識者「ネトウヨはアメリカのリバタリアニズムと日本の陰湿さが融合した『愛国的リバタリアン』という怪物」
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今の日本で起きている「弱者叩き」はアメリカ原産のリバタリアニズムが日本に漂着し、日本独特の陰湿なしかたで退廃したものだと私は理解している。
トランプのリバタリアニズムはこう言ってよければ「あっけらかん」としている。
ロシアとの内通疑惑が暴かれたことによって、彼が「愛国者」であるかどうかについてはアメリカ人の多くが疑問を抱いているだろう。
けれども、リバタリアンにおいて、愛国者であることは実は「アメリカ人的であること」のための必要条件ではない
(国家や政府などというものは「ない方がいい」というのが正統的なリバタリアンの立場だからである)。

けれども、日本では公的立場にある人間は「国よりも自分が大事」というようなことを(心で思っていても)口には出さない。
仮に、安倍晋三が所得税を払っていなかったことが発覚したとしても、
彼は「私は賢いから税金を払わずに済ませた」という言い訳をしないだろうし、その言い訳に喝采を送る有権者も日本にはいないはずである。
日本ではリバタリアンも愛国的なポーズをすることを強いられる。
だから、日本では「リバタリアンでありながら、かつ愛国的」という奇妙な生き物が生まれてくる。
現代日本に跋扈しているのは、この「愛国的リバタリアン」という(「肉好きのベジタリアン」とか「気前のいい吝嗇漢」というような)形容矛盾的存在である。
一方において、彼らは自分が獲得したものはすべて「自己努力によって獲得されたもの」だから、100%自分の所有に属し、誰とも分かち合う気がないと断言する。
同じ理屈で、貧困や疾病や障害や不運などによって社会的弱者になった者たちについても「すべて自己責任で失ったもの」であるので、そのための支援を公的機関に求めるのは筋違いであると主張する。
ここまではリバタリアン的主張であるが、日本の「愛国的リバタリアン」はこれに愛国主義(というより排外主義、外国人嫌い)をぱらぱらとまぶして、
社会的弱者というのは実は「外国人」であるという奇妙な社会理論を創り出す。