マラソン日本最強は瀬古か中山である
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瀬古・中山時代から進化していない気がする今日のレース >>644
そりゃ、そうでしょ。
瀬古、宗兄弟、中山はおろか、谷口ですらもったいなく、新宅、伊藤辺りで十分に勝負になった内容だもんな。 それはない。篠原ならば2時間14分くらいだと思う。 伊藤国光は「無冠の帝王」と呼ばれる姿が美しいので、上位には行けるが勝てなかったろう。 法政大学時代は「宗兄弟の末弟」などと言われていた若倉和也。
実業団駅伝でダグラス・ワキウリを抑えて区間賞を獲得している実は凄い人 蕨高校時代のIHは高橋雅哉(本郷)に及ばず2位。眼鏡のイメージが強かったけど。 この時にナイキのシューズがあれば世界新出せたよな。
中山と瀬古だけ履ければの話だが。 昨日のMGCの設楽の飛び出しは往年の中山のレースを思い出した、
しかし一番違うのは中山は最後まで一番で走り切る力があったこと。
設楽は37kmぐらいしか持たずに最後の一番苦しい5kmのスタミナがなかったこと
中村の走りは同じ三重県出身の瀬古を思い出させる後半でスパートする戦法
瀬古と野口みずきを生んだマラソン王国三重の伝統を受け継ぐ中村の走りだった。 >>661
いや、設楽は28キロしかもたなかっただろ。高橋が言ってたまさにその距離。2分のリードで9キロ余計に先頭だったけど。 帽子かぶっている選手ばかりで何人川口孝志郎が出場してんだよって思った >>666
ラストがなかなか冴えてますね。中村監督急逝直後のヨーロッパ遠征ですが、
DNガラン(ストックホルム)で1万日本新、ローザンヌ国際1万1位と十分な成果。
このパリでも30度の中、5000を13分36秒28というのは立派です。
ここまでは順調だったんですけどね。秋にシカゴあたりを走る計画だったんでしょうけど
故障で、この年マラソンレースは出場できませんでした。
ラスト400は57秒くらいだと思います。新宅・金井・中村孝生・ワキウリとSB主力勢
総出演ですね。 ナイキ創業者の自伝
https://book.toyokeizai.net/shoe-dog/
は、このスレの住人にお勧め。フィル・ナイトが無一文ながら日本を訪れ
オニツカ(アシックス)のシューズ販売契約を取ろうとする件に始まり、オニツカとの
関係悪化に伴う裁判沙汰、プレフォンテーンやショーターといったランナーへの供与と
挫折、成長の話を1980年まで描いている。 オニツカが世界進出して有名になったのはモントリオール五輪の10000mのビレンが
ゴール後シューズを抱えてウィニングランをしてからと思っていたけど、ミュンヘンでも
既にケニス・ムーアは履いていたようですね。ナイキブランドは71年から(まだオニツカ
から独立していなかったので裁判沙汰の原因)で、ナイキの広告塔のプレフォンテーンが
ミュンヘンで履いているシューズをチェックしたらアディダスのよう。ショーターは
ミュンヘンでアディダス、モントリオール国内予選でナイキ、モントリオールではオニツカ
のようです。 >>663 勝負所で帽子を投げ捨ててそのままズルズルと後退したロス五輪の瀬古。
あとで「鞘を投げたよう」と散々の言われようだった。 宇佐美も暑い時期のマラソンでは帽子をかぶっていることが多かった。反対向きにかぶって
延髄に日光を当てないとか解説していた。 たぶんだけど、
中山さんは帽子が似合わなかったからでは。。。 宗兄弟の長髪に眼鏡なんてあの時代のスポーツ選手にはあり得ないスタイル 猛は40くらいになってコンタクトにしてマラソンを
走っていた 5000mで新宅&金井コンビが取りこぼしたのは結構衝撃的だったな。 瀬古1万大惨敗だが、その後、数日後、神宮外苑の20kmタイム・トライアルで58分台
を出して、すぐに上向きに。アジア大会にそもそも照準を合わせていなかったのが
主原因と思われ。29分半は不出来すぎだったが。 アジア大会のマラソン出場を敬遠して記録が出やすい欧米の大会に出場する選手が多くなった。
しかしアジア大会マラソン2連覇の君原健二や日本記録を4分以上更新した高橋尚子がオリンピックでメダルを獲得した。
近年はケニアから中東の産油国に帰化している出場選手も多く長距離のレベルが高くなった。
暑さに強い選手はオリンピックでも期待できると思う。 86年のアジア大会は日本勢と他国との力量差がケタ違いだった。
韓国もこの時点では、全くのマラソン後進国。数年後の大躍進が信じられないが、
現在はまた鳴りを潜めているような気がする。 瀬古&中山時代は世界選手権が軽く見られていた節がある。 IAAF世界選手権は1983年の第1回ヘルシンキ大会以前にも1976年と1980年に一部の種目に限って行われた。
モスクワオリンピックの西側諸国ボイコットにより政治に影響されない真の世界大会を開催しようという機運が高まった。
日本陸連幹部は世界のトップクラスのアスリートは参加しないだろうと思っていたらしい。
競技が始まるとカールルイス、セルゲイ・ブブカ、エドウィン・モーゼスらの活躍で大いに盛り上がった大会になった。
それに対して日本選手はトラック、フィールドともメダルどころか入賞者ゼロという惨憺たる成績だった。
マラソンも男子はロバート・ド・キャステラ、女子はグレテ・ワイツの優勝候補が圧倒的強さを発揮した。
瀬古は中村監督と一緒にテレビ朝日にゲスト出演して男子マラソンを見ながら感想を話していた。
当然のように視聴者から瀬古はどうして出場しないのだという批判が殺到した。 まあ、マラソンは1年に何回もピークを迎えるのが難しいし・・・・・・・・
福岡で一発代表選考の機運があったし・・・・・・・・・
加えてこの年の夏、瀬古利彦は肝機能障害になった筈だし・・・・・・・ >>695
ロブレ・ジャマ47位。この時点では凡人。 そう言えば
https://m.youtube.com/watch?v=-oFya8DtVOE
とかを見ると、85年のワールドカップではアーメド選手と連呼。フルネームの際も
サラ・アーメドだったのに、いつのまにか呼称が逆転した。 ロブレ・ジャマは、ジャマ・ロブレと書かれていたし。
例えて言えば「イカンガー・ジュマ」と呼ばれていたようなもの。 IAAF主催の第1回世界選手権の開催後も日本は福岡が世界で最も権威のあるマラソン大会だと思っていた。
日本陸連上層部の情報収集の鈍さは今も昔も変わりはない。 >>700
そりゃ、ベルリンとかでペースメーカー入れて世界記録連発するまでは、
トップクラスが挙って出場してたし。 ただ「世界の3大マラソン」と言われた時代も確かにあった。
あとの二つはボストンとニューヨーク。 >>702
NYCなんかなかった時代にボストンもカスマラソン(日本人が出れば上位独占)だった
時代はウィンザーとコシチと福岡で3大マラソン。中でもIAAFが世界選手権代りに
テコ入れした福岡の格は抜きん出て、アメリカではオリンピックより評価が高かった
時代もあった。 多分、福岡の格が抜きん出ていたのは1966年〜73年迄なんだろう。この間はIAAFが
世界選手権代わりと認定していたし、「国際マラソン選手権」という名称からも、
それが唯一無二という扱いだった。Track & Field Newsの扱いも福岡より記録が良く
ても福岡を最優先して扱っていたが、福岡の名称がついた74年から徐々に格が落ちて
いったように思う。それでも瀬古が3連覇した頃までは未だ世界で無二(ボストンや
NYCより格上というのはロジャース等のインタビューを見れば分かる)だったのだが、
81年以降日本がバカみたいにマラソンを粗造乱造して、一方で瀬古が優勝したボストン
が世界一のマラソンなんて頓珍漢な報道をしたので、一挙に福岡の扱いが軽くなって
世界から軽んじられるようになった。 83年福岡や87年福岡で盛り上がったが、五輪選考が絡んでいたから、という
見方は出来るかも。瀬古・中山のインパクトで救われていた。 >>705
そうですね。82年は明らかにショボかったし、84年〜86年も盛り上がりに欠けて世界
トップのマラソンという感じは既にありませんでした。瀬古不在の81年に既にその兆候
はあったのですが、ド・キャステラの世界歴代2位(実際には世界新)で救われた面が
ありました。 84年は中山が第一線に躍り出たレース。85年は新宅と谷口の本格台頭。
82年と86年が不作で、もう86年頃は、世界の主流は賞金レースの雰囲気が漂っていた。 あの頃は本当に情報が少なかった。というよりほとんどなかった。
海外のマラソン選手なんて、ホント、記録でしかわからなかったな。
いまのように海外レースがLIVEで観れる環境など夢の世界。
当時拝めなかった1980年〜1990年の海外レースを
いまになって観れるってのがなんとも不思議だね。 一時期テレビ東京が積極的に海外レースを中継してくれた。谷口浩美が優勝したロンドンや、ロッテルダム
は、リアルタイムで見ている。 >>709 谷口さん、優勝の後のインタビューで、大声で奥様の名前を呼び掛けて感謝
していたけど、離婚しちゃって諸行無常。最近ケニアのリフトバレーに行って最強
ランナーの秘密を探れというドキュメントの再放送
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3599/2325768/index.html
をやっていたけど、そのすぐ後に東京電力の監督も辞めちまうし。 谷口浩美の次男はインターハイ出場後、明治大学に進学するも箱根駅伝出場なし。
父親は再婚後、55歳で子供が出来たらしい。 旧国立競技場のメインポールに日の丸が上がり君が代が流れたのは後にも先にもこの時しかない
https://www.youtube.com/watch?v=-_mH7QnJFNg >>712
と思ったら1967年ユニバーシアード5000m10000m澤木啓祐がいたかw 賞金化が進んでロッテルダムに一流どころを持っていかれていたボストンだったが
大手生命保険会社をスポンサーにつけて1987年は世界選手権よりも豪華メンバー。
この中継をテレ東がLIVEでやることになり眠たい目をこすり頑張って起きていたが、
まさかの濃霧でヘリが飛ばず中継が不可。
5キロ毎の定点カメラを通り過ぎるシーン以外は東京のスタジオから困惑した様子の
喜多秀喜と実況がなんとか現地のようすを必死に伝えようとする。
このまま終わるのかと思いきや、急に映像が切り替わりいつの間にか瀬古が独走。
よくわからないまま瀬古優勝で怒りも収まり「まあいいか」。
その日の授業は爆睡で壊滅状況だったな。 アレ、そのレース、喜多秀喜も走ってましたよ。
確か9位。 1987年世界陸上競技選手権ローマ大会男子マラソン順位表
https://www.iaaf.org/competitions/iaaf-world-championships/2nd-iaaf-world-championships-in-athletics-4/results/men/marathon/final/result
誰が世界的に無名だったワキウリの金メダルを予想しただろうか?
ゴール直後「(亡くなった)中村先生のおかげです」と日本語でインタビューに答えていたことを思い出す。
瀬古と一緒に練習していたワキウリが優勝して嬉しかった半面、今大会も日本のトップクラスの選手が出場しなかったので複雑な気持ちだった。 インタビュアーの小林俊一氏が「お前、どこで勝った
と思った?」 >>720
トレーシーって、ロス五輪の銀メダルですよね。
たしか、そのときが初マラソンと知ってビックリ。
なんで五輪本番で初レースができるのかてのと
あの瀬古や宗兄弟が初マラソンに負けるのが
信じられんかったなあ。 80年のモスクワ五輪の時も出場はしていないが実はエントリーしていたトレーシー 新宅の超絶ラストスパート。負けじと追走した中山も凄い。
兵庫リレーカーニバルでイカンガーにラスト勝負で敗れている中山は、一応ここで雪辱。 中山がヴェイパーフライを履いて走っていたらどんなタイムが出ただろうか 2018東京の条件だったら5分台
2019東京の寒さでも7分台 「中山は5分台の力はあったね」と宗茂氏もコメントしている。 87福岡で条件が良ければなあ・・・・・・・・・・・・・・・・・ あの福岡で雨が降らずペース配分が理想的だったら6分台だったろうね。 自己ベスト記録が北京国際マラソンの選手
児玉泰介 2:07:35 1986年
伊藤国光 2:07:57 1986年
メコネン 2:07:35 1988年
谷口浩美 2:07:40 1988年 >>727
2時間01分台は出しているだろね
現代の最新のトレーニング体系も合わせれば。
そのぐらい中山のポテンシャルは凄かった。
逆にいまの選手が当時の中山と同じ練習をやったら
たちまち故障で壊れているだろね。
あの時代をピークに食生活の影響で
日本人全体の身体の強度が劣化している。
だから最近のスポーツ選手は野球の大谷や佐々木のように
凄い球は投げれるけど故障も起きやすくなっている。
自動車でいったら強力なエンジンは搭載しているが
フレームが貧弱という事故が起きたら終わりという
そんな感じ。 話が飛躍しすぎるから
じいさんの戯言にされるんだよバカ >>721
日本人でも、えっ、という感じだった。初マラソンはともかく2月の別大でいいところなく
後退し7位(2:13:34)。優勝した西村義弘、2位の西正幸とはだいぶ差がある印象だった。
もっと驚いたのはソウル五輪。というのも88年2月の東京マラソンでは8分台で優勝争いを
したメコネン、イカンガー、ペーター、ド・キャステラといったお馴染みの面々から大きく
遅れてトップと3分24秒差で7位。やはり世界選手権は目ぼしい相手がいない中のまぐれ
かと思ったらソウルでは2位。散々、瀬古をこき下ろして、日本を離れてから暫く無双状態
になり、89年から90年にかけてロンドン、英連邦、NYCと大きなマラソンを3連勝して世界
トップに君臨した。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています