50歳以上のおっさんが高校野球を語る
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
>>835
樽井は2年春の甲子園で予想外の好投をしたから自分を失ってしまったみたい
その意味では同学年で77年夏準優勝の東邦坂本と印象がかぶる
高校時代は不調のままで終わった 法政大へ進学した
太田はスケールはでかかったものの2年秋から怪我持ちだった
選抜の倉吉北戦も速球は本来のものではなく、変化球でかわした感じ
怪我のため大成できなかった 太田は静岡市の隣の清水市の出身。
静高に進学したが、地元清水では「清水を捨てて静岡に走った男」と陰口をたたかれ、実姉の結婚の嫌がらせにまでエスカレート。
「清水では誰も相手にしてくれません。だからこそ故障かなんかで野球ができなくなるようなことにはなりたくない」と報知高校野球の79年春季号に記事が載っていた。
樽井は法政では和田と二本柱で活躍したな。いまは農業をしていると聞く。 >>837
大原(境)は野球センス溢れる、好投手だった。明大・島岡監督も、さぞかしお気に入りのようで(笑)
結果論だが、そのまま高卒でプロ入りした方が....... >>838-839
太田って怪我持ちだったのか、知らなかった。
明治大に進学したと思ったが、大学じゃまったく活躍してた記憶が無かったが。
それにしても実姉の結婚の嫌がらせとは酷いな。
で、54年夏はその静岡や浜松商を押しのけて、静岡から新鋭、富士高校が甲子園に勝ち上がった。
徳島・池田高校の蔦監督が教員籍を全日制と定時制の交互に行き来して異動を免れてたのは
有名な話だが、富士高校の三村監督も「富士高が甲子園に出るまで異動しない」と、長いこと
異動を拒否したんだよね。
今なら許されない話だと思うが。 樽井は法政じゃ外野手やったで、打撃も良かったし守備も上手かった。
法政では同じ左腕じゃ原(神奈川の桐蔭)がのらりくらりと大きなカーブで投げてたな。
原も早く亡くなったけどな、合掌(人) 太田は二年夏に甲子園に出たときから怪我もちだったはず。たしか左腕がしびれていた。
これは高校入学してからもう主戦として投げていて基礎体力づくりが二の次になったかららしい。
それにしても明治では名を聞かなかったのは残念だった。一学年下の竹田の陰に隠れてしまった。 >>841
富士高校は川村という好投手がいたな。
能代に似たユニフォームだった記憶があります。
甲子園で熱戦を見せてくれた。 主将の三雲捕手はTBSアナの弟とかじゃなかったかな 60回選手権で.2試合続けての延長の激闘の末、青森北、静岡を降した熊工大高(現文徳)は好チームだった。
3回戦ではPL学園に2失点ながら、打線が西田に2安打と沈黙した。 >>846
三雲は立教大に進んで、卒業後テレビ朝日の記者になったような記憶が。 猪口投手だったか。
静岡戦は13回の大熱戦だった。2-2の均衡が破れたのは太田の痛恨の暴投だった。
静岡は開校100年だったか。メガネッシュの山本が主将だった。9回スクイズで同点に追いつき、なお二死二塁で太田の当たりがレフト線に飛んでサヨナラかと思えたがほんのわずか外れてファール。打ち直しの一打も内野の後方に落ちそうだったが相手の好捕にはばまれた。
連戦となったPL戦は西田に打たれた2ランが致命傷となった。6回のチャンスもスクイズ失敗で逃し、西田に3安打に抑えられた。 58年夏の大会から確か、一県一代表になったんだよね。関東勢を応援していたが県岐阜商野村投手のまえに横浜、桐生が抑えられて敗退が痛かったな。 >>851
平林監督時代の県岐阜商は強かった
翌年の中京戦の逆転サヨナラ負けで引責辞任したけど、監督を続けていれば嫌疑商と呼ばれるほど落ちぶれることはなかった
