呉清源総合
呉清源と藤沢里菜の二人の写真があったぞ。これは貴重だな。藤沢秀行と呉清源の写真もあった。 >>387
facebookの英語版日本棋院のページで見れるやで。藤沢秀行と呉清源が一緒に中国にいって北京で写真とったやつがあったやで。 https://m.facebook.com/photo.php?fbid=502607929795439&id=286261298096771&set=a.502607906462108.1073741848.286261298096771&refid=13
これが藤沢里菜と呉清源の写真
里菜ちゃんは記録係だったらしい
スマホからだからPC見れないかも >>367
やはり奥さんに先立たれてからかな。>>162 >>325
森繁久彌が死んだとき、「ああ、人は必ず死ぬんだな」って思った。 今月号のNHKの囲碁講座に載ってたが、趙治勲は夏ごろに呉清源のサインをもらいにいったそうだ。
長年サインが欲しかったそうだが、ようやくもらえたらしい。
そして数時間、一緒に棋譜並べをやったそうだ。
チクン先生間に合ってよかったな。 スーパーレッスンで万波さんを真奈美さんって呼んでたのが記憶にある たまにスレがageってくると、あぁ、ついに…と思ってきたが
今度こそ本当に逝ったのか…
でも俺としては10年前の加藤正夫の急逝のほうが衝撃が大きかったな
あのとき亡くならず、いまも生きていたらNHK杯に出続けるほど
活躍してたんじゃないだろうか 加藤正夫は実績と人徳を兼ね備えた稀有な人だったからな 神は大いなる遺産を残してくれたが
加藤さんは日本囲碁界においてまだまだこれからの人だったな 全盛期の呉清源を連れてきて井山と打たせたらそりゃ井山が勝つんじゃない?
今の環境で勉強してたらとか言い出したらキリがないけど
そうじゃないと碁が何も進歩していない事になる >>394
本当に良かったなあ。俺も呉清源先生に一目会いたかったが、
チクンさんがこうして会いに行けたと聞いて、もうそれでいいと思ったよ。 安永一の名が出てこない
彼ぬきでは呉清源師を語れないはずなんだけどね
もう完全に過去の人なんだな >>407
安永一って中国流の考案者ってだけしか知らないな >>410
藤沢秀行と呉清源が北京にいった時の写真があったぞ。 >>410,411
いい写真ですな。
ご冥福をお祈りします。 パートの仕事から帰ってきた。
今知った。うわーん!(`;ω;´)
昨日、以文会友の古本が届いたんだよね。 濡れ子さんは翻訳家になるの?
濡れ子さんはおいくつなの? ご冥福をお祈りします。
打込十番碁全集を買ったばかりでした。
生涯をかけて勉強させていただきます。 呉清源先生は約二年間碁石をまったく持たなかった時期が
あるそうなんですよね。自伝に書いてあった。
宇太郎先生との打ち込み十番碁でその二年間から復帰した。
ジウで共同生活を送りながら打たれた打ち込み十番碁が
結構あるんだよね。考えられんわー。 >>419
性は40代後半ですよ。確か依田と同い年。
なんとかネットワーク技術者として再就職して無事に定年を
迎えたいね。その時が来たら、自給自足分だけ農業をやりながら
技術文書の翻訳をしたいね。それが今の夢ですね。
ちょっと豆腐とモヤシを食べてきます。 Ahhh. レジェンドという言葉がふさわしい人だったな。
棋院は何か称号を贈るかな。名誉名人でもいいと思う。 モヤシ食べてきた。
名人戦発足の企画段階で呉清源先生を初代名人にして
呉清源先生に挑戦者が挑戦するという案があったんだよね。
でも、呉清源先生のマネージャーさんはその案を強烈に
プッシュせず、日本棋院側の渉外をやっていた秀行が
ちゃっかり自分が初代名人になってしまったんだよね。
呉清源先生はこの件を自伝で少し残念そうに書いているよ。
呉清源先生は名人になりたかったんだよね。そしてそれは
当然だよ。 九段というのは本来は名人を意味したし、八段は
準名人を意味した。
大手合ので成績で九段になったばかりの藤沢庫之助(朋斎)と
呉清源先生との第一人者の座を争う十番碁で呉清源先生が
朋斎を打ち込んだ時点で呉清源先生は事実上の名人なんだよね。
そもそも、呉清源先生が騙されて?ご本人が知らないうちに
日本棋院に辞表を出され読売新聞の専属棋士にされて
いなかったら、呉清源先生が大手合をきちんと打っていたら、
朋斎が九段になれていたかどうか怪しい。 呉清源先生の打ち込み十番碁の対局料はジコウソンの
ポケットに入ってしまったんだよね。
打ち込み十番碁の対局日程やらなにやらは、読売は
ジコウソンと交渉していたんだよね。 そもそも、呉清源先生は囲碁殿堂入りしたの?
間に合わなかったんではないのかな?
呉清源先生は、過去に囲碁殿堂入りを『未だ修行中
だから』と言い訳して辞退しているんだよね。
でも、性の仲介で過去を水に流して今年は殿堂入りしてくれる
予定だったんだよ。 (´;ω;`) 呉清源先生は読売新聞社に食われてしまった。
読売が呉清源先生にやったこと:
呉清源先生を読売専属棋士にするために瀬越先生を
騙して瀬越先生に呉清源先生ご本人に無断で日本棋院の
退職届を出させ瀬越先生を自殺させた。
ジコウソンと共同で呉清源先生を搾取した。対局料の
一部であった読売山荘は呉清源先生に名義を書き換えた
のかね?
呉清源先生の日本棋院への復帰をサポートせず引退を
勧めた。年金月に200円だっけ?(今ではタバコ一箱すら
買えんわー。)呉清源中心の棋戦を発足するという約束は
反故にされた。
呉清源先生が中国からチンソトク少年とジョウエイヘイ少年と
あと一人預かろうとした時に呉清源先生はなぜか読売に
相談に行ったのだけど、呉清源先生を門前払いした。
棋院が呉清源先生に贈る称号は『名誉名人』よりも
『大国手』がいいと思う。 >>425
藤沢朋斎は九段に昇段したあとも大手合いに参加してもう一回昇段規定を満たしてる
そもそも九段に昇段する人間が出現することが想定されてなかったから
それくらい当時の日本棋院では抜けた存在だった 棋士とかのTwitter、軽く触れただけで後はふだんどおりな奴かハナから触れもしない奴しかいない
やっぱTwitterってクソだと改めて感じた >>371 棋譜並べは簡単に言うけど時間もかかるし苦痛やぞ。
スポーツでいうグラウンド十周した後腕立てスクワット腹筋千回に相当 1961年に交通事故に遭って長時間の正座手合いは苦しかったんでしょうね。 「呉清源 極みの棋譜」の主演のチャン・チェンが
すぐにブログで追悼コメントをアップしてて泣けた。 >>402 おそらく全盛期の呉清源先生。呉先生は、過去100年間でおそらく最強の棋士。
呉先生は、満天下先相先に打ち込んだし、怒涛のごとく新布石や新城跡を開発した。
主たるタイトルが本因坊しかなかった時代、本因坊になると、ご褒美として呉清源先生に打ってもらえる、という、
訳の分からない別格の強さと扱い。
今でも棋聖戦で頂上決戦している二人のところに、呉清源先生が見学に見えると、対局終了すぐにその二人が
呉清源先生のところに挨拶に行って正座して呉先生から囲碁のお話を緊張して伺うという関係。
とにかく呉先生は、別格。とにかくずば抜け。すごいという言葉では到底言い表すことのできない凄さ。
布石だって昭和8年開発の新布石は期界の布石を一変させたし、
21世紀の布石でも、目外し対策とか二軒手抜きとか小目に大ゲイマかかりとか、
言われて初めて気がつくコロンブスの卵なエッセンスの塊。
定石は、ナダレ外曲がりを開発して一斉に真似された。すると今度はその対抗策としてまた呉先生が今度は
ナダレ内曲りを開発。とにかく、すごいとしかいいようがない。
呉清源先生のお陰で、布石も定石も格段に進歩した。
しかも無双の強さで新聞碁が人気を得て、読売新聞の売上なんか三倍増になった。
新聞碁が人気になったんで、三大タイトルも定着して期界全体もリッチになった。
その財源があったんで、囲碁の世界普及活動も活発化した。
碁の内容の向上から碁の普及の土台作りに至るまで、あらゆる方面で囲碁界に貢献したのが呉清源先生。
神様としか言いようがない。マジ生き神様。
そんな神様と、たかが人間の井山と比較するほうが失礼千万。
そもそも今回は、100歳を記念して神様が仏様に衣替えしただけ。
呉清源先生は死なない。永久に死なない。囲碁の歴史とともに永遠の足あとが刻まれている。 日中戦争中も日本にいたのだから、大変な迫害を受けているはず。
打ち込み十番碁は中国人対日本人の見せ物でもあったよね。
集団ストーカー被害者なのに苦しみながらあれだけの成績と
実績を残したのだから、驚くばかりだよ。
性も集団ストーカー被害者だから、よくわかるんだよ。
棋士である以前に一人の人間として尊敬できるひとであった。(´;ω;`) (`・ω・´)ピコーン!
二代目中川亀三郎がいたのだから、二代目呉清源がいても
おかしくない。
海峰さんが二代目を襲名して翌日にウに三代目を
継がせるのがよかろう。 日本囲碁なんて8割超のチョン系に1割中華系、日本人愛好家なんて1割もいないよ 北京で生まれて日本で生涯を過ごして
ソウクンゲンと兄弟弟子で台湾で大国手もらったりしてるから
みんな孫みたいなもんだろ 清源が生まれたのは福建省の福州というところ
ただすぐに父の事業の関係で北京に引っ越したが 川端の呉清源棋話読んでるけど細かいことみんな忘れてるなw 朝鮮日報が訃報を伝えた記事で川端との対談本にも言及しているね
読売新聞の記事なんかよりもはるかに深い内容で、今の囲碁界の状況を物語っている
呉清源氏はほかの学問にも造詣が深かった。ノーベル文学賞受賞者の川端康成氏との対談集に次のような記述がある。「囲碁は古代中国
の哲学である360の陰陽、つまり天文学から出た可能性がある」「儒教の易は運命の知恵であり、道教は魂を重視する。私の性格は道教の方
により近い」…。川端氏は本の中で「あれほど純潔な芸術家は見たことがない。彼は東洋精神の精髄」と書いた。
呉清源氏はまた、「囲碁は調和なり」という有名な言葉を残した。1940年代に「囲碁の全ての着点は調和に向かって進む航海の過程」とした。
「勢いと速度」という現代囲碁の二本柱は呉清源氏の新布石と調和の概念によって完成されたものだ。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141202-00001624-chosun-kr 当時は坂田栄男より遙かに格上だった藤沢朋斎が
なぜあんなに何回も十番碁を打ってずたぼろになっていったのか不思議に思ってたけど
もっと昔はそんなに珍しいことでもなかったのかな
上の書き込みの2代目中川亀三郎(石井千治)は田村保寿との十番碁を5回もやって
全部打ち込まれて向先から先二にまでなってさらに2連敗してる >>450
めちゃくちゃ強いやつにおもいっきりぶつかっちゃうと、自信をなくしてその影響で感覚が変になっちゃうという現象は
古今東西、よく見られる。
たとえば、数十年前、当時若手最強女流だった宮崎志摩子が中国に
武者修行に行ったまではいいけど、ボロボロになって帰ってきて、その後鳴かず飛ばずになったりとか、
小林覚が棋聖戦で趙治勲と対戦して趙治勲の悪手を使いこなす強さに衝撃を受けて、
対抗しようと踏み込む棋風に変えたところまではいいけど、その棋風に自分が振り回されて
変調になって沈んで行ったりとか。。。。。そういうことはママある。
特に宮崎の場合不運だったのは、当時の中国は日本と同等か腕力では日本よりすでに強い状況だったにも関わらず、
そういう事前情報がほとんど日本に届いていな買った時期で、おまけに当時宮崎は腕力自慢で鳴らしていたから、
実際以上に自分自身を弱いと感じてしまったんだろう。
ただ、藤沢朋斎に関して言うと、痴呆症を発生させた可能性がある。その後どんどん病状悪化していったから。
なにしろ女流棋士に教えてあげる勉強会を始めたのに、その会合で女流にどんどん負けちゃうようになっちゃって、
それに気がついた女流がみんな遠慮して朋斎先生と打たなくなっちゃったとか、そんなエピソードも晩年にはあったくらいだから。 橋本昌二も晩年は悲惨だったな。
読みに読む棋風はボケちゃうのかね。 川端康成は呉清源先生に片思いをしていたんですよね。
どちらかが十二貫(45kg)を越えたら越えた方が
食事をご馳走するという案を川端氏が伊古奈ホテルで
呉清源先生に一方的に提案した。
戦後に呉清源先生の体重は十二貫を超えたけど、呉清源先生は
その約束をすっかり忘れていた。
川端氏はよく覚えていて『私にご馳走しなきゃダメじゃないか』と
呉清源先生に怒ったのです。 >>452 結局、弱いんだよね。突き詰めるとそういうことにすぎない。 >>453
チェスで85歳くらいになっても世界のトップ20に入っていた人が
いたような気がするけど、読みに読んで戦いまくるスタイルだったと
聞いております。
ちょっと集計と英語の勉強をしてくるよ。今日はパートの仕事は
休みだから、このスレにチョロチョロ顔を出すかも。 そもそも一高時代から川端氏の趣味は囲碁だったんでそ?
文壇本因坊だった時期もあったような。
呉清源先生にメッサ憧れていたんだろうなぁ。俺の呉清源みたいに
独占したかったのであろう。 >>452
帰国後のおとなしさはなかやまきんに君みたいだった
きっと性的な何かがあったのだろう 呉清源先生が秀哉に打ってもらったのは全部で
6局でよろしいのかね??? 性にとっては呉清源先生の碁って呉清源少年の
碁なんだよね。 今50だが、あと20年も生きればもう十分と思ってる。
あと50年の寿命を与えますといわれたら途方にくれそう。 あと20年でいいんなら、今すぐ死んでもあんまり悔いなさそうだな。
囲碁の強さは寿命と何か関係あるのかもしれない。
生命力が強いほど粘り強いとか。 >>452
朋斎がぼけ老人みたいになったのは最晩年だろ
十番碁を打ったのは30代半ばだ
60近く?までは直接対戦した治勲に舌を巻かせるくらい強かったらしいぞ
(最後逆転負けしちゃうんだけど)
大学囲碁部に教えに来て強豪にいっぱい石を置かせてボコボコにしてたりとかも聞く チクンと秀芳は呉清源先生に嫌われていたの???
呉清源先生の回想録には大竹さんや加藤さんや武宮さんや
光一は出てくるけど、チクンと秀芳は出てこないよね? NHK「囲碁講座」での先生のお姿が忘れられないな。
本当にお疲れ様でした。 少なくともチクンは嫌われて無いはず
タイトル戦を見に来ていた呉先生に、序盤が良くないといわれ、
勉強するのに家に誘われたとか
行かなかったことで、勉強の機会を失い、現在活躍出来て無いんじゃないかって
自分でトークしてたね >>464
>大学囲碁部に教えに来て強豪にいっぱい石を置かせてボコボコにしてたり
超一流のプロが本気を出せば、藤沢朋斎でなくても、他の人でもできる。
実際、千葉大学(?)の囲碁の合宿に指導者として泊まり込んだプロ棋士が
現地で囲碁部の学生から酒の接待を受け、べろんべろんで気持ちよくなり、
趣向として全員に星目を置かせて多面打をしたはいいんだが、全員をぼっこぼこにしてしまったらしい。
現場にはアマの高段者もたくさんいたはずなんだが。。。
ようするに超一流のプロってのは、誰にかぎらずそれ自身がそもそも別次元なんだろうと思うよ。 藤沢朋斎って十番碁のあと泣かず飛ばずだと思い込んでたけど結構タイトル取ってるんだな 千葉大学囲碁部がザコとしか思えん話でかわいそうだね。 >>470-471
プロがアマと打つときは、通常指導碁になる。
アマ側は真剣本気の勝負のつもりだけど、プロ側は酷い手は打たないんだと。
アマ側がちゃんと教科書のセオリー通りに打ってきたら、自然な形で勝ちを譲るんだそうだ。
つまりアマが負けるのは勝手に自分ですっ転んで負けるってこと。
ところが酔っ払っちゃうと、プロ側はその自制が効かなくなっちゃって、本気モードになる。
プロの本気モードは深くて広くてエグい。アマチュア碁会所6段が井目おいても本気の超一流のプロには勝てない。
ちなみに上記の千葉大の話は、若い時代の趙治勲の話。
趙治勲を語った本のどこかに書いてあった。 KGSの高段者でも置かせ碁をこなすのが上手い人いるよね
そういうことじゃね 秀哉は酒はとても弱かったんだけど、好きだった。
嫌いだったのかもしれないけど、碁界の棟梁の
立場上、酒はよく飲んだ。
泥酔している秀哉に安永一がコミ30目もらって
打ってもらい、きっちり32目負かされて驚いた
みたいな話があるよ。 藤沢朋斎はとくに置かせ碁が強い棋士って話題になってたから書いたんだけど
「他の棋士でも出来る」って趙治勲出されてもなあ
依田は「若い頃はアマ高段に8子置かせて勝てたけど、今は4子がせいぜい」ってかいてた ああ、治勲か。
治勲にはできるかもしれんが他の人ができるかどうかはまた別な気がする。 呉清源先生に嫌われていた疑いがある秀芳は
下手殺し。
「林さんのどこが強いんですか?」なんてやったのが
まずかったのではないか? 治勲は小川誠子相手に2子じゃ相手にならない、4子でも勝ちそうだからな。
大手合時代とは言え6段まで言ってるし女流のタイトルも取ってるから弱い男プロより強いくらい。
千葉大囲碁部はまあアマ5段くらいとして星目で勝っても全然おかしくないし、負けても恥でもない。 コミなしの白番も置かせ碁みたいなもんだよね。
呉先生が白番で勝てたのは、無理手を打ちまくってるのに相手に咎められていないからで、現代では通用しない、と治勲さんが本に書いてた。 チクビは多面打ちは得意じゃん。
百面打ちとかやったような。 ×「現代では通用しない」
○「コミ碁向きではなかった」
しかも、その本でたの35年前だろ そういえば治勲は藤沢朋斎について
「皆さんが思ってるより遙かに強かったのです」って書いてたな
「読みに全面的に依拠してる碁なので年を取るとともにうまくいかなくなった」そうだが 決して勝率の良くないうえに批判まで食らう真似碁を続けた真意やいかに >>479
治勲は呉に仮託して自分の碁を語っているのだと思う。
自分の碁も無理手だらけだって。