本因坊秀哉(田村保寿)を語る
>>222
だが、それがいい。
>>223
さすが。
秀哉が秀栄未亡人の生活の面倒を見るようになって、
秀栄未亡人は雁金の応援をしなくなったんだよね…。 67歳ぐらいで当時の若手ナンバー2にコミなしの白番で好勝負って凄すぎませんか?
いまの林海峯さんや大竹さんが井山か山下に白番でコミなしで打てとかいったらいじめに近い
>>224
水谷順策ね。水谷琢順と混同しそうだ…。 >>224
本因坊家に残ってたらもっと早くに発狂して死んでたよ
井上家でいじめられて発狂したんじゃないの?
節山には集団ストーカー被害者の行動パターンが
あるように思える。 今日は祝日ですね。小生は祝日にはひろゆきさんに感謝することに
しています。我々がここで社会悪を叩いたり未解決事件の捜査に
協力できるのは、集団ストーカーに悩みながら2ちゃんを維持している
ひろゆきさんのおかげです。今はチーママですが、ひろゆきさん、ありがとう。
/ , ´ ` 、 ヽ
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`Y |ハ, | ー''´  ̄ヽ `´ | .| | ヽ `ヽ
http://www.youtube.com/watch?v=r4rmOFOWDXc&feature=related
>>219-230
小生は、丈和の妻の勢子さんが秀甫(弥吉)を嫌った理由は
秀徹が跡目になれなかった件に原因があったと思う。かわいさ
あまって憎さ百倍みたいな感じじゃないの?小生は、秀甫
(弥吉)は勢子にも可愛がられていたと見ます。
貧乏人弥吉は、本因坊道場に住み込んで修行したから、
秀徹にもずいぶん可愛がられたのではなかろうか?
秀甫(弥吉)は勢子には嫌われたけど、秀徹の弟の
亀三郎は方円社で秀甫の右腕になったよね。
勢子は秀甫(弥吉)を秀徹派と見ていたんジャマイカ?
弥吉は秀和の子飼いで、岸本左一郎が故郷に帰った
後は弥吉が秀和道場の塾頭になっている。 団鬼六さんが亡くなられた。
落日の譜は未完のままか・・・
雁金先生は死してなお不遇なのか・・・
秀哉は節山因碩のファンではなくて丈和のファンだったんじゃないのかな?
節山因碩は丈和の長男だし、秀哉は丈和の再来と呼ばれる事を許していた
みたいだし。
どうなの?
川端康成の名人に秀哉は丈和の再来と書いてあったような。
秀哉の白番について情報きぼんぬ。
絶品とか何かに書いてあったけど、
どこがどう絶品なのかわからん。
秀栄の白番との違いはどうなの?
秀哉は最初は方円社に入門したから、秀甫の弟子だったんだよね。
秀哉は11歳の時(明治17年)に方円社に入門して、12歳(明治18年)で
住み込みになっているね。方円社寄宿という身分になっている。
秀哉は12歳(明治18年)の時に母を亡くしている。
当時の方円社の師範は、当時五段の高橋杵三郎。高橋は方円社に
起居していた。当時の方円社の塾頭秀哉よりも5歳年長の石井千治。
秀甫は小川町の自宅から朝早く塾生を起こしに来て、碁を打って
やっていた。明治19年に秀甫が急死した。秀哉は三年ほど秀甫の
教えを受けた。約二年間は、秀甫に親しく接した。
秀哉の父である田村保永(たむらやすなが)は、旧旗本であった。
保永は、維新の時に彰義隊に参加した。保永は維新後は、内務省の
下級官吏として働いた。
小生は田村家は貧しかったと見る。保永が教育熱心だったというのは、
後の秀哉の証言であると思われるから信頼性が低い。下級官吏で
あったのだから、収入も少なかったと推測します。(坂田先生の父も、
坂田先生の証言によればよい父親に思えるけれど、やった事だけを
見れば、坂田少年に賭け碁を打たせて稼いでいたオヤジです。)
>>248
×: 当時の方円社の塾頭秀哉よりも5歳年長の石井千治。
○: 当時の方円社の塾頭は、秀哉よりも5歳年長の石井千治。
秀哉は、明治7年6月24日に芝桜田町(現在の芝虎の門)で
生まれた。やがて、田村家は神田猿楽町に移った。同じ町内に
小野塚という素人碁打ちが経営する碁席があった。
子供を碁打ちにしたいという保永の話を聞いて、小野塚は、
自分の所などではなく方円社で本式の修行をさせた方が
いいと勧めた。秀哉の入門時には、方円社は神田表神保町
二番地にあった。
ちなみに、後に方円社五代目社長となる広瀬平次郎(贈八段)の
妻の仲子(二段)は、小野塚の娘である。
秀哉は、なんと、方円社では正式の級位を受けていないし
免状も貰っていない。
当時の秀哉の実力は初段格または二段格である。免状代が
工面できなかったという説もある。金銭的な事情があったと
推測される。
明治17年には黒田俊節や水谷縫次が亡くなった。明治19年には、
御大村瀬秀甫が亡くなった。明治17年から明治19年にかけて
方円社創設期の重要人物の多くが亡くなって、方円社は台所が
苦しくなった。
明治22年に方円社は神田表神保町の会館を売り払い、日本橋通り
二丁目の山本茶舗(山本山)近くの小さな家を借りて移った。
この時、住み込みの塾生は住み込みできなくなった。秀哉は、
中川亀三郎(丈和の実子)の家に預けられた。亀三郎の家は
浅草にあった。
秀哉と丈和を結ぶ線にやっと気が付いた。秀哉は丈和の三男の
家で暮らしたんだ…。秀哉は丈和の長男の節山因碩の打碁の
解説本を後に出版しているね…。
秀哉が亀三郎の家に何年間やっかいになったのか不明だね。
情報きぼんぬ。
明治22年(秀哉は16歳) 中川亀三郎の家に預けられる
明治24年(秀哉は18歳) 父を亡くし、秀哉は孤児となった
明治24年(秀哉は19歳) 小林鉄次郎との二子局を最後に方円社を飛び出した
明治26年 方円社が神田錦町に新会館を建築
秀哉は、明治23年に岩村通俊(農商務次官)の家に書生として預けられているね。
碁はやめていない。秀哉は亀三郎の家には1年くらいしかいなかったんだな。
明治22年(秀哉は16歳) 中川亀三郎の家に預けられる
明治23年(秀哉は17歳) 岩村通俊(農商務次官)の家に預けられる
明治24年(秀哉は18歳) 父を亡くし、秀哉は孤児となった
明治24年(秀哉は19歳) 小林鉄次郎との二子局を最後に方円社を飛び出した
明治26年 方円社が神田錦町に新会館を建築
秀哉は方円社を単身で飛び出したんじゃない。悪友の
村瀬彪(秀甫の養子)と一緒に飛び出した。
村瀬彪(秀甫の養子)は方円社に住んでいたけれど、
碁はダメで、第一銀行の銀行員だった。
山本山の当時の主人の山本嘉兵衛は大の囲碁ファンで
方円社の人たちと付き合っていた。
秀哉は彪と飛び出して食い詰めて、山本山の主人に
碁の本を売ったり、方円社に置いてある自分の布団や
箪笥や少しの荷物を質に入れるために方円社に取りに
戻ったりして、以前の知り合いの周りをうろちょろしたんだよね。
塾生達はよってたかって秀哉に荷物に手を付けさせなかった
とか、小林鉄次郎の妻が泣いて引き止めたとかいう話しが
ある。でも、奥にいた小林鉄次郎は止めなかったらしい。
(この話のソースは秀哉の証言である。)
小林鉄次郎との間に何があったのか?鉄次郎は、
錦四郎因碩の後を継ぐと見られていた人だけれど、
碁は超一流ではなかったらしい。でも、温厚な実務家として
方円社を支え続けた。カネにまつわるトラブルがあったのか?
秀哉は、鉄次郎を馬鹿にするような態度をとったのか???
以下は「趙治勲傑作選2 頂上に立つ」 p.61から
----------------------------------------------------------------
話が変わるが、昔の名人といわれる人たちのなかで、プロは秀栄名人を
ひじょうに高く評価する。その反面力戦型の秀哉名人の評価が驚くほど
低い。秀栄は力を表に出さず、太刀筋よく軽いフットワークと大局観で
勝つが、秀哉は最初から抜き身の力戦で戦い抜くタイプ。趙は秀哉の評
価が不当に低いのに抵抗を感じる、同じように評価すべきだと、いつか
いっていた。碁は大向こうをうならせる見せ場ばかりで出来ていない。
大部分が泥臭いヨミの地味な場面で出来ているとすれば、秀哉のような
力戦型はもっと評価されていいと、趙は思うのである。
治勲、さすがだな。
秀哉は秀栄に先だったんだから、秀栄に近い棋力。
小生は、秀哉は秀栄にわざと負けていたと思うね。 巣鴨の秀哉の墓の敷地内にある土屋(家)ってだれのこと?
本因坊の菩提寺は、三世の道悦までは没後京都の寂光寺。
(小生の記憶によれば、誰かが彼らのお墓を江戸に移した
ような…。)
四世道策から二十一世秀哉までは巣鴨の本妙寺が
菩提寺である。ただし、実は、明治42年までは、歴代の
本因坊のお墓は本郷丸山の感応院(本妙寺の分院)に
あったのです。
明治42年に、区画整理に伴い、彼らのお墓は巣鴨の
本妙寺に移されているんだよ。で、秀栄(土屋平次郎)が
亡くなったのは明治40年である。秀哉は、明治41年に
第二十一世本因坊になっている。彼らのお墓を巣鴨の
本妙寺移したのは秀哉と思われる。彼らのお墓は
標準サイズ?少し小ぶり?
秀哉のお墓を建てたのは秀哉じゃないと思うよ。
新聞社なのか大倉財閥なのか弟子達なのか
わからないけど、秀哉以外の人が秀哉のお墓を
大きなお墓にしたんじゃないの? >>258
>小生は、秀哉は秀栄にわざと負けていたと思うね。
秀栄にわざと負けるほどの者が、雁金に負けそうになり持碁を持ちかけるか?
そういえばさ、戦争の頃には必要以上に大きな
お墓を建てる風潮があったんじゃないかな?
戦死者のお墓でマジかよと言いたくなるような
大きなお墓があるよね。 >>258
プロの間での「先」は大差
チョウチクンはどんだけタイトルとっても道策、秀栄、ゴセイゲンより自分の評価が低いから彼らを叩き、貶めることで自己満足を得てる。
林道義がチョウチクンの幼児性について語ってたが彼の異常なまでの道策、秀栄、ゴセイゲンコンプレックスを見ると納得できる
>>265
呉清源 - 坂田栄男 - 趙治勲
治勲は歴史に残る棋士だよ。 >>266
つまらんオタク議論繰り返すより棋譜並べでも何でもしてちょっとでも強くなること考えろよ
武道板にもたまにいるけど自分の技術磨かずに誰が強いだの弱いだのの議論繰り返すしかしないオタクが一番嫌いなんだよ。
秀哉が好きなら好きでいいから全集でも何でも並べてちょっとはこっちの書き込み控えろ
趙治勲がどれだけ呉清源を評価してるかも知らないうえに、
他人の評価を鵜呑みにして適当なこと書いてる人が、
「自分の技術磨かずに」云々とかw あほ
>他人の評価を鵜呑みにして適当なこと書いてる人が、
俺がいつ他人の評価鵜呑みにした書き込みした?
俺はチョウチクンがゴセイゲンの悪口言ってることしか知らんが、仮にチョウチクンがゴセイゲンを評価してるとして
>趙治勲がどれだけ呉清源を評価してるかも知らないうえに、
こんな誰が誰をどの程度評価しているとかいう知識溜め込むよりは一局でも多く棋譜並べ、詰め碁するわ。
最も最近はまた武術に戻って腕立て、四股の生活の繰り返しだがな
お前も「ある棋士がある棋士をどう評価した」とかつまらん薀蓄話よりもっと有意義なことに時間使えよ >>265 >>268
趙治勲の呉清源評としては「地と模様を超えるもの」という本が
面白かったな。うろ覚えだが、
「十番碁で他を圧していた頃の呉先生の碁を調べると、呉先生の
無理手が通ってしまっていることがままある。実は呉先生は世間
で思われている程強い棋士ではないのかもしれない」
みたいなことが書いてあった。 チクンは性格的に自分が一番じゃないと気が済まないのかもね
確かに碁の強さは相当のものだが、道策・秀策・呉清源・チャンホらのように
革命的な偉業を達成したわけではないから一段評価が落ちるのだろう
せいぜい韓国に囲碁ブームをもたらしたくらいか >>265
>林道義がチョウチクンの幼児性について語ってたが
これ興味あるな
どこで読めるの? 趙治勲が呉清源を並べまくった話は有名じゃないのかな。
だから>>270のような評もでてくるし、公に言えもするわけで。
うちの親父も影響されて、全集を買ってたぞw
解説会で趙治勲がでてくると、それだけで客席が熱くなる。
みんなニコニコする。
こんなに愛されている棋士が他にいるだろうかと思う。
特定の世代にとってのこととは思うが、
趙治勲あってこその部分が日本の囲碁界にはあると思う。 >>267
お言葉ですが、このスレに投稿する人は数名しかいないとオモワレ…。
スレが落ちちゃうじゃん。
小生は趣味でネットワークの勉強をしていて、棋譜並べをする時間が
ないのです。
チェスのチェックメイト問題は毎日2問ほど解いています。簡単な詰碁も
週に1問くらいは解かなきゃいけないと思っております。
治勲は若い頃に平凡社の呉清源全集をぼろぼろになるまで
並べているよ。確か初タイトルをとった頃には、呉清源全集を
並べるのが4回目だったとか何かに書いてあったよ。確か、
講談社の現代花形棋士の趙治勲の巻だと思う。
林道義ってアマチュアじゃん。アマ六段の大学の先生でしょう?
この人、能書きはなかなかだけど、プロの心理を分析とかは
おこがましいな。
能書きだって、相場さんとか林裕さんの方が上だと思うよ。
てゆーか、上じゃん。 >>276
心理学が専門の学者だからおこがましいということはないと思うけど
>>277
新書版のエッセイみたいな本の中で棋士の心理分析しているから、
読んで味噌。こじつけとかエセ科学だと小生は思ったね。 戦いの効率争いである、と明確に表現するとかっこ悪くなり
「地と模様を超えるもの」、と適当で曖昧な表現なら
意味不明であっても、かっこがいい。
かっこいい表現でないと、なかなか流布しない。
プロの心理とアマの心理と別にあるわけではない。
例外を多く知っている人ほど、恐怖心と用心が大きくなるだけ。
また、人間なんてたかが知れていて
道を意識して追及すると、誰でも同じ道を歩くことになる。
つまり、強欲で単純な生き物でしかない。 >>276
5級の実力もないお前ごときがぐだぐだぬかすなよ。
「小生」は完全に古碁関連スレの老害。
2ちゃんで薀蓄語ってる間にちょっとでも勉強繰り返してたら今頃お前も林さんぐらいにはなれたかもしらんのにそうやって他人の論評だけで人生の時間削っていくのな・・・ 秀栄と秀策を三周も並べた強者が小生さんに無駄に喧嘩を売るなんて・・・ >>282ちょっと笑ってしまったw
ネットは数日に一回見るぐらいだからたまにいじると結構集中して書き込みとかするのよ
これから武術ブログいじるとこw >>281
>2ちゃんで薀蓄語ってる間にちょっとでも勉強繰り返してたら
>今頃お前も林さんぐらいにはなれたかもしらんのにそうやって
>他人の論評だけで人生の時間削っていくのな・・・
うむ。仰る通りだね。小生は林さんが裏山歯科。
囲碁ワールドを古本で何冊か買った事があるんだけど、
『ザル碁の世界』という連載エッセイは面白かった。
吉田知子さんという人が書いているそうだけど、吉田さんは
侮れないよ。
>>282,283
むむむ。呉清源先生光臨か???
でも、呉清源先生は30周以上やっていそうだし…。
>>267
うむ。気持ちはわかるよ。そうか、小生は
ラビット関根みたいになっているんだね…。 >>284
私には「ザル碁の世界」はつまらなかった。 実際問題として秀栄と秀哉とどっちが強いの
お互いの全盛期での比較でお願い 名人秀哉「秀栄先生には今でも先相先には打たれるでしょう」
俺も秀栄持ち。もっとも秀哉でも現代に現れたらチャンホらと互角の勝負するだろうけどな。
結局トップ同士では髪の毛一本の差でそれが上のほうでは大きいともいえる
呉清源先生は日本に来てから半目だか1目くらいしか
強くなっていないとご自分で語った。要するに、来日
したばかりの呉清源先生と最強時代の呉清源先生との
棋力の差は半目だか1目くらいしかないんだよ。
その呉清源先生の先番を秀哉名人は負かしている。
秀哉の全集には明治の碁と大正の碁と昭和の碁が
収められている。コミ無しで時間無制限か持ち時間が
40時間とかでじっくり打たれた碁。各人の持ち時間が
3時間で打たれた碁よりも勉強になるはず。 関根金次郎と仲がよかったんだよね。一緒に旅行したり。
碁界では怖い人と思われてるけど、そういう人間的な部分も面白そうなんだな。
>>294
興味深い人物だよ。最近の人だから、資料も
たくさん残っている。
秀哉が書いた本も古本で買えるしね。 雁金スレはないのか。鬼六の小説の単行本化はどうなってるのだ。
秀哉は高部と中国行ったりもしてるよね。
あけおめ。
>>296-297 ほほぅ。そんなのがあるんだね。 秀栄の高潔さも惹かれるけど、秀哉の人間臭さも嫌いじゃないなあ
性は秀哉の古本を1冊買ったんだけど、
二十一世本因坊印と秀哉印が押されて
いて、マンモスラッキー。
どちらも拳骨くらいの大きさなんだよ。
坂田一代を100円で古本で買ったときも、
坂田先生のサイン本をゲットしたんだよね。
呉清源先生は飛び付き三段。
保寿は飛び付き四段だ。
秀哉を軽んじる人たちは、秀元や算英や亀三郎や
小林や健造や平次郎や岩佐をアマ扱いしている。
>田村保寿
『やすひさ』はおそらく戸籍名であろうと言われている。
高橋俊光八段(秀哉名人の義弟)が『昔、秀哉の事を
やっちゃんと呼ぶ人がいた』と語っているが、はっきりした事は
わからないんだよ。
『たむら ほうじゅ』と読むのが普通だよ。 一般に「やすひさ」と呼ばれてたらしいよ。
「たむら」と呼んでいた年長者も多かったらしいし。
「ほうじゅ」は後に一般化しただけだろう。 秀哉名人の実力はアマトップクラスだったライター安永一著「安永一 打碁と評論」に詳しかった。
安永一は二子では秀哉に勝った事はあるが先ではほぼ負けていたようだ。
また秀栄は時間を殆ど使わなかったのに対して秀哉は中盤から一手に8時間も長考して読み切ろうとしていた事をあげて
秀栄とは違うタイプの超人だと書いている。
安永先生は、坊門の元プロでしょう?
増淵先生は坂田少年を安永先生に預けて
行儀見習いさせている。坂田少年がぶん殴られた
話は有名。 安永が秀哉に先で勝てるはずがない。
二子でだってまぐれで勝てたのだろう。
名人に定先ならプロの七段でそ?
保寿は秀栄名人に定先だった。 プロの先生に安永一の棋譜見てもらったら序盤中盤はプロ高段並だと言ってた。
ただヨセと詰碁が下手だと。尤も安永一が学んだ本因坊系は一目勝ちを狙う方円社系とは違って
中押しを狙う棋風だったからそうなったとも書いていた。
ほほぅ。
性は、なんとなく、秀策は五目勝ちで秀栄は二目勝ちみたいな
印象があるな。
おめでとう。性も全巻持っているんだよ。大斜定石の上巻も持っているぜ。
名人指導碁を持っている人、情報きぼん。アマ相手の指導碁の棋譜が
大量に収録されているのかな???
このスレを覗いた人に情報をあげよう。
日本の古本屋で本因坊秀哉全集を検索して味噌。今、お買い得の
タマがたくさんあるよ。性が持っている秀哉全集は普及版です。
6巻セットで1万円以下の普及版を買う事を勧めます。5000円から
9000円の価格帯で8セットも売りに出てるじゃん。昭和56年と
書かれているのは普及版ですよ。
ttps://www.kosho.or.jp/top.do
名人指導碁は知らないが、名人指南碁は持ってる。和綴じの本で、六・七子局、四子局、
二・三子局、互先局の四冊。各巻大体二十局掲載。四子局までは秀哉による指導碁。
二子、三子は弟子とアマ。互先は初段位のの弟子同士の対局。二年ぐらい前に一通り
並べたんだが、評や注が多すぎず少なすぎずで良かった覚えがある。 >>321 情報ありがとう。超一流が少年の頃にたくさん置いた碁とか超一流が
たくさん置かせた碁の棋譜って貴重だよね。昔は三段差で一子置くから、
名人が新初段と打っても三子局にしかならない。秀行が亡くなったときに、囲碁・
オセロ板で、秀行(保少年)が秀哉に五子置かせてもらって中押し勝ちした入門碁が
紹介されていたなぁ。秀哉が坊門に入門した少年少女と打った入門碁は整理して拡散
しないといけないね。坂田少年だって打ってもらった筈だ。呉清源先生が秀哉に
打ってもらった入門碁は有名だけどね。
>>322 秀哉イズムには反するけれど、最近は打ち込んで小さく二目で生きる碁にも
興味があるんですよ。小さく生きるから性なんです。
秀策の碁がフンドシを外すと、そこには
秀哉の碁があるんだよね。逆もしかり。