采配は強気一辺倒で、解説の松永玲一氏が「平林監督はミスが多い」と言いながらも「生きのよい若手監督が出てきた」と期待していた >>853
関東では公立で好成績を残した監督は経済面も含めて新興私立に移項するのが通例だけど、県岐阜商は公立でありながら今回の鍛治舎を含めて良い監督が呼べるのは大したもんだと思うがな。OB会がよっぽどしっかりしてるんだろうね。 >>853
松永さんは辛口だったな。
「六大学の先輩として言わせていただくと、平林君はミスが多い」とたしかに桐生戦の試合後に話していた。その試合の4回表無死二、三塁のカウントノースリーからスクイズしようとして失敗したことを指摘したときだった。 鍛治舎監督は65歳だけど、公立でどういう身分で監督するんだろう。
働き方改革の一環で、部活指導者を地域の人たちに委ねるような方針が出てたようだけど
公立でも教師や職員以外で能力ある人が監督を引き受けてくれたら、公立も復権するのではと期待してしまう。 >>855
あの年は、初球スクイズがやけに多かった様な。大会を通じて傾向が出ることがよくある。
しかしノースリーでスクイズを仕掛けるのも、今では余り無いように思うし、あの頃は今と違って殆どセーフティスクイズでは無くて、ランナーをちゃんと走らせてのスクイズが多かったと思う。 >>836
あんな練習試合のことよう知ってるな(笑)あんた松の同級生かなんかな?
(松やったりして笑)
確かに左腕柳川は伸びる活きた球投げてたよな。
前半は高松打線を完璧に押さえてた、げど、中盤に高松の下位打線に捕まって逆転されたと思う。秋四国優勝、センバツ出場校はやっぱり伊達じゃないと思った。 >>850
9回の太田の打球はライト野田が地面スレスレでダイビングキャッチした。
13回の明暗を分けた暴投はデッドボールに見えなくもない。 浜松商対桐生は現地で生観戦したな。
浜松商の応援がリズム良く、選手にも勢いがあった。
浜松商の投手のどちらかがデッドボールを受けて、
それから流れも浜松商に行ったな。 浜松商の青野遊撃手は投手もやって好救援していたよな。 >>860
先発の樽井が良くなく点を取られて遊撃手青野が好救援
ところが青野がデッドボールを受け、再びマウンドに戻った樽井が見違えるような投球で桐生の反撃を断った その時の浜松商業のキャプテンが、常葉菊川の監督やな。森下監督。静岡は日教組の影響力が強いらしいね。私学行って正解だと思う。 78年の浜松商は前の代のチームが磯部監督いわく「史上最強」のチームだった
75年夏の甲子園で1イニングだけ投げた長身の細田投手と強力打線を擁し高いチーム力を誇っていたが、あっさりと夏予選で敗退
新チームにはそのときのレギュラーから森下、青野、小沢が残ったが、小粒なチームで監督もあまり期待していなかったらしい >>862
正確には初回いきなり一死満塁となった時点で青野に交代。樽井は打者四人に投げただけで交代だった。
青野が後続を絶ったかに思えたが、二死後のショートゴロを野手がエラー、三塁走者が還り同点、二塁走者の木暮が三本間にはさまれて同点どまりだった。
青野が死球で退場となったときは桐生が逆転するかと思ったのだが。この試合、木暮の投球はいつものリズムがなかった。そして2、6、8回と三度のスクイズ失敗、阿久沢、木暮以下の打者にもう一本出ていればと惜しまれた。 森下は常葉菊川から御殿場西へ転出していったが、何かあったのか? 子供の頃、楽しみにしてた甲子園の放送が午前中なくてガッカリした記憶があるのだが
確か開幕ゲームですら(地元校が出てない県では)午前中の放送なかったよね
午後からの放送は正午のニュースの直後からか、昼の朝ドラ再放送の直後からか、
どっちだったのでしょうか?
