【part2】俺の人生、ゴミ!w
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これ次来たとき良い感じにできれば今後の色んな云々に繋がるんかな ここぞという時にきっちり決めきる決定力が足りなすぎる これちゃんと相手と話し合って上手く迎合出来てたら色んな方向に強い繋がりが出来ただろうに… 彼らの非合理性によって価値は多くに広まらず、しかしその非合理性によって彼らの価値が担保されるという難しい話 結局コ〇リスには見放されて(=潜在的な新規参入者をほぼなくしてしまって)しかも運営には論〇サークルを削除されるってマジで本当に萎えるんだが… コレコレに媚びたい気持ちは分かるけどマジで勘弁してくれ運営 直接連絡送りまくったけど全部却下されてるしマジで困るンゴ… ただまァ彼(運営)も彼なりに自己の合理性を追求してる状態なんだよな 俺達みたいな日陰で喧嘩してる陰キャ集団なんて捨ててしまって、俺らを見せしめにしてコレコレに媚びる方が対外的な評価は高くなるよなァ… 何の力もない奴がただただ不条理を叫んでも誰も見てはくれないし、やっぱり>>887で書いたようにタイミングを考えるのが大事なのかな 別に嫌いな奴と笑顔で肩を組む程の迎合性はなかったとしても、軽く会釈して談笑できるくらいの打算性は最初は絶対必要だよな 中学の頃バカみたいに教師に反抗しまくってそのせいで不当に内申を低く付けられたことを思い出した キッズ達が毎日必死こいて考えた文章とかも全部消されてんだけど 俺たちに配慮してもメリットがないのは分かるけどそこまでして居場所を奪う必要あるか??そこまでしてコレコレに媚びたいのかよ まず怒ったりキモさを感じたりするのって単に俺が損をしてるだけなわけだし、そういった状況から一旦身を引くのがいいのかな ネット界隈の価値観ってマジで場所によって違うんやなって思った1日だった 「死人かが出たらネタにして笑う」「ひたすら相手のコンプレックスをバカにする」「少しでも弱みを見せたらそれを言い続けて追い詰める」みたいな行動が当たり前の界隈にずっと居たから、昨日の配信も全然"普通"の範疇だと思ったんだけど、Twitter見てみたらみんな大荒れでビックリした 「最新の科学に囚われず古来の伝統を利用したら事が上手く進みました」系の話ってやけにウケがいい気がするけど何でなんやろ >>942のような価値観の固定化を防ぐためにも、>>675あたりで指摘した界隈の分散性(簡単に言えばずっと同じ様な場所に居ない)ってのは大事だよなァ… >>675付近の>>674あたりも書いたはずなのになんで安価はずれてんの 一応>>939 >>940でIdが繋がってたからよかった 個通でずーーっと話してて、自己の(対外的な)評価にも利益にも繋がらないけど(しかも話の内容も言語的な議論であって実利性は全くない議論だけど)死ぬほど楽しい でもだからこそ、こんなことばっかりしててもダメなのかなって思って悲しい 「無益だが楽しい時間を大切にしろ」的な美徳に無意識に洗脳されてしまってる感じがする これ(無益な8時間消費)がスマホや5chだったら無意味に感じるのに哲学的な議論だと素晴らしく思い込みたくなるのもある種の宗教的な感性なのかな さっきふと>>182を思い出したんだけど、これは最近考えてた「性格の自己暗示性(=『自分はAという性格だ!』と考えるとよりその性格が強化されていく性質)」とも関係があって、そしてそれはサンクコスト理論的な云々とも実は関係してるのかも そう考えると、他者の破滅的性質をある種の"風流"的な文脈に帰着させて、本人に対してそれを言語化して賞賛する(あるいは直接的な賞賛じゃなくても、逆に「お前はそういう馬鹿なところがあるからなァ!」みたいな感じでメタ的な仕方で賞賛する)方法ってかなり残酷なことだよなァ… 俺は別に動物愛護団体とかでは全くないけどかなり強い功利主義的な価値観を持っていて、しかもその功利計算の対象は「苦しんだり喜んだり…というような快苦の感性を持っているか」という部分で決めるべきだと思っているから、(実際にどうするかとかではなく理論上の道徳法則で考えたら)動物や魚にも人間と同等の(少なくとも思想上の)権利を与えるべきだと思ってる こういう話をすると多分キ〇ガイ扱いされるんだろうけど、これは別に「動物可哀想すぎるンゴ!!!ヴィーガン最高!!w」みたいなノリで感情的に言ってるわけでは全然なくて、むしろ俺は明日からも美味しく豚肉を食べたいし食べることはできるんだけど、たた単に論理的に結論を出すとどうなるかってのを話してるだけ(まァその上でもキチガイ扱いされるのかもしれないが) 動物の命を何の疑いもなく軽視している人(あるいは一瞬可哀想だと思っても次の瞬間にはすぐ「でも仕方ないでしょ」みたいに割り切ることができる人)は、多分時代が違えば簡単に女性や黒人やユダヤ人をモノ同様に扱ってた人だと思う まァこんな話をすると「人間か人間じゃないかの違いはあるだろ」みたいに言うんだろうけど、俺は(さっきも言った通り)「快苦の感覚があるかどうか」がより本質的な構造に思える 「肌が黒いだけで不当にそれを苦しめるのはいけないことだ」って言うのなら、同じ様に「足の本数が異なって声や意思疎通の方法が違うだけでそれを不当に苦しめるのはいけないことだ」って全然妥当に言えると思う
(もちろん、それでも感覚的には「人と動物は何か違う!」と感じるだろうし、罪悪感や悲哀の程度も違うだろうけど、あくまでもそれはただ単に感情的な要素であって理性的な道徳判断とは違うと思う) まァ「どこまでの感覚が『感情的』と排されてどこからの感覚が『道徳法則』の内部に介入するか」的な線引きも俺の感覚でしかないけれど、それはメタレベルの感覚性の話であって、「そこ(メタ)が感覚的であること」と「そのメタを適用した倫理感覚において『感覚』と『妥当な思考』を分離可能なこと」は十分両立すると思う 例えば、「白人を虐めるのは可哀想だが黒人の場合はなぜかモノのように感じてしまい何ら罪の意識が湧かない」と言っている人がいたら、「それ(罪悪感の欠如)はあくまでも感情的な要素であって、妥当な道徳判断においては白人も黒人も同様に虐めることはいけないことだ」(=感覚と判断のメタ的な峻別)となると思う
そしてこの「メタ的な峻別」それ自体も我々の感覚で行われていることだと思うけど、だとしてもそこの感覚性は直ちに誤謬(矛盾)には直結しない 動物に関しても俺はこれと同様の議論であるように感じる 「ある感情がただの感覚的な要素なのかそれとも道徳判断の1部なのか」を論理的に峻別する方法ってあるのかな 「全て人間の感覚だ!」みたいな的外れなアレはやめてほしい ここ(「感覚or道徳判断 のどっち!?」)でいう「感覚」ってのはそういう根本的な感覚性の話じゃないでしょ感 >>993の「十分両立すると思う」ってのは当然「論理的に両立する」ってだけの話じゃなくて、「論の構造として何の不当性も持たずに両立する」ってニュアンス レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。