扉本第1章「戦後マンガの歴史と歩む」より引用します(10 P)
「当時、少女マンガの世界は、固定観念にとらわれていました。
出版社の編集は男性ばかりで、「女の子はこういうテーマや絵が好き」と決めつけていました。
頼まれるのはそういう仕事ばかりでした。」
「そんな中で私たち(「24 年組」と呼ばれる萩尾・大島・青池・木原・山岸・ささや)は少しずつですが
無理やり扉をこじあけてきました」
「女の子たち自身も、少女マンガとはこういうもの、と凝り固まった考えを持っていました」
「私たちのマンガは、その見方をこじあけていくことになるので、
「開くかな」「どうかな」と、用心しながら話を進めていきました。」
「マンガで革命を起こすー。私はそう決意して国立大学を中退し、この世界に入りました。」
(引用終了)

増山さんが「革命」を提唱したとは、ここではひとことも書かれていません
竹宮さんが決意し、萩尾さんを同居に誘い、(なぜ萩尾さんが同意したかは聞いていない)
増山さんは「知識が豊富」で「サロン作りをリード」した人ですが、漫画家ではありません

「すべてパターンでできあがっているように見えるこの時代のマンガを
私たちは変革したいと思っていました」
「大泉サロンに集まっている私たち漫画家には、
今の編集者よりも自分たちの方が先を見ているよね、という自負もありました」
(扉本76P)

この文脈で「私たち」に萩尾さんが含まれるのはあきらかです
しかし、萩尾さん本人が大泉本ではっきり「NO」と表明した以上、
それを前提に「大泉サロン」「24年組」「少女マンガ革命」を見直すのは
ある意味、当然の流れと思います