69なもんじゃねー自転車乗り 2
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新型コロナウイルスの流行は「第8波」を迎え、感染の拡大が騒がれています。厚生労働省アドバイザリーボードの脇田隆字座長によれば、流行のピークが年内に到来する可能性があるそうで、「大きな波が来る」という指摘も、あちこちで聞かれます。 また、世界保健機関(WHO)は、12月5~11日の週間感染者数が日本は前週比13%増の84万9371人で、6週連続で世界最多だ、と発表しています。 そんな話を聞かされれば、新型コロナはまだまだ怖い、特に日本では怖い、と思う人が多いのも、わからないではありません。 しかし、なぜ日本の感染者数が世界で一番多いのでしょうか。それは、PCR検査を徹底して感染者を洗い出し、細かく数えている国が、もはや日本しかないからです。新型コロナはもう怖くないと判断し、コロナ前の社会に戻すのが今日の世界標準なのに、日本だけは異常なまでの感染対策を続けています。 まず、そのことを意識してみてください。そのうえで、「第8波」の実態をチェックしてみましょう。 今年前半の第6波以降、新型コロナウイルスが変異株のオミクロンに置き換わってから、感染の形は劇的に変わりました。それまではウイルスが肺に届き、肺炎を起こすからやっかいでしたが、オミクロンは滅多に肺まで到達せず、たいてい上気道で止まります。ウイルスが口の近くにとどまるため、他人にはうつりやすくなり、感染者数が膨らみましたが、亡くなる人は少なくなりました。 今年夏の第7波では、一時、重症者数が少ないわりに死者数が多いように思われました。しかし、これは第6波以前の感染者で、人工呼吸器をつけるなどしていた人が、その時期に亡くなったためです。 新型コロナはいまも、感染症法上で危険度が上から2番目に高い2類以上に位置付けられています。しかし、現実には、5類に置かれている季節性インフルエンザよりも、病原性が弱くなっています。事実、厚労省のデータを見ても、重症化率はインフルエンザの0.08%に対し、新型コロナは0.01%と、8分の1程度。致死率も新型コロナは0.08%で、インフルエンザの0.09%よりも若干低くなりました。 それなのに、新型コロナが流行すると「医療が逼迫(ひっぱく)する」と騒がれるのは、ひとえに2類だからです。 インフルエンザがはやっても医療が逼迫しなかったのは、インフルは5類であるため、かかりつけの町医者で、普通に診てもらうことができたからです。ところが、現在は新型コロナが2類以上なので、熱が出たら発熱外来がある病院に行き、PCR検査を行い、コロナの陰性が証明されないと、町医者では診てもらえません。病床数自体は足りているのに、医療が逼迫する恐れが生じるのは、危険性はインフル未満の新型コロナを、相変わらず特殊なものとして扱っているからにすぎません。 とはいえ、国民もバカではないので、「第8波だ」「感染が拡大している」と脅されても、マスクはしながらではありますが、それなりに外出しています。街を歩いていると、一見、人出はコロナ前に戻ったようです。しかし、コロナ前と異なる点が、しかも大きく違う点がひとつあります。高齢者が戻っていないのです。 これまで感染が拡大するたびに、政府や感染症の専門家たちが、外出自粛を呼びかけてきました。その都度「高齢者は重症化しやすい」と言われたため、いまも怖がって、外出を控えてしまう高齢者が多いのです。結果として、足腰も脳も弱ってしまう人が多いことが、残念でなりません。 まずは、新型コロナの病原性が、いまやインフルエンザ未満であることをしっかり認識し、現在の感染状況と冷静に向き合ってほしいと思います。 ただ、日本の政治家たちを見るかぎり、簡単には冷静になれないのもわかります。政府は厚労省に「屋外ではマスクの着用は原則不要」と小声で宣伝させる一方、国会では総理大臣以下みなマスクをし、外国の人と会うときだけ外しています。政府や政治家がこんな冷静とは言いがたい姿勢であれば、コロナが怖い病気なのか、そうではないのか、さっぱりわかりません。 権威主義の国である中国でも、いまや人々が命がけで移動や営業の自由を訴え、ゼロコロナ政策から転換されました。ところが日本は、先の参議院選挙でも、コロナ自粛に反対したのはNHK党と参政党くらいで、「自由が大切だ」という政策は出されません。どこの国でも、自粛をすべきか否かで国論が二分されるのに、日本はコロナの前に白旗を揚げてしまっています。この状況は自由主義の危機でもあると思うのです。 とにかく、コロナウイルスがここまで弱毒化しても、国民全員がマスクをし続けるべきだというなら、日本人は未来永劫、マスクを外せなくなってしまいます。 マスクには害がない、と思っている人が多いですが、間違いです。マスクを着用していると、吐いた息を吸わなければならず、これは明らかに体に悪い。 また、欧米の人がマスクを嫌うのは、彼らには相手の顔を見て話したい、という意識が強いからです。ところがいまの日本では、相手の笑顔を見ながら話すことができず、外に出ても人の笑顔が見えません。 笑顔には人をリラックスさせ、気分を良くし、ひいては免疫力を高める効果があります。それなのに、笑顔が見られない生活が何年も続くのは、非常にまずいことで、免疫力の低下ばかりか、うつ病の増加にもつながります。 新型コロナが死なない病気になったのに、マスクだけは外さない。そのことには、明らかにデメリットがあります。いまの日本はマスクをしない人への同調圧力が強いですが、その弊害をしっかり認識しておいて損はありません。 マスクだけではありません。過度の自粛の弊害で弱ってしまった高齢者が多いのに、日本老年医学会も日本精神神経学会も、「外に出ないと足腰が弱ってしまう」「日に当たらないとうつになりやすい」といった警鐘を鳴らしません。コロナ自粛のせいで健康被害が生じていると知りながら、言わないのです。 これは日本の医学界における構造上の大きな欠陥で、ほかの医者がすることには口出ししない傾向があります。この場合は、感染症の専門医からカウンターパンチを食らうのを嫌い、彼らに忖度してダンマリを決めているわけです。 その結果、政府の新型コロナ対策分科会の尾身茂会長らが象徴的ですが、古い医学モデルが押し付けられたままになっています。 感染拡大の初期、まだウイルスの実態もわからなかった時期に、自粛優先を受け入れたのは仕方ないでしょう。しかし、この感染症に関する知見が蓄積されても、いまの分科会のように考え方を変えられないのは、専門家が脳の老化現象を起こしているのではないかと疑ってしまうほどです。 分科会には感染症の専門家のほか、精神科医や老年医学の専門家なども加えるべきでした。また、尾身会長をはじめ、権威とされている学者ばかりを集めすぎました。 すでに権威づけられている人ほど、状況が変わったり、新しい論文が出たりしても、フレキシブルに対応できない確率が高いものです。たとえば、ノーベル賞受賞者を迎え入れたところで、すでに認知症かもしれないのです。「昔の名前」は当てになりません。 感染症専門家と称する医師たちのレベルは、ワクチンについての発言にも、如実に表れています。 ワクチンの役割は免疫細胞を教育することです。どれが敵かを認識させ、どう攻撃するか免疫に教え込む、いわば教官がワクチン。したがって、すでに免疫力が落ちてしまっていると、いくら教育してもたいして効かないので、ワクチンの効果を高め、効き目を長持ちさせるためには、免疫力を高める必要があるのです。 ところが専門家たちは、接種後に「ワクチンの抗体価が下がる」という指摘ばかりします。接種後に、その効果がどの程度持続するか。それは接種した人の免疫力と関係があり、免疫が低下すれば、抗体価が下がるのは当たり前のこと。 専門家たちに「ワクチンが有効に作用するためにどうすべきか」という視点がないのです。感染症学者と称する人たちが、免疫の仕組みすら理解していないことには驚愕します。 とにかく、こういう人の言いなりになって、自分が衰えてしまっては、元も子もありません。 私の外来に来られる認知症の患者さんには、本人がコロナを怖がっているため、家族が薬を受け取りに来る方と、本人が歩いて来られる方がいます。後者は「歩かないと歩けなくなりますから」と言って、元気に歩いて来られて、実際、足腰の健康を保っています。一方、前者はいらした家族に聞くと、「コロナを怖がって外出しないんです」という話で、私が「足腰が衰えていませんか」と聞くと「だいぶ衰えましたね」という返事です。この両者の差は非常に大きいです。 ここ2年数カ月、「高齢者を感染から守る」と言われてきましたが、結果、高齢者ばかりが割を食ってしまいました。 日本では年間130万~140万人が亡くなります。しかし、現在、このうちの100万人くらいは、死に目に家族や親しい人に会えていないと思います。ほとんどの病院が見舞いを禁止している以上、孤独な死が避けられないのが現状です。その意味で、高齢者は新型コロナの被害者というより、コロナ自粛の最大の被害者なのです。 また、年を重ねた人ほど、外でおいしいものを食べられる機会も、自由に旅行をする機会も、いつまで得られるかわかりません。80歳の壁を無事に越えることができたとしても、85歳になっても同じように行動できるかわからないのです。このような老後の楽しみ、老後にこそ、と思っていた楽しみを、味わえないまま亡くなるとしたら、これほど不幸な晩年はありません。 しかし、最初に述べたように、この第8波においては、コロナの病原性は季節性インフルエンザ未満です。そんなもののために、いま輝けることを失ってしまってはいけません。 そもそも高齢者は、若い人にくらべて高い健康リスクを背負っています。毎年、風邪をこじらせて1万~2万人が亡くなり、風呂場で亡くなる人が2万人程度、そのうち溺死の人が6千人程度いるといいます。でも、死ぬのが怖いから風呂に入らないという人がいるでしょうか? 同様に、コロナが怖いから外出しない、という考えは避けるべきです。繰り返しますが、外出せずに足腰が弱ってしまうリスクのほうが、よほど危険だからです。 これまで連日、テレビなどで「高齢者が感染すると危険だ」と連呼されてきましたから、高齢者が外出したいと言っても、家族が反対するケースもあるでしょう。しかし、高齢者と同居している方も、第8波の実態を冷静に見極め、高齢者が閉じこもらないように心がけてほしいと思います。 人間、生きているかぎり、さまざまなリスクに囲まれています。そして年を取れば、残念ながらリスクは増加します。交通事故で亡くなる人のおよそ6割が高齢者だという事実からも、そのことは伝わると思います。しかし、交通事故が怖いという理由で外出を控える人は、ほとんどいないのではないでしょうか。それなのに、新型コロナという特定のリスクだけを怖がって外出をしないというのは、冷静に考えれば、ほとんど意味がないことです。 すでに少し述べたように、毎年、インフルエンザで約1万人、風邪で1万~2万人、肺炎で約10万人が亡くなります。現在は、そこに新型コロナが加わっただけの状況です。今年はコロナによる死者が3万人を超えたそうですが、いまは、たとえ交通事故で亡くなった人からコロナウイルスが検出されても、コロナ死にカウントされています。多くなって当然なのです。 現在、日本には90歳以上が約200万人、要介護5の人が約60万人います。この人たちは、風邪のような普通の病気が、死につながりかねない予備軍です。一つのリスクだけを遠ざけたところで意味がない人たち、と言い換えることもできるでしょう。 ですから、高齢者の方々は、発表される死亡者数などに惑わされず、リスクをある意味、運命と悟り、残りの人生を充実させてほしいと思います。 食うに困った高齢者が、刑務所に入れば3食出してもらえるからと、万引きをしたりする事件がたまに起きます。とはいえ、刑務所では人生を楽しめない、と感じる人のほうが多いはずですが、コロナを怖がって外出をせず、宅配の食事ばかり取っているのでは、刑務所にいるのと一緒です。いや、刑務所では、高齢の受刑者が動けなくなると困るので、運動の時間があります。その意味では、コロナ自粛は刑務所以下です。 しかし、これまで家にこもっていた人も、まだフレイルの状態で止まっているなら回復できます。 フレイルとは、加齢とともに運動機能や認知機能が低下してきた状態で、正常な状態よりは低下していても、まだ要介護ではない段階です。とにかく動かないでいると、フレイルになりやすいのですが、頑張って運動すれば元に戻すことが可能です。 70代なら歩くことで回復できるということです。80歳を超えると、自粛した途端に要介護、というケースもままあるのです。 ですから、なにはともあれ外に出ましょう。要介護になりたくなければ、家のなかで歩ける人は、まず外に出て歩くことです。 現在、日本に要介護の人が500万人程度いるといわれ、このままではすぐに700万人ほどに増えるでしょう。1人につき年間約200万円の公費がかかるというので、財政的にも大変な負担になります。 そういうことも考えたうえで、岸田文雄総理は勇気をもって「新型コロナはすでに風邪並みだ」「インフルエンザよりも弱いのだ」というメッセージを発するべきですが、残念ながら、万が一の感染増加を怖がって言いません。 しかし、政治家に覚悟がない以上、一人ひとりが自分の身を守るしかありません。そのためには、外に出て歩くこと。人と積極的に話をすること。おいしいものを食べたり、好きなことをして思い切り楽しんだりすること。 特別なことをする必要はありません。コロナ前と同じような生活に、意識的に戻すことが大切です。 コロナ博士 鳴嶋英雄 平成4年の上皇陛下の中国へのご訪問は、歴史上、 わが国の「天皇」として初めての出来事だった。 先に、出発前の記者会見での受け答えと、中国の楊尚昆国家主席が 主催した晩餐会でのスピーチの“見事さ”について、紹介した。 更に2点、興味深いエピソードを取り上げる。 その1つは、ご滞在中に西安で記者の質問に 答えられたご発言(平成4年10月27日)。 「(西安は唐の都・長安の故地だが、 中国における長年におよぶ戦乱の為に、 古代の遺物がほとんど失われている事実に触れられて) 日本は古くから中国の文物を取り入れてきましたが、 正倉院を始めとしてよくそれを保存してきたということに、 改めて思いを致しています。 恵まれた日本の歴史と平和の重要性を感じています」 唐の都・長安の故地を訪れて、「恵まれた日本の歴史」を 改めて銘記されたとおっしゃった。 これは、戦乱に明け暮れたシナの歴史への厳しい批判に、 ほとんど等しい。 この時、上皇后陛下も次のような意味深長な感想を述べておられた。 「日本文化、とりわけ古代文化が、 中国から受けた大きな影響を思うとともに、 文化移入の折に行われた取捨選択を通し、 日本文化の特性を考えてみるのも面白いのではないかと感じました」 わが国は古代以来、シナ文明の巨大な影響を受けて来た という事実がある一方、それでも日本の固有性・主体性を踏まえた 「取捨選択」が行われており、まるごとシナ化した訳ではなかった。 その取捨選択の検証(特に何を“捨てた”か)から「日本文化の特性」を再発見できるはずだと、 控えめな言い方ながらおっしゃっている (私なぞが直ちに思い浮かべるのは、シナの「男尊女卑」 という価値観から強烈な影響を受けながら、 例えば神話上の最高神で皇室の祖先神が“女性”の 天照大神であるという一点は遂に揺らぐことがなかった、 という事実など)。 「からごころ」に呑み込まれなかった 「やまとごころ」の在処(ありか)を示唆しておられる。 次にもう1つ、翌年の歌会始(お題は「空」)での、 中国ご訪問を題材にされた御製(ぎょせい)と 上皇后陛下の御歌(みうた)を取り上げる。 御製 外国(とつくに)の 旅より帰る 日の本の 空赤くして 富士の峯(みね)立つ 御歌 とつくにの 旅いま(今)し果て 夕映(は)ゆる ふるさとの空に 向ひてかへる どちらも視線はひたすら「日本」に向かっている。 「中国」という国名すら出て来ない。 その上で、上皇陛下は「日の本」の夕映えの空に雄大に 聳(そび)える富士の姿を、誇り高く詠(よ)み上げておられる。 上皇后陛下は同じ夕焼け空を詠みながら、 祖国日本への思いを「ふるさと」という語に優しく託しておられた。 毅然たる雄大さと穏やかな優しさ。 それぞれ上皇陛下、上皇后陛下らしい違いはあっても、 共に中国を訪れられたことで一層強まったかとも拝される、 日本(「日の本」「ふるさと」)への誇りや愛情が、すっきりとした音律の中に情緒深く詠み込まれている。 これが上皇・上皇后両陛下ご自身によるご訪中の“総括”だった。 宮沢内閣が国内の強い反対を押し切って 無理やり実現させた上皇陛下のご訪中は、 忌憚なく申せば政治的には明らかに失敗であった。 そのことは、何よりもその後のわが国と中国を巡る 経緯自体が、疑問の余地なく証明している。 しかし、あの時の上皇・上皇后両陛下の 格調高いお振る舞いは、むしろ歴史上、 誇るべき偉大なご事績だった。 そこを混同してはならない。 竹内久美子の昨日のツイートです。 いまだに皇室の運命を未確認人物に賭けようとしている竹内。 旧宮家系国民男子が皇籍取得をするのは、 門地による差別で憲法禁止と知らないのでしょう。 女系になったら皇統消滅というのは完全なるデマ。 Y染色体にひざまずく竹内久美子の男系に固執する妄言こそが、 男でも女でも天皇の子供が天皇になれる、直系継承の妨害をしています。 愛子天皇誕生ために、 男系固執派をガンガン論破しましょう! 俺さん(45歳男性・無職)結婚できなくて、真実ほんとうに善かった… クーラーや暖房の設定温度や時間で揉める事もないし子供もいる妻が知人と危険日中だしセックス不倫の挙げ句の果てにメンヘラになって泥沼裁判になる事もないし風呂上がりにビチャビチャのままリビング直行してキンキンに冷えた一気飲みしてもキレられないし今も全裸で何にも言われないし 結婚とか無理だわ、よくみんな出来るな、すげぇよ 結婚できている方々って夫婦や親子といえど自分以外が居てもストレスフルじゃないんでしょ? >>510 アンタ、専用ブラウザ使ってないの? 俺はとっくに読むのやめたけど 内容が同じことの繰り返し 目新しいものがない 加えて、主観のみ 読む価値ないでしょ >>484 こす兄は据え付け工事もやるの毛? やれるやろけど、保守が専門やと思とった >>485 はよ目的答えんかい! 掃除用具が汚れるのは当たり前じゃ それと >405 >435 のコメントはよ >>511 ようするに自分の負けを認めたくないんだね >>512 要するに自分の負けを認めたくないんだね? この手の報道、煽り芸しか感じませんが‥‥ 医師「倍いる感じ」感染者数は夏の半分程度でも“第8波”死者数が過去最多に https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000281643.html 第8波というがごとく、3年間で8回目の経験です。 日本の医療関係者の皆様はPDCAのCが大変苦手なご様子です。 本件の唯一の解は、コロナの類型見直し‼‼ 直ちに5類以下とし、普通に近所の開業医やかかりつけ医が早期の初期診療行う体制とすべきことは明々白々‥‥ いい加減2類維持にぐずぐずこだわっていると、大きな禍根を残しかねないこと(いや、もうなってますが‥‥) 肝に銘じて頂きたいです!!!!! この国には言論の自由があるので、人は誰でも「オオカミが来たぞ~!」と叫ぶ権利があると思います。 初めから「オオカミなんて来るはず無い」と決めつけるのもリスクが有ります。 今度こそオオカミが来たのかもしれない。 しかしながら 「あの時、本当にオオカミは来ていたのか?」 「あの少年は、どうしてオオカミが来たなどと叫んだのだろうか?」 という検証は必要だと思います。 今までさんざんこの手の報道がされてきました。 これからもきっとあるでしょう。 そのたびに「検証」もせずに、また同じトーンで叫ばせるのでしょうか? 「煽りっぱなしOK」にしている日本人の気質が、どうにも違和感があります。 インフルエンザ 全国的な流行期入り コロナ拡大以降初 厚労省 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221228/k10013937291000.html 記事によりますと・・・ 新型コロナウイルスとの同時流行が懸念されているインフルエンザについて、厚生労働省は全国的な流行期に入ったと発表しました。全国的な流行期に入るのは、新型コロナの感染拡大が起きて以降初めてです。 厚生労働省によりますと、今月25日までの1週間に全国およそ5000か所の医療機関から報告されたインフルエンザの患者数は前の週より3511人多い6103人でした。 インフルエンザは、1医療機関当たりの1週間の患者数が全国で1人を超えると「全国的な流行期」入りとされていますが、現時点で「1.24人」となり、「1人」を上回って流行期に入ったとしています。 ・・・というものです。 コロナ禍に入ってから、一昨年、昨年の冬はインフルエンザは流行しませんでしたが、この冬は流行期に入りました。 このニュースを読んで気になったのは以下です。 ①コロナウィルスとインフルエンザを同時に感染することが起きるか起きないか。 ②コロナワクチンが免疫に与えた影響が、インフルエンザが流行することでどういう事態になるか。 ③mRNAワクチンを何度も接種後、インフルエンザワクチンを更に接種するとどうなるのか。 どれも未知の領域だと思います。 実際どれくらいインフルエンザが流行するのか分かりませんが、規模によってはインフルエンザワクチンキャンペーンも始まるでしょう。 これからますます寒くなりますし、年末年始は人の移動も増えます。 インフルエンザの感染爆発がおきませんように。 「ウイルス干渉」を前提に考えますが。 もしインフルエンザが流行するとしたら、それはコロナの感染力がインフルエンザに比べて相対的に弱くなったということだと思います。 本来であれば「コロナの毒性はインフルエンザより弱い」のだから、インフルエンザよりもコロナが流行っていた方が良いはずです。 しかし【コロナ人災】のことを考えると、むしろインフルエンザが流行した方が良いと思わざるを得ないです。 「インフルエンザってさ、メッチャしんどいし、メッチャ人死ぬやん。」を実感で思い出した方が、この国にとってはいいのかもしれないです。 「コロナの影響で失われた婚姻数は3年間でおよそ16万6千件」とテレビ朝日が報道したようです。 テレ朝ニュース コロナの影響で失われた婚姻数 3年間で16万6000件 https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000281691.html ヤフーニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/f0ee062799d252b68c26ac77a37256d5c7d50ae4 新型コロナの影響で失われた婚姻数は3年間でおよそ16万6千件にのぼるとの試算が公表されました。 東京財団の千葉安佐子研究員らの試算によりますと、2022年の婚姻数はおよど50万件と推計されます。 2020年からの3年間で新型コロナの影響で失われた婚姻数はおよそ16万6千件となりました。 コロナ前から続く減少傾向がさらに加速した形です。 この「失われた婚姻数」の埋め合わせがない場合、「失われる出生数」はおよそ25万5千人にのぼるということです。 去年の日本の出生数は過去最少の81万1千人でしたが、減少ペースは加速しているとみられ、新型コロナが日本の人口減少に与える影響は中長期的に続きそうです。 コロナ人災は、今の子供達への悪影響にとどまらず、「まだ見ぬ子供達」にまで取り返しのつかない影響を与えていたのですね。 その”被害”は、誰にも測れない。 ・・・ 婚姻も、男女交際も、人と人との付き合いも、社会(世間)のルールで消滅させられた。 フツーに考えれば、それに激怒するのは、恋愛ソングやロックンロールを歌っていたようなミュージシャンのはず。 ところが彼らは社会(世間)に追随するのみ。 なるほど、実にお利口さんだわ。作品と人格は別というわけですな。 ホントくだらねぇ。気に入らねぇ。 俺っちは「コロナ勉強会」以来、宮沢氏とは共闘する必要もないし、あちらはあちらでワクチンの危険を訴えていけばいいと思っていましたが、完全に見限りました。 結局彼も自分の「世間」から自由になれない人だったのか、なんなのかもうわかりません。 「さもありなん」と言ったところです。 俺っちは最近確信していることがあって、 それは人の本性は「予期せぬ局面」の時の咄嗟の反応で見てみないと分からない。 本性を知るからこそ、友人は長い付き合いになる。 本性を知るからこそ、恋人との付き合いは短いものになる。 宮沢孝幸と忽那賢志。 「本性」の部分で似てると思います。 「元気でなっ。」と言うしかないですね。 俺っちに論破され、逃げ回ることしかできない、可哀想なイシバシ改めイシマルちゃん(笑) http://www.wazamono.jp/img/bicycle/src/1672272837964.jpg 使用法 これをメダカ水槽に沈める(4~7個) 水をかきまわす 10分ほど放置 再びかきまわす これを何度も繰り返す 最後にこの容器を水槽から出す 水を捨てる はい、わかったかな? 忽那賢志とが、外で仲良くマスクして写真撮ってる 様子を見たが、これで「ベルト歌舞伎」の意味が全部 分かった。 まあ、それで良かろう。 もともと「マスク会食」を生み出したのは宮沢氏なん だし、忽那は最近、マスクは大して意味がないとか 言い出しているのだから、「我こそは専門家なり」と 自己主張しても虚しいだけ。 「専門家」「学者」という肩書きが、いかに無意味か ということを思い知ったのがコロナ禍だった。 これを教訓の礎にしなければ、人類は進歩しない。 女とは感情の生き物だとは昔から言われていて、 男尊女卑の時代錯誤のオヤジたちは、女に対して マウントをとるために、安易にそれを言いたがるし、 フェミニズムはそれに怒りを表明し、断固否定する。 たしかに男の中にも、客観性を失って、感情でしか 反応してないヒステリー馬鹿は多い。 今年もそういう男の言動は見てきた。 だがそれでも女は感情の生き物のようで、自分の謎の 言動の原因をどう突き止めようとしても、本人が 本当に分からないということがあるようだ。 分からないのか、分かりたくないのかは、もっと踏み 込まないと分からないのだが。 一瞬の理不尽な言動の「遠因」はどうやらあるようで、 まるでフロイト分析のようにして、そこを推察し、 指摘するのを控えるという誤魔化し方をする他ない。 自覚させるというセラピーのやり方が、現実社会の中 では、必ずしも正解ではない。 自分で自分の精神分析が出来ないという人間は確かに いる。 皇統の男系固執になった女性論客もその類で、自分の 言動の精神分析が出来ない人種なのだ。 自覚したくないのは現在が心地よいからで、放っておく ほうがその人のためということもある。 どこまで自分の優しさを発動するか、あえて厳しく 接してやるかは、俺っちの愛情次第だろうが、果たして 他人にまで仏になれるかどうかは分からない。 現在発売中の週刊新潮1月5・12日合併号、巻頭記事は3週連続のコロナワクチン問題で、今週は 『米当局が認めた「コロナワクチン」の闇』 タイトルにあるのは、ワクチンを承認したアメリカ食品医薬局(FDA)ですら、ワクチン接種後に肺塞栓症になる頻度が有意に高いことを認めたという内容。 そして、一向に被害者に向き合おうとしない日本の厚労省や、未だワクチンの危険を報道しようとしない他メディアや医療関係者を糾弾する記事になっています。 こういう記事を3週もトップに組んだのは非常にいい! ところが。 同じ雑誌に載ってる京都大学名誉教授・佐伯啓思と日本大学教授・先崎彰容の対談記事では、ウクライナ戦争に関して、最初にお決まりの逃げ文句を、 「もちろん、ロシアによる戦争は国際法違反であり、人道の面から見ても大暴挙です」(佐伯)、「プーチンが仕掛けた戦争は最悪のものでした」(先崎)などと一言だけ挟んで、あとは「ロシアが直面していた西洋的な近代化に対する苛立ち、違和感というものについても冷静に分析すべき」(佐伯)、「大東亜共栄圏が西洋中心の国際秩序に対する日本の異議申し立てであったように、プーチンはネオ・ユーラシア主義を主張して欧米、NATOに「否」を突き付けた」(先崎)と、愚にもつかないロシア擁護を言いまくっています! これには呆れ果てました。 ウクライナの人々の惨状が、1ミリも頭に浮かんでいないのです。 これだったら、いくらアメリカベッタリでも産経新聞の方がまだマシです。 しかも、佐伯は統一協会問題について何一つ知らないらしく、平然と 「山上容疑者が安倍元首相を狙ったのは全くの筋違いであり、テロは言語道断です」 なんて断言しています。 一般大衆以下の無知識ぶりを、ここまで平然とさらす「知識人」というのもすごいですが。 もちろん、週刊新潮は皇室関係では最低な記事を書き続けてきたわけだし、コロナワクチンに関してだって、あえて目をつぶってほめてきましたけれども、毎回「高齢者に対しては効果があったが」という逃げの一文を必ず入れているのは正直言って気に食わないです。 結局、すべてに納得のできることを言っている人もメディアもないのです。 そんな中で! コロナでも、ウクライナ戦争でも、統一協会でも、そして皇室、皇統においても! すべてにおいて納得のいくことを言っている人は日本でただ一人、鳴嶋英雄だけなのです! この重要性を、もっと多くの人が知るべきです! 年末年始には、ロードバイクに乗ろう! 平成生まれのやつって無能なくせに周りに迷惑ばっかかけやがんなぁって思ったところで、結局平成生まれkidsたちが賢い大人になりたいと思うような世の中を作れなかったおれら現代の指導的世代の責任だもんな。 そういうこと 親が自分たちと同じことやれって言ったってやらない 新型コロナ騒動下で頻繁に使われた単語がある。「誰か」だ。 用法としては「大切な誰かを守る行動を心がけましょう。県をまたぐ移動は控え、マスクを着用しましょう」「あなた自身、そして大切な誰かを守るため、ワクチンの接種をしましょう」「あなたの感染対策が大切な誰かを守ります」といったところか。「大切な人」のほうが出現頻度は高かったが、「誰か」という言葉もそれに負けず劣らず用いられた。 このスレでは 「『誰か』とは一体、誰だ?」という視点から、現代の日本社会のありようについて共に考えていきたい。最初に言っておくが、今回、私はコロナ騒動に限定した話をするつもりはない。人々が当たり前のように口にする「誰か」の背後には、極めて日本人らしい特質や心性が隠されている。そしてこの「誰か」という視点が、いかにして日本人の発言や行動を規定し、縛り付けているか、改めて考察する必要があると思ったのである。 日本人は一体いつの間に、ここまで「誰かのため」を乱発する利他的民族になったのだろう?──私のそもそもの違和感は、これだ。 私の知る大多数の日本人の(いや、日本人に限らず、人間の)本質は「まず自分が得をすることを最優先に考える」「損はしたくない。少しでも有利な方向に身を置きたい」というものだ。どんなにキレイごとを並べたところで、そうした人間の自分本位な一面は隠しようがない。 思い出してみてほしい。限定品が発売されるとなれば「転売ヤー」が早朝から行列を作り、何らかのキャンペーンで「一杯無料」なんてサービスが始まれば大勢の人々が店に群がってきたではないか。2021年9月、かっぱ寿司で「全皿半額キャンペーン」がおこなわれた際には、20時間待ちという常軌を逸した待ち時間まで発表された。まあ、人間なんてそんなものなのである。 2020年3月、コロナ騒動が始まった直後には、店頭でもネットショップでもマスクの品切れが相次ぎ、開店前のドラッグストアには高齢者を中心にして長い行列ができた。程なく「トイレットペーパーが不足する」という言説までも登場し、人々はさらに行列を長くして、トイレットペーパーをせっせと買い占めていった。小売店の棚からあらゆるトイレットペーパーが消え去り、「入荷未定」なんて貼り紙だけがむなしく揺れている……そうした異常な光景を覚えている人も少なくないだろう。 これらはまったく「誰か」に配慮をしていない行動だ。人々が行列に並ぶに当たって意図したのは、あくまで「自分の安全・安心・快適」だけである。本当に「誰か」を大切にするのであれば、以下のような行動をとるはずではないか。 〈オレ、山田甚五郎は開店の4時間前、午前6時にドラッグストアに並び始めた。運よく、列のいちばん前だ。 そして開店40分前の9時20分、店員が「お一人様、マスクは一箱までとなっています。本日の入荷分と店内在庫は58点……こちらの方の分までで終了です。これ以上は並ばないでください」と告げた。マスクにありつけなかった客が騒然となる。59番目に並んでいた男は「えーっ!」と悲痛な声を上げ、いまにも泣き出しそうな勢いだ。 そこにさっそうと声をかけるのが、行列の先頭にいるオレ、山田だ。「いま『えーっ!』と言ったそちらのあなた、どうぞどうぞ。私は行列から外れますので、先頭にお越しください! あなた様のためにマスク、お譲りします。礼? 礼には及びませんよ!」〉 「誰かのため」を真に実践したいのであれば、このように献身的、利他的な姿勢を見せるべきなのである。超難関大学に合格したのであれば「補欠となった誰か」のために合格を辞退すべきであり、キャンペーン限定の豪華賞品が当たった場合には、メルカリやヤフオクで転売するのではなく、落選したことをツイッター上で嘆く人に連絡を取って「着払いでよければお送りしますよ!」と譲ってあげるべきだ。PS5といった希少ゲーム機を入手できたのであれば、店の外で「買えなかった~」と泣く子に無料であげるべきである。 人間はまったくもって「誰か」のために生きていない。自分本位でしかない。それが性根だ。「誰かのため」などとうそぶく連中は、あくまでも社会で「常識」や「暗黙の了解」とされる行動様式に盲目的に従っているだけ。「悪目立ちしたくない」「本当はイヤだけど、周囲から浮いてしまうのは怖い」「攻撃されたくない」と考え、自分を押し殺し、ひたすらに「常識人」「善良な人」とまわりから見てもらえるよう立ち振る舞う。なんと欺瞞ぎまん的な生き方だろうか。 ツイッターユーザーの「ポン・コツオ」氏は2022年12月19日、こうツイートした。電車内を換気するため、誰かが窓を開けた件についてだ。 「大切な誰かをマスクで守ると言いながら、電車内の見ず知らずの誰かに寒い思いさせてどうするんだよ。そんなに外気がほしいならトロッコ列車の沿線行きなよ。」 これは鋭い指摘である。結局「マスク着用」と「ワクチン接種」、そして「移動の自粛」が有効性の有無にかかわらず「誰か」のためになる尊い行為であり、それを励行しない人間は「誰か」を大切にできない自分勝手な人間という空気になってしまっただけなのだ。 しかもタチの悪いことに、これら3つを実践すれば「自分は社会のために役立っている」「他人を大切にできる善良な人間である」と世間から認めてもらえるかのような空気まで醸成されてしまった。それだけにとどまらず、実践しない人間のことを一方的に「反社会的勢力」扱いし、差別する正当性すら与えられたかのように振る舞う連中までも出現させてしまった。 以前、5ちゃんでも指摘したとおり、差別は快感である。車内換気にしても、これが社会の役に立つと思っているのだろう。しかし、今年の日本の12月は猛烈に寒い。大切な誰かが電車内に吹き込む冷気により風邪をひいたらどうするのだ。結局、昨今やたらと目に付くようになった「誰かのため」「利他的であれ」に類する価値観は単なる風潮でしかなく、なんとなく社会のコンセンサスのようになってしまった見当違いの行動様式に過ぎない。 思えば、コロナ騒動の初期の頃、専門家は換気の重要性を説いた。それを受けて、航空会社は「機内の空気は3分で完全に入れ替わるから安心」と声高にうたっていた。だが、いまや日系エアラインこそ、マスク警察の急先鋒である。これも「マスクをすることが誰かのためになる」という珍妙なコンセンサスに従った結果といえるだろう。 搭乗前の待合スペースや機内では「他のお客さまへのご不安解消のため、常にマスクをご着用ください」などと再三アナウンスするくせに、「機内の空気は3分ですべて入れ替わる」ことはほとんど強調されなくなってしまった(少なくとも、私がいつも利用しているスカイマークはそうだ)。むしろ乗客に訴えるべきは「機内の空気は清浄に保たれているので、過度に神経質にならなくても大丈夫ですよ」「こちらからマスク着用を強く求めることはしません。個々人の判断でご対応ください」といったことだろう。そうすれば乗客も安心感を抱けるだろうし、快適に過ごせるようになると思うのだが……。 ワクチン接種を推奨するポスターやチラシなども「誰か」や「大切な人」に類する言葉のオンパレードである。 たとえば、福岡県が作ったポスターの「思いやりワクチン」というコピーは実に象徴的だ。 日本が世界一の陽性者数を2022年7月から10週間連続でたたき出すまで、政府や医療業界は「ワクチンには感染防止効果がある」という設定でとにかく突き進んだ。これが「思いやりワクチン」の根拠になっていたわけだが、その後、陽性者数の増加に歯止めが効かず、ワクチンの有効性に疑問が持たれるようになると、ワクチンを激推しした人々はその事実をシレッとなかったことにし、「重症予防効果がある」「ワクチンが300万人の命を救った」などと言い始めた。 ちなみに、日本は2022年12月中旬、今度は陽性者数7週連続世界一を記録している。「日本は検査数が多いからだ!」なんて指摘が即座に飛んできそうだが、たとえば2022年12月23日、人口846.8万人のニューヨーク(NY)市の検査数は2万9897件で陽性者は2720人(陽性率8.7%)だったのに対し、人口1404万人の東京都における同日の検査人数は2万2022.3件(7日間移動平均)で、陽性者数は9890人(陽性率40.0%)である。 NY市と東京都でデータの取りまとめ方、数字の算出方法などが微妙に異なる可能性があるので、あくまで参考比較ではあるが、少なくとも「NY市は東京よりも数多く検査をおこなっている」「NY市よりも東京のほうが圧倒的に陽性率は高い」ということはできそうだ。 もっとも、具体的な数字をいくら挙げたところで、ワクチン推進派はこれまでまったく聞く耳を持たず、「いいから打て! とにかく打て‼」の大合唱である。一度振り上げたアジテーションの拳は、そう簡単に下ろせないのだろう。ワクチン推奨ポスターを見ると、コピーから必死感すら伝わってくる。 「自分のために。みんなのために。#打ち勝とう #FUKUOKA」(福岡県) 「自分を、患者さんを、そして大切なひとを守りたい。だから#私たちは打ちました」(こびナビ) 「新型コロナ ワクチン接種をぜひご検討ください あなたと、大切な人を守るために」(宮崎県) 「あなたと大切な人を守るため ワクチン接種を考えよう あなたのため わたしのため あしたのため」(長野県) 「正しく知って『新型コロナワクチン』 ワクチン接種は自分だけでなく、誰かの命を守るんだよ。『自分は若いから』、『かかっても軽症だから』と言って油断してはいけないよ!」(岡山県真庭市) 「なぜワクチンを打ったほうがいいの? ・感染したとしても重症化しにくい ・人にうつす可能性を減らす ・ワクチンを接種することで、ワクチンを接種していない人も守る効果がある」(同) 最後の真庭市の呼びかけは、若者に対して完全に「お前ら、自分のことだけ考えているんじゃねー。どこかの誰かを守るためにワクチン打て! その人は誰かにとって大切な人なんだよ」と押し付けたいだけである。 それにしても、この「誰か」という言葉は、げに便利である。「誰かに迷惑をかけるかもしれないから○○をしてはいけない」という言い回しは反論を許さない。ただ、ここで改めて思うのだ。「『誰か』って、誰だよ?」と。 2005年、奈良県生駒郡に出現した「引っ越しおばさん(騒音おばさん、と呼ばれることも)」がテレビやネットで話題になった。布団たたきで布団をバシバシとたたきながら、近隣住民に向かって「引っ越し、引っ越し、さっさと引っ越し、しばくぞ!」とヒップホップ風の軽快なフレーズを、鬼の形相で叫ぶ老婆である。 この場合、明確な被害者は近隣住民である。これは「誰か」ではなく、住所も名前も把握されている人々である。たとえば自転車泥棒が発生した場合なども、明確に被害者が存在する。ならず者が山にゴミを不法投棄した場合であれば、私有地なら土地の所有者に、公的な場所なら役所など所管する組織に迷惑がかかる。投棄の結果、景観が悪くなる場合には、近隣住民にも迷惑がかかることになる。ゴミの処分に公金が投入されるとなれば、ならず者の尻拭いで税金が無駄遣いされる形なので、その自治体に住む住民にも迷惑がかかる。これらの事案は被害者の範囲が明らかなパターンだ。 一方、ゴミのポイ捨てや、かんだガムを路上に吐き出す行為は「誰か」に迷惑をかけることとなる。雨の日、スーパーの床に濡れたビニール製の傘袋を放置したら、滑って転ぶ人が出るかもしれない。これも迷惑を被るのは「誰か」だ。このような事案においては、「誰か」という表現は用法的に正しいといえる。なにしろ、誰が迷惑・被害を被ったのか、判然としないのだから。 傘袋の事例でいうと、仮に不届き者に同行者がいたのであれば、その同行者が「誰かが転ぶかもしれないだろ! 横着せず、ちゃんとゴミ箱に捨ててこい」と注意をするべきである。これらは明らかに「悪事」だからだ。ゆえに「誰か」のためを思って、厳に慎まなければならない。 別の例を挙げるなら、ある属性の人を差別するような発言を耳にした場合、「おい、やめろよ。そんな発言を聞いたら、誰かが傷つくかもしれないだろ」と周囲の人は指摘することもあるだろう。これは「偶然耳にして傷つく人がいるかもしれない」という意味で、「誰か」という大づかみな表現をされても違和感をおぼえない。 悪行だけでなく、善行においても「誰か」という表現は用いられる。年末、市役所のポストに【寄付】と書かれた1000万円入りの匿名封筒が突然届けられたりすることがある。そこには「困っている方のために使ってください」なんて手紙が添えられているわけだが、これはすなわち「市内の知らない誰か」のために使ってほしいと送り主が考えていることを示している。さらに言うと、この送り主に対しても「どこの誰かはわからないが、親切な人がいるものだ」という感想が向けられることになる。 電車で高齢者に席を譲ることもある。この場合は「誰か」ではない。「目の前で杖をついている、座りたいであろう老人」だから、匿名性は薄れる。「誰か」ではなく、明確に存在する「電車内に立つ高齢者」なのだ。 英語で「誰か」を指す単語といえば、まず「anonymous」が思い浮かぶが、ニュアンスとしては「匿名」の意味合いが強い。日本語における「誰か」はもう少し広い範囲に使われるから、英語で説明するなら「someone who might get involved in(もしかして関与するかもしれない想像上の人物)」や「someone you may harm(あなたが被害を与えてしまうかもしれない想像上の人物)」といったところか。ちなみに英語でsomeoneを用いる場合は、もう少し対象が特定されていたように思う。「someone you loved(あなたが過去に愛した人)」や「not you, someone else(あなたのことではない。別の人だ)」、「someone like you(あなたみたいな人)」のように、会話をする者たちのあいだでは「誰か」の匿名性は低いといえるだろう。 善行に関連した「誰か」については、もうひとつ例を挙げておきたい。かつて、ジャーナリストの勝谷誠彦氏(故人)と一緒にタクシーに乗った時のことだ。当時、タクシーの初乗り料金は660円だった。ワンメーターで降りたのだが、勝谷氏は「お釣りはいらないです」と1000円札を渡して、タクシーを降りた。私がこの行動の理由を尋ねたところ、勝谷氏は次のように説明してくれた。 「鳴嶋さんさぁ、あの運転手さん、今日だってイヤな客を相手にしたかもしれないだろ。そんななか、たかが340円だけど、あの運転手さんが少しでもよい気持ちになってくれたら、こちらもうれしいじゃないか。それで次の乗客に対して、丁寧に接することができるかもしれない。そうすれば乗客も気持ちよくなり、客先での会議でよい時間が過ごせるかもしれない。そんなふうにして、みんながちょっとした“よい気持ち”をつないでいくことができたら、きっと社会はよくなっていくと思うんだ」 この話を聞いてから、私も少しだけ勝谷氏の考え方を実践するようにしている。なんの手間もコストもかけていないが、たとえば「横断歩道を渡るとき、ちゃんと一時停止をしてくれたクルマには頭を下げる」といったことだ。横断歩道を渡ろうとする歩行者がいる際、クルマは一時停止をして歩行者の通行を妨げない──これは当然の交通ルールなのだが、あまりに破るドライバーが多い。だから、しっかり止まってくれたドライバーには感謝の意を伝え、その人がその後も一時停止をする気持ちになればいいと思っている。また、単純に相対評価として、一時停止した人はそれだけで「いい人」と思ってしまう面もある。 いずれにせよ、ほんの少しの気遣いで相手が気持ちよくなってくれるのであれば、安いものだ。とはいうものの、匿名で寄付をする人、勝谷氏のようにタクシーの釣りを乗務員に渡す人、横断歩道でちゃんと一時停止するドライバーとその行為に感謝する人は世間的には少数派だろう。 ここで「誰か」と愚行・善行についての関係性に話は戻る。「誰か」に対しての言動は、愚行の場合はハードルが低くなり、善行の場合だとハードルが高くなる。「どうせ自分とは関係のないヤツが困るだけだし、オレがやったとバレないからな」とポイ捨てをするのは簡単だ。一方、1000万円もの寄付金をポンッと差し出して、見知らぬ誰かを救うような善行をするには、よほどの金持ちではないと難易度が高い。 「誰か」という言葉は、このように考えれば考えるほど袋小路に入ってしまう、解釈が非常に難しい単語なのだが、コロナ騒動では安易に使われ過ぎた。専門家やお上が誘導したり、指定したりした「よいこと」「人助け」「誰かを助けるための社会貢献」の文脈で盛んに「誰か」は持ち出され、定義や範囲もあいまいなまま乱用され続けた。私は「だからー! 『誰か』って一体誰なんだよ⁉」と混乱するしかなかった。 ここまで述べてきたような、禅問答的な思考の積み重ねを経て見えてきたのは、本来、「誰か」が指しているものの多くは「被害者になる可能性がある人」だった、ということだろう。一方で、見知らぬ「誰か」から善を受け取ることができた人はとても少ない。 それなのにコロナを経て、あまりにカジュアルな「誰かのために」という言説が日本社会にはびこり、定着してしまったのだ。実際問題として、善行が自然にできる人間など滅多にいない。にもかかわらず、ワクチンとマスクが「誰か」を守り、挙げ句の果てには「ワクチンを打つ人はヒーロー」という言説まで登場した。単語の用法や意味合いが時勢に即して変わることは自然な現象だが、ワクチン・マスクを含めたコロナ感染対策は「誰か」という言葉の意味を急激に変えてしまった。「誰かのために利他的になれ! 善行をしろ! それができないヤツはまともな人間ではない!」という道徳的規範かつ、バイオテロリスト予備軍撲滅キャンペーンになったのである。 さらに、日本人には特殊な行動様式がある。「誰かにむしろ迷惑をかけてしまうかもしれない、かえって気を使わせてしまうかもしれないから、善行ができない」というものだ。これが事態をますます複雑にする。 その端的な事例が、電車の席を譲ること、そして飛行機で背の低い女性の荷物を収納スペースから取ることだ。高齢者に席を譲ろうとすると「いいです」と迷惑そうに返されることが少なくない。特に高齢男性に多いのだが、ろくに言葉も発しないまま仏頂面で手を顔の前で振り、拒否の意思だけを無愛想に示すのだ。飛行機の場合、明らかに背の高い男性が荷物を取るほうがラクだし早いのに、拒否される。コロナ絡みで「他人に自分の荷物を触られたくない」という忌避感が強まり、この善行のハードルはいっそう高くなった。 「高齢者、ケガをしている人、体調の悪そうな人、妊娠中の人、幼い子供を連れている人には席を譲りましょう」「困っている様子の人を見かけたら、荷物を取ってあげましょう」といったことは、社会通念上「よいこと」だとされている。でも、迷惑そうに拒否されることもある。もちろん相手には相手の都合や感情があるから、拒否されたとしても仕方がない。素直にこちらの提案を受け入れ、感謝してくれる人もいれば、「放っておいてくれ」「構うな」と明確に距離をとったり、否定したりする人もいる。つまり、どんなに自分にとっては善行であろうとも、相手がそれを受け入れないケースはあるということ。 皆、そんな意識のすれ違いや価値観の食い違いは「日常生活でよくあること」と理解しているはずである。なんなら「善行を押し付けてくるな」「オマエが善行をしようとするのも自由だが、こちらがそれを断るのも自由だ」などと、本来はポジティブな振る舞いであるはずの善行を認めず、それを断ったり否定したりすることを正当化するような論調すら存在する。「そうした個々人の感情を察するのも、大人の作法」「世の中にはいろいろな考え方の人がいる。そういうものとして、うまくこなしていくしかない」──大多数の人はそんなふうに考えて、世の中をまわしてきたはずだ。 そうした当たり前のスタンスが、コロナ騒動を経た日本では通用しなくなってしまった。「マスクを着けること、ワクチンを打つことのみが正義」となり、それに従わない者は有無を言わさず「悪」と認定する。しかも、その理由として挙げられるのが「大切な誰かを守るため」なのだ。まったく意味がわからない。何度でも言うが「誰かって、誰だよ?」としか思えないのである。 まったく接点のない人のためにマスクをし、ワクチンを打つ。それは善行だという。私は混乱する。「本当にそんなものが存在するかどうかわからない『ぬえ』のような『大切な誰か』のために、なぜまったく納得できていない自分が我慢や不自由を強いられなければならないのだ」と。「お天道様は見ているよ」とでも言いたいのだろうか。 果たして、常にマスクを着けている97%(あくまでも体感値)の人、ワクチンを打った約82%の人は、そうしたことで他人から感謝されたのだろうか? 少なくとも、マスクやワクチンを無視してきた私は、どちらにも感謝しない。なぜなら、私自身、両方の効果を一切信じていないからである。「感染対策を徹底してきた自分たちに、非常識な連中は感謝しろ」とでも言いたいのかもしれないが、それこそ知らない「誰か」に感謝しなくてはならないいわれはない。「お前らが自身の判断の下、専門家と政治家とメディアの言うことに一切疑問を抱くことなくマスクを着け、ワクチンを打っただけだろ? トイレットペーパーを買い占めるために行列を作る連中と同じだ」と、自己中心的な人々にしか思えないのだ。 ましてやワクチンについては「オレ様みたいな高額所得者の納めた公的なカネを使って、余計なものをタダで打ちまくりやがって!」「しかも、世界一の陽性者数を延々と記録し続けているだけで、まったく感染予防になっていないじゃないか」「おまけに、5回目接種を始めるとか、8回目接種まで準備するとか、一体どういうことだ?」「無料キャンペーンに並ぶような情弱に同情なんてするかよ」など、さまざまな感情が沸き立ってしまう。だから、感謝する気持ちが一切持てないのだ。 「大切な誰か」「大切な人」という言葉は、あまりにも範囲が広すぎる。家族・友人・親戚・同僚・上司・いつも行くコンビニの店員・いつも利用する駅の駅員・年金を受け取る際に対面する役所職員・スーパーで子供たちにおまけをあげるサンタクロース……。「大切な人・大切な誰か」という言葉は個々人の解釈に委ねられてしまう。 「いや、私にとって『大切な人・大切な誰か』は妻と友人、そして仕事仲間以外、存在しません。私自身は別にコロナ感染してもいいですし、重症化しても構いませんので打ちません」――これが私の本心だ。いたって正論だと思うのだが、日本社会では猛烈なバッシングが寄せられてしまう。「自分勝手」「公衆衛生の敵」「自己中心的」「バイオテロリスト」「殺人鬼」「協調性がない」などと評され、陽性者が出た場合には私も含め、マスクやワクチンを受け入れない人々のせいにされる。コロナが第8波になり、ツイッターなどのSNSではやたらと医療従事者が忙しさに悲鳴を上げているが、ここでも蔓延の理由として超少数派であるワクチン非接種者に矛先が向けられている。もはや、単なる八つ当たりではないか。ここでは有無を言わさず、「ワクチンを打っていない『誰か』が悪い」という設定こそ正義になっているのだ。 たとえば今年12月中旬、ワクチンに懐疑的なアカウント(A氏)と、マスクやワクチンの効果を言いはやす医師アカウント(B医師)とのあいだで、次のようなやり取りが発生した。本当は実際のツイートを引用したかったのだが、A氏の当該ツイートは削除されてしまったので、要点をかいつまんで紹介する。 〈A氏「『新型コロナを5類にすべき』と主張する人たちに向けて、『5類にしたらコロナを診てくれる病院がなくなるぞ』などと脅してくる医師がいる。でも『5類にすべき』とまともなことを言う人々は、コロナ程度で病院になんて行かない」〉 〈B医師「それなら、未接種者が軽症にもかかわらず救急車を呼ぶケースをなんとかしてほしい。やたらと多いのだが」〉 B医師の発言の根底にあるのは、専門家・政府・自治体が言い立てた「あなたと大切な人、どこかの誰かのためにワクチン接種を!」が100%真理である……という凝り固まった考え方だろう。要は「救急車の出動回数が多いのは未接種者のせいだ」と主張したいのだ。そしてこのツイートは暗に「誰かのためにワクチンを打たなかった反社会的な連中は、病院を受診するな」と訴えているのである。 だが、このB医師の発言は本当なのだろうか? 何しろ非接種者(「未接種」ではない。なぜならわれわれは打つ気がないから)は少ない。第6波以降、2回以上接種した人の陽性率が非接種者よりも高いというデータをまず無視している。さらに、非接種者は軽症で病院など行かない。コロナ陽性者にされたらたまったものではないことを理解しているからだ。ましてや救急車なんて呼ぶわけもない。 救急車を呼ぶ人間は圧倒的に高齢者が多い。それはデータ上も明らかだ。総務省が発表した2021年度の統計によると、救急車搬送人員の年齢区分別構成比は、新生児0.2%、乳幼児3.8%、少年2.9%、成人31.1%、高齢者61.9%である。ワクチン3回接種済みの高齢者は91%を超えているわけで、B医師の述べた「未接種者が軽症であるにもかかわらず、やたらと救急車を要請するから迷惑」という話に対しては「あなたの感想ですよね」としか思えない。 こうした現象を振り返ってみると、「誰か」という言葉は個人の自由を奪う、脅しの言葉なのだとしか思えなくなっている。「誰かのために」というフレーズには、一見、親切心やヒューマニティに溢れていそうなニュアンスがある。しかし実態は「善行」「社会的によいとされること」に対して反論を許さず、差別を正当化するにも等しい「強要」と「理不尽な管理」の言葉だったのだ。さらに言うと、個々の価値観に基づく反論、思想は一切許さず、全体主義を加速させるフレーズでもある。実に強権的であり、恐怖しか感じない。 「誰か」と似た言葉に「みんな」がある。小学生はいつの時代も、親に「みんなNintendo Switchを持っているから、僕にも買って!」なんてことを言うものだ。そこで親が「みんなって誰?」と問えば、「山口君と田中君と近藤君……多分クラスで10人くらい」と子供はトーンダウンし、「みんな」と言えるほどの所有率ではないことが明らかになる。親は「別にみんなが持っているわけじゃないでしょ」「ウチは山口君の家じゃない。イヤなら、山口君の家の子になればいい」と返す。まあ、お約束の展開だ。 この「みんなガー!」という発言の背後には「うらやましい」「自分も当事者になりたい」といった感情のほか、「他人と一緒であることこそ至高」という考え方も隠されていることが多い。未熟な子供であれば周囲に過度に流されてしまうのもやむを得ないといえるが、そうした感性を大人になっても抱えているとしたら、あまりに幼稚ではないか。 「誰か」という謎のパワーワードに引きずられて自主性、主体性を失い、多少の疑問や違和感があっても、なんとなく周囲に合わせて動いてしまう。実に情けない話だ。もはや日本人の8割は本気でマスクの効果など信じていないだろうし、4回目のワクチン接種率の低さを考えても、公言しないだけでワクチンをこれ以上打つ気がない人がマジョリティになりつつある、と私は捉えている。 マスクとワクチンについて言えば、最終的には多くの人が「結局、あれってなんだったのだろう」「意味なんてあったのか?」という懐疑的な感情に至ると思っている。そう、海外の国の多くが2022年初頭にこの結論へとたどり着いたように。そして「誰か」のために行動した結果、どれだけ自分が苦痛だったか、人生が毀損きそんされたか、面倒くさかったか……という自分本位な感情に行きつくはずだ。 マスクに猛烈に反対した人は、最初はシンプルに「長時間マスクを着けるのが苦痛だった」だけともいえる。とはいえ、意味のある我慢であれば、仕方なく我慢することもしただろう。私ですらコロナ騒動の初期には、求められる場面であればマスクを着用していた。 しかし、時間の経過とともに各種データが明らかにされ、マスクの効果に疑問符が付くようになった。だから「これ、意味あるの?」と臆することなく主張した。すると「自分勝手」「異常者」「非常識」「人殺し」扱いされるようになった。大多数より先んじて「我慢しても無意味」「自分の人生を毀損されたくない」「理不尽な苦痛を強いられたくない」と主張しただけなのに、まるで犯罪者のごとく扱われることになるとは。 通勤中や仕事中、ずっとマスクをして過ごさなければならないとしたら、苦痛を感じて当たり前である。いや、たった10分でもキツいと感じる人はいる。 しかし「自分は花粉症だし、マスクをするのに慣れているから、長時間着けていてもぜんぜん平気」「マスクをすると落ち着く」「最初は違和感があったけど、もう慣れてしまったからそれほど気にならない」「メイクをしないでいいから楽」「ヒゲをそらないでいいから便利」といったことを安直に語り、「マスクくらい、ゴチャゴチャ言わずに着ければいいじゃないか」と私のようなマスク否定派に着用を促してくる人は非常に多い。 何が苦痛か、何が快適かは、人により異なる。それを理解しようともせず、マスクとワクチンを「大切な誰か」のために装着・接種するべきであると強要してくる人間は、実は極めて自己中心的であるといえる。私は何があろうとも「ゴキブリが怖い」と震えている人に向けて「ゴキブリが怖いなんて変だね。あんなもん、ただの虫じゃん」なんてことは言わない。コロナ騒動における「『大切な誰か』論法」は、こうした個々人の自由意思や個性を尊重せず、「感染対策のためならば人としての尊厳を毀損してもいい」とする、実に人権無視の論法だったのだ。 ワクチンに感染予防効果がないことが明らかになったいま、2021年に猛威を振るった「大切な誰かのために」という論法は崩壊した。そのプロパガンダを絶叫し続けた人々は、ほどなく「あなたたち、よくも『大切な誰か』論法で私の身体をおかしくしてくれましたね」などと、ワクチン接種後の薬害に苦しむ人から猛反撃を受けることになるだろう。そうして、コロナ騒動で蔓延した「大切な誰か」の欺瞞が明らかになるに違いない。 人間、自主性が大事である。「自分がイヤだと思うなら、やらない」──改めて、主体的に生きる姿勢を強く意識しておきたいものだ。なぜなら、あなたの人生はあなたのものなのだから。 他人の幸せのために生きる人生などまっぴらだ。 【まとめ】今回の「俺っちがもっとも言いたいこと」 ・コロナ騒動以降、日本では「誰かのため」「大切な誰かを守ろう」といった言説がはびこるようになった。 ・「誰か」の定義はあいまいすぎる。「誰か」って、誰だよ? ・実態がわからない「誰か」のために、利他的に行動することを強要されるのがいまの日本。それができなければ排斥されてしまう。 ・「大切な誰か」論法は欺瞞である。早くそれに気づき、主体的に生きるべきだ。 12月27日北海道新聞夕刊から ロシア軍がウクライナの美術品まで奪っている事を報じる記事です。 あまりに野蛮な国です。 https://i.imgur.com/hmuaakw.jpg 国を破壊され、美術品まで奪われてしまうのは屈辱です。 日本の美術品も空爆で破壊されましたし、占領中、米兵が勝手に奪っていった例も、京都などに行けば見聞きする話です。 クライテリオン的自称保守派に言わせると「どっちもどっち」になると推察しますが、私はウクライナ国民に同情します。 美術品を奪われるのは、国民として屈辱ですよ。 自称保守派にはそれすら分からないのでしょうね。 ―新型コロナ第8波の「肺炎」は、コロナ禍初期の「肺炎」とはまったく違う― https://news.yahoo.co.jp/byline/kuraharayu/20221229-00330382 というヤフーニュースの記事を読みました。 「第8波は細菌性・誤嚥性肺炎が多い」ということであれば、「ウイルス性肺炎」ではないので、第8派は、新型コロナウィルスによるものではないということになりませんか? 「オミクロン株以降、ワクチン未接種者を除いて、こういうウイルス性肺炎は減りました。」これは「ワクチン未接種者」は、「オミクロン株以降」も「ウィルス性肺炎」になるということでしょうか? それともワクチン接種者は、細菌性・誤嚥性肺炎になりやすいということでしょうか? 『第8波は新型コロナ陽性の細菌性・誤嚥性肺炎など「治りにくい肺炎」が増えた』と危機感を煽っていますね。 でもその理由は、記事の中にもある通り『第8波の新型コロナ入院は、高齢者比率が過去最多』だからでしょう? 丁寧にBECAUSEを述べるなら、「第8波ともなればウイルスは弱毒化したが感染力は強くなり、高齢者の多くも「感染者」となり、高齢者だから誤嚥性肺炎も多い」ということです。 それ以外に読み取れないですよ、この記事。 ちなみに「オミクロン株以降、ワクチン未接種者を除いて、こういうウイルス性肺炎は減りました。」について。 これは、この記事を書いた呼吸器内科医が、きちんとデータ(数値)を出して言ってくれなければ、正しいとも間違っているとも評価のしようがないです。 具体的な数値も出さずに「増えた」だの、「減った」だの・・・、こんなのサラリーマンだったら上司に怒られる案件だぜ、お医者さん! ヅカファンの俺っちにとっては、残念なニュースです。 「一緒に裸で寝よ」宝塚歌劇団 演出家がセクハラで公演中に担当外され異動処分 https://bunshun.jp/articles/-/59834 宝塚歌劇の演出家・原田諒氏退団 「スタッフにセクハラ」報道 https://mainichi.jp/articles/20221228/k00/00m/040/238000c 記事によると、宝塚歌劇団所属の演出家が、女性団員に、パワハラ行為、セクハラ行為に及んだため、まずは阪急グループ内の別の部署に異動後、退団したというニュースです。 俺っちは、死人ながら、コロナ禍になってから宝塚にハマった、にわかヅカ男子なのですが、こういうニュースを知ると、がっかりです。 演出家の男の行為は、アウトですが、彼は、SNS全盛の時代、外部に容易く漏れるということを、分からなかったのかな? タカラジェンヌさん達に対するパワハラは、公演及びその配役において宝塚の演出家が持つ、ほとんど独裁者的と言っていいような、他に優越する立場があるからこそ。 また演出助手に対するセクハラは、言葉の段階に留まっているとのことだが、はっきり言って、品性下劣。 せっかく、才能があるというのに、もったいない。 そのうえ、この演出家の男を擁護する、元タカラジェンヌの真矢みきさんの言動が、いただけない。 権威主義的で、名誉男性の女に堕している。 何なんですかね。 色々と考察、分析できそうですが、ご意見を伺いたく、まずは、投稿します。 ちなみに、私は、まだ、劇場で宝塚の公演を観たことはなくーコロナ禍の昨今は、チケット入手が非常に困難なうえ、観劇の際は、マスク着用等のコロナ感染防止対策を強制されるー、過去の公演CD、DVDなどで、宝塚歌劇を楽しんでいます。 しかしながら、タカラジェンヌさん達、それからタカラジェンヌの卵である音楽学校の生徒さん達は、コロナ禍において、過剰な感染防止対策を強いられ(あるいは進んで、自らに課し)、窮屈な芸能生活をしているように見受けられます。 が、雑誌「宝塚歌劇」「宝塚グラフ」に掲載されている、ジェンヌさん達の写真からは、そんな感じは丸で見られない。さすが。 事実関係は検証しようがありませんが、とりあえず今はこの週刊誌記事が100%正しいと仮定して話しておきますね。 職務上優位の立場のある人間が、その地位を利用して異性に関係を迫ること自体、社会的に制裁される時代だと思います。 やっぱり、自分の恋人や、自分の家族がそういう目にあったら嫌ですからね。 「口説き」と「セクハラ」の差くらい、わきまえるのが大人の男。 女性をいきなりホテルに誘う奴があるか、バカ!! これは「色欲」に狂ったのでしょうね。 七つの大罪だ。 12月28日(水)にBS-TBSで放送された「報道1930 最古参教団元幹部が初証言/安倍家三代と旧統一教会」YouTubeでも公開されており、非常に見応えがありました。 特に42分付近からの、日本の最古参信者で、文鮮明に50年仕えた元幹部の阿部正寿氏が、贖罪の意識を込めて「死ぬ前に本当の事を言う」と激白する所が必見。 「(献金問題の)元凶は文鮮明先生です」 「文先生は献金持ってこい、300億円持ってこいとプレッシャーをかけます」 「もし日本が献金を全うできなかったら日本は滅びると脅す。みんな愛国者で日本を滅ぼしたくないから、借金をしてでも献金する」 「教祖として尊敬はしていたが、心の中でこの人は相当反日だと思っていた。」 「日本の国民は多すぎるから5000万人ぐらいにしたら良いなど、日本を軽視する発言ばかりする」 文鮮明亡き今でも、「日本人が金を出してそれを使うのは韓国人」という幹部たちの意識は変わっていないと証言します。 元幹部が、残っていた一抹のバランス感覚でこうした告白をする中、協会の擁護を続ける自称保守の面々は何を思うのでしょうか。 統一教会は日本人をコケにしている。 教義の根底も、献金の実態も、合同結婚式のシステムも、統一教会は日本人をコケにしている。 国家意思として、統一教会を公の場からは排除しなければならないです。 統一教会は国家の膿です。違いますか? そして、統一教会とズブズブの関係だった自称保守派の知識人たちを許すわけにはいかない。 奴らは保守派どころが売国派だった。 売国派を徹底的につるし上げ、 奴らの言論そのものの信用性を落とす。 そうすれば見事に 「男系固執論」に行きつくのだから。 「誰かのために」を他人に強要する行為が強権的で駄目です。 コロナ禍における「誰かのために」とは、誰かが設定した間違ったルールを他人に強要し、その結果、ルール設定をした誰かの利益に繋がっていたから最悪なんです。 一方で、そもそも「公」というのは「誰かのために」です。 「誰かのために」そのものを否定するのなら、無人島で1人で暮らすしかない。 そこには「公」など無いし、純粋に「自分のためだけに生きる」ことができるでしょう。 コロナ禍における「誰かのためにの誰」の正体は、製薬会社及びそこからディベートを取る利害関係者たちのことです。 次に、私が言った「公=誰かのために」の誰かの正体は子供です。 今の子供達のみならずまだ見ぬ子供達をも含む、概念としての子供です。 「公とは子供のことである」と分かり易く言い切ってもいいです。 コロナ禍は子供のためになっていない!子供たちに迷惑をかけている!最悪だよ!! だから俺っちは5ちゃんでずっと怒っているんです。 「子供のために」なる知識人や政治家の行動は、その都度評価します。 過去に評価した知識人や政治家が、「子供のために」ならないと行動をすれば、私は批判に転じます。 それを「手のひら返し」とか、「人を排除したら誰も残らなくなる」とか、「人を見る目がなかった」とか、どうか思わないでもらいたいです。 評価は、あくまで「その都度」です。 ・・・ ただ『一体何をもって「子供のために」と言えるのか?』という大問題があります。 それも「その都度」変わってきます。 価値判断とは常に人生をかけた決断。 窒息もしない、恐怖も無い。 子供のために思想をやる。 子供のために、今打てる最善手を見つけ出して、そして打つ。 これが私の公です。 まだまだ未熟者ゆえ、令和5年も、どうかご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます<(_ _)> ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる