31日囲碁十段戦挑戦者決定戦に出場 村川大介八段に聞く

 コーヒー好きだ。コーヒーミルで丹念に豆をひき、粉をペーパーフィルターに移す。ケトルのお湯を少し注いで蒸らす。フィルターの中のコーヒーがゆっくりと
膨らみ、ゆっくりとへこむ。穏やかな時間が流れる。「癒やされますね」。静かに口にする。いれてもらったコーヒーは、人柄のようにやわらかく、
深い味わいだった。
 盤上では力強く攻める棋風で、「外柔内剛(がいじゅうないごう)」という言葉がしっくりくる関西を代表する若手トップ棋士の一人だ。

 昨年12月、第14回産経プロアマトーナメントで4回目の優勝を成し遂げた。「準優勝も2回していて、得意な棋戦というイメージです」。
決勝の相手はベテラン、清成哲也九段(57)。「苦しかったの一言。勝ちにくい展開で、終わっても勝った実感がない不思議な戦いでした」と振り返った。
 昨年の成績は対局数56、37勝19敗。対局数と、勝ち星、賞金各ランキングで関西棋院の棋士ではいずれも2位と成績は順調だ。
だが「勝ち星は多いですが、竜星戦、王座戦は準決勝で敗れ、ここはというところで勝てませんでした。そこは残念です」と控えめに評価した。

 5歳のころ、祖父と父に囲碁を教わった。一つのことに熱中するタイプで、囲碁に向いていた。近所の碁会所に6歳のころに通うようになり、小学3年生で
関西棋院の院生になった。「碁会所とは違って強い人ばかり」。1年目は級位が上がらず苦労した。学校に行く前に棋譜並べをし、学校が終わると
大阪市内の関西棋院囲碁学園(現・こども囲碁道場)に通い、勉強を重ねた。「友達と遊ぶのは年に数回だけ。それでも囲碁をやめたいと思ったことは
なかったです」努力が実り、小学6年生だった平成14年11月、11歳10カ月でプロ入りした。当時、趙治勲(ちょう・ちくん)名誉名人の11歳9カ月に次ぐ
2番目の若さだった。ただ、プロに入ってしばらくは結果が出なかった。両親から禁止されていたテレビゲームを買い、友達と遊ぶようになり、
勉強時間が減ってしまった。

 転機があった。15歳のころ、故・藤沢秀行名誉棋聖が神奈川県で実施した合宿に参加したのだ。そこで、戦わずに石を捨て、逃げるような打ち方を、
藤沢名誉棋聖に厳しくとがめられた。「逃げる姿勢はよくない。戦闘力をつけろ」この叱責は、まだ囲碁への考え方が定まっていなかった少年に、新たな
考え方をひらかせた。その後、藤沢名誉棋聖の全集(棋譜)を手に入れ、熱心に研究した。
 多くの囲碁棋士と同じように高校には進学せず、囲碁に専念した。朝から夕方まで研究会に参加し、帰宅してからも勉強した。「10代後半からは
人と差をつけるため、ストイックに勉強した」と自負する。結果もついてきた。

 これまでタイトル戦に4回登場し、26年に初タイトルの王座を獲得した。タイトル戦の相手は全て、日本棋院関西総本部所属の井山裕太十段(29)
=5冠=だ。1つ年上の井山十段とは小学2年生のころに知り合った。アマチュアの大会で活躍し、すでに有名だった井山十段に声をかけ、
碁を打ってもらった。石を4つ置くハンデ戦となった。当時、通っていた碁会所では「天才」と呼ばれていただけに、「4子は衝撃でした。それに、
井山さんは子供なのに、オーラもあった」と振り返った。プロになったのは同じ平成14年。その後も同じ研究会で囲碁を勉強するなど交流が続いた。
井山十段は17年、16歳で史上最年少の棋戦優勝を果たし、21年には20歳で史上最年少名人となるなど活躍。いつも一歩先を行く。
「井山さんは子供のころから実力者。ライバルだったわけではないですが、意識していました。1つ年上なので、次の年には自分もそれぐらいの活躍を
しなければと」

 26年の王座戦で井山十段からタイトルを奪取。だが、翌年の王座戦、28年の碁聖戦、30年の十段戦でいずれも退けられた。今月31日、
第57期十段戦で、井山十段への挑戦権を懸けた挑戦者決定戦で高尾紳路(しんじ)九段(42)と対戦する。
「タイトル戦は棋士にとって夢の舞台。ぜひ勝って井山さんと打ちたい」。(中島高幸)

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