【悲報】映画『Fukushima 50 フクシマフィフティ』 キネマ旬報レビューでオール1点
http://www.kinenote.com/main/feature/review/newest/

川口敦子 ★☆☆☆☆
2011年3月11日。もう春なのに雪が舞っていたのかと福島がフクシマやFukushimaになった日を俯瞰する幕開けに、劇映画としてその日、その場をどう描くのか――と、素朴な疑問と期待が膨らんだ。
が、見るうちに無能な上官に翻弄されつつ自己犠牲の精神を発揮する部下を前線に送り出す板挟みの存在の悲憤を描く戦争大作めいてきて、しかも結局、責任の所在をうやむやにしたまま満開の桜に涙する、
まさに戦後日本への道をなぞり、迷いなく美化するような展開に呆然とした。

佐野亨 ★☆☆☆☆
この数年間に「福島」を描いた映画は多数あったが、言うまでもなくそこではつねに「撮る」「向き合う」「物語る」という主体が問われていた。
この映画のタイトルは、海外のメディアが、生命の危機に直面しながら原発の復旧作業に力を尽くした人々への敬意をこめて名づけた呼称に由来する。
こから読み取れる映画の主体とはいったいだれか。豪華俳優陣が見せるやりすぎなほど統率された迫真のうちに、この作品は検証や哀悼や連帯ではなく、動揺や怒りや対立を呼びおこす。

福間健二 ★☆☆☆☆
あの日のあの時からはじまる、事実にもとづく物語。だが、佐藤浩市と渡辺謙を真ん中においた悲壮演技の応酬が、ウソだと思えてならなかった。
そして事実の取り出し方、どうだろう。政治的意図とヒューマニズム、どちらも安手の二つが手を組んでいる。二〇一四年までの話で、「自然を甘く見ていた」というだけの結論。
何を隠蔽したいのか。若松監督、承知の上の職人仕事か。知るべきことがここにあるとする人もいようが、二〇二〇年に見るべき作品にはなっていないと私は考える。