マラソン日本最強は瀬古か中山である
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>>568
≫失格か優勝かという措置も極端な気が。
暫定2位などの提案は出なかったのであろうか。
これは、スペインとモロッコが海を隔てて微妙な関係(最近のアジアの…以下自粛)だった事が大きい。 スカーがゴールした時の競技場でのブーイングは
上記ハンモウの妨害がなくてもあったと思われる。 >>569
おまえこそIDの末尾が“HG”じゃないかwww >>537
ピーター・スネルはローマで1500を走らなかったが、走っても金メダルを取れなかっただろう。
というのも遂にスネルが1500の記録を更新出来なかったハーブ・エリオット(豪州)が無敵の
王者として君臨していたからである。ローマ五輪の動画
https://m.youtube.com/watch?v=Pr0dWz_6oEI
を見ても2位のミッシェル・ジャージー以下とは別次元の走りをし、ゴールでは2秒8の大差を
付け自らの世界記録を更新する3:35:6でゴールした。この記録は7年間更新されず、74年になる
まで歴代3位に君臨していた。アンツーカーのトラックでの記録である事を考慮すると尚、
一層の価値が見えてくる。驚くべきはローマ五輪の際に彼は弱冠22歳だった事かもしれない。
アマチュアリズムが遵守されていた当時、五輪で金を取った後の競技上の目標もなく、五輪後、
ケンブリッジ大に進学して勉学に励み、2年後には完全に引退した。その後、彼はFMGという
鉄鉱石採掘会社の取締、非常勤代表に上り詰める等、実業家としても大きな成功を収めた。 ピーター・スネルは名前は聞いたことがあるな。やっぱり偉大な人だと再確認。 ケイノも加わっていたが73ー76年に仇花の様にプロ陸上(International track association)が
興行をし、74年春には来日して話題を呼んだ。東京にはメキシコ、ミュンヘンで活躍した
米元五輪選手に加えてボブ・ヘイズも参加したと記憶する。しかし中心選手はライアン、
リクオリ、ケイノ、ジプチョ(74英連邦後に参加)の中距離勢に加えて棒高跳びのシーグレン
や砲丸のオールドフィールド、400のエバンス等の様だった。発足の時代背景にブランデージ
IOC元会長の厳格なアマチュア主義があった。しかし後任のキラニン元会長はプロ化を認める
方向に布石を打ち74年のIOC総会で方針の変更を公的に宣言した。その結果、普通の陸上大会
でも70年代中盤からアンダーザテーブルという形で賞金が出るようになり、プロ陸上の意義が
急激に薄れ、76年のモントリオール五輪後にニュージーランドの3強(ウォーカー、クァックス、
ディクソン)他と契約を結べず、ひっそりと幕を閉じた。
プロ陸上の失敗には幾つかの要因があるだろう。まずは資金難と限られた選手。次いで契約選手がほぼ
アメリカ人でたまにケニア人という偏った人選でヨーロッパの選手から無視された事、
更に女子選手が殆どおらず、上述の様に通常の陸上がプロ化する中で存在意義を失ったことが
致命的であった。記録的にはオールドフィールドが世界記録を1m以上上回る22m86を出したり、
棒高跳び、走り高跳びでも世界記録を上回ったが、記録は公認されず、世界的に認知されるに
至らなかった。 古くからケニア、エチオピア、モロッコの3カ国のランナーは中長距離で覇を競ってきたが、
不思議と10000mの世界記録を作るアフリカ人は中々現れなかった。遅ればせながらアフリカ
人として初めて10000の世界記録を作ったのはサムソン・キモンバ (ケニア)であり、1977年
6月30日でのヘルシンキでのワールドゲームズに於いてであった。このレースは日本人にとっても
忘れ難いものであり、5位ながら鎌田俊明が27:48:63という史上初めての27分台を記録している。
https://more.arrs.run/race/36278
当然、その年に行われたワールドカップでキモンバ の勇姿を見られると思ったがアフリカ代表は
イフターであり、ガッカリした事を記憶している。キモンバ のランナーとしてのキャリア
https://more.arrs.run/runner/18024
は76年から79年の短い間であり、国際的活躍は77年のみであった。動画はNCAAで優勝した際の
https://paulmerca.blogspot.com/2013/01/washington-state-hall-of-famer-samson.html
が残っている。基本、プロランナーではなくワシントン州立大学の学生だったという印象が
残る。後年は母国に戻り教師の傍らコーチを務めていた様である。2013年1月に逝去。
享年57だった。 >>580
おお!そうだったんですね。
気掛かりだったもので、情報ありがとうございます!! キモンバ の前の世界記録保持者であったデービッド・ベドフォードもユニークな選手であった。
彼は長髪で無精髭を蓄えヒッピーの様な風貌で、世界記録保持者でありながら危うく1974年の
英連邦大会の際にニュージーランドから入国拒否を喰らうところだった。レースぶりも
完全なフロントランナーでキックがまるで効かず大大会では屡々振るわなかった。
例えば1971年のAAA championship
https://m.youtube.com/watch?v=kraiMbRQtFc
で圧勝し、世界歴代2位の27:47:0を記録し、5000でも翌年の同じ大会でやはり世界歴代2位の
13:17:21を記録し、両種目ともダントツでランキングトップの優勝候補として臨んだ
ミュンヘン五輪は10000が6位、5000が12位だった。ミュンヘンでも
https://m.youtube.com/watch?v=MkXsjfVnG0k
でビレンとガムーディが接触転倒をする時にトップを走っていたのがベドフォード
である。しかし、おそらくミュンヘンの敗戦は識者には予想されていた事で、既に
このスレでも紹介された71年の欧州選手権の10000を見ても
https://m.youtube.com/watch?v=Qrp2K9zxgrs
鐘が鳴るまでトップで居ながら、1周でトップから11秒56も遅れを取り6位に終わっている。
従って世界記録を作った時のように
https://m.youtube.com/watch?v=6TFV0jjRrug
無人野を行くようなレースを得意としたが、競い合うとまず勝ち味がなかった。
入国拒否騒動のあった英連邦大会でも
https://m.youtube.com/watch?v=oDr3QAmp-6E
のように体良くペースメーカーを務め、10000は4位、5000は6位に終わった。
故障もあって74年から77年まで走っておらず実質74年でキャリアを終えた。 フロントランナーというと思い出すジュマ・イカンガー ビル・ロジャースが75年のボストンで史上4人目のサブ10を出した時は驚きがあった
https://www.youtube.com/watch?v=wW9Dnm8O5Dk
と同時に(歴史だけの)田舎片道レースで好記録を出しても信用ならないという受け止め方
が多かった。実際、それまではアメリカのTrack & Field Newsの実力ランキング
https://trackandfieldnews.com/wp-content/uploads/2019/01/11-mMarRank.pdf
でボストンはほぼ評価されず、福岡は下手をすると五輪より評価される権威あるマラソンで
あった。(68年のランキングの1,2位は福岡の1,2位で3位以下に五輪のメダリストが並ぶ。
72年でもランキングの1,2位は福岡の1,2位。特に2位のファーリントンは五輪不出場(国内予選落ち?))