また午前中も完全放送するようになったのは何年からでしょうか? >>867
教育テレビを使っていなかった頃は、午後の中継は1時過ぎからですね。
12時台はニュース→「昼のプレゼント」→朝ドラの再放送という順番だった。 昭和50年第57回大会からです。
前年の東海大相模ー鹿児島実業の延長15回の試合を6時に打ち切ったら、NHKにクレームの電話がたくさんはいって大変だった、、、、
という記事を読んだ気がします。間違っていたらすいません。 >>866
御殿場住みだからじゃね?
日大三島の監督時代にマイホームを購入したはず。 >>868
ありがとうございます
>>870
ありがとうございます
それで昭和50年センバツ大会の開幕ゲーム(有名な16-15の試合)の放送も
なかったんですね >>867
午前中も完全放送するようになったのは選抜はもっと遅くて81年から。 夏は75年から、春は81年からということか。
そもそもTV中継はいつからだろ?
飯田長姫が優勝した時はラジオに噛り付いてたからTVなかったよね? いや、光沢毅さんの飯田長姫が選抜優勝したのが昭和29年辺りだから、今年60歳になる方は昭和33年生まれ、まだ生まれていない。これはおそれいりました。w 光沢さんて身長が150cm台でしたっけ。ひょっとして一番背の低い日本一投手?
NHKの解説者になったり、失明したり、桑田並みの波乱の人生ですね。 光沢さん村椿さん磐城の田村、新湊の酒井etc小さな大投手が強打者を抑えるのが高校
野球の醍醐味が最近は少なくなったねぇ というか、S29年ならテレビ放送自体はあったが、お宅にテレビが無かっただけの可能性もあるなw >>875
NHKのテレビ中継は1953(昭和28)年の夏から。
松山商が空谷投手で同じ四国の土佐を破って優勝した大会。
選抜は翌年、すなわち飯田長姫が優勝した大会からの放送だと思う。テレビができたのは。1953年の2月だから、前年の選抜(洲本が優勝)のときはテレビがあるにはあったが中継はされたのかな?
ただ、テレビが一般に普及するのは1959(昭和34)年の皇太子(現在の天皇陛下)ご成婚のときからだから、それまでは街頭テレビでは。 高野連のHPで確認したが、選抜のNHKのテレビ中継は1954年からです。
(選手権は1953年から) そういえば、
ラジオで中継聴いてたら、正午前の間もなく中断するという時に、中継アナがいきなり咳き込んでめっちゃ苦しそうなうめき声とともに放送終了したことがあったな
あのアナウンサーどうなっちゃったのかすごく気になった
S56・7年頃だった気がする テレビもいいけど、ラジオが懐かしい。
「どんな速い球投げているのだろう?」とか、想像している時が楽しい。
今は、大会前からネットで映像・情報収集出来るから、便利すぎて........(苦笑) >>885
昔、ラジオでは私立を「わたくしりつ」、市立を「いちりつ」と言い分けていたね。
自分が聴いたラジオの中継はアナウンサーが一人で実況していたが、
いつからか解説者と二人での中継になっていた。 自分54才だが、ここ二年ほどでラジオにはまった。聴いて想像するから良いんだな。テレビ、パソコン、スマホ使い分けないかんな。 今、最も聴き応えのあるスポーツ中継をしてくれてるのはWOWOWだと思う。
公共放送でもない、スポンサー民放でもない、専門チャンネルでもない、という立ち位置もあるんだろうし
耳なじみのいい声をしてるアナばかり。 私神港と市神港って、ありましたね
学法石川も、石川があったからでしたか >>885
74年秋の中国大会はテレビ中継がなかったから、多々良学園戦でノーヒットノーランを達成した小林(広島工)は、どんな投手か想像しながらラジオを楽しんだな。
翌春のセンバツで初めて小林を見た時、想像以上の好投手で感激した。 >>886
昔はNHKのラジオはアナウンサーがひとりでしゃぺっていたな。解説者がついたのは準決勝と決勝だけだった。
しかしひとりアナのときは間違いが多すぎで聞くに耐えなかった。 68年夏の天覧試合の実況、解説、始球式は誰ですか? 俺は今年で60歳(1958年生まれ)になるが、歴代優勝校をたどって見たら1966年中京商の春夏連覇から記憶があるのな。その前の65年春、岡山東商と夏、三池工は全く記憶にない。全国のおっちゃんはどうなんかな? 僕は小学校一年生から記憶にある
周りからは記憶力いいと、よく言われてきた 【大雪警報】関東地方で「帰宅命令」が出る企業が続出中 / 一斉に帰宅する人々で各駅は大混雑の模様
本日2018年1月22日は、関東地方の広い地域で大雪となっている。午後には、気象庁が東京23区など関東甲信地方に大雪警報を発表した。交通機関の乱れが予想されるなか、それに伴い「帰宅命令」が出る企業が増えているようである。
Twitterなどを見てみると、今回は早い段階で指示が出る企業が多かったようだ。ただ、一斉に帰宅する人々で、各駅は大混雑となっている模様である。
・帰宅命令が出る企業
広い範囲に大雪警報が発表されたことで、帰宅命令を出す企業が増えている。 >>891
小林(広島工)は、あのセンバツでは一番将来を嘱望されたピッチャー。
他に将来性では、前側(福井商)、中村(札幌商)、三上(北海道日大)、赤嶺(豊見城)等が目についたが、小川(習志野)は評判倒れ。 >>897
あのセンバツで一番将来を嘱望されたピッチャーは誰が見ても2年生の赤嶺(豊見城)だろう >>898
高木氏曰く「小林の球が滅法速くて、誰一人、前に打球を飛ばすことすら出来なかった」w 昭和49年秋の神宮大会の中国代表は崇徳だったと思い、調べたら当時は推薦で出場する
地区もあったというのを知った。
崇徳は日大山形にノーヒット・ノーランくらってしまったと思う。
「KENKO」が出ていれば、どうなっていたのか。 >>901
広島は、当時は必ず3位校を出場させていた。
ちなみに、秋の県大会準決勝で、広島工10−0崇徳。
決勝では、広島商1−0広島工。 >>902
決勝で、広商が小林から放った安打は「1」。 その広商は中国大会では倉敷工業の兼光を打てずに0-3の完敗。
あの年は寒川の岡山東も倉吉北に5-6で敗れて選抜を逃したっけ。 >>902
広島は昔から三位決定戦をやっていたのですか。
自分の地区では 三位校は優勝した高校に準決勝で負けた高校となっていました。
ちょっと納得いかなかったです。 >>904
倉吉北の岩山も、野球センス抜群!
もっとも、ピッチャー向きじゃなく、駒大→電電中国とセカンドでレギュラー。 >>899
あの年の近畿勢は前年優勝の報徳学園だけが強くて
特に大阪勢の初芝と近大附属が初戦完敗でイマイチ
だったな。伊都も東山も大敗でまともに戦えたのは
天理と初戦負けたが能登川くらいだった。なにか
今年の大阪桐蔭1強に似てるかも。 そもそもあの年の近畿は7枠は多すぎだった。
初戦に勝ったのは報徳と天理だけ。
5番目以降に選出された能登川、東山、初芝はかなり力不足と感じた。
初芝はプロ入りした立石がマウンドに上がったが日大山形の金子に完封負け。
能登川は三重盗を決められるし。
東山は五点差をひっくり返された。 初芝、能登川は今のところ、これが最初で最後の甲子園という一発屋。 >>894
自分の高校野球のはっきりした記憶はドカベンの山田が明訓に入学してから。昭和49年だったと思う。作新の江川をリアルタイムで記憶がない。銚子商業の土屋か、鹿実 定岡あたりから高校野球にはまった。(香川から) >>907
大阪勢は、前年の春から3季続けて0勝という低迷期だった。 >>908
本当、近畿勢はいまいち。
天理も総合力では疑問。投打のバランスが悪く自滅パターンで、エース猪口も夏はエースナンバー剥奪。
報徳学園にしても、ヒヤヒヤしっぱなし。投打とも絶対的な力はなく、野球の巧さでなんとか上位進出ってとこ。 >>912
掛川西にやられたな、能登川のほうが初戦では
あったが接戦だった。猪口も前評判は良かったが
力を発揮できなかった印象 >>910やっぱ、50代だと江川、定岡、の辺りからだよな。またガキの頃はヒーロー好きで一人エースで踏ん張る投球姿に憧れを持って見ていたよね。 >>913
猪口は小山戦に先発したが、6回投げて12四球というとてつもないノーコンぶりだった。
小山の拙攻に助けられた。
夏は投手落第だった。 >>912
近畿勢の不振の原因は、投手力。
大学、社会人に行っても通用するピッチャーがいなかった。
そんな中で、伊都の福田が投手として一番評価できる。
左腕から切れの良いボールを投げ、近大→拓銀と活躍した。 近畿勢、特に大阪あたりは桑田が登場する前までは、そうスーパーな投手が居なかったような気がするんだがどうしてなんだろうか?良い投手は関東、東北、たまに九州に多く居たような >>916
初芝は内野手の立石が投げた記憶がある。
南海に入団したな。 昭和50年春の初芝高校は日大山形に5−0の完封負け。
これがいまのところ山形勢唯一の完投完封勝利です。
(夏は継投で完封あり) >>916
報徳学園・滝井も、大学では頭打ち。
見込みがありそうなのは、伊都・福田ぐらいだったな。
よっぽど、中村(札幌商)、三上(北海道日大)の北海道勢の方が将来性ありw >>922
中村も三上も頭打ち、一番伸びたの福田だったがな 75年センバツは、ベスト4の段階でこれほどまでにピッチャーの質が悪い大会も珍しいw 75年選抜で一番将来性がありそうな3年生投手は相模を1点に封じた倉敷工兼光だったが、選抜の時点で怪我持ちだったらしい 七十年代は投手はエース一人体制がデフォだから、怪我したらほぼ終わりだったと思われ。 >>924
それは夏にもいえる。
この年の甲子園は投手が不作と当時よく言われた。
この年の高校球界ナンバーワンは都城農の北別府学。春の九州大会の伝習館戦で完全試合を達成。プロでも200勝達成。 >>925
兼光は典型的な「野手投げ」。
ピッチャーとしての将来性はない。 >>928
「野手投げ」より「アーム投げ」のほうが将来性あるのだろうか。
70年代アーム投げの有名な投手いましたか。
最近では仙台育英からオリックスにいった佐藤世那投手、どうなるか。 兼光の投球のフォロースルーは非常にダイナミックだった
でも四番打者としての印象が強い
0−1で敗れた東海大相撲戦の最終回に兼光が村中から三塁打を打って
二死2,3塁となって一打逆転まで追いすがったはず >>913
猪口は夏は野手専任で活躍して全日本にも選ばれ、巨人に入団。
しかし三年で退団。武宮寮長によると、一年目のオフに彼女ができてから野球に身が入らなくなったという。一番大事なときだから野球に集中しろと諭したがきかなかったらしい。惜しいことをしたと語っていた。 >>930
そこですよ、
村中の投球のたび、ネット裏がわーわー騒いでたのは。 >>927
その北別府を打ち崩した日南は侮れないと思っていたら、やってくれましたな ところで、群馬だけどこの間、地元では高校サッカーが全国制覇して盛大な市内パレードやったんだけど、野球の場合は二回ともやらなかった。これって高野連のお達しなのか、地元の都合なのか?皆さんの処はどうなんかな? >>927
>>934
奇しくも、北別府の都城農は練習試合で、日南は甲子園で広島商に敗れている。
日南がタイムを取るのを忘れてマウンドに集まろうとしたら、広島商・谷に三塁を奪われたのを覚えている。。 >>936
広島工はその時の練習試合で、都城農に0−2で負けた。
ただし、カープの同期・小林誠二はその試合には投げていない。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。