>>13
《相手の石の死を証明するための手入れは整地計算における減算根拠にはならない》
これも誤謬だ。
ここでの>>12の「手入れが必要」という発言の真意を読み解くならば、それは
「手を入れて解消するまではそもそも死石とはいえないのではないか。」
という意味に他ならないだろう。
石が死んでいなければ、手入れもへったくれもない。
よって、「地はそう数える慣習となっている」というような答えでは、
「曲がり四目は無条件死という慣習となっている」と答えるのと同じであって循環論法に陥っている。
でもどういうわけかプロですら知ってか知らずか、この誤謬を説明に利用する棋士は多いように思える。

手入れの要・不要は、死活論を確立した上に始めて語られるものだ。
あるいは、手入れ問題を語ることこそが、死活論を語ることだと言える。
書き始めに如仏の判決や秀哉の裁定に触れたことからも明らかなように、
死活論が変われば手入れ=地の数え方も変わるわけである。

そうであるならば、前述の理由によって、
手入れ―というよりも、実戦解決により解消しなければセキであると主張することは十分可能なはずだ。
とはいえ、実戦解決というのにしても、それは劫ダテさえ無くせば認められるのか、
あるいはハマまで損して劫を仕掛けなければならないのか、これまた個人の価値観にも依りかねない微妙な問題だ。


>>27
日本の囲碁の成り立ちとして純碁を持ち出して説明するのは間違ってはいないし、それで納得できる人もいるだろう。
とはいえ、やはり純碁は所詮別のルールのゲームだ。
純碁を持ち出すならば、セキが併存するケースや、あるいは切賃についても語らねばなるまい。


やはりどこまでいってもこれの正確な説明は、部分死活論を抜きにしては、論理的根拠を与えることは極めて困難だと言わざるをえない。