ちょっと整理してみます
・1982年のぱふインタビューで、竹宮妹の英子さんは増山さんを
「作品も一緒に作ってくれている」「お互いにパートナー」と発言(63p)
・1983年にも「パートナー」発言があったと判明(>>361さん資料に感謝)
・1984年の続マンション猫のあとがきでは、増山のりえさんは「わが片腕」
「ごく初期の作品を除いてすべての作品を共同プロデュースしてきた」
「「竹宮恵子」は2人で1人」と発言(204p)

要するにこの数年に関しては、外部には増山さんをたんなるマネージャーと紹介しつつ
増山さんがパートナーであり、共同制作者であることを認めていた。

が、それ以降、増山さんの貢献に触れる発言は減り、
>>375さんの指摘のように、ジル本では「戦友」、扉本ではさらに後退している。
功績を消した理由は>>379さんの推測に加え、
ジル本ドラマ化には増山さんの存在が不可欠だったが、
萩尾さんの協力拒否で頓挫した以上、あえて出す必要もない。
竹宮ブランドに傷がつかないよう、増山色を排除したかったとか?
その延長に訃報の公表遅れがあるのかも