30歳以上のおっさんが高校野球を語る26
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>>784
89成東のエースお塩は評判の好投手だった >>786
そうそう押尾、ヤクルト行ったな
今はスカウト?編成? 中標津と星林戦も劇的だったけど前の試合の山陽ー葛生や第1試合の育英ー秋田経法大と濃い1日だったな。
当時宇都宮市民だった俺は昼から親の実家に移動して山陽の劇的な試合見れず後悔した記憶。あの頃スマホなんてなかったかからな。
ちなみに手塚の日光か熊崎の宇商が甲子園行くと思っていた。 ああ、手塚投手の日光が行くべきやったね。
序盤日光が2-0でリードしながら終盤逆転されて5-2だっけな。
翌年辺りに日光野球部の不祥事があって低迷していったんかな。 東北の佐々木主浩は、でかいだけの投手って感じで、後のプロの大活躍は全くの想像外だった。 >>788
山陽葛生戦のあった日、8月13日、大会6日目だったか、その日は甲子園で観戦した。
第一試合は地元育英が登場したこともあって、外野は通路までいっぱいで身動きがとれなかった。
第二試合だけ凡戦だったが、西短が二回から毎回1点ずつ入れるという珍しいスコアだった。 >>794
育英戎投手は肘を痛めていてスローボールしかなげられなかったな。
今ならドクターストップがかかってたかもしれない。 >>788
山陽−葛生は、逆転サヨナラ劇では一番だな。 >>791
そうですか。確かに花巻東の投手はごつかった。 >>795
後半はサイドスローになっていたな。
11回途中でマウンドを降りた。
ヒジ痛の投手に延長戦は気の毒だった。
まああの試合は秋田がきちんと攻めていたら延長になることなく終わっていただろう。なにしろ19残塁を記録したほどだったから。 >>778
>昭和の終わり頃から平成初めくらいの和歌山県勢の甲子園での負けっぷりはひどかったな
その時代よりも、紀和大会で奈良3強に負けっぱなしで
夏の甲子園に出ることすらできなかった1970年代の方が悲惨だった。
1971 郡山(奈良) 1 - 0 市和歌山商(和歌山)
1972 天理(奈良) 8 - 4 桐蔭(和歌山)
1973 ・・・・・ 記念大会 ・・・・・
1974 郡山(奈良) 5 - 1 向陽(和歌山)
1975 天理(奈良) 1 - 0 伊都(和歌山)
1976 天理(奈良) 3 - 1 箕島(和歌山)
1977 智弁学園(奈良) 4 - 1 田辺(和歌山) ※最後の紀和大会 1973の夏は箕島が出場したが、初戦で丸子実業に敗退
紀和大会あったら天理に負けてただろうね。 >>799
でも選抜では箕島が70、77年と優勝しているし、70年には和歌山工業がベスト4に進出しているぞ。
84年春から89年夏までは春夏初戦11連敗だからな。もし夏が一県一校制でなく紀和大会があったら92年までおそらく全敗だっただろう。 >>801
失礼、和歌山工業ベスト4は74年春。鎌田投手のとき。 自分がリアルタイムで知っている和歌山は、箕島が出れば、必ず奇跡の大活躍!の時代だったから、そこまで苦戦していたなんて初めて知った。
島本こうへいで優勝して、それ以来ずっと大活躍しっぱなしかと思っていたわ。 県名で母音が「A」なのは
和歌山、神奈川、山形、香川。・・か? >>791 >>797
1回戦濟々黌戦で5点リードしながら、濟々黌に球数投げさせられて終盤スタミナ切れで
逆転負け。
当時熊本に帰省していたんだけど、なんか野球がセコいせいでこの年の濟々黌人気なかったな。
九州勢は鹿実に沖水に熊本民も期待していた模様。
>>792
あえてネタに突っ込むが別人。当時今の佐々木監督は中学生だな。 花巻東の佐々木。
ぎこちない牽制モーションがユーモラスで親父野球みたいと言われていたな。
済々黌の執拗なバント攻撃が相当足腰にこたえたみたいで汗びっしょりだった。 >>805
ごめん
佐賀を探そう をさがせなかった。 今も太めの投手たまにいるけど垢抜けないデザインのユニと
あの頃のストッキング大きく上げる着こなしが一層太ましさ強調されていた。 箕島は延長戦のサヨナラ勝ち試合が多かった。有名な星稜延長18回の以外にも吉田戦や明徳戦も劇的な勝ち方だった。 今もというか今は細いピッチャー自体あまりいなくないか?まぁ昔の太めというのとは体型が違うけども >>813
今まで見た中で一番細いと思ったのは、履正社春夏通じて初出場時のエース小川仁 >>815
それで大阪大会一人で投げ抜いたんだよな。前年のPLの前川も大阪大会一人で投げ抜いて驚いたがそれ以上に驚いたのがこの小川投手。 高校野球見出したのは1982年からだったな。僕は小3だった。
池田高校やまびこ打線懐かしい、自分は70年代知らないけどレス見てたら逆転劇多かったみたいですね。
80年代は魔物が棲む甲子園て良く聞いたフレーズでしたけど70年代の魔物の出現率は凄かったんですか?
僕は物心ついた時から植草貞夫アナウンサーの実況が今でも忘れられません。 1989の松江東は平均体重が50キロ代(58kgか59kgくらい)と紹介されててびっくりしたなあ。
平均身長168センチは、当時の公立としてはさほど低い方ではなかったが(18才男子の平均くらい)
体重の軽さに驚いた。
身長は伸ばしようがないが、甲子園に出るようなチームの選手は、鍛えられたがっちり体型の選手が
多かっただけに。 ここ10年で高校生のガチムチ度が飛躍的に上がったと思う
駒苫連覇の頃の選手達で今と同じような体格の高校って大阪桐蔭くらいだと思う 昭和50年夏、国府の青山も華奢だったな。
プロ入りしたが「青エンピツ」とあだ名されてた。 >>821
筋肉・体重は以前よりも付いているのは間違いない
しかし、最近の学校は無駄にピチピチしたユニフォームを着ている学校が多いのも関係している
大阪桐蔭は実際のサイズよりも2サイズも小さいユニフォームを着て、相手をビビらせるという
セコい真似をしている
この手のユニフォームを着た高校の選手が卒業し、大学野球でプレーしている姿を見ると、
所謂高校野球強豪校ではない選手と比べても、案外大きくない事が多々ある 89年川越商のエース岡崎も華奢だったな
確か174センチ56キロぐらいだったと思う
夏の埼玉大会で2年連続完全試合をしたんだよな 岡崎は社会人でも結構長くやってたな。
俺が華奢な投手で思い浮かぶのは浦学の染谷かな。
92年、モリシ初甲子園でベスト4いった時のエース。 >>824
ユニフォームを小さめに着るのはPLがやってたことだし、その時代の着こなし方というのがあるからね
ただ高校生の時はむちゃくちゃ体でかく見えたのにプロ入ってユニフォーム姿見ると小さい体にダボダボの服着てるように見えるから、プロってホントに体デカイんだな、とは思う 平安は、ケツをでかく見せるために畳んだタオルをポケットにしまっているんだっけ?
とにかく勝つために有利になることは何でもするって方針か 個人的には嫌いじゃない >>825 >>826
岡崎懐かしいな。ある意味プロ行かなくてよかった人生かもな。
前述のタメ年の武田(中標津)同様、社会人で長くやれたわけだし。
ヘタにプロ入りして数年でクビだと、当時はもう本格的な野球は
できなかったわけだしね。 >>822
中条は仲間から「ガイコツ」といわれるほど痩せていたな。三季連続のノーコン発揮(最後の夏はみごとに汚名返上)とあわせて記憶に残る。 中条は前年度甲子園で四死球連発だったのが、翌年見事に成長した。ちなみに熊本せいせいこうとの試合は18対5だったかな。 2015夏の長崎創成館の左腕水永がヒョロヒョロで、手足が棒みたいだった。 アンガールズの二人、手足が長いみたいだが、
野球やってたらいいピッチャーになったと思いませんか? >>832
中条は「イカ太郎」と言われてなかったか?
身長はそんなになかったが、腕が長かったらしい。
ジャイアンツで中継ぎで活躍した時期があり、
金田正一氏が、絶賛していた。 90年Y校の二番手投手がデブだったな
マリンブルーのユニフォームがピチピチやった 最近のだけど光星学院のエースで四番でドラフト一位だった柳田。 最近のだけど光星学院のエースで四番でドラフト一位だった柳田。 選手登録だけで語ると一番のデブは北陽の伝令役の控えだろ
出てくると球場中に失笑が漏れたぞ
確か昭和63年の選抜だと思ったが >>843
伝令だったかどうか忘れたが、太田平八郎忠相とかいう、
戦国武将みたいな名前の選手がベンチ入りしてたときか? 844だが今、調べてみたら昭和63年センバツの北陽は、太田孔史郎信忠だった。 >>844
平成2年だな。寺前と同学年。高校では控えだが、何処の大学か忘れたが大学でレギュラーになってドラフト候補になってた記憶が っていうか、太田平八郎忠相と太田孔史郎信忠は兄弟だろ? >>843
そう、昭和63年の選抜に出たときの控え選手、たしか高尾っていう選手だったかな。
前年秋の大阪大会で春夏連覇した直後のPLとの試合前にPLの選手に向かって「野球では負けるかもしれんが、相撲ならいつでもやったるぞ」と叫んでナインの緊張をほぐして6-2で勝ったという話がサンデー毎日の出場校ガイドに紹介されていた。
報知の選抜出場校をさぐる号でも写真つきでコラムで紹介されているはず。マウンドに向かうとスタンドから笑いがもれる、と書かれていた。 >>841
その前にベスト8入りした青森山田のエース松野もまあまあデブだったな >>849
173センチで120キロ。
スリーサイズは上から130、120、130センチ。
副将兼マネジャー、背番号12でベンチ入り。 雑誌、新聞で選手の身長、体重の欄で、身長が「179p」という選手がいるが、
本当に179pだったら180pと載せないか?
つまり身長179pは175pくらい。。。かも
関係ないが、甲子園を沸かせた「小さな大投手」で一番身長の低い投手は何センチなのだろうか? >>852
2000年夏の旭川大高校の植木が157aで、光沢毅もそれぐらいだったと思う。 >>853
ありがとう。
157aの投手が硬球投げるのは、180aの投手が
ソフトボール並の大きさの硬球を投げる感覚なのだろうか。
また質問だが、小さな大投手で技巧派ではなく
ストレートで三振バッタバッタ取った本格派投手はいたのでしょうか? 京都商の井口。甲子園ではカーブ主体で三振を取りまくったがストレートも速かった。 >>852
身長の低い選手はだいたい水増しして登録するから本当のところ何センチなのかは分からないのが本当のところではないか。
74年春の滝川山本も小さかった。当時解説者だった光沢氏が「オレのあのときより小さいよ」と話していた。初戦で中京を完封した。 >>852
ピッチャーじゃなかったかも知れないが、70年代半ばの天理にかなり小柄な選手がいなかったか?
天理といえば福家とか大きな選手が多いイメージがあるから、余計目立っただけような。 >>857
75年76年で活躍した新田は150センチ台の身長 試合に勝ったあとの校歌斉唱のとき、小柄な新田の横に長身の投手福家のコントラストがほほえましかった。
あと、74年春イレブン池田のセンター泉岡も155センチだったかな。
最も低いとなると何度か挙がっているが72年夏の大阪明星の控えの松本。登録は147センチだったが、実際はもっと低かったらしい。兄弟校の長崎海星との対戦で代打に出てヒットを放っている。このとき二年生だった。
終戦直後の大会に出場した東京高師付属中の竹田氏も低かったと聞く。 最近だと2015年夏の鳥羽高校の背番号18田村が148cm。
関節の病気で背が伸びなくなった。 >>660
畠山が最後の夏、予選決勝前夜に蔦監督に部屋に呼び出されて言われた言葉が「今回甲子園に出場できないと後援会費が尽き果てるから絶対甲子園決めろ」と言われたとか。
蔦監督なりの激励なのか真意なのかはわからんが経費の話を選手にする監督も蔦監督くらいだろう。 >>863
蔦監督らしくて面白い話やね
爽やかイレブンの時も、爽やかでも何でもない、わしのシゴキがキツイけん辞めていっただけじゃと。 >>863
そして決勝の4回裏だったかに3点を取られて同点に追いつかれてベンチに戻ったときに、畠山は蔦さんに足蹴りされたとか。テレビカメラが映らないような角度で蹴ったとか(笑)。
二年前には東海大相模のビンタがテレビに映って大変なことになったから。
まあ畠山も入学前から期待されていたのに、ことごとく甲子園出場を逃し ことごとく甲子園出場を逃し続けていたからなあ。本人も期するところがあったと思うよ。
水野が言っていたが主将の窪はじめ三年生は必死だった、甲子園に出るか出ないかで進学や就職先がまるで違ってくるからと。
途中で送信してしまった、失礼。 >>866
蔦監督はベスト8より、ベスト4の方がええ大学いけるでと、江上に言うて、江上は早稲田に進学。
早稲田では鳴かず飛ばずだったが。
しかし、日本生命という一流企業勤めでプチ成功者。息子も早稲田^_^ 水野は選抜直後の春の四国大会決勝の今治西戦で7回までバーフェクトに抑えていたのに交代させられた。
97年のベーマガの予選展望号の荒木との対談のなかで
「ちょっとその前に悪いことやって監督に怒られていたんですが、お前みたいな練習もせんヤツが完全試合なんかやるから世の中悪くなるんじゃ、と僕を交代させてしまった」と語っていた。 推薦の選定基準も短絡的でちょっと考えたほうがいいね
まして野球は7:3位の力の割合ですら一戦のみの勝負ならスポーツの中でもかなりやってみないとわからない部類なんだし‥ みなさんよろしゅうお願いします。私を日本一の監督にしてください! 蔦文也
82年、3度目となる夏の甲子園決勝戦当日の朝、池田高校の蔦監督はミーティングの席上で愛嬌たっぷりにこう言った。
素をさらけ出した監督に笑わされた選手たちからは力みが抜け、広島商を12−2で下し、池田は初優勝を果たした。
「50分授業のうち25分は野球の話でしたよ」と教え子である現穴吹高校野球部監督の井上力の証言にあるように、
野球を愛し、選手からも愛された“攻めダルマ”であった。 さわやかイレブンの池田の雲本も小さくなかった?
俊足でホームスチールを敢行した記憶がある。 イレブン池田ナインは投手の山本を除けばみんな小さい選手ばかりだった。
後年の山びこ打線の片鱗はかけらもなかった。
雲本は開幕戦の函館有斗戦の三回裏にホームスチールを成功させた。前年秋にも6回試みて4回成功していたらしい。 雲本は後年詐欺で逮捕されて、報知高校野球でさわやかじゃない男だと書かれていたな 873だがそのことには触れないでおこうと書かなかったのだが、書かれてしまいましたか(笑)。
その記事は報知のにゅーずぎゃらりーだったな。 昔、報知高校野球は隔月刊で年6冊発行だった
81年10月号のカラーページに畠山が載ってたな
あれで初めて畠山を知ったわ
この号にはPLの監督辞めて大産大付の監督に就任したばかりの鶴岡さんも載ってたわ >>869
97年のベーマガ展望号といえば、町野高校の特集記事がやたら気合い入っていて印象深いなぁ
まぁ夏はあっさり初戦敗退だったが…
ケンタローの夏とかいう松商学園の田中健太郎を題材にした小説(筆者の知り合いだった?)もあって、あの頃は野球雑誌も今より内容が充実していた 報知高校野球は、かつての甲子園球児がどうなったとかのゴシップ記事が載っていたな、今ならネットに変わられたのかもしれない >>878
諌早の野中投手の記事とかショッキングだった >>876
巻頭カラーの「センバツヘ始動」のなかだった。
上尾の日野も載っていたがあんなに足を広げて大丈夫か?と思った記憶がある。
畠山は一年の夏から投げていて、81年の夏の予選展望号にも春季大会のカラーグラビアで投球フォームの写真が載っていたと思う。 名古屋で女の人を焼き殺したんだっけ?
野球漫画の『風光る』の主人公と同じ名前だね。 >>882
それはちょっと度肝を抜かれるニュースだな
小川博の強盗殺人を超える残虐事件だわ 1982年センバツ出場校決定のホームランという雑誌の表紙は早実の荒木大輔の顔がデカデカと載っていた。 畠山の投球フォームは豪快だったな
よく子供の頃マネして遊んでたよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています