50歳以上のおっさんが高校野球を語る
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上尾は、甲子園出なくなったな
浦和学院に持ってかれたな >>32
ツーランスクイズをやり返した記憶あり
何年か前の夏の甲子園で広島商に日田林工はツーランスクイズをやられたんだな。 春に豊見城に負けた習志野が夏に優勝するとは大会前は思いもよらなかった。 習志野は春も有力候補だったが沖縄をナメてたね。
あっさり赤嶺にやられたね 75選抜決勝の高知-東海大相模は子供ながらに
凄い試合だった。金属バット元年で開幕戦の
中京ー倉敷工も大乱戦で波乱を予感させる
大会だった。 まああの時代の沖縄といえばなめてしまったのも無理はないが、あの豊見城はそれまでの沖縄にはない好チームだった。
あの豊見城からだな、沖縄が全国区になったのは。
赤嶺は二年のときのほうが調子がよかったな。 >>38
豊見城は4年連続選抜に来たけど最初の年のチームが一番強かったと思う 赤嶺最上級生のときは打力が弱く、下地のときは大型だが荒削り、石嶺神里のときは投手に決め手がなかった あの頃の沖縄勢というか豊見城は準々決勝が鬼門に沖縄水産になってやっとというかつい
にというか壁を破った。 高知VS東海大相模で高知の杉村だったか、ゴロの三塁打を打った記憶がある。
速い打球のゴロで、あっという間にフェンスまで達したが、その後同じような
打球の長打を記録した選手いるの? >>37
金属バット最初の打者は倉敷工の一番打者、この年から校歌を録音テープで流すようになった第一号が
倉敷工、8年前のリニューアル甲子園の校歌第一号も倉敷工、皇太子ご夫妻御前試合(68年選手権1試合のみ)
の校歌も倉敷工。どうなってんのこれ? >>42
有名なのはゴロではないけど82年夏早実板倉の弾丸ライナーのホームラン。
サードがジャンプして捕ろうとした打球が伸びてそのままレフトポール際へ飛び込んだ。 昭和51年夏の入場行進
京都商→東北→日体荏原とわけがわからんな。
この頃はどんな順番だったんだろうか >>48
予備抽選の番号順。
1県1校となった60回から北〜南の固定になった。 桜美林が優勝した大会だったな。決勝は東阪対決
菊池太陽のサヨナラ打 1県1校となる前の50回記念も北〜南の順だった気がする。
確か太田の三沢が早々と行進してたような・・・
まあ青春を見ただけなんだが。 >>44
アホ
金属バット導入は74年夏で、そのときは使う打者が少なかったが、東海大相模とか数校は使っていた
金属バットが全校に普及したのが75春 ちなみに金属バットによる甲子園でのホームラン第一号は三国と上尾の試合で三国の大神が打った 75年春が金属バット元年と言われたのは、全校全選手が使うようになり飛躍的にホームランや打撃戦が増えたから >>51
一県一校になる前から五年にいちどの記念大会だけは北から、もしくは南からの行進だった。
それ以外は抽選会の予備抽選の番号順(くじをひく順番もそれで決めていた)。
76年夏のしんがりは柳川商だったかな。 昭和53年夏、岡山東商業の石岡?選手、三塁手だったと思う。金属バットを木に替えてサヨナラヒットを打った。 金属バットでの初安打
74年夏 山根(平安) 対一関商工 2回表
75年春 千賀(中京) 対倉敷工 1回裏
金属バットでの初本塁打
74年夏 大神(三国) 対上尾 7回表
75年春 野田(倉敷工) 対中京 4回表
と記憶しているんだが、初めて金属バットを持って打席に立った選手は覚えていないなあ。 昭和49年の開幕戦、平安対一関商工
平安の3番バッター田中が金属バット最初の打者。
1番、2番は木製バットだった。 昭和49年の開幕戦、平安対一関商工
平安の3番バッター田中が金属バット最初の打者。
1番、2番は木製バットだった。 >>59
情報ありがとうございます。
田中は前年秋の神宮大会の高知戦、延長18回の試合でしたが2本塁打しましたね。
阪急入りしたんでしたかね。
初回の平安は三者凡退だったはずですが、このときの田中の打席の記録はなんだったのでしょうか。 >>48
群馬と山梨で1代表を争ってたが、名称は北関東だったよね。
位置からして西関東代表になるはずなのに、何で北関東代表だったんだろうか? 59です。田中選手の一打席目の結果は分かりません。すいません。平安は6連続ヒットの大会タイ記録の試合でしたね! 奈良、和歌山の紀和大会、福井、滋賀の福滋大会とか
おかしな地区大会があったな >>32
準決勝でエース喜見を温存して左腕高倉を先発させた采配は謎だったな。 >>66
三重と岐阜で三岐大会
ちなみに三岐鉄道は岐阜県のどこにも路線がありません
いなべ電鉄とでも社名変更すべきです 同県決勝で勝てば1位通過で負ければ2位通過。
そして他県代表と準決勝、決勝の謎の予選方式を導入していた地区あったよね。
夏予選で一度敗けたのに甲子園に出た高校はどこが最後? >>69
昭和32年が最後。
この年は南四国で高知が高知商を破り代表になったが、高知予選では高知商が勝っていた。
ほかにもあると思う。
ただし予選で一度負けて代表になり全国優勝したのは昭和12年の中京商だけらしい。 ドカベンの里中智は、S46桐蔭の大塚、不知火は川越、竹内(後大洋)、土門は江川がモデルと思うが誰か知ってる? >>66
奈良、和歌山の紀和大会
これのどこがおかしいの? >>23
浜松商の三番セカンド大石のドラッグバント好きだった >>70
補足すると、一度県予選で負けても二次予選に勝てば甲子園に出場できるというのは勝ち抜きという夏の選手権の趣旨に反するということで昭和34年から禁じられた(前年の昭和33年は40回記念の一県一校)。
その年、昭和34年は二次予選はすべて県優勝校同士の一発勝負だった(南九州だけ宮崎、鹿児島、沖縄の三県で争った)。
県優勝校の対決だけでは味気ないという声が出で、翌年の昭和35年から二次予選に県2校まで出場することが認められたが、そのときは県の決勝を行わないで無敗のまま二次予選に進出させることが条件となった。 >>73
紀州(紀伊)と和歌山って勘違いしたんじゃない?
もちろん紀伊と大和なんだけど 紀和大会と言えば77年
選抜優勝の箕島、ベスト4の奈良智弁、ベスト8の天理が代表を争う形になった
夏の予選史上屈指の狭き門だった この頃、二県で一代表を争ってた地区は、両県から二校ずつ出場してたのに、
何故か紀和大会だけは両県から一校ずつしか出場してなかったね。 福滋(福井と滋賀)も一校ずつだったはず。
福井と一緒になる前の滋賀は京都と京滋地区だったが、これも一校ずつだったと思う。
二校が多かったのは観客数が増えるのをねらったのと、一校だと一発勝負でどうなるか分からないから二校にして勝てる確率を高くしたいという各県の思惑もあったからだろう。 滋賀県民だが、福滋大会は2校づつで、滋賀で福井県勢同士で決勝やってた記憶がある。
京滋大会は優勝チーム同士の対決で1チーム。 1校ずつの出場は、各々の優勝校を決めたいという考えが強かった地区でしょうね。 >>82
70年代後半だったと思うけど、青森、佐賀で国体を行ったときに、青森は奥羽大会で、
佐賀は西九州大会で敗れてしまい、代表が甲子園には出られなかった。
なのに、国体には両県とも国体開催県枠で1校ずつが出場していた。
両県とも2校とも代表決定戦初戦で負けたと思うが、国体に出場したチームは抽選で
決定したのだろうか? >>83
76年佐賀国体は龍谷が出場したな。
夏は西九州の決勝であのサッシー酒井がいた長崎海星に延長10回1-3で敗れた。もう一校の佐賀商は西九州の初戦でやはり長崎海星に延長14回0-1で敗れていた。龍谷のほうが成績が上だったからだと思う。
77年青森国体は弘前実が出場したかな。
夏の奥羽大会は弘前実と三沢が進出したと記憶しているが、三沢は秋田の能代(代表)に1-5で敗退、弘前実はどうだったか覚えていない。 >>84
77年の青森国体には三沢が出場し東洋大姫路に負けている
奥羽大会で三沢と弘前実がいずれも初戦負けだったが、優勝した能代に負けたほうの三沢が準優勝校に負けた弘前より上とみなして国体に出場だと思う >>64
北関東大会は茨城-栃木-群馬から栃木-群馬となり昭和50年から群馬-山梨となった。
名称は北関東大会の方が古いからそうなったんだそうで、当時の朝日群馬版では
「甲子園の切符が静岡ぐらいまで手に入った」と高野連もコメントしてた。
それが50年、51年と山梨に2連敗で出られないんだから当時中学生の私はなんだかなーと思ったもんだよ。 スレタイからもここでは平成以降の話は禁句とします。
あくまでも昭和の高校野球しか語ってはいけません。
よろしくお願いします。
で!昭和最強のチームってやっぱKKのPL学園(1985年)だよね? 福井も前側の福井商や島崎の福井、田行の三国とか実力のある高校の壁があり、滋賀勢は勝てなかった。当時選抜で接戦を甲子園で演じた伊香や能登川も県大会で力尽きて実力校が福滋大会に進出できなかった不運も大きかった。 この年代、夏の滋賀大会1回戦負けの無名公立校からドラフト1位が誕生したよな。 76年堅田の都裕次郎。
都はるみと石原裕次郎をあわせたような名前。
中日で一時活躍したが肩を痛めたのが惜しまれる。 >>90
負けた相手が膳所高で5ー0位差がついて負けて記憶。
底辺高が県随一の進学校に負けて立場無かったんじゃねえかw 掛川西にトリプルスチールを許したのが能登川でしたね。
内容的には接戦だったし、この直後静岡商が登場するので静岡からの応援団が大変多く
確か日曜日だったと思いますが、満員のスタンドは大いに盛り上がってましたね。 掛川西が習志野より前に甲子園で成功させていたのか・・。 >>91
たしか堅田0-2膳所
大会前の練習試合では16-1で勝っていたらしいが… >>91
ちなみに都2年生のときは準々決勝で能登川に負けている この頃から本格初左腕として評価されていたが、まさかドラフト1位指名とは思わなかった 中日入りしてからはカーブの鋭い変化球投手として82年に中日がリーグ優勝したときは小松辰雄に次ぐ準エースとして活躍したな 82年は16勝5敗と活躍したな。
あの年のドラフトではイの一番のサッシー酒井に続いて二番目の指名だったっけ? >>92
当時は静岡は野球王国と呼ばれたな。この大会も静岡商はベスト4、掛川西はベスト8まで勝ち進んだ。掛川西はその後も何度か甲子園に出たが勝ったのを見たのはこの大会だけのような気がする。 >>92
能登川は75ー80年代は滋賀を牽引したが、今や部員不足で合同チームで県大会に出てるね。残念だ。 >>97
静商、掛川ともにベスト8どまりだろう。
掛川は甲子園では通算3勝、この大会の2勝のほかは64年夏の八代東との延長18回0-0引き分け再試合に勝っただけ。
あのときの掛川のバッテリーは伊藤−松本だったが名前がともに伸彦で話題となっあ。 >>78
でもなあ、選抜の準決勝で箕島は智弁に勝っていたが、地力そのものは奈良勢のほうが上だったし、あのころの紀和大会は奈良の天下だったしね。天理対智弁の勝者が代表になると思っていた。
しかも東は選抜の投げすぎで故障していたし、大会前に有田市でコレラが発生して練習も制限されてしまったから。
結局、県決勝で田辺に延長10回、0-2で敗退。田辺の投手は巨人入りした木下だった。
奈良のほうは準々で智弁と天理があたり、7回裏に3点取った智弁が勝った。この時点で智弁で決まりと思ったな。
紀和決勝は智弁4-1田辺だった。
春の大会で招待試合に出かけるため智弁がわざと負けて高野連を激怒させていやがらせのように夏の抽選を仕組んだという伝説もあるな。 静岡は野球強豪校間で監督教員の異動をうまくやってるイメージがある。浜松商の監督だった人が掛川西に異動して甲子園に出ていたときもあった。 >>97
71年夏 静岡学園 ベスト8
72年夏 東海大工 ベスト8
73年夏 静岡 準優勝
74年夏 静岡商 ベスト8
75年春 静岡商、掛川西 ベスト8
黄金時代だったが…
やはり静岡商の76〜77年の二年連続出場辞退が大きかった。 >>91
堅田、高島、石山、野洲、瀬田工あたりは選抜で恥ずかしい試合ばかりだった。 >>100
70年代の紀和大会の結果を見て毎年和歌山は奈良には勝てないな、奈良の方がレベルが上なんだ、と思ってた当時小学生だった自分。 イカ高校という名前の高校があったな
瀬田工が勝ち進んだ時の人で審判になって
色々トラブったのが橘高氏かな? 星稜の小松を甲子園で観たが速かったな。江川よりも速くて驚いた。でも一番速い球を投げ込んでいたのは77年の伊香の藤高だな、小松が自分より速い投手がいると言ったのが藤高、この3人は当時の甲子園で観戦したプロ野球の投手より凄い球を投げていた。 当時の桐生は木暮、阿久澤の超高校級はいたが部員は選抜時、15人しかいなかった。選抜後、春関東大会でも優勝しエース木暮は前橋の完全男松本と共に超人気があった。 >>107
センバツ後に星稜と伊香が練習試合をやって両エースが投げ合って0−0だったらしい
その練習試合見たかったな >>108
この年から始まったNHKの学校紹介のフィルムで「部員は三年生7人、二年生8人の15人しかいません。それでも例年に比べると多いほうだといいます」と紹介されている。
木暮は夏は劣化していたな、腕が下がりコントロールに苦しんでいた。春の関東で一日に準決勝、決勝と連投していたし招待試合も多かったのだろう、調整不足だったと思う。
夏の県決勝の前橋工業戦は7回ノックアウトされている。
これは危ないぞと思っていたら県岐商に完敗した。あの試合の野村の投球はみごと。木暮、阿久沢の二人を完全に封じた。これでは桐生打線は苦しい。 >>95
その後はスコアラーとして長くチームに貢献しました 都投手は速球よりも大型左腕の割に変化球とコントロールが良かった印象。堅田2年次に能登川に打たれたが甲子園出場メンバーがいたチームで近畿ベスト4の当時全盛の平安にも勝ったくらいだから仕方ない。 >>100
春の大会で智弁が負けた翌日の地元紙の社会面でこのことが大きく掲載された。
走者2塁からヒットが出ても3塁で止まって得点しようとしなかったらしい。
スタンドの観客からは真面目にやれと野次が飛び交ったらしい。
帝京が夏の予選でわざとタッチアップしなくて非難された記憶があるけどそれよりひどかったと思う。 >>72
中文男(江川学院)は、親父と弟ってこと? >>113
タッチアップではなくて、レフト前ヒットにサードランナーがホームに走らなかったと思う >>112
平安は当時弱体化していたぞ。71年の例の部長の飲酒運転で辞退を余儀なくされてからは。
能登川選抜出場の前年だけは山根、前島などで甲子園に出たが。 >>114
江川学院の9番に川卓っていたな。
スコアボード上で。 74年は平安は選抜ベスト4だった。意見はあると思うが、黄金期最終時期でこの後から甲子園から遠のいた暗黒時代になった。いまの原田監督はまさに暗黒時代が現役だったんだな。 ガキの時、地元の静岡は山静大会に勝たないと甲子園に行けなかった。
山梨よりずっと参加校が多いのに、山静大会は両県から2校づつというのが納得できなかったな。
ほとんど静岡の学校が優勝してたから良かったけど。 >>109
投球練習の音がヒューっと鳴ってたからな、捕手も受難が多かったと聞く、特に小松の球を受けたのが1年の沖野で可愛そうだったよ >>113
高嶋さんが奈良智弁の監督だった頃だね
その年、天理も春県は早めに負けてなかった? 智弁学園は70年代の甲子園出始めの頃は郡山高校の郡高音頭のコピペで応援してたな。 >>121
沖野って、一年の夏から先輩の小松とバッテリー組んで三季連続出場したが、甲子園ではヒット打てなかったんだよな、たしか。 昭和40年代の校歌吹奏は、春夏とも楽隊がグランドに出て吹いてたんですかね?
自分の記憶では少人数編成だったような・・ つべで見れるカラー映像で一番古いのは昭和44年のセンバツ決勝でしょうか? 俺は昔の試合のビデオが見られるとしたら、選抜準決勝の江川の作新がくいん 俺は昔の試合のビデオが見られるとしたら、選抜準決勝の江川の作新学院と広島商の試合が全て見たい!江川の投球姿ももちろんだが広島商、佃のピッチングフォームが特に見たい!本当に格好良かった。 カラーでビデオ録画したものは昭和44年くらいからあるにはある。
そのころ家庭にカラーテレビが普及した。
ただし録画機器の普及はさらに10年遅れなので、昭和44年のものは極めて貴重。
例外は昭和43年夏の大会。
これだけは映画でカラー映像が残っていて、入場行進などは垂涎もの。
ただし記録が目的じゃなく芸術作品なのが残念。
普通に撮ってくれてたらもっと嬉しかった。 ちなみに、テレビをビデオ録画したものより、映画のほうが画質も発色も良い。 あれっ、市川監督が制作した青春てカラー映画は静岡商新浦が出てたから昭和何年?確か50回記念大会か? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています