30歳以上のおっさんが高校野球を語る26
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>>741
斎藤監督なら福島県のみならず、全国規模でオファーが殺到する。 高島さんが和歌山へ赴任して、当時いた部員はごっそり退部して2人くらいしか残らなかった。
いっぽうで新入部員も20人くらい入ってきて、メンバーはごっそり入れ替わる。
この新入生(高島一期生)の中に元部長の三宅さんもいた。 福島は1980年代は学法石川、1990年代は日大東北が甲子園常連。今は聖光学院の時代。郡山市民としては、地元日大東北に復活してほしい。 >>752
福島商の古溝は関西の太平洋クラブ宝塚で働いていましたが、最近、函館大の野球部コーチに就任されました^_^ 地元色豊かな応援と優勝パレードは、こんな時代になったから復権させてほしい 甲子園で活躍した好投手は六大学へ行かずプロへ行ったほうが大成するよな。もちろんドラフトで指名されればの話だけど。やっぱ4年間は大きいよ。 >>755
4年の機会費用はでかいね
野球しかないんやったら、大学行っても仕方ないね、一流企業に進んでも社業についていけなくて野球の現場でコーチや高校野球の監督なっている者も多い。
やっぱり、いけるなら早くプロにいくのが得策^_^ 1987年の学法石川はプロ入りした選手が3人もいた。作山、伊藤、諸積 。これはすごいことだよ。 >>755 756
ハンカチと島袋は典型だよね。
まあ、二人とも進学が既定路線だったみたいだけど。 投手は怪我や酷使があるからほんと分からんなぁ。
斉藤も田中が成功しすぎてるから比較されるけど
もともとプロで成功する選手なんて一握りだし
早稲田大卒で引退しても困らないから
進路は間違いとは思えん。 >>751
その新入部員というのが、85年選抜に初出場した時のメンバーになるの? >>760
確か高嶋監督が奈良から和歌山に移ったのが80年。
智弁和歌山の甲子園初登場が85年春だからその時の3年生が入学したのは83年。
高嶋監督の和歌山での第1期生はそれよりも先輩になりますね。 故人ですが、画家で元極道の山本集(あつむ)さんは、浪商出身で、智弁学園の初代監督なんですね。 >>759
野球で入ったら普通に就職できるのかな?社業について行くのは大変だと思いますが。 早稲田や慶応出ていても、ほとんど勉強なんかしてないだろうし、名問大出ているだけで、食っていけるものなのか?実際に仕事が出来ないと足手まとい扱いされて、居場所なくなるだろう? >>764
名問大なんて書いている低能なおまえが心配することではないわ。余計なお世話だ。 名門大学の体育会系なんて就職最強だぞ。
慶應や早稲田の野球部のサイトに
進路載ってるから先見てみろ。 >>767
そうい言うたんなや
みんな仲良く^_^ >>768
入れても肝心なのはその後ちゃうか?(笑)
会社勤めした事あるなら、分かると思うが? ホンマよ。仕事が出来んやつは、少年野球の監督でも紹介されて、それとなく退社をすすめられるのがオチじゃないのか。 野球部で貢献した社員は、仕事の能力云々じゃなく、それなりの処遇をしてくれる。
問題は、野球での貢献なしの社員w >>768
前に出てたけど、1980年の早稲田大学商学部の不正入学発覚で、
野球部で四番を打ってたものの不正入学がバレて在学・在籍記録自体が
抹消された選手がいたんだってね。
ちなみに>>549と >>557ね。
名前等は知らんけど、今どうしてるんだろうか? >>772
そんな会社今ないで
会社に貢献しない人間にそんな処遇するかな?クビにはしないが、役職は付かないのんちゃうか? 日本生命なんて社業でも活躍して支社長にまで出世した人もいるよな。
池田の江上と同世代の東大エースも日本生命野球部へいったしな。 >>776
生保は支社は別組織ちゃうの?
営業管理?まあ、給料は高い!
日生はノンプロのホームラン王や〜 昭和の終わり頃から平成初めくらいの和歌山県勢の甲子園での負けっぷりはひどかったな
智弁和歌山が常勝チームになるとは考えられんかった >>778
韮山や双葉などそりゃねーだろってとこに初戦敗退したり、中標津に大苦戦したりと散々だった印象 >>779
中標津の小太りの武田?と言うピッチャ〜、長い現役で頑張ってたなあ〜 >>779>>780
中標津と激戦し、辛うじて退けたのは星林だったかと
その前の年には成東に敗れてるな
武田は新日鉄室蘭・室蘭シャークスだったか
数年前のOB戦では関東在住の会社員となってた 中標津って勝ち越し機に二塁走者に打球が当たる守備妨害が無ければという試合だった 智弁はデルトマケ状態だったが、拓大紅陵と互角の試合を演じたあたりからブレイクする予感はあった 偶数年絶対甲子園出るマンだった拓大は、86や88の強力チームで結果が出ずに92の微妙なチームで準優勝するというのも何とも皮肉
ちなみに県決勝で成東に負けた89年もエース知野を擁してそこそこ強いチームだったな >>784
89成東のエースお塩は評判の好投手だった >>786
そうそう押尾、ヤクルト行ったな
今はスカウト?編成? 中標津と星林戦も劇的だったけど前の試合の山陽ー葛生や第1試合の育英ー秋田経法大と濃い1日だったな。
当時宇都宮市民だった俺は昼から親の実家に移動して山陽の劇的な試合見れず後悔した記憶。あの頃スマホなんてなかったかからな。
ちなみに手塚の日光か熊崎の宇商が甲子園行くと思っていた。 ああ、手塚投手の日光が行くべきやったね。
序盤日光が2-0でリードしながら終盤逆転されて5-2だっけな。
翌年辺りに日光野球部の不祥事があって低迷していったんかな。 東北の佐々木主浩は、でかいだけの投手って感じで、後のプロの大活躍は全くの想像外だった。 >>788
山陽葛生戦のあった日、8月13日、大会6日目だったか、その日は甲子園で観戦した。
第一試合は地元育英が登場したこともあって、外野は通路までいっぱいで身動きがとれなかった。
第二試合だけ凡戦だったが、西短が二回から毎回1点ずつ入れるという珍しいスコアだった。 >>794
育英戎投手は肘を痛めていてスローボールしかなげられなかったな。
今ならドクターストップがかかってたかもしれない。 >>788
山陽−葛生は、逆転サヨナラ劇では一番だな。 >>791
そうですか。確かに花巻東の投手はごつかった。 >>795
後半はサイドスローになっていたな。
11回途中でマウンドを降りた。
ヒジ痛の投手に延長戦は気の毒だった。
まああの試合は秋田がきちんと攻めていたら延長になることなく終わっていただろう。なにしろ19残塁を記録したほどだったから。 >>778
>昭和の終わり頃から平成初めくらいの和歌山県勢の甲子園での負けっぷりはひどかったな
その時代よりも、紀和大会で奈良3強に負けっぱなしで
夏の甲子園に出ることすらできなかった1970年代の方が悲惨だった。
1971 郡山(奈良) 1 - 0 市和歌山商(和歌山)
1972 天理(奈良) 8 - 4 桐蔭(和歌山)
1973 ・・・・・ 記念大会 ・・・・・
1974 郡山(奈良) 5 - 1 向陽(和歌山)
1975 天理(奈良) 1 - 0 伊都(和歌山)
1976 天理(奈良) 3 - 1 箕島(和歌山)
1977 智弁学園(奈良) 4 - 1 田辺(和歌山) ※最後の紀和大会 1973の夏は箕島が出場したが、初戦で丸子実業に敗退
紀和大会あったら天理に負けてただろうね。 >>799
でも選抜では箕島が70、77年と優勝しているし、70年には和歌山工業がベスト4に進出しているぞ。
84年春から89年夏までは春夏初戦11連敗だからな。もし夏が一県一校制でなく紀和大会があったら92年までおそらく全敗だっただろう。 >>801
失礼、和歌山工業ベスト4は74年春。鎌田投手のとき。 自分がリアルタイムで知っている和歌山は、箕島が出れば、必ず奇跡の大活躍!の時代だったから、そこまで苦戦していたなんて初めて知った。
島本こうへいで優勝して、それ以来ずっと大活躍しっぱなしかと思っていたわ。 県名で母音が「A」なのは
和歌山、神奈川、山形、香川。・・か? >>791 >>797
1回戦濟々黌戦で5点リードしながら、濟々黌に球数投げさせられて終盤スタミナ切れで
逆転負け。
当時熊本に帰省していたんだけど、なんか野球がセコいせいでこの年の濟々黌人気なかったな。
九州勢は鹿実に沖水に熊本民も期待していた模様。
>>792
あえてネタに突っ込むが別人。当時今の佐々木監督は中学生だな。 花巻東の佐々木。
ぎこちない牽制モーションがユーモラスで親父野球みたいと言われていたな。
済々黌の執拗なバント攻撃が相当足腰にこたえたみたいで汗びっしょりだった。 >>805
ごめん
佐賀を探そう をさがせなかった。 今も太めの投手たまにいるけど垢抜けないデザインのユニと
あの頃のストッキング大きく上げる着こなしが一層太ましさ強調されていた。 箕島は延長戦のサヨナラ勝ち試合が多かった。有名な星稜延長18回の以外にも吉田戦や明徳戦も劇的な勝ち方だった。 今もというか今は細いピッチャー自体あまりいなくないか?まぁ昔の太めというのとは体型が違うけども >>813
今まで見た中で一番細いと思ったのは、履正社春夏通じて初出場時のエース小川仁 >>815
それで大阪大会一人で投げ抜いたんだよな。前年のPLの前川も大阪大会一人で投げ抜いて驚いたがそれ以上に驚いたのがこの小川投手。 高校野球見出したのは1982年からだったな。僕は小3だった。
池田高校やまびこ打線懐かしい、自分は70年代知らないけどレス見てたら逆転劇多かったみたいですね。
80年代は魔物が棲む甲子園て良く聞いたフレーズでしたけど70年代の魔物の出現率は凄かったんですか?
僕は物心ついた時から植草貞夫アナウンサーの実況が今でも忘れられません。 1989の松江東は平均体重が50キロ代(58kgか59kgくらい)と紹介されててびっくりしたなあ。
平均身長168センチは、当時の公立としてはさほど低い方ではなかったが(18才男子の平均くらい)
体重の軽さに驚いた。
身長は伸ばしようがないが、甲子園に出るようなチームの選手は、鍛えられたがっちり体型の選手が
多かっただけに。 ここ10年で高校生のガチムチ度が飛躍的に上がったと思う
駒苫連覇の頃の選手達で今と同じような体格の高校って大阪桐蔭くらいだと思う 昭和50年夏、国府の青山も華奢だったな。
プロ入りしたが「青エンピツ」とあだ名されてた。 >>821
筋肉・体重は以前よりも付いているのは間違いない
しかし、最近の学校は無駄にピチピチしたユニフォームを着ている学校が多いのも関係している
大阪桐蔭は実際のサイズよりも2サイズも小さいユニフォームを着て、相手をビビらせるという
セコい真似をしている
この手のユニフォームを着た高校の選手が卒業し、大学野球でプレーしている姿を見ると、
所謂高校野球強豪校ではない選手と比べても、案外大きくない事が多々ある 89年川越商のエース岡崎も華奢だったな
確か174センチ56キロぐらいだったと思う
夏の埼玉大会で2年連続完全試合をしたんだよな 岡崎は社会人でも結構長くやってたな。
俺が華奢な投手で思い浮かぶのは浦学の染谷かな。
92年、モリシ初甲子園でベスト4いった時のエース。 >>824
ユニフォームを小さめに着るのはPLがやってたことだし、その時代の着こなし方というのがあるからね
ただ高校生の時はむちゃくちゃ体でかく見えたのにプロ入ってユニフォーム姿見ると小さい体にダボダボの服着てるように見えるから、プロってホントに体デカイんだな、とは思う 平安は、ケツをでかく見せるために畳んだタオルをポケットにしまっているんだっけ?
とにかく勝つために有利になることは何でもするって方針か 個人的には嫌いじゃない >>825 >>826
岡崎懐かしいな。ある意味プロ行かなくてよかった人生かもな。
前述のタメ年の武田(中標津)同様、社会人で長くやれたわけだし。
ヘタにプロ入りして数年でクビだと、当時はもう本格的な野球は
できなかったわけだしね。 >>822
中条は仲間から「ガイコツ」といわれるほど痩せていたな。三季連続のノーコン発揮(最後の夏はみごとに汚名返上)とあわせて記憶に残る。 中条は前年度甲子園で四死球連発だったのが、翌年見事に成長した。ちなみに熊本せいせいこうとの試合は18対5だったかな。 2015夏の長崎創成館の左腕水永がヒョロヒョロで、手足が棒みたいだった。 アンガールズの二人、手足が長いみたいだが、
野球やってたらいいピッチャーになったと思いませんか? >>832
中条は「イカ太郎」と言われてなかったか?
身長はそんなになかったが、腕が長かったらしい。
ジャイアンツで中継ぎで活躍した時期があり、
金田正一氏が、絶賛していた。 90年Y校の二番手投手がデブだったな
マリンブルーのユニフォームがピチピチやった 最近のだけど光星学院のエースで四番でドラフト一位だった柳田。 最近のだけど光星学院のエースで四番でドラフト一位だった柳田。 選手登録だけで語ると一番のデブは北陽の伝令役の控えだろ
出てくると球場中に失笑が漏れたぞ
確か昭和63年の選抜だと思ったが >>843
伝令だったかどうか忘れたが、太田平八郎忠相とかいう、
戦国武将みたいな名前の選手がベンチ入りしてたときか? 844だが今、調べてみたら昭和63年センバツの北陽は、太田孔史郎信忠だった。 >>844
平成2年だな。寺前と同学年。高校では控えだが、何処の大学か忘れたが大学でレギュラーになってドラフト候補になってた記憶が っていうか、太田平八郎忠相と太田孔史郎信忠は兄弟だろ? >>843
そう、昭和63年の選抜に出たときの控え選手、たしか高尾っていう選手だったかな。
前年秋の大阪大会で春夏連覇した直後のPLとの試合前にPLの選手に向かって「野球では負けるかもしれんが、相撲ならいつでもやったるぞ」と叫んでナインの緊張をほぐして6-2で勝ったという話がサンデー毎日の出場校ガイドに紹介されていた。
報知の選抜出場校をさぐる号でも写真つきでコラムで紹介されているはず。マウンドに向かうとスタンドから笑いがもれる、と書かれていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています