0893鳴嶋"ゼレンスキー"英雄
2023/05/23(火) 11:14:41.82ID:7ybs2GfZ明治7年、明治政府は日本初の総合的医療・衛生制度である「医制」を公布する。中心となったのは、文部省医務局長や東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を務めた長与専斎だ。状況が変わったのは、翌8年に「医制」の所管が、文部省から内務省に移った時だ。明治19年には衛生局が設置されるが、警保局が所管した衛生警察行政の影響を受ける。
警保局は、大逆事件を機に、明治44年、思想警察である特別高等警察(特高)を設置、大正14年に制定された治安維持法を所管した部局だ。当時、警保畑の内務官僚は、衛生警察と特高をローテーションした。これが我が国の公衆衛生のひな型となる。
現在も影響は残っている。感染症法は、患者の検査や治療を受ける権利には言及せず、国家による強制隔離を認めている。基本的な枠組みは明治以来変わらない。