。しかし米国内では違ったのかもしれない。劣等感を拭い去る良い機会として実力ランキング
でボストン優勝のロジャースを1位、2位のホーグを4位に据えた(2,3位は福岡1,2位の
ドレイトン、チェトル)。
ロジャースは五輪予選はショーターに7秒遅れの2位ながら好記録であり、有力なメダル候補として
モントリオールに臨んだが腹痛もあって40位と惨敗。しかしその2か月半後のNYCでは
ショーターに圧勝し、覇者の交代を印象付けた。その映像が
https://www.youtube.com/watch?v=kXsA5f6Ds_g
であり、村上龍の小説にも驚きをもって覇者の交代が触れられていた。その後の活躍は
言うまでもない。79年の
https://www.youtube.com/watch?v=XvM50uNQ4_A
では前年の福岡のチャンピオンである瀬古をボストンの王者ロジャースが迎え撃って
圧勝したという意味でマラソンの格の逆転があった分水嶺のマラソンだったのかもしれない。 モスクワボイコットが悔やまれるという点ではロジャースは瀬古以上。
まだ24歳と若かった瀬古に対してロジャースはラストチャンスだった。 1983年の第1回世界選手権の5000mを制したのはイーモン・コグラン(アイルランド)だった。
https://m.youtube.com/watch?v=SSJfsnhW0Hc
彼は元々良く知られたマイラー/1500の選手であり、特に室内競技会では無敵の王者として
君臨した。1983年に史上初めて室内でマイル3分50秒を破る3:49:87の世界記録を出した。この
記録は未だ歴代4位である。
五輪では76年の1500、80年の5000共仕掛けが早過ぎた事もあり、惜しくもメダルを逃す4位
であった。世界チャンピオンとして臨む筈だったロス五輪は怪我のために出場出来ず、ソウル
五輪では準決勝落ちで一線のキャリアから退いた。
彼は引退後ハーバードで学ぶ傍ら走りも続けて41歳でもマイル4分を切る走力を維持した。
その後、政治家として上院議員として活躍した。
https://more.arrs.run/runner/4352 S・ジョーンズが福岡国際のゲストで来日したとき
ボストンで敗れた瀬古のことは絶賛したのに対し、
中山については「Nakayama? Who?」てのにはまいった。 ヤバイ、面白すぎる。
陸マガとかでこのスレの覆面オフ会やってくれないかな?大変有意義な陸上談話になりそう。 >>592
キモイ陸ヲタがネットに載ってるだけのことを書き込んでるだけなのに何勘違いしてるんだ?
ってか、お前>>590だろ? ショーターとロジャース
75年の10マイルレースらしい
https://www.youtube.com/watch?v=i3aP_QiP2KU
お手々をつないでゴールインがキモイw >>586
ベドフォードは心機一転の為か気紛れか、ミュンヘン5000mの予選を終えた後、決勝を前にそのトレードマークである長髪をバッサリ切っていますね。
https://www.mediastorehouse.com/colorsport/athletics/1972-munich-olympics-mens-5000m-heats-6114032.html
https://www.youtube.com/watch?v=ASmL_8f95KM
次に何をやるのか予測がつかない天衣無縫な人物だったようで、レース運びは70年にオスロの10000mで人々に惜しまれながら引退した巨星、ロン・クラークを思わせますね。
クラークは前に書かれていました、ローマ五輪1500金の同国のエリオットと50年代はよく走っていて、エリオットの活躍が一因で再び走るようになったと言われている。
70年代はロックやフォークなどの音楽が黄金期だった所以か、陸上界にも長髪や髭のランナーも見掛けるようになる。
ビリー・ミルズの映画「ロンリーウェイ」のように、上記のミュンヘン5000m決勝も「プリフォンテーン」で映画化されている。
https://www.youtube.com/watch?v=SuEn_DKIh_E
こちらの番組は当時の関係者や多くのランナーがコメントしている。
https://www.youtube.com/watch?v=5ghnepo096Q
ミュンヘン五輪中長距離はメキシコに続くケイノの活躍やウォットルの800m、ビレンの2冠等が語られることが多いが、1500でもビレンと同国フィンランドのバサラが金であった。
https://www.youtube.com/watch?v=xAtd55lQrYA
https://www.olympic.org/munich-1972/athletics/1500m-men いつの間にか20世紀世界最強長距離選手スレになっていたw
でも往年の名選手の未見映像がたくさん見られて嬉しい 瀬古&中山、ほぼ忘却の彼方。だがそのうちまた語られることもあろう。 中山が33年前に出したソウルアジア大会のマラソン記録が未だに大会記録で破られていない
独走で出した2時間8分21秒
中山自身3回目の8分台だった 日本勢以外は全くの二線級だったにも関わらず記録を出してしまった中山は素直に凄い 消えた天才で中山さんを取り上げてほしいよ。数年前ランナーズで農業やってるという
記事を目にはしたが… >>601
このスレに1986年アジア大会マラソンの動画があるよ。ついでに5000で惨敗した日本勢のも。 中山選手は消えた天才なんかじゃなく本物の努力の天才だと思う
オリンピックこそ連続4位でメダルに届かなかったけど、マラソン日本記録、8分台4回、ハイレベルの1万m日本記録等結果も残してる
今の高校→箱根→実業団みたいなコースから全く外れてたが、自分で努力して当時の日本トップ、世界トップまで登りつめた凄い選手。
あんな番組で取り上げるべき選手ではない、中山選手に失礼だと思う。 >>601
アジア大会は >>289 だね。
>>607
やっぱり天才だよ。中山が福岡で優勝した時(ひょっとしたら翌年のワールドカップで日本新を
出した時)、宗兄弟が中山の腰の高い走りを見て、我々とは素質が違うと言っていた。走りで
大物感を出し底知れぬ才能を感じさせたのは中山と高岡だけだな。瀬古は高校の時から有名だったし、
腰が低い如何にも日本人の走りだったからそういう強いインパクトはなかった。瀬古の海状態から
復活してインカレで優勝した時はキターと思ったけど。 「消えた天才」は脚色されている(誇張されている)番組だから早く消えて欲しい番組でも
あった。放送するなら、せいぜい年に3回程度。
中山竹通は、そもそも消えていない。日本マラソン史上に燦然と輝く男であり、中山の
存在を無視することは、日本マラソンを理解していないことでもある。
これほど破壊力のあるマラソンランナーは現在に至るまで日本には出現していない。 瀬古と中山は勝負スタイルが全く真逆。
前半から潰しに行く中山と、後方待機の戦術を徹底させてラストで伝家の宝刀を抜く瀬古。 87年の瀬古利彦の福岡欠場は本当に悔やまれる・・・・・・ >>611
欠場しておいて良かったんじゃないかな。本調子で出場しててもあの時の
中山さんにはとても敵わなかったよ。 仮に出場していたら後方待機スタイルを通していただろう。新宅と同じような位置取りで
30km以降集団を抜け出すというような。しかし、中山に届いたか、は厳しい。 最盛期にズレがある。瀬古の最盛期は83年で中山の
最盛期は87年だろう。 今夜8時からTBSでMGCの特集あるね。
皆さんが言う、32年前のことにも触れるみたい。
瀬古さんの欠場に、中山さんは自分なら這ってでも出場しますをマスコミに
這ってでも出てこいって脚色された87年の福岡。 瀬古、海外では自分でレースをつくってるんだけど、
どうしても福岡の印象が強くて常にラスト勝負と思われてるね。 瀬古利彦はロス五輪以降は、勝負をかけるポイントが
早くなっていたのが気に掛けていた。 仙内勇は無視かいな。工藤より良いタイムだったから瀬古はそれを超える必要があった。 申し訳ないと思うんだったら最初からびわ湖走らなければ良かったじゃん >>621
瀬古と谷口が対戦できるチャンスはあった。
谷口は87年の東京とロンドンで優勝しているが、その間のボストンで瀬古が優勝した。
88年のびわ湖に暑さに強い谷口が出場していれば瀬古は逆転負けした可能性が高い。 88びわ湖あたりでは瀬古と谷口の力関係は逆転していたかも知れない。
しかし谷口浩美は、信じられないほど上の世界に駆け上がった。
スーパースターの域に達した。本当なら単独スレッドを立てたい男だが、どれだけギャラリーを
集結出来るか、がネックになって立てられない。瀬古&中山関連のこのスレで一緒に
活かすのが彼のためにも一番いい方法だと思う。 >>618
工藤が選ばれてたら箱根駅伝で瀬古のウザい解説聞かされなくて済んだのにw 碓井哲雄さんの解説はいいなあ。現代の事情にも明るいし。 工藤は選ばれなくて良かったんじゃないの。
あれでもし選ばれてたら、「なんで瀬古じゃなくてこんなやつ」と言われ、
本番で入賞すら出来なかったら無傷で帰国できなかったと思う。 その時の3位は順大に進み箱根で活躍した中島修三、4位が翌年のIHチャンピオンで専大
、日産で活躍する加藤覚、5位が清田勝義、6位が日体大でレジェンドになった大塚正美。
5位の清田だけピンと来ない人が多いと思うが、女子MGCに残っている清田の父親で、
血は争えず顔が瓜二つ。 うむ。宗由香里の兄は箱根駅伝に出ていた記憶がある。
しかし78年の高校駅伝の1区は壮観だなあ・・・・・・・・3位の中島修三は箱根駅伝4年
連続の区間賞。大塚正美と同時達成となったことになる。大塚vs中島が同一区間で
実現しなかったのは幸いであった。
78年は2区で小林高校が抜け出して2年連続で全国優勝したと記憶している。
1区2位で、名久井農は工藤のワンマンチームだったから、実質1区で抜け出したも
同然。駅伝での谷口浩美の勝負強さは、特筆もの。 宗茂の次男が早稲田に行っていたが、箱根を走ることなく終えた。
顔は父親にそっくり。 >>607
中山は消えた何々とかではなくて
選手として、瀬古より上だと思うよ
自己ベスト4つの平均とか、そういうランキングをすると瀬古より上なんだろ?
それだと高岡の方がさらに上になるが、高岡が中山より上ということはない
よって中山は最強
中山が消えているイメージがあるのはあくまで引退後のメディア露出が少ないため
メディア露出が少ない理由は知らない 消えた天才、ふざけた番組だと思っていたが
終わるのか
けっこうたくさん元長距離選手が登場したので
後味が悪い
意を決して登場した人もいただろうに 約40年前の中山21歳の時には既にフォアフットに着目し取り入れれてたのだから先見性もあった
腰が高く軽やかな走りは普段から爪先で歩くなどの不屈の努力から生まれた 中山さんの歯に衣着せぬコメントが大好きだ。MGC終了後に期待したい。 自作自演のじーさん、もう出てくるなよ
瀬古や中山とは全く関係ない大昔の動画リンク貼って
ポエム書いて、かならずその後に自作自演の称賛レス
ID変えてうまくやってるつもりだろうけど、
あんたの文体や句点の打ち方特徴あるからバレバレだぞ 瀬古・中山時代から進化していない気がする今日のレース >>644
そりゃ、そうでしょ。
瀬古、宗兄弟、中山はおろか、谷口ですらもったいなく、新宅、伊藤辺りで十分に勝負になった内容だもんな。 それはない。篠原ならば2時間14分くらいだと思う。 伊藤国光は「無冠の帝王」と呼ばれる姿が美しいので、上位には行けるが勝てなかったろう。 法政大学時代は「宗兄弟の末弟」などと言われていた若倉和也。
実業団駅伝でダグラス・ワキウリを抑えて区間賞を獲得している実は凄い人 蕨高校時代のIHは高橋雅哉(本郷)に及ばず2位。眼鏡のイメージが強かったけど。 この時にナイキのシューズがあれば世界新出せたよな。
中山と瀬古だけ履ければの話だが。 昨日のMGCの設楽の飛び出しは往年の中山のレースを思い出した、
しかし一番違うのは中山は最後まで一番で走り切る力があったこと。
設楽は37kmぐらいしか持たずに最後の一番苦しい5kmのスタミナがなかったこと
中村の走りは同じ三重県出身の瀬古を思い出させる後半でスパートする戦法
瀬古と野口みずきを生んだマラソン王国三重の伝統を受け継ぐ中村の走りだった。 >>661
いや、設楽は28キロしかもたなかっただろ。高橋が言ってたまさにその距離。2分のリードで9キロ余計に先頭だったけど。 帽子かぶっている選手ばかりで何人川口孝志郎が出場してんだよって思った >>666
ラストがなかなか冴えてますね。中村監督急逝直後のヨーロッパ遠征ですが、
DNガラン(ストックホルム)で1万日本新、ローザンヌ国際1万1位と十分な成果。
このパリでも30度の中、5000を13分36秒28というのは立派です。
ここまでは順調だったんですけどね。秋にシカゴあたりを走る計画だったんでしょうけど
故障で、この年マラソンレースは出場できませんでした。
ラスト400は57秒くらいだと思います。新宅・金井・中村孝生・ワキウリとSB主力勢
総出演ですね。 ナイキ創業者の自伝
https://book.toyokeizai.net/shoe-dog/
は、このスレの住人にお勧め。フィル・ナイトが無一文ながら日本を訪れ
オニツカ(アシックス)のシューズ販売契約を取ろうとする件に始まり、オニツカとの
関係悪化に伴う裁判沙汰、プレフォンテーンやショーターといったランナーへの供与と
挫折、成長の話を1980年まで描いている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています