秀日立、江戸川学園取手、健大高崎、浦和学院、山梨学院大付、
敦賀気比、大阪桐蔭、倉吉北、江の川、明徳義塾、秀学館 >>244
詳しい情報有難うございます
打者が2塁付近まで行ってるのにまだレフト方向を見ていたのかと(笑)
>>246
アナウンサーが審判を紹介する時は球審と言ってましたが
どちらでも構わないんじゃないでしょうか >>238
和歌山が箕島で
大阪がPLか浪商なら最高のカード。
智弁和歌山は良いが、
もう、大阪桐蔭の優勝とか見たくねーわ。 昭和45年の箕島は島本コーちゃんが優勝投手やったわね
花見しながらラジオ観戦してた
北陽応援しとったんやがなあ 郷司さんは良くも悪くも当時の名物審判だった。
「球審郷司」というフレーズをよく聞いたもんだ。
主審を使う場合は「郷司主審」なのかな。 >>250
北陽のエース永井君も、センバツ出場がきっかけになって、幼い頃に家を出て蒸発した両親と
開会式の日に甲子園球場で涙の再会が出来て良かったよね。
あの涙なしでは語れないエピソード、覚えてる人どれくらいいるだろうかな? >>252
当時のことは知らんが大阪学院監督で出た時そのエピソード言われてたので結構知ってる思う お昼のワイドショーで年がら年中そういうのやってたな。
青島幸夫や福富太郎が司会して、女房が蒸発したり男と駆け落ちしたりで残された家族、子供から姑から全員出演して「節子、すべて許す、帰って来てくれ!」「お母さん、帰って来て〜」とかね。 日田林工にも生き別れの親とのエピソードを持つ選手がいたと思う。 >>256
二番打者の米原
日田林工、原田監督の時は強かった
まさか後世にピタリンコなんて呼ばれるとは >>252
下関にある新聞専売所で働いていたんだっけか。
昭和43年選抜大会の開幕戦を戦った防府商業の選手も蒸発した兄貴と再開出来たって話がなかったかな。
確か新聞に掲載があった。 >>246
あなたの認識違い。
野球に「主審」は元々存在しない。
プロ野球なら「責任審判員」と言うポストならあるが。 >>257
永井と違い米原は「瞼の母」には会えずじまいだった。 >>242
まだ其れ程、強く無かった帝京でベンチにも入れなかったタカアキが、あの定岡に向かってダメサダとか言うメンタルに、コイツは日本人かと思ってたわ。
なにが帝京魂じゃ、後輩が築いた栄光を穢すなよ。 関東にある朝鮮系企業など
・オリンピック ・JINRO (焼酎、「真露」グループ焼酎メーカー)
・白木屋、笑笑、魚民、笑兵衛、暖暖、和吉(居酒屋、モンテローザ系列店)
・安楽亭 (焼肉、飲食店) ・モランボン (焼肉調味料)
・サムスン (電化製品)
・LG電子 (電化製品) ・DAEWOO (電化製品)
・歌広場 (カラオケ) ・漫画広場 (漫画喫茶)
・イエローキャブ(セクシータレント事務所)
・青空銀行 ・朝銀(破綻後は「ハナ信金」)
・大韓航空 ・アシアナ航空
・ヒュンダイ (自動車)
・オーム教本部 創価本部 統一教会本部
・共産党本部 朝鮮総連本部 韓国民団本部 >>255
そういうのワイドショーであったね。。。
当時は離婚は難しかったのかもしれないが、(いまもだが・)
その後、帰ってもらってうまくいってる家族あるのか・・? >>258
開会式が終わったあとに永井は両親と久しぶりの対面をした。
父親は「元気な春夫の姿を見てうれしかった。ぜひ優勝してくれ」と身につけていた腕時計を外して永井に渡した。
永井も新聞配達をしながら勉強と野球を頑張ったんだよね。 >>263
男と逃げた妻と部屋で対面する番組あったけど
旦那が無言で妻の頭に蹴り入れてた >>247
浦和学院は嫌いじゃない
それより花咲徳栄が嫌い >>247
花巻東が入っていないから、要は野球留学系高校が嫌いということね(っていうか石見智翠館が旧名だし、
青森山田と酒田南は今は地元中心だけど)。
東海大相模は70年の優勝チームから留学系だったらしいけど、70年代から強いから別格なのか? >>264
当時の北陽は、才田(阪神)神垣(近大→近鉄中日)金城(近大附属から大洋の金城の叔父さん)などまとまった戦力やったね。
長崎(法政→大洋)はひとつ上か…長崎より実戦的な強打者と言われた真田(?)とか北陽の数少ない黄金期やった。
留学と言えば長崎は松っちゃんが自分の故郷高知から強引にスカウトして来たとか聞いた記憶。 >>269
長崎は二つ上では?
法政に進んで72年のドラフトのイの一番だったから。 神垣は近大か同志社へ進学して日米大学野球にも出てたよな >>260
米原は身長150センチ台の小兵
でも、新居浜商戦でレフトオーバーのタイムリーツーベース、崇徳の黒田からも三塁戦を抜くツーベースと力負けしなかった 60・70年代頃の大阪代表というと大鉄、北陽、興国のイメージ
PLはまだそこまでの存在感でもなかった
東京はなぜか堀越が強かった 芸能人もスタンドに応援にいったのかな
その時代までは近畿よりとにかく四国が野球王国で、いつも甲子園で強かった印象がある
広島、愛知も強かった >>274
三重高校がセンバツで優勝した時期、三田学園が結構甲子園に出てたな
あと、ベスト8だった尼崎西って歴代の出場校で最も甲子園に近い学校なんかな?
両校とも今は全く聞かないが >>275
近畿人じゃないんもんでよくわかりませんが、大阪に限って言えば覇権校が常に変遷するイメージ
中国史のようだw 平成からでも上宮や近代付属が強かった一時期もあるしね
北陽なんて女性漫才コンビを見て、あーこの娘たち大阪なんだ、とつい思ってしまったくらい
名がきかれなくなったもんね
兵庫、京都、奈良には昔から現在まで続く大看板校があるけど大阪には成立しないのねなぜか >>275
甲子園にもっとも近かったのはやはり隣にあった甲陽学院でしょう。戦前しか出ていないが。
戦後はもっばら試合前の練習でグランドを貸すだけの学校でしたが。
もう移転して40年くらいになりますかね。 >>276
大鉄、明星、興国、浪商、北陽
子供の頃の大阪と言えばこの5校かな 大鉄といえば1977年夏の前田を思い出すな
河内のあんちゃんって感じで受け答えがおもしろかった 皆さん、今はピチピチのユニフォームが主流ですが昔(70〜80年代)はややダボダボだったのは覚えてますか?
そしてそのユニフォームですが昔は勝つと縁起を担いで洗濯しませんでしたよね。
中でも四国の高知商が印象に残ります。
PLとの決勝戦時には皆真っ黒でした。(谷脇監督も)
1番打ってた明神いい選手だったなぁ >>280
帽子のツバも選手はみんな「まっすぐ」でしたね。
いまは帽子のツバが丸まっている選手が多いのだが、自分はどうもなじめません。 記憶に残る最初のピチピチユニは76センバツの高松商業かな、綿からニットユニへ代りつつある時の過渡期やったからサイズのオーダーミスかも。
同年夏の銚子商業戦にはニットユニでも少しゆったりしたのに戻ってたわ。
北陽のやつに「日本で初めてニットユニにしたのはウチや、、、」とか。
当時。今よりメーカーで質がかなり違うかった。北陽のは久保田スラッガーのやつやった。
後年ローリングスが綿とニットを混ぜた半ニットつうのが流行ってた。
ズボンの左腰の辺りにサークルRも誇らしかったけど、此れも禁止されたと思うわ。 >>268
50以上のおっさんにとっては、
外人部隊でも東海大相模は特別だな。
原、村中、津末が縦じまのユニフォームを着て、
ガンガン打ちまくるのはカッコよかったし。
特に高知高校との決勝は強烈なインパクトがあった。
あと、横浜もこの世代は、
愛甲、松坂よりも永川だよな。 >>278
52歳の自分は小学校6年の時、77年の大鉄の春夏連続出場はよく覚えてます。
春は銚子商にいいとこなく初戦敗退でしたが、夏はキャッチャーながら1番打者の鍛冶本、津久見戦でのサヨナラ満塁ホームランの川端がエース前田と共に大活躍。 みんながよく覚えているのはPLの水谷だろ?
プレーはともかく、あの顔は今でも忘れることは無い。 >>284
ショートからリリーフしてたん浜口やったか。 >>286
浜口はサード。
土岐商戦、津久見戦の火消しは見事。東邦戦も交代期が早ければ。 東海大相模が優勝したときのエース上原も和歌山出身だったね
準優勝のPLのエース新美は熊本出身だったかな 相模の主将井尻も和歌山出身だったか。まだいたと思う。 PLとの決勝は面白かったな
上原はノーコンだったけど粘り強いピッチングしてたね 11被安打、10与四死球でよく6失点ですんだものだ。PLは16残塁の拙攻だった。
戦前の評判はPL有利だったと思うが、新美がスタミナ切れしたのかな、中盤メッタ打ちされた。
上原は初戦の唐津商でも6回で12四死球を与え、コントロールに苦しんでいた。甲子園で自信をなくして大学は中退、その後はいろいろあったみたいだな。 準決の高松商戦で大北を粉砕したからな
あれには驚いた 大北は北四国大会の新田戦から甲子園準々の熊谷商戦まで5試合連続完封中だった。
なのにPL戦での大乱調は信じられなかった。
予選から5試合連続完封→突如大量失点というのは三年前の大分商河原(なんと19失点)をほうふつさせた。 決勝でPLは相模の4番田中にやられたよな
決勝戦まで田中はヒット打ってなかったのに内野安打をきっかけに固め打ちしたような記憶 70年夏の大会は、親に買ってもらった小学館入門百科シリーズ「野球ルールものしり入門(佐々木信也監修)」でカット写真が使われていたのを覚えている。
カラーで「白熱の甲子園大会」のタイトルで決勝戦の写真が載っていた。上原のバッティングやマウンド上のPLバッテリー、相模の先取点のシーンが使われていたっけ。 俺はセンバツに関しては21世紀枠なんか止めて、過去のセンバツ決勝戦の名試合を残した二校を推薦出場させ、開幕試合で対戦してもらう。なんてのはどうかと思うがな。浪商-桐生、箕島-浪商、上宮-東邦なんてのは観たいガード。 50歳以上のおっさんの選ぶセンバツ名勝負
箕島vs北陽
広島商vs作新学院
高知vs東海大相模
習志野vs大社
PLvs箕島
箕島vs浪商
PLvs印旛
箕島vs明徳
岩倉vsPL
伊野商vsPL
やはりPLと箕島は名勝負が多い。
東邦vs上宮も名勝負だが、50歳以上のおっさんにとっては新しすぎか。 報徳一池田
倉敷工一中京
東海大相模一豊見城
崇徳一高松商
土佐一豊見城
崇徳一鉾田一
桐生一豊見城
PL一宇都宮商
東洋大姫路一池田 >>300
広商−作新は、中継がニュースで途切れ、佃の同点タイムリーヒットはニュースの途中の速報で知った。
正直、バッティングの苦手な「佃が?!」って感じだったな。 中日ファンの罵声で、カープに『原爆落ちろ』なんて問題発言あったけど、崇徳なんてそのものズバリ『原爆打線』だったんだけど。
誰が付けたのか、その頃は問題にならなかったのか、不思議だ。 >>303
広島市民としては、十分違和感あったけどww 甲子園で活躍した外国人を国体に出さなかったとか。
(国民の体育大会やから当たり前のような気がするけど)
県民の県大会の覇権を他県民が独占するような今なら大騒ぎやろ。
>>303
其れだけ日本が変わって来た(変えられた?)んやろな。 >>303
崇徳の「原爆打線」は、サンデー毎日が名付けた。
褒めたつもりだろうが、少なくとも広島県民じゃないw >>307
名づけたのは毎日新聞だろうな。
初めて「原爆打線」の形容を目にしたのは、あの年の選抜前に出場校を紹介する毎日新聞運動紙面の連載記事「センバツ現地の躍動(とかいうタイトルだったか)」のなかだった。
あの年の3月初旬だと思う。
サンデー毎日発行のセンバツ出場ガイド号に原爆打線の称号が出ていたかは記憶にない。 >>308
サンデー毎日臨時増刊にも、「原爆打線」と明記されている。 やっぱ、強豪校の好き嫌いって、監督の人柄とか試合運びってのが多分に関係あると思うよな。同じ大阪でもPLは好かれていて桐蔭は嫌われているのはそのためか? 昔の箕島-尾藤監督とか常総-木内監督とか良い監督だったしな。 >>300 + >>301
小山−東洋大姫路
桜美林−伊香
浪商−川之江
ただ、習志野−大社は、スコアを見れば奇跡的な大逆転なんだろうけど
満塁から内野安打などでもさーっと点が入った感じで、シュッとした逆転ではなかったので
イマイチ印象にないなあ >>306
まあ、大木金太郎の「一本足原爆頭突き」が市民権を得ていた時代だから 瀬戸内が初出場したときと今の校歌では、
デルタヒロシマ明けゆく空に、の部分が変わっている。
デルタヒロシマは原爆が落とされた
地帯のイメージが浮かぶから
変えられたのだろうか。 >>313
習志野−大社の試合終了後、高野連会長・佐伯天皇がわざわざ大社・高畑監督にかけた言葉
「君、油断だよ」 しかし智弁和歌山の高島監督の打撃指導って凄いよな。今回の創成館戦でもあの大量得点差を追い付いてくるのだから。昔の夏の帝京戦でもひっくり返したしな。 >>317
習志野打線は飯塚のカーブに全然タイミングが合ってなかったが、ストレートが甘く入ったところを連打された。 >>313
浪商−川之江の後ベンチ横の金網ドアからしれっとグランド入って井戸の写真撮った思い出
それでお腹一杯になって、池田-東洋大姫路のどうでもいい後戯試合は寒くて帰った
雨中の白熱試合呼ばわりされてるけど
翌日に簑島、PL、浪商に食われる学校の空しい選抜戦 >>313
同意。千葉県人だがあっという間のことだったので印象が希薄。あまり語り草になっていない気がする。
それより前年夏のチャンピオンだったのに、山陰の学校に7点もリードされていたことのほうが不思議だった。
翌日の新聞、朝日と毎日が同じ「習志野、驚異の大逆転」の見出しだった。ついでにいうと、その翌日も両紙の見出しは「戸田(鉾田一)ノーヒットノーラン」でまったく同じだった。 >>312
池田蔦監督も好かれていたな
普段は好々爺然としていて、試合になると人が変わったように血気盛んになる二面性が面白かった 東洋大姫路−池田は8回までは大雨の中ようやるなの凡戦。
で、最終回、池田が5点を返し1点差に迫るも二死ランナーなし
伝説のシーンはここからだった‥ リアルタイムで知らんが昭和45年滝川ー北海についてFacebookで触れられていたんやけど12点追う七回裏に北海が7得点してるけど走塁ミスが多かったりして追撃に水を差したそうだ。
昭和58年選抜大会で大社が七年ぶりに出場した際、習志野戦の大逆転負けの話がテレビで幾度か触れられていたね。
木内、蔦、尾藤・・・
共通する点はボンボン育ちやな。 リアルタイムで知らんが昭和45年滝川ー北海についてFacebookで触れられていたんやけど12点追う七回裏に北海が7得点してるけど走塁ミスが多かったりして追撃に水を差したそうだ。
昭和58年選抜大会で大社が七年ぶりに出場した際、習志野戦の大逆転負けの話がテレビで幾度か触れられていたね。
木内、蔦、尾藤・・・
共通する点はボンボン育ちやな。 俺は群馬だけど、大昔、センバツ準決勝で母校、桐生が浜松商に2-3に惜敗したのが今でも悔しい。あれきり桐生は甲子園から遠ざかってしまったし。歳をとって夢にまで出てくるわ。 >>311
どうなんだろうか。
大阪桐蔭も昔のPLも全国から選手を集めてやってることは同じだが、
やはり、PLは名勝負が多いし、
PLの試合は信じられないようなことがよく起こるんだよな。
数ある名門校の中でもそう言う試合が断トツに多い。
センバツで一つ思い出したが、
都城との延長戦でライトフライでチェンジかと思ったら、
ライトが落球しサヨナラ勝ちと言うのもあった。 >>327
木暮、阿久沢
投打の軸が超高校級だったな >>327
あの試合は6、8回のスクイズ失敗が痛かった。2回にもスクイズがファールのあとのヒッテイングが三塁ライナーで併殺。
ツキもなかったが、やはり木暮、阿久沢頼みのチームでとくに下位打線が弱かった。もう少し攻撃力があればあの試合は勝てていただろう。
それにしても木暮がリリーフしていた青野に死球を与えて退場となったときは、これで桐生のものかなと思ったが…
木暮も浜松の右狙いのバッティングに苦しんだ。いまビデオで見返してみてもそれまでの3試合とは投球のリズムが違っていた。
ちなみに桐生敗退の日はキャンディーズが解散した日でもあった。 >>328
エラーが勝敗決めるのって良いよね
一番ゾクゾクする
東邦-上宮みたいな神の手みたいなエラーもあるけど
三池のセカンド盗塁→セカンドかがむもショートがカバーなし→サヨナラみたいな
やるせない終了の仕方も夏の夕方を彩るエラー終了で感慨深い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています