本因坊秀哉(田村保寿)を語る
>>142 秀和じゃなく、秀栄だろう?
>>143 やばい。142はチクンと同じ感覚か!
>>144 全集の一巻に、算英(俊哲の豚児)に撲殺されている棋譜があるけれど、
秀哉は始めから戦う碁だったと、むしろすがすがしい。相撲に例えれば、
突き押しで横綱になった保志か??? 秀哉が弱いのなら、雁金先生は
もっと弱いんじゃん。
秀哉の全集は、博文館から刊行されていたけれど戦争で中断したんだよね。秀哉会
(弟子の団体?)は諦めずねばり強く活動を続け、最終的には活字になった棋譜の
ほぼ全てを日本棋院から1980年代?に出版したんだよね。しかも、全6巻で各巻が
2800円で! 収録されている棋譜は、750を超える。当時の棋院の理事長は、IQが
180を上回る酒井猛だった。棋道振興のために、秀哉全集のリプリントを強く
望みます。だって、強いじゃん。 >>143
秀栄より評価してるんじゃなくて、
秀栄より一段低く見るのはおかしいといってただけだと思う。 秀栄に定先だった秀哉は、ハンデ的には半目置かれていたという事でしょう?
三手の詰碁もろくに解けない小生ですが、秀哉は緩めていたと思うのです。
秀策は『師匠に黒を持たすわけにはいきません』とか言ったような。秀甫は
気にせず師匠に黒を持たせた? 秀哉は緩めて嫌われた?
詰碁をやりこまないと検証できないなぁ…。 ほとんどの棋士を師匠と同じぐらいまで打ち込んでいたって本当? 秀哉のどこが弱いのか具体的に指摘して欲しいね。
布石が下手なのか?でも、布石に機略ありと秀栄に言われている。
中盤の戦いがダメなのか?丈和のように鮮やかに一本入れられないのか?
寄せが下手なのか?寄せを軽視した力だけの碁なのか?それで名人になれるのか?
筋や形が悪いのか?秀哉の棋譜を並べると形が悪くなり弱くなるのか?
(`・ω・´) どうなんですか!? >>147
秀哉が「緩めた」?それはないでしょう。
死の直前の秀栄にキツい詰問状を送るほどの秀哉の性格からして
それは考えられない。 ただ秀栄との最後の2番勝負はちょっとあやしいところがある
最初は持碁1局をでっち上げようとしたんだけど上手く作れなかったんで
2番勝負にして1勝1敗の打ち分けにするつもりだった。
でも秀栄の2勝になっちゃって話が違う、と秀哉が竹朝に愚痴ってた (`・ω・´) >>151 秀栄が実力No.1の田村を跡目に据えず、跡目を決めないまま
亡くなりそうだったから四段で本因坊を継がざるを得なかった
とてもつらい思いをした秀元に仲介して貰った。何が秀栄を
そこまで意固地にしたか納得できない。『保寿がカネに
汚かった』などという理由はこじつけに過ぎないよ。秀哉は
棋院に様々な権利を寄付していないかな?秀哉全集が激安
だったのは、そのおかげではないのかな?
(`・ω・´) >>152 適当な事を…。『一〇〇万人の詰碁』の呉清源の巻で王立誠が
段位で三段の実力差がないと打ち込めないと言っているよ。
秀栄は秀哉を打ち込めなかったけど、秀哉は秀栄以外の人を
ことごとく蹴散らしているじゃん。小生は秀栄に人格の問題が
あったと思いますよ。この件はプロなら誰でも知っているけれど
語る事ができないタブーなのか???強い人が検証すべきだし、
明治の碁はもっと語られるべき。巌崎健三は漢じゃないか???
それとも俊哲算知殺しなのか???小生は10級の詰碁も
解けません…。 >>150
布石に機略ありっていらんことすんなみたいなニュアンスらしいけどね
別に秀哉の布石が悪いわけじゃなくて秀栄は誰に対しても辛口なんだけど >>153
151の者ですが、俺は秀哉が秀栄に対して「緩めたか否か」を書いただけですよ。
>>153は>>151に対する「反論」なんですか?
何が言いたいのかさっぱりわかりません。 巌崎健三ではなく、巌崎健造だろう? おまいは明治の碁を知らないな…。
健造は俊哲算知の弟子で、俊哲算知の実子の安井算英が子供の頃に健造は
殴っているんだよ…。田村と同じ位の悪人だ。健造は方円社の社長も
やっている。明治期の安井門の最強者じゃないかな?長い間、田村の
ライバルだったんだよ。
俊哲算知は上手七段に昇ったけれど、手合割りは六段のままだった。
御城碁の出場回数は史上二位で、秀策の出場回数(19回?)を
遙かに上回る。前座時代の大仁田みたいな感じで、やられ役を
コツコツと勤めたのかな?雲孤さんは易しい詰碁も解けない癖に、
秀哉の碁は俊哲算知の碁に似ているとか妄想をぶっこいているよね。
田村が千葉のお寺でブラブラしていた頃、誰の碁を研究したのか
誰か知らないかね? >>153
秀哉は雁金を打ち込んでたか?蹴散らしてたか?
秀哉を擁護するあまりズレた事を書いている人がいるねえ。 棋正社はプロの段位が甘いじゃん…。棋正社がアマに発行した段位も甘かったと思うよ。
台所が苦しかったのかな?棋正社の免状が物置から出てきたら、宝物だよね…。
雁金先生の当時の段位は雁金先生(棋正社)が主張していた段位だから、田村との
対戦成績で検証すべき。雁金先生は田村に大きく負け越しているような印象があるよ。
名人は十段扱いだから、そこから雁金先生の実力を検証すべき。現在は、雁金先生は
名誉回復して日本棋院の贈九段だったかな???
ところで! このスレを見ている人たちの中に日本政治史を研究している学者がいたら、
院社対抗戦(大正大争碁)を日本政治史の視点から分析して岩波から出版してよ。
岩波新書は、何年かに1回は囲碁の本を出してもいい。既に、『囲碁の世界』と
秀行の自伝を出してるよね。他にもあるかな?レドモンドに自伝を書いてもらい、
ジュニア新書に入れるべきだよね。
雁金先生は貧乏人で、若い頃に伊藤博文の家で住み込みの書生をしていたんだよね。
その縁で、伊藤博文は雁金先生を終生かわいがったらしい。一方、田村はおじさんが
国会議員なんだよね…。田村も、碁を捨てて車引きだかバッタ屋だかをやった時期が
あって苦労しているけどね。
大正大争碁は、雁金先生のタニマチ(長州閥?)と田村のタニマチ(新興の大倉財閥?)との
代理戦争だと雲孤さんが妄想をぶっこいていて事実のように語るから、誰か検証してよ。 >>156
お城碁の出場回数一位は、本因坊察元(名人碁所)の弟子で本因坊道策(名人碁所)の
師匠である本因坊道悦の師匠である本因坊烈元。これ、豆知識ね。
君ら、碁の歴史をこれっぽっちも知らない。明治の碁はもっと語られるべき。 >>156
×: 本因坊道策(名人碁所)の師匠である本因坊道悦の師匠である本因坊烈元。
○: 本因坊丈和(名人碁所)の師匠である本因坊元丈の師匠である本因坊烈元。
おまいは碁の歴史をこれっぽっちも知らないな。 >雁金先生は田村に大きく負け越しているような印象があるよ。
手合が先なのだが。
>名人は十段扱いだから、
???
>現在は、雁金先生は名誉回復して
???
>岩波新書は、何年かに1回は囲碁の本を出してもいい。
岩波現代文庫でなら「実録囲碁講談」「囲碁の民話学」「呉清源とその兄弟」
座隠談叢は歴史書と言えるレベルではないからなあ。今で言えば別冊宝島みたいなもん。 その代わり昭和囲碁風雲録だしたけど。
歴史書なら、日本囲碁大系の林裕解説部分を一冊にまとめるとよいかも。 林さんも座隠談叢を引用しているでしょう?竜騎兵は、談叢を現代語に書き直した
ダイジェスト版みたいな本を出した事がある。
座隠談叢は易しい文語で書かれているけれど、文語は文語。今となっては、
岩波文庫でなければ収録できないよ。紀伝体的な書き方で、個人ごとの
エピソードがゴマンと収録されています。そして、君らの想像を遙かに
上回る数の棋譜が収録されている。記憶で書くけど、200くらい棋譜が
納められていないかな? 持っている人、情報の補足をタノンマス。
座隠談叢は文化的に非常に重要で、読み物としても大変面白いよ。
歴史書か否かなんて小さい問題。黄帯か緑帯で岩波文庫に入れたい。
みんなも小生の意見に賛同して、あちこちで座隠談叢をプッシュしてね。 >>149
俺が2ちゃんで始めて立てたスレだ、それ。
懐かしい。
>>167
そのスレにはもう書き込めないから、ここに投稿しちゃおう。
↓
弥吉は車坂下の本因坊道場の隣に住んでいた大工の子。
車坂下の本因坊道場って、上野公園にある碁会所の
ところにあったの???
秀哉名人曰く「打碁1000局並べれば初段になれる」だそうですので秀哉名人と丈和名人の打碁を並べて初段になるよ。 昔の初段は今でいう県代表クラス。
1000局並べればそれくらいは普通にいけると思う。
1000局って口で言うほど簡単じゃないし。
俺なら道策の153局を全部暗譜するとかにするかも(もし努力するならの話だけど)
道策の碁って、わかりにくくない?小生の棋力が10級以下だから
理解できないだけかな?
道策と丈和と秀哉では、棋風の直線度は 秀哉>丈和>道策 だと
思うのです。強い人の意見を聞きたいな。
ちんぷんかんぷんでもいいじゃん。棋譜並べは絵の
模写みたいな行為だと思えばいいじゃん。
秀哉の棋譜を並べるのは、秀策の棋譜を並べるよりも
楽しいんだよね。
石田芳男(本因坊秀芳)は『遺恨試合』という本に
「初心者が丈和の棋譜並べをするのはおぬぬめ
できない」と書いていたような記憶があります。
小生は今はもう碁はやっていないけど、過去に
棋譜並べはちょこちょこやっていたよ。学生時代に
テレビを持っていなかったからね。小生は四十代
半ばのオサンだけど、自分で買ったテレビは1台
だけ。過去に3台のテレビを所有したけど、2台は
貰ったテレビでした。
本当は低段くらいになったって良く分かってないのは同じなんだけどね
強くなりたくて、秀策の棋譜を少し並べたけど、
地味でよくわからなくて、つらかった。自分が
弱くて、感心することができないの。当時、
秀策全集の第一巻を古本屋で1500円くらいで
ゲットして持っていた。古本で四巻本を全て
揃えたよ。
秀哉全集の第二巻を新刊でゲットしてからは、
田村保寿の碁を並べていた。ほぼ毎月1冊
購入して、第一巻以外は全部揃えた。当時、
既に第一巻は品切れで買えなかった。最近、
古本で第一巻を1500円くらいでゲットして全て
揃えたよ。田村の碁は、もちろんわからないけど、
小生のフィーリングにマッチした。俊哲算知の
碁に似てると感じた。軽やかさが無くて無骨で
芋っぽいとオモタ。だが、それがいい。
図書館の日本囲碁体系?もちょこちょこ並べた。
算知の碁には何も感じなくて何も覚えていないけど、
道碩の碁は面白かった。初心者でもわかる急所を
直接ビシビシ攻撃し、水面下の戦いで初心者には
わからないけど相手の石が死んでいたり捕獲されて
いるのではなくて、詰碁みたいな感じで盤上で殺して
いたような記憶があります。
丈和や幻庵の碁はよくわからなかった。でも、丈和の
スタイルを身に付けたいと思った。
日本囲碁体系?の元丈の巻は全て並べたような
気がする。元丈の碁は攻めのスタンダードだと
オモタ。知得の碁をどう感じたか忘れた。
×: 算知の碁には何も感じなくて何も覚えていないけど、
○: 算砂の碁には何も感じなくて何も覚えていないけど、
小生は、TMネットワークもWinkもテレビで見たことが
ないんだよね。で、当時、警備員のバイトをした時、
日系ブラジル人ではないかと疑われ、ブラジルの話を
されたり、サザエさんの家族や東海道新幹線の駅名を
何度も質問された。 丈和と幻庵は死ぬか生きるかの殺しあいみたいなのばっかりだから
読めないし分からないけど何か凄い感じはするように思う
>>184
凄い感じはするよね。盤面が石で埋まってしまうし。
幻庵は四哲の一人なのに、なんか評価が低杉。
丈和がいなければ幻庵が名人になっていただろうから、
幻庵は歴代井上因碩で棋力No.1かもしれん。名人因碩と
同じくらい強いのであろう。
入段年齢:
秀策 10歳
趙治勲 11歳
幻庵因碩 12歳 若く入段できるのは、周りが弱いからと思う。
韓国だと、強くても年齢制限ギリギリだったりする人多いよな。 >>183「小生」さん、あなた時々出てくるね。
なんか古碁に詳しいみたいだけど。
ちなみに棋力はどれくらい?
棋力は十級程度でした。いまはもっと弱いと
思います。
能書きは初段あるかも。 そうですか・・・
いや、10級の人は古碁を語ってはいけないというルールはないので・・・
まあ、頑張ってください。
10級あれば、生涯碁を楽しめるんだYO!
能書きは二段あるかもしれん。
>>184
秀哉対雁金戦も激しい戦いじゃない?雁金時間切れの局は、
対局後に秀哉は入院したんじゃなかった?記憶違い???
雁金は、元々は秀甫の方円社のエースでしょう?秀甫が
亡くなった後、秀栄は方円社を潰すために雁金を坊門に
引き抜いたんだよね?我らが田村(秀哉)の方が強いのに
秀栄が雁金を跡目に立てようとしたのは、雁金引き抜きの
件で、秀栄と雁金の間に密約があったと小生は見ますね。
雁金先生は田村の弟弟子として本因坊秀哉の
右腕になっていたら、秀哉が亡くなってから
頼られたんじゃない?
雁金先生の未来を奪ったのは、実は秀栄じゃない?
雁金先生には人間的な弱さがあったと思う。
そう言えば、秀哉名人も方円社から坊門に
移ったんだよね。秀哉名人は、方円社から
いびり出されたんだよね。
秀哉名人の引退碁は双方の持ち時間40時間で
行われた。相手の木谷実七段の消費時間は
34時間19分だった。秀哉名人の消費時間は
持ち時間の半分にも満たない19時間57分だった。
木谷実七段は、川端康成の『名人』では
大竹七段という名前にされている。なお、
この引退碁に起用された時点では、木谷師には
大竹英雄先生はまだ入門していない。
秀哉名人は引退碁を打った時には既に病に
冒されていた。健康を取り戻すことなく、
引退碁の翌年に亡くなった。秀哉名人が
持ち時間を使い切っていないのは、健康状態と
関係があったと思う。
秀哉名人も木谷実先生も、趣味は将棋だった。
川端康成の『名人』によれば、木谷先生は秀哉名人の家で
内弟子をした時期があったらしい。で、病気をして秀哉名人の
奥さんには世話になったらしい。
木谷先生が秀哉名人の引退碁で正当な言い分であれこれごねて、
対局放棄を何度も言い出したのは、秀哉名人に勝つ事に対する
恐れがあったのだと思う。
秀哉名人は、晩年の30年間は黒を持つ事がなかった。
また、秀哉名人が亡くなった時、八段の棋士はいなかった。
秀哉名人の晩年の10年に勝負碁が3回ある。1度目は
雁金先生との勝負碁で、秀哉名人は心臓を悪くした。
2度目は当時五段の呉清源先生との勝負碁だった。
前田が助言したとの流言があった対局である。3度目は
当時七段の木谷先生がお相手した引退碁で、その翌年、
秀哉名人は亡くなった。
秀甫と秀栄と秀哉を比較すると、秀甫は名人になっていないんだよね。
秀栄と秀哉は名人になった。
秀哉は弱かったのか???そんな事はあるまい。
秀哉に弱いイメージがあるのは、野沢竹朝のせいだよ。
秀哉には子供はいなかった。秀哉には弟がいた。
秀哉名人は、将棋でも麻雀でも連珠でもビリヤードでも
長考したらしいね。食事をしていても虚空をぼんやりと
見上げて脳内碁盤で局面を検討していたらしい。
加藤正夫先生みたいな人だったんだな。
秀哉名人には、婦人の妹が赤ん坊を見せに来て
隣の部屋で赤ん坊を泣かせていても内弟子達が
家の中で暴れていても気が付かない程の集中力が
あった。
滝の音がうるさいから止めろと言ったのは将棋の
ひふみんだけど、木谷先生も滝の音がうるさいと
言った事があるらしい。秀哉名人の引退碁の
途中で豪雨による水害があったらしい。対局が
行われた旅館の裏の川も大増水して岩も流れよ
といった勢いの激流になったらしい。その時、
秀哉名人は川がうるさいといったらしい。全盛期の
集中力は既になかったのであろう。 歴代名人
江戸時代
本因坊算砂
中村道碩
安井算知[名人算知] 名人碁所
本因坊道策 名人碁所
井上道節因碩[名人因碩] 名人碁所
本因坊道知 名人碁所
本因坊察元 名人碁所
本因坊丈和 名人碁所
明治以降
本因坊秀栄
本因坊秀哉
名人は、約340年間に10人しかいない。
秀哉や察元が弱かった筈ないじゃん。
田村と雁金の跡目争いは秀栄ばかりが悪いのでは
ないのかもしれない。
田村は本因坊秀元(土屋百三郎)や安井算英(俊哲算知の実子,
安井家10世,安井家最後の当主,いわゆる豚児)に可愛がられた。
算英には実子がなく、養女がいた。算英は保寿と養女を娶せて
保寿に安井家を継がそうとした事があり、保寿も乗り気だった。
いや、逆だったか?
算英の養女には好きな男性がいて、その男性は囲碁の関係者では
なかった。算英は結局はその結婚を許して安井家を絶えさせて
しまっている。保寿は安井家の当主に足る棋力人格見識があると
算英の眼鏡にかなったんだよね。
だが、この件で秀栄は田村は頼みにならないと考えたのかも
しれない。この件は、時系列の表を作って検証すべきかも
しれない。 秀和以降の土屋家による本因坊タライ回し劇場を思えば
本気で雁金に継がそうと思えば出来ただろ?
秀元が気に入らない。
こいつのせいで雁金先生が不遇の一生を過ごすことになった。 >>204
江戸時代と明治時代じゃ名人位の重みが違う
徳川幕府の威光あっての名人だからな
弱いとは言わないが、名人というだけで、察元と秀哉を同列同格とは見れないよ >>206-207
明治の碁はもっと語られなきゃいけないよね。
秀甫は勢子(丈和の未亡人)に嫌われて本因坊を
継げなかったけど、丈和の実子の中川亀三郎は
秀甫の右腕になって方円社を盛り上げたよね。
丈和の実子の中川亀三郎は方円社の二代目の
社長だし、方円社の三代目の社長の巌崎健造
(海老沢健造)は俊哲算知の弟子で俊哲の
実子の算英をポカリと殴った人物であり、俊哲が
沼津で亡くなった時に同行していた人物。方円社の
社長は、三代目からは中川亀三郎を代々襲名した
ような記憶があります。
>>208
棋力を比較すると 察元 > 秀哉 なの?
察元の棋力を10としたら、秀哉は幾つくらいなの?
秀哉は日本棋院を立ち上げたのだから、秀哉の業績は
大きいよね。若い時に語を離れた時期があったにせよ、
ほぼ碁一筋だったと思われる秀哉になぜこのような
手腕があったのか不思議なんですよ。
小生は、秀哉には知恵袋的存在がいたのだと推理します。
稲垣兼太郎(稲垣日省)は碁をやめて軍人になったり
役人になったり実業家になったりしてからまた碁に戻った。
小生は稲垣兼太郎が秀哉の知恵袋だったのではないかと
思うのです。
稲垣兼太郎は日本棋院の中部総本部を立ち上げたのかな? いや正力松太郎 とか大倉喜七郎とかが何かやったんじゃなかったっけ
俺が思うに日本棋院は棋士ではなくて経営能力のある人が経営すべきだと思う
そういえば、大倉財閥の大倉喜七郎がパトロンでしたね。
商社の大倉商事とかホテルニューオークラなどは
大倉財閥の企業。 鈴木為次郎や野沢竹朝に2子置かせて勝ってるあたり8段時代の秀哉は伊達じゃない
>>214
竹朝は元々は秀栄の弟子なんだよね。竹朝が評の評事件で
秀哉に破門された背景には、竹朝にお互い秀栄の弟子という
甘えがあったのかも。
田村と竹朝では、どちらが秀栄に入門した時期が早いのか
知らない。竹朝は性格に問題があったのだろうか???
そんな竹朝を秀哉は後に許しているんじゃなかった???
>鈴木為次郎
鈴木為次郎の棋力が上がって秀哉に先で打てそうになったら
秀哉は為次郎との対局を敬遠したみたいな噂がなかった?
為次郎ではなく、別の人だったかな?
木谷実先生には師匠が大勢いて、木谷先生は為次郎の
弟子でもあるのではなかった?その縁で、木谷先生は
為次郎の定石大辞典の監修者になっていたような?
木谷一門が定石大辞典を検証したのだろうか??? 定石の事典ってのは囲碁大辞典のことだよね
発行年は1933年で木谷実が24歳のころだから
木谷の弟子はまず関与してないだろう
改訂版が出たのは1960年だけど
当時大竹が18歳だからやっぱり厳しい
>>217
うほっ。嘘を書いてしまった???
でも、大竹先生は木谷先生の一番弟子ではないですよね?
大平先生とか加田先生も木谷先生の弟子だったような?
秀哉は誰の碁が好きだったんだろう?
秀哉本人は語っていないのかな? 井上秀徹
幻庵も全敗した秀策の黒に3連勝してる(全て完勝)。
細かい生涯や棋風は自分で調べてくれ。秀哉は彼の碁を詳細に解説してる >>220
ありがとう。感謝します。すごいね!
物知りだなぁ。 秀哉名人も強いけど、前の秀栄と後の呉先生と比べると一枚格が落ちるのは否めない… 秀栄の嫁のために秀栄全集を出版してその印税をプレゼントするなんて偉いと思う
>>220
井上秀徹って節山因碩の前名なのですね…。丈和の長男で発狂した人だ。
井上家に入らなければ発狂しなくて済んだと思う。
井上節山因碩(いのうえ せつざんいんせき、文政3年(1820年) - 安政3年(1856年))は、
江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の十二世井上因碩、六段。隠居後の号である
節山を付けて、井上家代々と区別する。井上幻庵因碩門下。本因坊丈和の長男で、
幼名は戸谷梅太郎、後に水谷琢順の養子となって水谷順策、次いで井上家跡目となって
井上秀徹を名乗る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/井上節山因碩
>>222
だが、それがいい。
>>223
さすが。
秀哉が秀栄未亡人の生活の面倒を見るようになって、
秀栄未亡人は雁金の応援をしなくなったんだよね…。 67歳ぐらいで当時の若手ナンバー2にコミなしの白番で好勝負って凄すぎませんか?
いまの林海峯さんや大竹さんが井山か山下に白番でコミなしで打てとかいったらいじめに近い
>>224
水谷順策ね。水谷琢順と混同しそうだ…。 >>224
本因坊家に残ってたらもっと早くに発狂して死んでたよ
井上家でいじめられて発狂したんじゃないの?
節山には集団ストーカー被害者の行動パターンが
あるように思える。 今日は祝日ですね。小生は祝日にはひろゆきさんに感謝することに
しています。我々がここで社会悪を叩いたり未解決事件の捜査に
協力できるのは、集団ストーカーに悩みながら2ちゃんを維持している
ひろゆきさんのおかげです。今はチーママですが、ひろゆきさん、ありがとう。
/ , ´ ` 、 ヽ
. / / \ ',
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\ / / .| i ヽ /
\ ./ ,/ / | | | | | |/
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|_|_l_| l__,l lj└──┘ー―‐'ー--ァ_ノ!
| l ,、_ __,,、 、____ _, / |
', <ヽ ` ̄ ̄´ ` ̄ ̄´ / j. ノ
ヽ //l i /lV/
| ハ |〉 / ,| |
| |`ヽ /ノ | |
| | \ -- ― ノ .| |
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| | / 、| / / ̄ `ヽヽ、`ヽ ! !
| | / / /-―‐‐、 ヽ.j ヽ.| |
__ __,| |/ /ー/ ,--、 \ヾヽ | |__ ,-―-、
`Y |ハ, | ー''´  ̄ヽ `´ | .| | ヽ `ヽ
http://www.youtube.com/watch?v=r4rmOFOWDXc&feature=related
>>219-230
小生は、丈和の妻の勢子さんが秀甫(弥吉)を嫌った理由は
秀徹が跡目になれなかった件に原因があったと思う。かわいさ
あまって憎さ百倍みたいな感じじゃないの?小生は、秀甫
(弥吉)は勢子にも可愛がられていたと見ます。
貧乏人弥吉は、本因坊道場に住み込んで修行したから、
秀徹にもずいぶん可愛がられたのではなかろうか?
秀甫(弥吉)は勢子には嫌われたけど、秀徹の弟の
亀三郎は方円社で秀甫の右腕になったよね。
勢子は秀甫(弥吉)を秀徹派と見ていたんジャマイカ?
弥吉は秀和の子飼いで、岸本左一郎が故郷に帰った
後は弥吉が秀和道場の塾頭になっている。 団鬼六さんが亡くなられた。
落日の譜は未完のままか・・・
雁金先生は死してなお不遇なのか・・・
秀哉は節山因碩のファンではなくて丈和のファンだったんじゃないのかな?
節山因碩は丈和の長男だし、秀哉は丈和の再来と呼ばれる事を許していた
みたいだし。
どうなの?