隅の曲がり4目無条件死への不満 [無断転載禁止]©2ch.net
囲碁ってその気になれば終局させずに打ち続けることもできるけど
碁をよく知る二人でやれば無駄を省略して終局できるところが美しいと思うんです
けどそれはお互いが認識を共有できてるからこそであって
もしもどちらかが隅の曲がり4目をセキだと言い張るのなら
ちゃんと取りきって納得させなきゃ
どちらも眼が無くて囲碁の原理上セキだってのは正しいと思う
死ぬ側が「これは死でいいょ」って言ったら死になると思う
けどそもそもコウダテ潰したら取れるって
それはヨセの一部なんじゃないの
盤面次第じゃセキのほうが得ってケースすらありそうだし
無条件死はそもそもずるいし棋道としてもルールとしても美しくない
外人に聞かれたら恥ずかしくて説明できない >>13
《相手の石の死を証明するための手入れは整地計算における減算根拠にはならない》
これも誤謬だ。
ここでの>>12の「手入れが必要」という発言の真意を読み解くならば、それは
「手を入れて解消するまではそもそも死石とはいえないのではないか。」
という意味に他ならないだろう。
石が死んでいなければ、手入れもへったくれもない。
よって、「地はそう数える慣習となっている」というような答えでは、
「曲がり四目は無条件死という慣習となっている」と答えるのと同じであって循環論法に陥っている。
でもどういうわけかプロですら知ってか知らずか、この誤謬を説明に利用する棋士は多いように思える。
手入れの要・不要は、死活論を確立した上に始めて語られるものだ。
あるいは、手入れ問題を語ることこそが、死活論を語ることだと言える。
書き始めに如仏の判決や秀哉の裁定に触れたことからも明らかなように、
死活論が変われば手入れ=地の数え方も変わるわけである。
そうであるならば、前述の理由によって、
手入れ―というよりも、実戦解決により解消しなければセキであると主張することは十分可能なはずだ。
とはいえ、実戦解決というのにしても、それは劫ダテさえ無くせば認められるのか、
あるいはハマまで損して劫を仕掛けなければならないのか、これまた個人の価値観にも依りかねない微妙な問題だ。
>>27
日本の囲碁の成り立ちとして純碁を持ち出して説明するのは間違ってはいないし、それで納得できる人もいるだろう。
とはいえ、やはり純碁は所詮別のルールのゲームだ。
純碁を持ち出すならば、セキが併存するケースや、あるいは切賃についても語らねばなるまい。
やはりどこまでいってもこれの正確な説明は、部分死活論を抜きにしては、論理的根拠を与えることは極めて困難だと言わざるをえない。 とはいえ、部分死活論(ようするに現行規約の「死活確認の際における同一の劫での取り返しは…」等の取り決め)が
囲碁のルールとして合理的で正しい在り方なのか、というと、これまた多方面から賛否両論がある。
この事実を先入観を振り払って真正面から捉えるならば、それらの意見はまさしく、
日本の囲碁における曲がり四目は本当に無条件死なのか?という問いそのものではないだろうか。 >>5,86,119,139,65,102,70,38,14,28,24,6,134,75,46,132,109,67,24,26,85,62,48,77,135,115,14,86,78,10,102,83,95,70,72,10,22
>>47,36,19,71,42,2,145,88,134,104,4,8,130,88,70,27,15,54,141,29,139,69,38,91,2,132,11,73,142,32,63,39,67,82,109,108,83
>>45,67,57,49,74,37,137,143,63,1,47,54,29,35,123,67,126,124,49,136,46,40,18,109,78,84,40,36,42,123,140,87,39,46,136,112
>>122,105,145,123,1,49,2,36,21,68,11,144,116,147,39,5,14,147,83,98,37,118,140,9,107,76,47,3,62,9,85,33,113,80,6,114,128
>>149,148,74,10,142,39,6,30,44,20,27,126,117,63,94,106,72,51,32,118,53,93,127,138,126,90,68,131,53,45,137,52,43,61,61
>>100,67,64,143,87,90,118,54,3,62,9,74,112,41,42,15,134,19,2,110,108,70,90,11,115,77,62,7,138,123,41,87,40,105,79,126
>>47,29,47,108,38,121,69,79,13,83,62,31,85,22,139,4,112,149,119,39,61,126,26,33,16,112,73,121,41,49,15,87,77,62,45 >>15
直接的な記述がないのは「曲がり四目」の形を言葉で定義するのが困難だからであって、
事実上は、今の囲碁規約の複雑で不自然な条文の大半は曲がり四目を特別扱いするためのものに思えるがね。
だいいち、一般的な死活説明であればわざわざルールを参照する必要などないだろう。
規約のどこを見たって五目ナカデや花六が死である理由については一々書かれていないのだからな。
つまり、死活判定において囲碁の基本ルールとは別の特別なルールを迫られる時点で既に例外だという証明だ。
《一般的な石の死活に関する規約に隅の曲がり4目を当てはめると無条件死になるだけ》
という一文は甚だナンセンスである。
皮肉を言えばいっそのこと「曲がり四目は無条件死」と一行で単刀直入に明記してくれた方がずっとわかりやすいと思える。
というのも、↓で取り上げられているとおり、死活例17を規約に沿って解決しようとすると、
規約の説明とは違った結果になってしまう問題も指摘されている。
http://blog.livedoor.jp/genkuroki/archives/53658582.html
やはり、日本の囲碁において曲がり四目の死活は一筋縄ではいかない問題である。
そもそも本来であれば死活判定というのは、対局者同士の棋力に委ねた合意もしくは
実戦解決のみに任せるのが理想的であって、外野が裁定を下すのは口出しと同義のはずだ。
たとえば、
http://igo.main.jp/jp-rule-mon1989.html
(3) 地に関連する意外な判定
(5)囲碁の常識からすれば、意外な判定結果が多くある。
これらの地を0目として扱うのは妥当なのかどうか?
死活をルールで定めるということは、このような問題にまで波及してしまうことになる。
そんなわけで、「曲がり四目無条件死はルールに基づいた決まりだ」と主張している者が、
もしも終局時のダメ詰めについては省略して整地計算しているようなことがあるとするなら、
ダメを有する石はゼロ目だと言い返して勝負をひっくり返してやろうではないか。 強調しておきたいのは、曲がり四目が通常ケースで実戦解決が不要となっているロジックは、
セキ併存のような特殊ケースで死となるロジックと、まったく同じってこと。
しかしどういうわけか、通常ケースは納得できるけど特殊ケースは納得できないって奇妙な人が多いんだが
その原因は>>11や>>13のようなありがちな詭弁に振り回されて、>>14のように騙されてしまう人間が後をたたないからだろう。
その挙句、騙された人間が今度は指導する立場に入れ替わって同様の弁を振るっているとするなら、何とも嘆かわしい限りだ。
>>11や>>13のような説明は、初心者になんとなく理解した気になってもらうには受けがいいんだろうけど、
よくよく考えてみれば、一方の権利だけ誇張した独善的な解釈だったり、
答えになっているのか怪しい無意味な論法だったりは、>>33、>>34で説明したとおりだ。 >>1の素朴な疑問――通常ケースでの「劫立てが存在するうちは取りにいけない」は、
実は、特殊ケースでの「消せない劫立てがあるから取りにいけない」という推察とまったく同質な正しい類推であり、
これを捻じ曲げてはならない。
逆に言うと、一般ケースを無条件死と納得するからには、その論理は部分死活論抜きにはありえない。
ならばその時点において、どんなケースであれ無条件死であることにはもはや何ら疑問の余地はあるまい。
なぜこのような話しをするかというと、多くの棋士や腕自慢の高段者というのは、
初心者や納得できない人に対して洗脳するかの如く強引な論理で無条件死という価値観を押し付けており、
時には理解していない者を>>3や>>26のように馬鹿にさえする風潮が実に不愉快だからである。
部分死活論は純碁に合わせるためだという説明が多いが、あれは決して無条件死というわけではなくて
あくまで実戦解決の末の得失点の結果が無条件死と同じになるだけだ。
だから、一律に無条件死となってしまう部分死活論では、
特殊ケースの場合に結果が異なってしまうのは当然である。
だいたい、秀哉の判定(劫立てが強ければ相手にパスを強要して得できる)、
セキの地、一方ダメの扱い、そして切り賃に至るまでみな異なっているのだから、
純碁に合わせるためだという言い訳もやはり苦しい詭弁に思える。
合わせるというのであれば、得点という結果ではなくて、
実戦解決という決着の方法を合わせるやり方だって十分にあるはずだ。
ようするにこの問題は、得点の計算法やコミや切り賃といったものと同様に、
単なるルールの違いとして捉えられるべきであり、あるいは一人一人の考え方の差なのであって、
どちらも平等に認め合うべきなのである。 「実戦解決の末の結果だ」というと、普通の死石についても同じ解釈ができてしまうかもしれない。
それでは、さらに補足を付け加えておこう。
曲がり四目が手入れ不要であることを説明する上で、
「盤上の石は取り切るまでは死石じゃないぞ!」
といった屁理屈に例えられるのはよくあるパターンだが、これについて真面目に考察する。
ただしここで注意しておきたいのは、石数を計算する純碁の発想は決して持ち出さないことである。
さて、もしそのような不届者が実際に現れたならば、同じことをやり返してやればいいのだ。
相手陣に着手した瞬間に呼吸点が2つ以上残る石は、取り上げるのに2手以上かかるので必ず得になる。
呼吸点が1つの場合は損得なしだ。
そしてこれを突き詰めてルール化すると、着手禁止点である1目の眼以外は地ではないことになる。
しかし、そのようなルールが理不尽であることは、この不届者もすぐに理解できるであろう。
あるいは、そのルールで地とハマを数える碁を打ちたいと思う人はおそらく皆無である。
よって、上記の屁理屈に対する反論は、石数を計算する純碁の発想を持ち出さなくともできるのである。
ところが、曲がり四目はそうではない。
これが無条件死であることに疑問を抱いている人は、
逆の立場であればきちんと実戦解決してくれるに違いないし、
地とハマを数えるルールであってもそのことについて何ら不満は感じないはずだ。
そんな人に対して、あれやこれやと強弁したり別のゲームの話しを持ち出してまて考えを矯正させるのは
はたして道義的に正しいことなのだろうか?
これが、この両者の問題の根本的な違いだ 昔からの慣習を正当化しようとしたら、えらいややこしくなってしまった、ということ
あくまで、昔からの慣習を正当化しただけなので、それが正しいとか間違いだとかではない コンピュータスレを消滅させ、
囲碁のルールスレをメチャクチャにした、
頭のおかしい人が移住してきちゃった >>43
あんたバカ?その人は別人だよ
頭がおかしいというのなら是非反論を頼む
そしてそれこそが曲がり四目を上手く説明するためのヒントになるだろう
ルールスレで純碁を持ち出して切り賃なしに文句を付けている奴を迷惑だと感じている人は多いだろうが、
実は、曲がり四目の場合にはそれとまったく同じことを皆がしているんだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 頭おかしいという人は別人だと言いながら頭おかしいというのなら反論どうぞって意味が分からない
別人なんだから頭おかしいと言われたのは自分じゃないだろ
誰も読まない長文が頭おかしいと言われた訳じゃないのになぜそこに噛み付くんだ
別人だから勘違いだ、で済むのに馬鹿とか反論求めるとか
別人だとしてもやってることは煽り荒らしと変わらない