本因坊秀哉(田村保寿)を語る
世界に向け発信を続ける4chのPolitics板(http://4-ch.net/politics/ ) [Japan] Confrontation
between Jimintou and Minsyutouスレッドより。このうんこ臭い英語(のようなもの)から判断すると、
Kyoumo Unkoって引退に追い込まれた 雲孤さんじゃないかな???
↓
秀哉に弱いというイメージがあるのが非常に残念。野澤竹朝のせいだね。秀哉も時代の覇者だし、
反対者をことごとく打ち込んで本因坊を襲名し、名人にもなった。小生は、秀和に人間性の
問題があったと見ています。小生は碁が弱いので検証できないのだけれど、保寿が秀和に嫌われた
原因は、実は秀哉は秀和と打つ時には緩めていたのではないかと思うのです。どうなの?
秀哉はカネの亡者みたいに言われる事があるけれど、秀哉は秀和未亡人の生活の面倒も見ているじゃん。
そもそも、世襲名人は算砂・名人道碩・名人算知・道策・名人因碩(道策の実弟)・道知(道策の実子?)・
察元・丈和・秀栄・秀哉 の10人しかいない。秀哉が弱いわけないんだよね。坂田先生あたりが秀哉名人は
秀策より強いとか言ってくれるといいのだけれど…。
>>142 秀和じゃなく、秀栄だろう?
>>143 やばい。142はチクンと同じ感覚か!
>>144 全集の一巻に、算英(俊哲の豚児)に撲殺されている棋譜があるけれど、
秀哉は始めから戦う碁だったと、むしろすがすがしい。相撲に例えれば、
突き押しで横綱になった保志か??? 秀哉が弱いのなら、雁金先生は
もっと弱いんじゃん。
秀哉の全集は、博文館から刊行されていたけれど戦争で中断したんだよね。秀哉会
(弟子の団体?)は諦めずねばり強く活動を続け、最終的には活字になった棋譜の
ほぼ全てを日本棋院から1980年代?に出版したんだよね。しかも、全6巻で各巻が
2800円で! 収録されている棋譜は、750を超える。当時の棋院の理事長は、IQが
180を上回る酒井猛だった。棋道振興のために、秀哉全集のリプリントを強く
望みます。だって、強いじゃん。 >>143
秀栄より評価してるんじゃなくて、
秀栄より一段低く見るのはおかしいといってただけだと思う。 秀栄に定先だった秀哉は、ハンデ的には半目置かれていたという事でしょう?
三手の詰碁もろくに解けない小生ですが、秀哉は緩めていたと思うのです。
秀策は『師匠に黒を持たすわけにはいきません』とか言ったような。秀甫は
気にせず師匠に黒を持たせた? 秀哉は緩めて嫌われた?
詰碁をやりこまないと検証できないなぁ…。 ほとんどの棋士を師匠と同じぐらいまで打ち込んでいたって本当? 秀哉のどこが弱いのか具体的に指摘して欲しいね。
布石が下手なのか?でも、布石に機略ありと秀栄に言われている。
中盤の戦いがダメなのか?丈和のように鮮やかに一本入れられないのか?
寄せが下手なのか?寄せを軽視した力だけの碁なのか?それで名人になれるのか?
筋や形が悪いのか?秀哉の棋譜を並べると形が悪くなり弱くなるのか?
(`・ω・´) どうなんですか!? >>147
秀哉が「緩めた」?それはないでしょう。
死の直前の秀栄にキツい詰問状を送るほどの秀哉の性格からして
それは考えられない。 ただ秀栄との最後の2番勝負はちょっとあやしいところがある
最初は持碁1局をでっち上げようとしたんだけど上手く作れなかったんで
2番勝負にして1勝1敗の打ち分けにするつもりだった。
でも秀栄の2勝になっちゃって話が違う、と秀哉が竹朝に愚痴ってた (`・ω・´) >>151 秀栄が実力No.1の田村を跡目に据えず、跡目を決めないまま
亡くなりそうだったから四段で本因坊を継がざるを得なかった
とてもつらい思いをした秀元に仲介して貰った。何が秀栄を
そこまで意固地にしたか納得できない。『保寿がカネに
汚かった』などという理由はこじつけに過ぎないよ。秀哉は
棋院に様々な権利を寄付していないかな?秀哉全集が激安
だったのは、そのおかげではないのかな?
(`・ω・´) >>152 適当な事を…。『一〇〇万人の詰碁』の呉清源の巻で王立誠が
段位で三段の実力差がないと打ち込めないと言っているよ。
秀栄は秀哉を打ち込めなかったけど、秀哉は秀栄以外の人を
ことごとく蹴散らしているじゃん。小生は秀栄に人格の問題が
あったと思いますよ。この件はプロなら誰でも知っているけれど
語る事ができないタブーなのか???強い人が検証すべきだし、
明治の碁はもっと語られるべき。巌崎健三は漢じゃないか???
それとも俊哲算知殺しなのか???小生は10級の詰碁も
解けません…。 >>150
布石に機略ありっていらんことすんなみたいなニュアンスらしいけどね
別に秀哉の布石が悪いわけじゃなくて秀栄は誰に対しても辛口なんだけど >>153
151の者ですが、俺は秀哉が秀栄に対して「緩めたか否か」を書いただけですよ。
>>153は>>151に対する「反論」なんですか?
何が言いたいのかさっぱりわかりません。 巌崎健三ではなく、巌崎健造だろう? おまいは明治の碁を知らないな…。
健造は俊哲算知の弟子で、俊哲算知の実子の安井算英が子供の頃に健造は
殴っているんだよ…。田村と同じ位の悪人だ。健造は方円社の社長も
やっている。明治期の安井門の最強者じゃないかな?長い間、田村の
ライバルだったんだよ。
俊哲算知は上手七段に昇ったけれど、手合割りは六段のままだった。
御城碁の出場回数は史上二位で、秀策の出場回数(19回?)を
遙かに上回る。前座時代の大仁田みたいな感じで、やられ役を
コツコツと勤めたのかな?雲孤さんは易しい詰碁も解けない癖に、
秀哉の碁は俊哲算知の碁に似ているとか妄想をぶっこいているよね。
田村が千葉のお寺でブラブラしていた頃、誰の碁を研究したのか
誰か知らないかね? >>153
秀哉は雁金を打ち込んでたか?蹴散らしてたか?
秀哉を擁護するあまりズレた事を書いている人がいるねえ。 棋正社はプロの段位が甘いじゃん…。棋正社がアマに発行した段位も甘かったと思うよ。
台所が苦しかったのかな?棋正社の免状が物置から出てきたら、宝物だよね…。
雁金先生の当時の段位は雁金先生(棋正社)が主張していた段位だから、田村との
対戦成績で検証すべき。雁金先生は田村に大きく負け越しているような印象があるよ。
名人は十段扱いだから、そこから雁金先生の実力を検証すべき。現在は、雁金先生は
名誉回復して日本棋院の贈九段だったかな???
ところで! このスレを見ている人たちの中に日本政治史を研究している学者がいたら、
院社対抗戦(大正大争碁)を日本政治史の視点から分析して岩波から出版してよ。
岩波新書は、何年かに1回は囲碁の本を出してもいい。既に、『囲碁の世界』と
秀行の自伝を出してるよね。他にもあるかな?レドモンドに自伝を書いてもらい、
ジュニア新書に入れるべきだよね。
雁金先生は貧乏人で、若い頃に伊藤博文の家で住み込みの書生をしていたんだよね。
その縁で、伊藤博文は雁金先生を終生かわいがったらしい。一方、田村はおじさんが
国会議員なんだよね…。田村も、碁を捨てて車引きだかバッタ屋だかをやった時期が
あって苦労しているけどね。
大正大争碁は、雁金先生のタニマチ(長州閥?)と田村のタニマチ(新興の大倉財閥?)との
代理戦争だと雲孤さんが妄想をぶっこいていて事実のように語るから、誰か検証してよ。 >>156
お城碁の出場回数一位は、本因坊察元(名人碁所)の弟子で本因坊道策(名人碁所)の
師匠である本因坊道悦の師匠である本因坊烈元。これ、豆知識ね。
君ら、碁の歴史をこれっぽっちも知らない。明治の碁はもっと語られるべき。 >>156
×: 本因坊道策(名人碁所)の師匠である本因坊道悦の師匠である本因坊烈元。
○: 本因坊丈和(名人碁所)の師匠である本因坊元丈の師匠である本因坊烈元。
おまいは碁の歴史をこれっぽっちも知らないな。 >雁金先生は田村に大きく負け越しているような印象があるよ。
手合が先なのだが。
>名人は十段扱いだから、
???
>現在は、雁金先生は名誉回復して
???
>岩波新書は、何年かに1回は囲碁の本を出してもいい。
岩波現代文庫でなら「実録囲碁講談」「囲碁の民話学」「呉清源とその兄弟」
座隠談叢は歴史書と言えるレベルではないからなあ。今で言えば別冊宝島みたいなもん。 その代わり昭和囲碁風雲録だしたけど。
歴史書なら、日本囲碁大系の林裕解説部分を一冊にまとめるとよいかも。 林さんも座隠談叢を引用しているでしょう?竜騎兵は、談叢を現代語に書き直した
ダイジェスト版みたいな本を出した事がある。
座隠談叢は易しい文語で書かれているけれど、文語は文語。今となっては、
岩波文庫でなければ収録できないよ。紀伝体的な書き方で、個人ごとの
エピソードがゴマンと収録されています。そして、君らの想像を遙かに
上回る数の棋譜が収録されている。記憶で書くけど、200くらい棋譜が
納められていないかな? 持っている人、情報の補足をタノンマス。
座隠談叢は文化的に非常に重要で、読み物としても大変面白いよ。
歴史書か否かなんて小さい問題。黄帯か緑帯で岩波文庫に入れたい。
みんなも小生の意見に賛同して、あちこちで座隠談叢をプッシュしてね。 >>149
俺が2ちゃんで始めて立てたスレだ、それ。
懐かしい。
>>167
そのスレにはもう書き込めないから、ここに投稿しちゃおう。
↓
弥吉は車坂下の本因坊道場の隣に住んでいた大工の子。
車坂下の本因坊道場って、上野公園にある碁会所の
ところにあったの???
秀哉名人曰く「打碁1000局並べれば初段になれる」だそうですので秀哉名人と丈和名人の打碁を並べて初段になるよ。 昔の初段は今でいう県代表クラス。
1000局並べればそれくらいは普通にいけると思う。
1000局って口で言うほど簡単じゃないし。
俺なら道策の153局を全部暗譜するとかにするかも(もし努力するならの話だけど)
道策の碁って、わかりにくくない?小生の棋力が10級以下だから
理解できないだけかな?
道策と丈和と秀哉では、棋風の直線度は 秀哉>丈和>道策 だと
思うのです。強い人の意見を聞きたいな。
ちんぷんかんぷんでもいいじゃん。棋譜並べは絵の
模写みたいな行為だと思えばいいじゃん。
秀哉の棋譜を並べるのは、秀策の棋譜を並べるよりも
楽しいんだよね。
石田芳男(本因坊秀芳)は『遺恨試合』という本に
「初心者が丈和の棋譜並べをするのはおぬぬめ
できない」と書いていたような記憶があります。
小生は今はもう碁はやっていないけど、過去に
棋譜並べはちょこちょこやっていたよ。学生時代に
テレビを持っていなかったからね。小生は四十代
半ばのオサンだけど、自分で買ったテレビは1台
だけ。過去に3台のテレビを所有したけど、2台は
貰ったテレビでした。
本当は低段くらいになったって良く分かってないのは同じなんだけどね
強くなりたくて、秀策の棋譜を少し並べたけど、
地味でよくわからなくて、つらかった。自分が
弱くて、感心することができないの。当時、
秀策全集の第一巻を古本屋で1500円くらいで
ゲットして持っていた。古本で四巻本を全て
揃えたよ。
秀哉全集の第二巻を新刊でゲットしてからは、
田村保寿の碁を並べていた。ほぼ毎月1冊
購入して、第一巻以外は全部揃えた。当時、
既に第一巻は品切れで買えなかった。最近、
古本で第一巻を1500円くらいでゲットして全て
揃えたよ。田村の碁は、もちろんわからないけど、
小生のフィーリングにマッチした。俊哲算知の
碁に似てると感じた。軽やかさが無くて無骨で
芋っぽいとオモタ。だが、それがいい。
図書館の日本囲碁体系?もちょこちょこ並べた。
算知の碁には何も感じなくて何も覚えていないけど、
道碩の碁は面白かった。初心者でもわかる急所を
直接ビシビシ攻撃し、水面下の戦いで初心者には
わからないけど相手の石が死んでいたり捕獲されて
いるのではなくて、詰碁みたいな感じで盤上で殺して
いたような記憶があります。
丈和や幻庵の碁はよくわからなかった。でも、丈和の
スタイルを身に付けたいと思った。
日本囲碁体系?の元丈の巻は全て並べたような
気がする。元丈の碁は攻めのスタンダードだと
オモタ。知得の碁をどう感じたか忘れた。
×: 算知の碁には何も感じなくて何も覚えていないけど、
○: 算砂の碁には何も感じなくて何も覚えていないけど、
小生は、TMネットワークもWinkもテレビで見たことが
ないんだよね。で、当時、警備員のバイトをした時、
日系ブラジル人ではないかと疑われ、ブラジルの話を
されたり、サザエさんの家族や東海道新幹線の駅名を
何度も質問された。 丈和と幻庵は死ぬか生きるかの殺しあいみたいなのばっかりだから
読めないし分からないけど何か凄い感じはするように思う
>>184
凄い感じはするよね。盤面が石で埋まってしまうし。
幻庵は四哲の一人なのに、なんか評価が低杉。
丈和がいなければ幻庵が名人になっていただろうから、
幻庵は歴代井上因碩で棋力No.1かもしれん。名人因碩と
同じくらい強いのであろう。
入段年齢:
秀策 10歳
趙治勲 11歳
幻庵因碩 12歳 若く入段できるのは、周りが弱いからと思う。
韓国だと、強くても年齢制限ギリギリだったりする人多いよな。 >>183「小生」さん、あなた時々出てくるね。
なんか古碁に詳しいみたいだけど。
ちなみに棋力はどれくらい?
棋力は十級程度でした。いまはもっと弱いと
思います。
能書きは初段あるかも。 そうですか・・・
いや、10級の人は古碁を語ってはいけないというルールはないので・・・
まあ、頑張ってください。
10級あれば、生涯碁を楽しめるんだYO!
能書きは二段あるかもしれん。
>>184
秀哉対雁金戦も激しい戦いじゃない?雁金時間切れの局は、
対局後に秀哉は入院したんじゃなかった?記憶違い???
雁金は、元々は秀甫の方円社のエースでしょう?秀甫が
亡くなった後、秀栄は方円社を潰すために雁金を坊門に
引き抜いたんだよね?我らが田村(秀哉)の方が強いのに
秀栄が雁金を跡目に立てようとしたのは、雁金引き抜きの
件で、秀栄と雁金の間に密約があったと小生は見ますね。
雁金先生は田村の弟弟子として本因坊秀哉の
右腕になっていたら、秀哉が亡くなってから
頼られたんじゃない?
雁金先生の未来を奪ったのは、実は秀栄じゃない?
雁金先生には人間的な弱さがあったと思う。
そう言えば、秀哉名人も方円社から坊門に
移ったんだよね。秀哉名人は、方円社から
いびり出されたんだよね。
秀哉名人の引退碁は双方の持ち時間40時間で
行われた。相手の木谷実七段の消費時間は
34時間19分だった。秀哉名人の消費時間は
持ち時間の半分にも満たない19時間57分だった。
木谷実七段は、川端康成の『名人』では
大竹七段という名前にされている。なお、
この引退碁に起用された時点では、木谷師には
大竹英雄先生はまだ入門していない。
秀哉名人は引退碁を打った時には既に病に
冒されていた。健康を取り戻すことなく、
引退碁の翌年に亡くなった。秀哉名人が
持ち時間を使い切っていないのは、健康状態と
関係があったと思う。
秀哉名人も木谷実先生も、趣味は将棋だった。
川端康成の『名人』によれば、木谷先生は秀哉名人の家で
内弟子をした時期があったらしい。で、病気をして秀哉名人の
奥さんには世話になったらしい。
木谷先生が秀哉名人の引退碁で正当な言い分であれこれごねて、
対局放棄を何度も言い出したのは、秀哉名人に勝つ事に対する
恐れがあったのだと思う。
秀哉名人は、晩年の30年間は黒を持つ事がなかった。
また、秀哉名人が亡くなった時、八段の棋士はいなかった。
秀哉名人の晩年の10年に勝負碁が3回ある。1度目は
雁金先生との勝負碁で、秀哉名人は心臓を悪くした。
2度目は当時五段の呉清源先生との勝負碁だった。
前田が助言したとの流言があった対局である。3度目は
当時七段の木谷先生がお相手した引退碁で、その翌年、
秀哉名人は亡くなった。
秀甫と秀栄と秀哉を比較すると、秀甫は名人になっていないんだよね。
秀栄と秀哉は名人になった。
秀哉は弱かったのか???そんな事はあるまい。
秀哉に弱いイメージがあるのは、野沢竹朝のせいだよ。
秀哉には子供はいなかった。秀哉には弟がいた。
秀哉名人は、将棋でも麻雀でも連珠でもビリヤードでも
長考したらしいね。食事をしていても虚空をぼんやりと
見上げて脳内碁盤で局面を検討していたらしい。
加藤正夫先生みたいな人だったんだな。
秀哉名人には、婦人の妹が赤ん坊を見せに来て
隣の部屋で赤ん坊を泣かせていても内弟子達が
家の中で暴れていても気が付かない程の集中力が
あった。
滝の音がうるさいから止めろと言ったのは将棋の
ひふみんだけど、木谷先生も滝の音がうるさいと
言った事があるらしい。秀哉名人の引退碁の
途中で豪雨による水害があったらしい。対局が
行われた旅館の裏の川も大増水して岩も流れよ
といった勢いの激流になったらしい。その時、
秀哉名人は川がうるさいといったらしい。全盛期の
集中力は既になかったのであろう。 歴代名人
江戸時代
本因坊算砂
中村道碩
安井算知[名人算知] 名人碁所
本因坊道策 名人碁所
井上道節因碩[名人因碩] 名人碁所
本因坊道知 名人碁所
本因坊察元 名人碁所
本因坊丈和 名人碁所
明治以降
本因坊秀栄
本因坊秀哉
名人は、約340年間に10人しかいない。
秀哉や察元が弱かった筈ないじゃん。
田村と雁金の跡目争いは秀栄ばかりが悪いのでは
ないのかもしれない。
田村は本因坊秀元(土屋百三郎)や安井算英(俊哲算知の実子,
安井家10世,安井家最後の当主,いわゆる豚児)に可愛がられた。
算英には実子がなく、養女がいた。算英は保寿と養女を娶せて
保寿に安井家を継がそうとした事があり、保寿も乗り気だった。
いや、逆だったか?
算英の養女には好きな男性がいて、その男性は囲碁の関係者では
なかった。算英は結局はその結婚を許して安井家を絶えさせて
しまっている。保寿は安井家の当主に足る棋力人格見識があると
算英の眼鏡にかなったんだよね。
だが、この件で秀栄は田村は頼みにならないと考えたのかも
しれない。この件は、時系列の表を作って検証すべきかも
しれない。 秀和以降の土屋家による本因坊タライ回し劇場を思えば
本気で雁金に継がそうと思えば出来ただろ?
秀元が気に入らない。
こいつのせいで雁金先生が不遇の一生を過ごすことになった。 >>204
江戸時代と明治時代じゃ名人位の重みが違う
徳川幕府の威光あっての名人だからな
弱いとは言わないが、名人というだけで、察元と秀哉を同列同格とは見れないよ >>206-207
明治の碁はもっと語られなきゃいけないよね。
秀甫は勢子(丈和の未亡人)に嫌われて本因坊を
継げなかったけど、丈和の実子の中川亀三郎は
秀甫の右腕になって方円社を盛り上げたよね。
丈和の実子の中川亀三郎は方円社の二代目の
社長だし、方円社の三代目の社長の巌崎健造
(海老沢健造)は俊哲算知の弟子で俊哲の
実子の算英をポカリと殴った人物であり、俊哲が
沼津で亡くなった時に同行していた人物。方円社の
社長は、三代目からは中川亀三郎を代々襲名した
ような記憶があります。
>>208
棋力を比較すると 察元 > 秀哉 なの?
察元の棋力を10としたら、秀哉は幾つくらいなの?
秀哉は日本棋院を立ち上げたのだから、秀哉の業績は
大きいよね。若い時に語を離れた時期があったにせよ、
ほぼ碁一筋だったと思われる秀哉になぜこのような
手腕があったのか不思議なんですよ。
小生は、秀哉には知恵袋的存在がいたのだと推理します。
稲垣兼太郎(稲垣日省)は碁をやめて軍人になったり
役人になったり実業家になったりしてからまた碁に戻った。
小生は稲垣兼太郎が秀哉の知恵袋だったのではないかと
思うのです。
稲垣兼太郎は日本棋院の中部総本部を立ち上げたのかな? いや正力松太郎 とか大倉喜七郎とかが何かやったんじゃなかったっけ
俺が思うに日本棋院は棋士ではなくて経営能力のある人が経営すべきだと思う
そういえば、大倉財閥の大倉喜七郎がパトロンでしたね。
商社の大倉商事とかホテルニューオークラなどは
大倉財閥の企業。 鈴木為次郎や野沢竹朝に2子置かせて勝ってるあたり8段時代の秀哉は伊達じゃない
>>214
竹朝は元々は秀栄の弟子なんだよね。竹朝が評の評事件で
秀哉に破門された背景には、竹朝にお互い秀栄の弟子という
甘えがあったのかも。
田村と竹朝では、どちらが秀栄に入門した時期が早いのか
知らない。竹朝は性格に問題があったのだろうか???
そんな竹朝を秀哉は後に許しているんじゃなかった???
>鈴木為次郎
鈴木為次郎の棋力が上がって秀哉に先で打てそうになったら
秀哉は為次郎との対局を敬遠したみたいな噂がなかった?
為次郎ではなく、別の人だったかな?
木谷実先生には師匠が大勢いて、木谷先生は為次郎の
弟子でもあるのではなかった?その縁で、木谷先生は
為次郎の定石大辞典の監修者になっていたような?
木谷一門が定石大辞典を検証したのだろうか??? 定石の事典ってのは囲碁大辞典のことだよね
発行年は1933年で木谷実が24歳のころだから
木谷の弟子はまず関与してないだろう
改訂版が出たのは1960年だけど
当時大竹が18歳だからやっぱり厳しい
>>217
うほっ。嘘を書いてしまった???
でも、大竹先生は木谷先生の一番弟子ではないですよね?
大平先生とか加田先生も木谷先生の弟子だったような?
秀哉は誰の碁が好きだったんだろう?
秀哉本人は語っていないのかな? 井上秀徹
幻庵も全敗した秀策の黒に3連勝してる(全て完勝)。
細かい生涯や棋風は自分で調べてくれ。秀哉は彼の碁を詳細に解説してる >>220
ありがとう。感謝します。すごいね!
物知りだなぁ。 秀哉名人も強いけど、前の秀栄と後の呉先生と比べると一枚格が落ちるのは否めない… 秀栄の嫁のために秀栄全集を出版してその印税をプレゼントするなんて偉いと思う
>>220
井上秀徹って節山因碩の前名なのですね…。丈和の長男で発狂した人だ。
井上家に入らなければ発狂しなくて済んだと思う。
井上節山因碩(いのうえ せつざんいんせき、文政3年(1820年) - 安政3年(1856年))は、
江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の十二世井上因碩、六段。隠居後の号である
節山を付けて、井上家代々と区別する。井上幻庵因碩門下。本因坊丈和の長男で、
幼名は戸谷梅太郎、後に水谷琢順の養子となって水谷順策、次いで井上家跡目となって
井上秀徹を名乗る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/井上節山因碩
>>222
だが、それがいい。
>>223
さすが。
秀哉が秀栄未亡人の生活の面倒を見るようになって、
秀栄未亡人は雁金の応援をしなくなったんだよね…。 67歳ぐらいで当時の若手ナンバー2にコミなしの白番で好勝負って凄すぎませんか?
いまの林海峯さんや大竹さんが井山か山下に白番でコミなしで打てとかいったらいじめに近い
>>224
水谷順策ね。水谷琢順と混同しそうだ…。 >>224
本因坊家に残ってたらもっと早くに発狂して死んでたよ
井上家でいじめられて発狂したんじゃないの?
節山には集団ストーカー被害者の行動パターンが
あるように思える。 今日は祝日ですね。小生は祝日にはひろゆきさんに感謝することに
しています。我々がここで社会悪を叩いたり未解決事件の捜査に
協力できるのは、集団ストーカーに悩みながら2ちゃんを維持している
ひろゆきさんのおかげです。今はチーママですが、ひろゆきさん、ありがとう。
/ , ´ ` 、 ヽ
. / / \ ',
/ / \ ./
\ / / .| i ヽ /
\ ./ ,/ / | | | | | |/
\/ | | l| /| | | | | |
| | | | || |l | |l.| | | |
l | |___| l.|--‐|''l´| `|リlー--.|、___ ,j j
|_|_l_| l__,l lj└──┘ー―‐'ー--ァ_ノ!
| l ,、_ __,,、 、____ _, / |
', <ヽ ` ̄ ̄´ ` ̄ ̄´ / j. ノ
ヽ //l i /lV/
| ハ |〉 / ,| |
| |`ヽ /ノ | |
| | \ -- ― ノ .| |
| | \ / | |
| | __jヽ、 ,-―――くl_ | |
| | / 、| / / ̄ `ヽヽ、`ヽ ! !
| | / / /-―‐‐、 ヽ.j ヽ.| |
__ __,| |/ /ー/ ,--、 \ヾヽ | |__ ,-―-、
`Y |ハ, | ー''´  ̄ヽ `´ | .| | ヽ `ヽ
http://www.youtube.com/watch?v=r4rmOFOWDXc&feature=related
>>219-230
小生は、丈和の妻の勢子さんが秀甫(弥吉)を嫌った理由は
秀徹が跡目になれなかった件に原因があったと思う。かわいさ
あまって憎さ百倍みたいな感じじゃないの?小生は、秀甫
(弥吉)は勢子にも可愛がられていたと見ます。
貧乏人弥吉は、本因坊道場に住み込んで修行したから、
秀徹にもずいぶん可愛がられたのではなかろうか?
秀甫(弥吉)は勢子には嫌われたけど、秀徹の弟の
亀三郎は方円社で秀甫の右腕になったよね。
勢子は秀甫(弥吉)を秀徹派と見ていたんジャマイカ?
弥吉は秀和の子飼いで、岸本左一郎が故郷に帰った
後は弥吉が秀和道場の塾頭になっている。 団鬼六さんが亡くなられた。
落日の譜は未完のままか・・・
雁金先生は死してなお不遇なのか・・・
秀哉は節山因碩のファンではなくて丈和のファンだったんじゃないのかな?
節山因碩は丈和の長男だし、秀哉は丈和の再来と呼ばれる事を許していた
みたいだし。
どうなの?
川端康成の名人に秀哉は丈和の再来と書いてあったような。
秀哉の白番について情報きぼんぬ。
絶品とか何かに書いてあったけど、
どこがどう絶品なのかわからん。
秀栄の白番との違いはどうなの?
秀哉は最初は方円社に入門したから、秀甫の弟子だったんだよね。
秀哉は11歳の時(明治17年)に方円社に入門して、12歳(明治18年)で
住み込みになっているね。方円社寄宿という身分になっている。
秀哉は12歳(明治18年)の時に母を亡くしている。
当時の方円社の師範は、当時五段の高橋杵三郎。高橋は方円社に
起居していた。当時の方円社の塾頭秀哉よりも5歳年長の石井千治。
秀甫は小川町の自宅から朝早く塾生を起こしに来て、碁を打って
やっていた。明治19年に秀甫が急死した。秀哉は三年ほど秀甫の
教えを受けた。約二年間は、秀甫に親しく接した。
秀哉の父である田村保永(たむらやすなが)は、旧旗本であった。
保永は、維新の時に彰義隊に参加した。保永は維新後は、内務省の
下級官吏として働いた。
小生は田村家は貧しかったと見る。保永が教育熱心だったというのは、
後の秀哉の証言であると思われるから信頼性が低い。下級官吏で
あったのだから、収入も少なかったと推測します。(坂田先生の父も、
坂田先生の証言によればよい父親に思えるけれど、やった事だけを
見れば、坂田少年に賭け碁を打たせて稼いでいたオヤジです。)
>>248
×: 当時の方円社の塾頭秀哉よりも5歳年長の石井千治。
○: 当時の方円社の塾頭は、秀哉よりも5歳年長の石井千治。
秀哉は、明治7年6月24日に芝桜田町(現在の芝虎の門)で
生まれた。やがて、田村家は神田猿楽町に移った。同じ町内に
小野塚という素人碁打ちが経営する碁席があった。
子供を碁打ちにしたいという保永の話を聞いて、小野塚は、
自分の所などではなく方円社で本式の修行をさせた方が
いいと勧めた。秀哉の入門時には、方円社は神田表神保町
二番地にあった。
ちなみに、後に方円社五代目社長となる広瀬平次郎(贈八段)の
妻の仲子(二段)は、小野塚の娘である。
秀哉は、なんと、方円社では正式の級位を受けていないし
免状も貰っていない。
当時の秀哉の実力は初段格または二段格である。免状代が
工面できなかったという説もある。金銭的な事情があったと
推測される。
明治17年には黒田俊節や水谷縫次が亡くなった。明治19年には、
御大村瀬秀甫が亡くなった。明治17年から明治19年にかけて
方円社創設期の重要人物の多くが亡くなって、方円社は台所が
苦しくなった。
明治22年に方円社は神田表神保町の会館を売り払い、日本橋通り
二丁目の山本茶舗(山本山)近くの小さな家を借りて移った。
この時、住み込みの塾生は住み込みできなくなった。秀哉は、
中川亀三郎(丈和の実子)の家に預けられた。亀三郎の家は
浅草にあった。
秀哉と丈和を結ぶ線にやっと気が付いた。秀哉は丈和の三男の
家で暮らしたんだ…。秀哉は丈和の長男の節山因碩の打碁の
解説本を後に出版しているね…。
秀哉が亀三郎の家に何年間やっかいになったのか不明だね。
情報きぼんぬ。
明治22年(秀哉は16歳) 中川亀三郎の家に預けられる
明治24年(秀哉は18歳) 父を亡くし、秀哉は孤児となった
明治24年(秀哉は19歳) 小林鉄次郎との二子局を最後に方円社を飛び出した
明治26年 方円社が神田錦町に新会館を建築
秀哉は、明治23年に岩村通俊(農商務次官)の家に書生として預けられているね。
碁はやめていない。秀哉は亀三郎の家には1年くらいしかいなかったんだな。
明治22年(秀哉は16歳) 中川亀三郎の家に預けられる
明治23年(秀哉は17歳) 岩村通俊(農商務次官)の家に預けられる
明治24年(秀哉は18歳) 父を亡くし、秀哉は孤児となった
明治24年(秀哉は19歳) 小林鉄次郎との二子局を最後に方円社を飛び出した
明治26年 方円社が神田錦町に新会館を建築
秀哉は方円社を単身で飛び出したんじゃない。悪友の
村瀬彪(秀甫の養子)と一緒に飛び出した。
村瀬彪(秀甫の養子)は方円社に住んでいたけれど、
碁はダメで、第一銀行の銀行員だった。
山本山の当時の主人の山本嘉兵衛は大の囲碁ファンで
方円社の人たちと付き合っていた。
秀哉は彪と飛び出して食い詰めて、山本山の主人に
碁の本を売ったり、方円社に置いてある自分の布団や
箪笥や少しの荷物を質に入れるために方円社に取りに
戻ったりして、以前の知り合いの周りをうろちょろしたんだよね。
塾生達はよってたかって秀哉に荷物に手を付けさせなかった
とか、小林鉄次郎の妻が泣いて引き止めたとかいう話しが
ある。でも、奥にいた小林鉄次郎は止めなかったらしい。
(この話のソースは秀哉の証言である。)
小林鉄次郎との間に何があったのか?鉄次郎は、
錦四郎因碩の後を継ぐと見られていた人だけれど、
碁は超一流ではなかったらしい。でも、温厚な実務家として
方円社を支え続けた。カネにまつわるトラブルがあったのか?
秀哉は、鉄次郎を馬鹿にするような態度をとったのか???
以下は「趙治勲傑作選2 頂上に立つ」 p.61から
----------------------------------------------------------------
話が変わるが、昔の名人といわれる人たちのなかで、プロは秀栄名人を
ひじょうに高く評価する。その反面力戦型の秀哉名人の評価が驚くほど
低い。秀栄は力を表に出さず、太刀筋よく軽いフットワークと大局観で
勝つが、秀哉は最初から抜き身の力戦で戦い抜くタイプ。趙は秀哉の評
価が不当に低いのに抵抗を感じる、同じように評価すべきだと、いつか
いっていた。碁は大向こうをうならせる見せ場ばかりで出来ていない。
大部分が泥臭いヨミの地味な場面で出来ているとすれば、秀哉のような
力戦型はもっと評価されていいと、趙は思うのである。
治勲、さすがだな。
秀哉は秀栄に先だったんだから、秀栄に近い棋力。
小生は、秀哉は秀栄にわざと負けていたと思うね。 巣鴨の秀哉の墓の敷地内にある土屋(家)ってだれのこと?
本因坊の菩提寺は、三世の道悦までは没後京都の寂光寺。
(小生の記憶によれば、誰かが彼らのお墓を江戸に移した
ような…。)
四世道策から二十一世秀哉までは巣鴨の本妙寺が
菩提寺である。ただし、実は、明治42年までは、歴代の
本因坊のお墓は本郷丸山の感応院(本妙寺の分院)に
あったのです。
明治42年に、区画整理に伴い、彼らのお墓は巣鴨の
本妙寺に移されているんだよ。で、秀栄(土屋平次郎)が
亡くなったのは明治40年である。秀哉は、明治41年に
第二十一世本因坊になっている。彼らのお墓を巣鴨の
本妙寺移したのは秀哉と思われる。彼らのお墓は
標準サイズ?少し小ぶり?
秀哉のお墓を建てたのは秀哉じゃないと思うよ。
新聞社なのか大倉財閥なのか弟子達なのか
わからないけど、秀哉以外の人が秀哉のお墓を
大きなお墓にしたんじゃないの? >>258
>小生は、秀哉は秀栄にわざと負けていたと思うね。
秀栄にわざと負けるほどの者が、雁金に負けそうになり持碁を持ちかけるか?
そういえばさ、戦争の頃には必要以上に大きな
お墓を建てる風潮があったんじゃないかな?
戦死者のお墓でマジかよと言いたくなるような
大きなお墓があるよね。 >>258
プロの間での「先」は大差
チョウチクンはどんだけタイトルとっても道策、秀栄、ゴセイゲンより自分の評価が低いから彼らを叩き、貶めることで自己満足を得てる。
林道義がチョウチクンの幼児性について語ってたが彼の異常なまでの道策、秀栄、ゴセイゲンコンプレックスを見ると納得できる
>>265
呉清源 - 坂田栄男 - 趙治勲
治勲は歴史に残る棋士だよ。 >>266
つまらんオタク議論繰り返すより棋譜並べでも何でもしてちょっとでも強くなること考えろよ
武道板にもたまにいるけど自分の技術磨かずに誰が強いだの弱いだのの議論繰り返すしかしないオタクが一番嫌いなんだよ。
秀哉が好きなら好きでいいから全集でも何でも並べてちょっとはこっちの書き込み控えろ
趙治勲がどれだけ呉清源を評価してるかも知らないうえに、
他人の評価を鵜呑みにして適当なこと書いてる人が、
「自分の技術磨かずに」云々とかw あほ
>他人の評価を鵜呑みにして適当なこと書いてる人が、
俺がいつ他人の評価鵜呑みにした書き込みした?
俺はチョウチクンがゴセイゲンの悪口言ってることしか知らんが、仮にチョウチクンがゴセイゲンを評価してるとして
>趙治勲がどれだけ呉清源を評価してるかも知らないうえに、
こんな誰が誰をどの程度評価しているとかいう知識溜め込むよりは一局でも多く棋譜並べ、詰め碁するわ。
最も最近はまた武術に戻って腕立て、四股の生活の繰り返しだがな
お前も「ある棋士がある棋士をどう評価した」とかつまらん薀蓄話よりもっと有意義なことに時間使えよ >>265 >>268
趙治勲の呉清源評としては「地と模様を超えるもの」という本が
面白かったな。うろ覚えだが、
「十番碁で他を圧していた頃の呉先生の碁を調べると、呉先生の
無理手が通ってしまっていることがままある。実は呉先生は世間
で思われている程強い棋士ではないのかもしれない」
みたいなことが書いてあった。 チクンは性格的に自分が一番じゃないと気が済まないのかもね
確かに碁の強さは相当のものだが、道策・秀策・呉清源・チャンホらのように
革命的な偉業を達成したわけではないから一段評価が落ちるのだろう
せいぜい韓国に囲碁ブームをもたらしたくらいか >>265
>林道義がチョウチクンの幼児性について語ってたが
これ興味あるな
どこで読めるの? 趙治勲が呉清源を並べまくった話は有名じゃないのかな。
だから>>270のような評もでてくるし、公に言えもするわけで。
うちの親父も影響されて、全集を買ってたぞw
解説会で趙治勲がでてくると、それだけで客席が熱くなる。
みんなニコニコする。
こんなに愛されている棋士が他にいるだろうかと思う。
特定の世代にとってのこととは思うが、
趙治勲あってこその部分が日本の囲碁界にはあると思う。 >>267
お言葉ですが、このスレに投稿する人は数名しかいないとオモワレ…。
スレが落ちちゃうじゃん。
小生は趣味でネットワークの勉強をしていて、棋譜並べをする時間が
ないのです。
チェスのチェックメイト問題は毎日2問ほど解いています。簡単な詰碁も
週に1問くらいは解かなきゃいけないと思っております。
治勲は若い頃に平凡社の呉清源全集をぼろぼろになるまで
並べているよ。確か初タイトルをとった頃には、呉清源全集を
並べるのが4回目だったとか何かに書いてあったよ。確か、
講談社の現代花形棋士の趙治勲の巻だと思う。
林道義ってアマチュアじゃん。アマ六段の大学の先生でしょう?
この人、能書きはなかなかだけど、プロの心理を分析とかは
おこがましいな。
能書きだって、相場さんとか林裕さんの方が上だと思うよ。
てゆーか、上じゃん。 >>276
心理学が専門の学者だからおこがましいということはないと思うけど
>>277
新書版のエッセイみたいな本の中で棋士の心理分析しているから、
読んで味噌。こじつけとかエセ科学だと小生は思ったね。 戦いの効率争いである、と明確に表現するとかっこ悪くなり
「地と模様を超えるもの」、と適当で曖昧な表現なら
意味不明であっても、かっこがいい。
かっこいい表現でないと、なかなか流布しない。
プロの心理とアマの心理と別にあるわけではない。
例外を多く知っている人ほど、恐怖心と用心が大きくなるだけ。
また、人間なんてたかが知れていて
道を意識して追及すると、誰でも同じ道を歩くことになる。
つまり、強欲で単純な生き物でしかない。 >>276
5級の実力もないお前ごときがぐだぐだぬかすなよ。
「小生」は完全に古碁関連スレの老害。
2ちゃんで薀蓄語ってる間にちょっとでも勉強繰り返してたら今頃お前も林さんぐらいにはなれたかもしらんのにそうやって他人の論評だけで人生の時間削っていくのな・・・ 秀栄と秀策を三周も並べた強者が小生さんに無駄に喧嘩を売るなんて・・・ >>282ちょっと笑ってしまったw
ネットは数日に一回見るぐらいだからたまにいじると結構集中して書き込みとかするのよ
これから武術ブログいじるとこw >>281
>2ちゃんで薀蓄語ってる間にちょっとでも勉強繰り返してたら
>今頃お前も林さんぐらいにはなれたかもしらんのにそうやって
>他人の論評だけで人生の時間削っていくのな・・・
うむ。仰る通りだね。小生は林さんが裏山歯科。
囲碁ワールドを古本で何冊か買った事があるんだけど、
『ザル碁の世界』という連載エッセイは面白かった。
吉田知子さんという人が書いているそうだけど、吉田さんは
侮れないよ。
>>282,283
むむむ。呉清源先生光臨か???
でも、呉清源先生は30周以上やっていそうだし…。
>>267
うむ。気持ちはわかるよ。そうか、小生は
ラビット関根みたいになっているんだね…。 >>284
私には「ザル碁の世界」はつまらなかった。 実際問題として秀栄と秀哉とどっちが強いの
お互いの全盛期での比較でお願い 名人秀哉「秀栄先生には今でも先相先には打たれるでしょう」
俺も秀栄持ち。もっとも秀哉でも現代に現れたらチャンホらと互角の勝負するだろうけどな。
結局トップ同士では髪の毛一本の差でそれが上のほうでは大きいともいえる
呉清源先生は日本に来てから半目だか1目くらいしか
強くなっていないとご自分で語った。要するに、来日
したばかりの呉清源先生と最強時代の呉清源先生との
棋力の差は半目だか1目くらいしかないんだよ。
その呉清源先生の先番を秀哉名人は負かしている。
秀哉の全集には明治の碁と大正の碁と昭和の碁が
収められている。コミ無しで時間無制限か持ち時間が
40時間とかでじっくり打たれた碁。各人の持ち時間が
3時間で打たれた碁よりも勉強になるはず。 関根金次郎と仲がよかったんだよね。一緒に旅行したり。
碁界では怖い人と思われてるけど、そういう人間的な部分も面白そうなんだな。
>>294
興味深い人物だよ。最近の人だから、資料も
たくさん残っている。
秀哉が書いた本も古本で買えるしね。 雁金スレはないのか。鬼六の小説の単行本化はどうなってるのだ。
秀哉は高部と中国行ったりもしてるよね。
あけおめ。
>>296-297 ほほぅ。そんなのがあるんだね。 秀栄の高潔さも惹かれるけど、秀哉の人間臭さも嫌いじゃないなあ
性は秀哉の古本を1冊買ったんだけど、
二十一世本因坊印と秀哉印が押されて
いて、マンモスラッキー。
どちらも拳骨くらいの大きさなんだよ。
坂田一代を100円で古本で買ったときも、
坂田先生のサイン本をゲットしたんだよね。
呉清源先生は飛び付き三段。
保寿は飛び付き四段だ。
秀哉を軽んじる人たちは、秀元や算英や亀三郎や
小林や健造や平次郎や岩佐をアマ扱いしている。
>田村保寿
『やすひさ』はおそらく戸籍名であろうと言われている。
高橋俊光八段(秀哉名人の義弟)が『昔、秀哉の事を
やっちゃんと呼ぶ人がいた』と語っているが、はっきりした事は
わからないんだよ。
『たむら ほうじゅ』と読むのが普通だよ。 一般に「やすひさ」と呼ばれてたらしいよ。
「たむら」と呼んでいた年長者も多かったらしいし。
「ほうじゅ」は後に一般化しただけだろう。 秀哉名人の実力はアマトップクラスだったライター安永一著「安永一 打碁と評論」に詳しかった。
安永一は二子では秀哉に勝った事はあるが先ではほぼ負けていたようだ。
また秀栄は時間を殆ど使わなかったのに対して秀哉は中盤から一手に8時間も長考して読み切ろうとしていた事をあげて
秀栄とは違うタイプの超人だと書いている。
安永先生は、坊門の元プロでしょう?
増淵先生は坂田少年を安永先生に預けて
行儀見習いさせている。坂田少年がぶん殴られた
話は有名。 安永が秀哉に先で勝てるはずがない。
二子でだってまぐれで勝てたのだろう。
名人に定先ならプロの七段でそ?
保寿は秀栄名人に定先だった。 プロの先生に安永一の棋譜見てもらったら序盤中盤はプロ高段並だと言ってた。
ただヨセと詰碁が下手だと。尤も安永一が学んだ本因坊系は一目勝ちを狙う方円社系とは違って
中押しを狙う棋風だったからそうなったとも書いていた。
ほほぅ。
性は、なんとなく、秀策は五目勝ちで秀栄は二目勝ちみたいな
印象があるな。
おめでとう。性も全巻持っているんだよ。大斜定石の上巻も持っているぜ。
名人指導碁を持っている人、情報きぼん。アマ相手の指導碁の棋譜が
大量に収録されているのかな???
このスレを覗いた人に情報をあげよう。
日本の古本屋で本因坊秀哉全集を検索して味噌。今、お買い得の
タマがたくさんあるよ。性が持っている秀哉全集は普及版です。
6巻セットで1万円以下の普及版を買う事を勧めます。5000円から
9000円の価格帯で8セットも売りに出てるじゃん。昭和56年と
書かれているのは普及版ですよ。
ttps://www.kosho.or.jp/top.do
名人指導碁は知らないが、名人指南碁は持ってる。和綴じの本で、六・七子局、四子局、
二・三子局、互先局の四冊。各巻大体二十局掲載。四子局までは秀哉による指導碁。
二子、三子は弟子とアマ。互先は初段位のの弟子同士の対局。二年ぐらい前に一通り
並べたんだが、評や注が多すぎず少なすぎずで良かった覚えがある。 >>321 情報ありがとう。超一流が少年の頃にたくさん置いた碁とか超一流が
たくさん置かせた碁の棋譜って貴重だよね。昔は三段差で一子置くから、
名人が新初段と打っても三子局にしかならない。秀行が亡くなったときに、囲碁・
オセロ板で、秀行(保少年)が秀哉に五子置かせてもらって中押し勝ちした入門碁が
紹介されていたなぁ。秀哉が坊門に入門した少年少女と打った入門碁は整理して拡散
しないといけないね。坂田少年だって打ってもらった筈だ。呉清源先生が秀哉に
打ってもらった入門碁は有名だけどね。
>>322 秀哉イズムには反するけれど、最近は打ち込んで小さく二目で生きる碁にも
興味があるんですよ。小さく生きるから性なんです。
秀策の碁がフンドシを外すと、そこには
秀哉の碁があるんだよね。逆もしかり。
大仙知の碁について秀哉は何か
コメントを残していないだろうか?
あったら知りたいにょ。
新布石は大仙知の碁風そのものと
福井先生は言っているけど、ならば
大仙知以降の棋士は新布石の洗礼を
うけているという事になるのですが…。
秀哉はカネにうるさくて秀栄に嫌われたと言われているけど、
秀哉は棋士の待遇や地位の向上みたいな事を早い段階から
考えていたフシがあるよね。秀哉は子供の頃は方円社に
住み込んでいたわけで、秀哉には方円社系の考えが染みこんで
いたと思われる。
本因坊名跡争奪タイトル戦の構想は、実は方円社が
早い段階から持っていたのではないだろうか?秀甫や
秀甫関係者の悲願だったのではなかろうか?保寿も
疑うことなくそのような考えを正しいものと刷り込まれて
いたのではないか?
林家を潰した秀栄だもの、秀哉に坊家を継がせたら
潰されると思ったんじゃないかな。実際、その通りに
なったし。 まじで言うと、木谷さんは、秀哉が嫌いだったんだよなあ。
自分の打碁を、坊門で検討したりして、品位がないことおびただしい。
だって、木谷さんは、ただ自分一人で、持ち時間をいつも無くしながら
苦吟しているのに、秀哉は、さっさと切り上げて、ほかの門弟と
検討している。
秀哉は、木谷さんにとって、軽蔑すべき存在だったんだよ。
だから、3回本因坊に挑戦したけど、あと一つというところで、
取れなかったんだよなあ。あんなやつの、跡継ぎか… と思ったんじゃ
ないのかなあ。 歴代本因坊はみんなそういうことやってるので
秀哉についてだけそういうこというのはどうなのかな >>332
木谷さんは秀哉以後の歴代本因坊を馬鹿にしていたってことですね
>>332
川端康成の名人では、碁の品位については秀哉の方が
真面目に考えているじゃん。木谷先生の手を品位を
汚したと怒っているし。 落日の譜 雁金準一物語を読んだ。
大嫌いだった秀哉がさらに嫌いになった。 >落日の譜 雁金準一物語を読んだ。
ほほぅ。読んでみたいね。
雁金先生は方円社を裏切った。
秀栄に一本釣りされたじゃん。 >>332
木谷先生は本因坊になりたくてなりたくて
仕方なかったと思うんだ。 >>338
雁金先生は巖崎にないがしろにされ、方円社を去った。 秀哉はあらゆる手段を使って雁金を陥れた。
表舞台に立たせないように狡獪な手段を使った。
秀哉はとてつもなく性悪な奴だ。 >>336
亀だけどそれは後で秀哉自身が撤回してるよ 呉清源先生は、秀哉名人ほど碁に真摯な人は
なかなかいないみたいな発言をしたことがあるよ。 秀哉は竹朝と評の評事件で喧嘩したけど、後に
仲直りしている。川端の『名人』でも、竹朝は
秀哉の家に遊びに来ている。
竹朝は秀哉の兄弟子だけど、秀哉名人は自分の
弟子に直れみたいな事を言ったのかもしれない。
はじめから兄弟子を立てていたら評の評事件は
なかったと思われ。
評の評事件は、もしかしたら、竹朝が食えるようにという
計らいからのプロレスの疑いもあるけどね。 巖崎は俊哲算知の愛弟子だね。まだ子供の頃の
算英をポカリとやっている熱血漢だ。
健造の目から見て、雁金先生には何か足りない物が
あったのではないか? 秀哉と竹朝は表面的な和解だけだよ。
死ぬ寸前まで痰をげえげえ吐きながら「秀哉が」と呼び捨てにしてたらしい。
巖崎は雁金先生を中川先生から引き取って弟子にしようとしたが雁金先生が断った。
それを恨んで雁金先生をないがしろにして方円社に居づらくした。
ところが雁金先生が方円社を去ると自分の沽券に関わるからと呼び戻そうとしたり、
ヤクザのような輩を雇って嫌がらせをしたらしい。 竹朝の大斜定石の本で秀哉の創案した手を
褒めていたような。
兄弟子なんだから、陰で秀哉を呼び捨てに
したって問題ないでそ?
将棋の大野先生は、升田も大山も呼び捨てだったよ。 健造には怪しい所もあるんだよね。算英をポカリ事件も
思惑あってのことだったのかもしれないなぁ。安井門なのに
大金貯めて秀策に打ってもらったりとかさー。俊哲算知が
旅先で殺された時のお供も健造なんだよね。
健造はたしか孤児だよ。でも、なくなった時には
かなりの財産を残していたと何かで読んだよ。
健造は孤児という点でもカネにシビアという点でも
秀哉に似ているよね。 雁金先生が方円社を追い出されたと雁金陣営が主張している件は、
実際には雁金先生が秀栄に一本釣りされて方円社をでていく段取りが
整いつつある時期に健造につらくあたられただけじゃないかな?
健造は方円社の二代目社長だもの。怒って当然。
方円社の頼みの綱の雁金先生が落ち目の方円社を見捨てただけかも。 健造の家は苦しくて寺に預けられたが、特に孤児でもないみたい。
維新の際に大久保公に取り入って官吏になったので、多少の財産は作ったでしょう。
雁金は伊藤公の書生なんで、つらくあたるとかいったことはしなかったと思う。ただ秀栄に近づいたので(それも伊藤公の力)、方円社にいずらくはなったかも。
というよりその当時秀栄が最強者なのは違いないので、できればみんなそうしたかったでしょう。 健造の家は苦しくて寺に預けられたが、特に孤児でもないみたい。
維新の際に大久保公に取り入って官吏になったので、多少の財産は作ったでしょう。
雁金は伊藤公の書生なんで、つらくあたるとかいったことはしなかったと思う。ただ秀栄に近づいたので(それも伊藤公の力)、方円社にいずらくはなったかも。
というよりその当時秀栄が最強者なのは違いないので、できればみんなそうしたかったでしょう。 秀哉が関根金次郎みたいに神格化されないところが、結局色々尾を引いてるよね。 人間的にがめつくてケチでセコイので有名だったからしょうがないね 野球のメジャーのタイ・カッブだって性格的には糞野郎みたいだけど球聖って言われてるぜ。 秀哉は名人、つまり権力の頂点に立っちゃったから、人格的なことを求められるのはしょうがないかも。
もっとも秀哉が贅沢な暮らしをしていたとかいう話は聞かないのだが。 世界の主流も美しく勝つ碁から泥臭く勝つ碁へ
今こそ秀哉の碁が再評価される時だ
盤外のことは無視しよう まあたしかに
でもみんな性格がいい秀策大好きだからな
秀策は若く死んだからよりいっそう美化される 今でも秀哉門下直系の棋士がかなりの割合を占めるから義理でヨイショしているヒトが沢山いるのにもかかわらず、
トータルでここまで人気が無い秀哉はほんと笑える 名人になってからも勝負碁を打って、しかもコミ無し白番で頑張って勝ちに行くというのは、秀哉からじゃまいか。
時代がそうさせたのかもしれないが、ある種のエポックメーキングな人な気もする。 名人になってからあからさまに対局を避けたのは丈和だけじゃね?
そもそも高手はいっぱいいたのに名人になれたのが少ない
察元-丈和-秀栄(名人になって一年で死亡)-秀哉 雁金先生の棋風ですが、呉清源先生の本に戦車みたいに力を出す
力戦の棋風と書いてあったような。性の記憶はあてになりませんが。 秀哉が名人になったのは大正四年。
石井章さんは江戸明治の名人は凄いと本に書いているけど、
大正昭和の名人の秀哉を遠回しにけなしているのか!?
石井章さんは秀哉についてコメントすべき。
ところで、性は100歳になりました。(`・ω・´)エヘン 「四十年勤め上げた會社を退職し〜」のコピペを思い出した >>368
うん。名無しが長かったですし不在の時も多いんですが、
性は昔からいましたよ。 >>365
そういうことは、当人の選択というより以前に
本因坊家に対する江戸幕府とか、秀策における因島の殿様など
後見人やスポンサーの意向次第でどうするか決まるという面があるのよね。
秀哉や呉清源の頃はそれが替わって大倉喜八郎とか読売(正力松太郎)の意向や都合次第なわけ >>371 をを。強い方の?石田でした。
>>372 元美のバックは水戸黄門でしたか?丈和と秀哉だけが
名人になっても勝負碁を打ったと聞いたことがあります。 >>372
なるほどそういうバックの事情もあるんだね
本人が対局やりたくなくてもできないわけか 雁金先生の力碁はもの凄い粘着の碁らしいですね。
昔に秀芳が『遺恨試合』という本を出したような気がするけど、
その本に秀哉と雁金先生の碁が載っていたような。 雁金は互角や格上との棋譜があまりないから判断材料が少ないね
秀哉戦は確かにその通りの碁 >>377 呉清源先生の回想録に十番碁で雁金先生の
超粘着の碁にヘトヘトになったみたいな事が
書いてありました。 呉清源先生の打碁集を借りて眺めているんだけど、
雁金先生の強さに驚いたよ!
打ち込み十番碁の時点で既に碁界の最長老なのに
呉清源先生に白番で圧勝した局がある!
さらに、その後、準名人戦でも呉清源先生相手に
白番で持碁にしてるし!
打ち込み十番碁は雁金先生の名誉と健康をおもんばかって
中止されたとされているけど、最終局まで打ったら逆に
雁金先生が打ち込み返したかも!!!
秀哉や雁金先生の打ち盛りの頃はどれだけ強かったんだ!!!!!! >>381
雁金先生は十番碁では黒番でしか勝ってないはず。
雁金先生が強かったのは間違いないが。
秀歳がいなかったら雁金先生が囲碁界を牽引していたかもしれない。 あぁ、第三局は雁金先生は黒番四目勝ちだったね。
(*´・ω・`*)
雁金先生は人望がないと思っていたけど、そうでも
なさそうですね。人望がなかったのは高部だね…。 秀哉の碁はメッサ地に辛いらしい。芋掘り碁という悪口は
秀哉の碁の本質を言い当てているんだよね。
秀哉の碁と光一の碁ではどちらが地に辛いのであろう?
お教え下され。 秀哉は実はめっさ暖かい人柄だった。
秀哉悪人説を流したのは秀栄未亡人では
なかろうか??? >>386
勝負の鬼がそんな甘い人間のはずないけどな
将棋の大山もめちゃくちゃ優しい人だったという証言多数あり 少し言葉足らずだったな
鬼でも勝負の現場以外なら優しい一面をみせることもある
秀哉が暖かい人間だったなんての濡れ子の思惑とは逆に秀哉を下げてるわ >>387-388
庫之助が15歳で大手合に優勝した時、賞品をちゃんと
持って帰るんだぞと暖かい言葉をかけてご機嫌だった。
庫之助はその時に『何言ってやがんでェ』と思ったんだけど、
歳をとってからその時の名人の温かさがわかるようになったと
証言しております。 石井千治との勝負碁では七日間ウンコをしなかったとか
秀哉にはそういうお茶目な一面もあったんだよ。
多くの人は田村が人気棋士だったという事実を知らないんだよね。
ファンに愛されていたんだよ。 ウンコで思い出したけど、猿楽町の方円社の便所掃除は
田村少年の仕事だったんだよね。
この時の便所掃除があまりにもつらくて、秀哉はウンコ話が
好きになってしまったんだ。(`・ω・´) 秀哉は秀和が転生した人物だからね。
秀和は本因坊跡目に決まったので戦う碁を捨てたけど
それが心残りで秀哉として生まれ変わった。名人に
なれなかったのも未練だったし。
秀甫の弟子と秀栄の弟子をやったのは秀哉だけ。
秀哉は名人になるべき人だったんだよね。 >>393
閑話休題。それを知った囲碁ファンで元数学教師の
アート・ガーファンクルが秀哉をリスペクトして書いた曲が
かの有名な『スカトロ フェア』である。
これは院生試験に出るからね! (`・ω・´) Parsley, sage, rosemary and thyme
これが全部ウンコに混じっていたんですね。よくわかります。 ははは。わかっているようだね! (`・ω・´)シャキーン アート・ガーファンクルは The Master of Go by Yasunari Kawabata を
読んだんだよ。川端康成の『名人』の英訳だよね。
川端は一応ノーベル賞作家だからね。『名人』の主人公の
秀哉はおそらく世界一有名な本因坊でそうね。村瀬秀甫よりも
有名だよ。
英語圏の碁を打たない人は海外への碁の普及にも取り組んだ
秀甫を知らないけど秀哉を知っている可能性はあるのだ。
なんとなくアル中っぽい秀甫よりもウンコ好きの秀哉の方が
格好いいしね! 超一流の人物はスカトロ好きと相場が決まっているのだ。
幻庵因碩も九州から中国に渡る時に船でウンコして
海に財布を落として旅費を無くしたんじゃなかった?
確かそれで九州で初段の免状を乱発して江戸に帰る
旅費を作ったんだよね。だから、九州では弱い初段を
『因碩初段』と言うのだ。 秀哉は小柄だったから足つきの碁盤を
座布団がわりにして碁盤に座れた。
碁盤が座布団にちょうど良いサイズ
だったらしい。
で、晩酌をしてご機嫌になると碁盤の上に
あぐらをかいて、内弟子たちにお説教を
始めたそうだ。
曰く、『碁は痔だぞ、お前らの碁はなっちょらんよ。
痔に甘くてどうしようもない。』 ×: 痔
○: 痔
なぜか変換できない…。 orz ▼第180条(賭博行為の禁止及び暴力団員等との交際禁止)
(1)選手、監督、コーチ、又は球団、この組織の役職員その他この組織に属する個人が、次の行為をした場合、コミッショナーは、該当する者を1年間の失格処分、又は無期の失格処分とする。
(1―1)野球賭博常習者と交際し、又は行動を共にし、これらの者との間で、金品の授受、饗応、その他いっさいの利益を収受し若しくは供与し、要求し、申込み又は約束すること。
(1―2)所属球団が直接関与しない試合、又は出場しない試合について賭けをすること。 秀哉は大井の草競馬でルール通り一円しか買わなかったという証言あり。
競馬好きの弟子をたしなめるために大井に出かけたのか? 秀哉が弱いと思われている原因だけど、結局は石井千治先生や
雁金先生が弱いと思われているという事なんだぜ。
どうだろう? 全盛期の石井先生が全盛期の片岡さんと打ったら、
片岡さんが打ち込んでしまうのだろうか?
プロの先生方は石井先生の棋力を検証してくだちい。 シナ版道策全集の一局目は向かい小目でそ?
秀哉は、シナ版道策全集を持っていたんだぜ。間違いない。 秀栄八段が田村を七段にして、田村七段に先の自分は実は九段であると
名人になるためのアピールをした話は有名ですが、田村は実は先輩には
気配りの人だったから、これで秀栄と本気で打てなくなったんだよ。
「よく、この碁を持碁にしたね」というのは、わざと出遅れて
追い込んでドヤ顔か、若造め、という意味なんだよ。
「田村ならこっちが嫌だ」というのは、秀栄よりも田村の方が
強いとみんな知っていたということだよ。 全集買ったから人物評見に来たらキチガイコテハンの巣だった 田村は金に汚いから秀栄に嫌われてたという理由が
現代囲碁棋士の田村推し皆無って理由じゃない
田村の棋譜見て強いって思うプロがいないからなんだ ・いつからか知らないが、黒は秀策・白は秀栄を並べるのが良いと言われていたから誰も秀哉を並べなかった。
・秀栄を並べるとやられやくとして出るから、わざわざ秀哉の棋譜を並べなかった。
・秀哉の全集が出る頃には、呉清源、木谷実等のスターがいたので誰も並べなかった。
・そもそも古碁を並べる人なんてあまりいないので並べなかった。
・葬り去るべき過去の権威だったので誰も顧みなかった。
・ズルするので嫌われていた。
色々理由を考えたけど、秀哉も秀栄には敵わないと言っていたから、秀栄より弱いと言われても
に気にしないだろうね。
そもそも棋譜だけ見て相手の強さをどこまで判別できるのかな? チクンが秀哉の過小評価はおかしいっていってた
まあ、チクンも秀和の方が好きなんですけどね
現在のプロは古碁なんて並べないのかも
高尾も「小説読んで興味が湧いたので道策はじめて並べてみました」とかブログに書いてたし
一方山下は秀和全集(10万円)を持っている模様 名人を読んで全集を買いました。師とお呼びしてよろしいでしょうか。
とゆーか秀哉会ってどんな人が会員なんだろうか。 秀哉の碁って無理筋から戦いにもって行く事が多いよね
アマ5.6段なら 秀哉の碁を並べた方が良い
秀策とか秀栄の芸を素人が理解するのは無理。 f
f
f
f
f
f
fd
dd
d
d
d
d
dg
d
s
dg
g
dh
えd
j
f
j
fj
f
j
j まだ本因坊秀哉と対局したことのある人は何人かご存命のはず >>428
徳川慶喜も囲碁をやっていたと記憶している 古今東西の名人名手が束になってもソフトに勝てないご時世なのだから、
強弱を論ずるのは時間の無駄。 道策や秀策、秀哉が今のAIと打ったらどんな感想を持っただろうか。
バサラ気質の秀哉だったら碁盤ひっくり返してたかもしれない。 『名人』読んでいます。文中に出てくる赤ちゃんは、小林泉美さんの伯父のはず。 大竹君って木谷実だよね?
なぜ大竹君にしたのだろう・・・・ 林芙美子随筆集「文学的断章」(昭和11年)収録「本因坊秀哉氏」より
何もこれはと云ふ愉しさなぞないと云って芯からつまらなそうでもあるが、
十歳の時から碁が好きであったと云ふだけに、碁と本因坊とはプラスまたプラスで、
色々な世間の事には興味がないと云ふこともうなづけるのだ。
小さい時学校へもやらされたが、昨日習った事は翌日にはケロリと忘れてゐる程、物忘れが早くて、
只々碁が好きであったと云ふことだった。
「学校から、見込みがないと云って断られてしまってね」と、ニヤリと笑ふ。
「本当に碁は好きだった」
と、碁を習ふために、一切の夾雑物を排したガンコさがうかゞへる。まるで芸術家風なのだ。
芝居だって活動だって面白かないと云ふのだから。
まして、日本棋院の前にあるフロリダのダンスホールなんかは本因坊には吃驚ものだらう。
碁と日蓮宗とはどんな関係にあるのか知らないけれども、はじめ支那から伝はってきて、
日蓮宗の坊主達が盛んにやったものだと云ふ。
碁は第一に品のいゝもので、隣の座敷から碁石の音でも聞こえてくると、如何にも閑日の気分がするものだ。 依田以外にも、学校の勉強 オール1でも、タイトルを取れた人がいた。 村松梢風「本朝烏鶯争飛伝・古今碁譚」(大正8年)より
碁に関する珍談奇話は乏しくない。
かつて、二十一世本因坊名人田村氏(本因坊秀哉)が小石川辺へ用達に赴いた帰り途、
ぶらぶら遣って来ると、夏のことで俄か雨に出遇つた。合憎、雨具の用意も無く、
当惑しながら不図かたへを見ると、さゝやかな碁会所が眼についたので、雨宿りの積りで駆け込んだ。
すると四五人の常連がしきりに打ってゐたが、折柄手隙きの席亭が田村氏を側へさし招き、「どれ位お打ちか」といふ。
まさか名人とも云はれず、まだ初心だと答へると、「それでは先づ四目も置いて御覧なさい」といふので、
とうとう本因坊が四目の置碁(下手番)を打たせられたが、どう苦労して負けて遣りたくても、
席亭の石が独りでころころ死んで仕舞ふので、始末におへない。
すると席亭先生感心して曰く「なかなかお強い。それに性のいゝお碁だ」。
同時にこんな噂もあった。本因坊は近頃わざわざ市中の碁会所へ、ヘボ碁を見物に出掛ける。
それは、なまなか上手な碁を見ても参考にならないが、ヘボ碁に限って折々奇想天外の奇妙奇天烈な手を打つので、
大いに会得することが有るんださうだ、といふのである。(※注)
ところが、これらの話はどちらも嘘だ。その後私が本因坊に面会した折に訊いてみると、
毛頭そんな覚えはない、第一自分は未だかつて碁会所へ足を入れたことが無いと云ふ。
総じて奇聞逸話などいふものは、根を洗って見ざれば信用の出来ぬものである。
(※注)この風説(デマ)は、十九世・本因坊秀栄のエピソード(下記リンク先)が誤って流布されたものかもしれない。
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gamestones/1257573901/0140 >>443、>>445 の投稿者ですが、これらの記事は市販の書籍からの無断転載であり、
著作権侵害の懸念が生じてきたため、見なかったことにしてくださいませ(^_^;
なお、転載元は、>>443は、作品社刊「日本の名随筆・別巻1・囲碁」、
>>444も作品社刊の同シリーズで「別巻11・囲碁U」です。
棋士の逸話やエッセイ、囲碁の歴史などに関する記事に加えて、
碁会所通いをする”ヘボ碁打ち”の作家たちのエピソードなどが大変面白く、
紹介したかったんだけどなぁ
無断転載なので、とりあえずやめておきます。
出版社様、何卒ご容赦くださいませ m( _ )m 番号間違えた
>>444ではなく、>>445でした。失礼しました。
>>445も作品社刊の同シリーズで「別巻11・囲碁U」です。 >>446について
下記のリンク先のスレに補足説明を投稿させていただきましたので、
よろしければご覧くださいませ。かなり長いですけど・・・
【解説会】囲碁関連イベントスレ【就位式他】
(レス番号0012〜0018)
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gamestones/1706125974/ スレ乱立スクリプトが続いてるようなので
まともスレ age保守しておきます