マラソン日本最強は瀬古か中山である
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高岡はマラソン転向が遅すぎたと思う。
25歳頃からマラソンを走っていれば五輪金と世界記録両方出来た可能性もあった。
日本人がオリンピックで金メダルを獲得できる可能性があった選手は高岡が最後だろう。 大学生で日本新出したといっても10000は29分台だからね
故障がちで距離を踏めないタイプだから徐々に距離を伸ばす必要があった
しかし後付だけどマラソン適性は抜群にあった 関東の大学に行かなかったのは大正解。箱根にこだわらないトレーニングが出来て
距離を踏むよりもじっくりとスピード強化に取り組む練習が出来た。 洛南高校時代にいた同期の秋山武史って、いつの間にか消えた。 早田俊幸も初マラソンでは森下中山に次ぐ3位になったがその後はやや期待外れだった。 実家に1935年の日本学生陸上競技聯合の欧州遠征記があった。中村清は遠征に参加して
おらず、長距離の中心は翌年ヒトラーの心を捉えた村社講平、中距離の中心は青地琢磨
だった。 ベルリン五輪10000でのサルミネン等のフィンランド勢vs村社講平
https://m.youtube.com/watch?v=_MoQr52oxqU
最後の1周で置いていかれたが、ヒトラーがいたく感激したとのこと。50000も
似たようなレースで村社は4位。この時の村社が五輪、世界選手権での両種目
の最高成績になっている。 >>364
モスクワ世界陸上10000mの新谷を彷彿させる。
こんなに観客を熱狂させる選手が出て欲しい。 ミュンヘン五輪で優勝したショーターにストップをかける男として期待されたのは
イアン・トンプソンだった。デビューマラソンを好記録で制して出場した英連邦大会
https://m.youtube.com/watch?v=4fwdXKXp2co
は圧巻で世界歴2位の記録で圧勝した。その後の欧州選手権も制して74年は彼の年だった
と言ってよかろう。2強が走らなかった75年を経て76年モントリオール五輪での対決が
期待されたが、トンプソンは国内予選でまさかの7位で代表として選ばれなかった。
五輪後の福岡に来て2位になったが、世界記録を期待出来る走りからは程遠かった。 因みに同じ大会の1500mでは1、2位が世界記録を上回り、3位も世界歴代4位の好記録だった。
レースの後半は
https://m.youtube.com/watch?v=xjhC-1W9QTE
で観られる。前半から大きくリードするのがフィルバート・バイ(タンザニア)で、この年、
1500と1マイルの世界記録保持者となった。2位のジョン・ウォーカーは翌年史上初めて
1マイル3分50秒を切る大記録を打ち立て、アフリカ勢不在のモントリオール五輪の覇者
となった。2人の1500と1マイルの世界記録は1979年にセバスチャン・コーによって破られる。 >>367
74年英連邦大会は世界最高記録保持者のデレク・クレイトンも出場したが途中棄権。
足底筋膜炎など故障が多く医者の忠告もありこの大会を最後に引退した。
マラソン22戦14勝の怪物も2度のオリンピックでは7位と13位に終わった。
女子のラドクリフなどオリンピックのマラソンは本命だった選手が不振なことが多い。 ただし、五輪で負けても勝率の高さは文句のつけようがない。立派なものだ。
瀬古氏は15戦10勝だったと記憶している。 クレイトンは2回世界記録を更新し、(距離疑惑があったにせよ)世界記録を14年以上
保持し続けた。世界記録の保持期間としては最長。
世界記録を2回以上更新した人はピータース(4回)、アベベ、ハヌーシ、ゲブレシラシエ
と彼の5人。このうちアベベを除く4人は五輪マラソンでは不発。特にハヌーシとゲブは
全盛期に五輪がありながら出場機会すら失っている。(シドニーのハヌーシは国籍変更で
そもそもエントリー資格がなかったが)。
年別の世界最高も67,69,71年の3回。これも4回のゲブ(05-08)に続き史上2位タイ。
因みに年別最高3回を記録しているのは他にピータネン(46-48),ピータース(52-54),
ポポフ(57-59),ド・キャスティラ(81,83,86),キプチョゲ(15,17,18). クレイトンが
歴史に残る大選手であったのは間違いない。 年別ランキング1位を取った日本人は戦後5人が5回。61年の中尾隆行(中京大)、65年の
重森森雄(福岡大)、78年の宗茂、87年の中山、91年の森下である。瀬古は長過ぎた83年に
1秒差でトップを取り損ねた等、トップになる事はなかった。
(距離の信頼性が乏しいと言え)戦前にランキング1位を取った日本人は多く、
孫基禎(2回)等韓国人を含めると9人10回トップであった。特に30年代は30、32-36、
39でトップであり、ベルリン五輪の金は必然であったといえよう。 65年ボストン・ウインザー(アベベの世界記録を更新)マラソン優勝の重松森雄は86年ロンドン・シカゴマラソン優勝の瀬古と同等の価値がある >>375 ボストン優勝だけでは瀬古が凄い事にならない。最も権威のあった福岡の3連覇
をはじめ今では日本人がペースメーカーのラップが公開された段階で敗戦が決まるロンドンや
シカゴでも優勝した瀬古としないと。
実際、重森も65年のボストンを優勝している(2位も宍戸)。66年では日本人が4位まで独占
(優勝は君原)。69年もウネタニが優勝。少なくとも60年代後半でのボストン優勝は難しく
なかった。 一応歴史のあったボストンがグダグダになってしまった60年代にIAAFも危機感を持ち
マラソンの世界選手権を作ろうという動きがあった。結局、世界選手権とは銘打たれ
なかったものの世界で唯一のIAAF公認のマラソン選手権が(福岡)国際マラソンであった。
その経緯は
https://www.iaaf.org/news/news/a-history-of-the-fukuoka-international-marath
に詳しい。またpart 2-5で67-70年の大会が詳しく述べられている。このマラソンの権威は
明らかでアメリカのTrack & Filedsの実力ランキングでは68年では五輪優勝者より福岡
優勝者を上に、69年も世界記録を更新したクレイトンより福岡優勝のドレイトンを上に
看做していた。皮肉にも70年に歴代3位で優勝した宇佐美が初めて実力ランキング1位を
逃した選手になった。それでも10回くらいまでは誰もが世界一の大会と考えていた。
皮肉にも日本人の舶来志向とマラソンブームのため日本でも東京マラソン等が創設され
自ら世界一のマラソンをダメにしてしまったのは残念であった。 81年に開催された東京国際マラソンは読売主催と産経主催とで別々に開催された。
警視庁は警備の都合があり陸連に1本化の要請を行った。
翌年から隔年で主催されることになったが過密日程で既存の大会の権威が低下した。
陸連はテレビ放送権によって莫大な利益を上げたが選手のレベルアップになったかというと疑問である。 良く知られている通り東京NY友好マラソン1981(フジサンケイ)のテクニカルディレクターは
東京五輪の最終聖火ランナーだった坂井義則氏であった。レースではロドルフォ・ゴメスが
圧勝し、上位も外国勢が独占したが、映像では5位だった阪本峰照を大きく映した。勝負を
度外視して日本人に焦点を当てる手法は現在では当然だが、当時では斬新であった。その一方で
日本人1位というレースと無関係の価値観を持ち込んでしまった事は功罪相半ばする。 1983年ロッテルダムマラソン
https://www.youtube.com/watch?v=WQiOhfpMsac
(幻の)世界記録保持者でマラソン全勝だったサラザールと(真の世界記録保持者で当時)
世界歴代2位で英連邦の覇者のド・キャステラに加えて、サラザールや瀬古と好勝負をした
前年の覇者ゴメス、モントリオール五輪10000銀のロペス等、日本勢以外の世界トップを
集めて世界1決定戦と銘打ったマラソン。結果はサラザールがまさかの敗退(5位)、東京
から僅か2カ月のインターバルのゴメスはほぼ自己ベストの3位。ラストはド・キャステラ
とロペスの一騎打ちで、ド・キャステラが2秒差の2.08.37でゴール。このタイムはこの年の
ランキング1位、ロペスは3位(2位は瀬古で4位が宗猛)。トラックの一流ランナーをラスト
で凌ぐ底知れぬ強さを示したド・キャステラは世界選手権も制し、ロス五輪での本命に躍り出た。
復権を狙ったサラザールは年末の福岡に急遽参戦。途中までイカンガー、瀬古と競い合ったが
宗兄弟に抜かれ5位に終わり、本番での期待はしぼんだ。ロペスは84年に10000で従来の世界記録
を上回る記録でゴール(マメーデに次いで2位なので世界記録保持者にはなれず)。マラソン
ではド・キャステラ、瀬古に次いで3番目の評価を受けるに至り、本番では五輪新で圧勝。 1982年英連邦大会も好勝負
https://www.youtube.com/watch?v=4-VvFAFWb3w
58分頃からのキャステラとイカンガ―の競り合いからキャステラが抜けだし優勝 >>380
83年ロッテルダムは、
ラスト400が60秒くらいのスプリント勝負だったらしい。 この時代に瀬古がいたら当時以上になれたのか、それとも当時以下になるのか 世界選手権のキャステラを見た中村清監督は「スタミナの塊りのような男」と語った。 キャステラのレースは意外にアップされているんですね。
強さが分かる。ロッテルダムのラスト2.195kmは6分19秒だったとか。 >>387
いやあ、これは驚いた。キャステラの長髪は確かに見たことないです。
しかし懐かしい選手だなあ。それに強い。
これだけ重厚な走りを見せてくれるマラソン選手は、そうはいない筈です。
82年の英連邦大会は、イカンガーの出世レース。当時は18歳などと紹介
されていた記憶が・・・・・・・
序盤、イカンガーとシャハンガが突っ走り、なかなかキャステラが追い付けない
地元民がジリジリしそうな展開の中、終盤、キャステラが底力を発揮して、
シャハンガを後方に追いやった後、遂にイカンガーに並ぶ展開。
驚いたのは、追いつかれた後のイカンガーに抵抗力が凄くあって、スタミナ切れを
起こしておらず、2度も再度キャステラの前に出て抵抗していたこと。
直後にキャステラがもう一度仕掛けて振り切ったものの、12秒差で2位につける
大健闘。キャステラは最盛期の強さが全般的に滲み出ていたもののイカンガーの
抵抗力も見事だったクオリティの高いレースでした。 ヘルシンキで行われた世界選手権は、キャステラが勝つべくして勝った感じでした。
バルチャと競り合っていた時に「おれは、なんて強いんだろう」と思っていながら
走っていたとか。傲慢に聞こえず、結構笑えるコメントでした。
改めて、いい映像ですね。アップ主さんに感謝です。 そういえばマメーデが日本で5000m走ったときも凄かったね。
国立競技場でおこなわれた日刊ナイター陸上の5000m。
終始独走で13分08秒54の1983年度世界最高記録。
まだムーアクロフトの13分00秒42が世界記録だったかな。
ちょっと離れて新宅が2番手を1人で走ってたな。 マメーデのロス五輪10000決勝での途中棄権は不可解だった。予選はトップ通過だったので
好調そうだったのだが。 マメーデが10000m世界新記録を出した時の映像
https://www.youtube.com/watch?v=yLCJGsuRosk
2位のロペスと共にウイニングラン
ロス五輪直前で10000m金メダル最有力候補だったのだが… 勝負強いロペス。87福岡で初マラソン、ロペスの再来か、と期待を持たせたマメーデだったが。 一寸マニアックだが78年の欧州選手権10000mの決勝のビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=NmgMo0LHAZo
が興味深い。結果は
https://en.wikipedia.org/wiki/1978_European_Athletics_Championships_%E2%80%93_Men%27s_10,000_metres
にあるが、1位〜3位は当時の世界歴代4-6位の好記録ラッシュ。
1位のバイニオは長く活躍しロス五輪の10000mで2位でゴールしたがドーピングで失格。
83年の世界選手権等のそれまでの記録は有効になっている。モスクワで銀、銅を取って
活躍したマアニンカが後にドーピングを告白しているが、モスクワで活躍出来なかった
バイニオがロスで使ったのみなのか常習なのかはっきりとしない。因みに84年のロッテルダム
マラソンのBサンプルで陽性となっているので五輪のみということはなさそう。
2位のオルチスは78年のハか国陸上のため来日し、瀬古を子ども扱いし、瀬古のトラックへの
未練を絶った事で有名。しかし活躍はこの年のみと言って良い。
3位のアンチポフは80年のDNガランで瀬古が10000mで日本新を作った時の相手。
当時ソ連だったが本来リトアニア出身。モスクワ五輪では活躍出来なかった。
4位のフォスターも好記録でゴールしたが実は彼は6月23日に前年の世界記録を
上回る世界歴代2位の27'30"3で走っていた。彼はモントリオール五輪10000m
でビレン、ロペスに次いで銅を取る等、当時の代表的なランナーで数多くの栄誉に
輝くと共にビジネス界でも成功している(Nike Europe等のvice-presidentを経て
Nova Internationalを創始)。 当時の陸マガ記事によるとマメーデの400mベストは47秒0だったらしい。
それで、5000mで年度世界最高を出した日刊ナイター陸上の男子400mの優勝記録が
たまたま47秒00だった。半田昌一だったかな。
日本のトップ・スプリンターなみのスピードを持つ選手に
5000mを走られたら勝てるわけがないという記事だったな。
その後に400m46秒台のアウィータが出てくるんだが。 >>395
アウィータは800のタイムから考えると45秒台だろう。 アウィータは45秒行けそうだが、たまたまレース機会が乏しく、46秒台がベスト、という
ところではなかろうか。 >>394
(誤)1位〜3位は当時の世界歴代4-6位の好記録ラッシュ。
=>(正)1位〜3位は当時の世界歴代5-7位の好記録ラッシュ。
https://sites.google.com/site/projectnurmi/home/world-records/10000m-men-s
は抜けがあるものの10000mの歴代世界記録のビデオが並んでいる垂涎のサイト。 >>396 >>397
たぶん、そういうことです。
ジェイランもファラーに勝ったとき
「400のベストは?」と聞かれて
「測ったことないから知らない」と言ってましたね。 >>400
もう覚えていませんがこういうバカな質問はモッチーあたりでは? 昔瀬古がボストンでロジャースと競ってた時、中村監督が瀬古は400m49秒台で行ける、と言ってた。
今のマラソントップ選手、大迫や設楽、井上、服部、佐藤悠基は400mどれくらいで行けるだろう?
上野がかろうじて50秒切れるかどうか位で、他はみんな切れないような気がするが イフターもラストスパートから推測すると47秒前後ではないだろうか >>403 モスクワ五輪10000のラスト400は54"04で5000が55"03だから21世紀の
キッカー程ではない。例えばエルゲルージはアテネの5000で51"91だった。 因みに瀬古は5000mで日本記録を作った時56"54で80年に10000の日本記録を
作った時は57"くらいだったと思う。 イフターのモスクワ五輪のスプリントは凄かったけど、確かにラスト400は、そのくらい
掛かっていた。 瀬古が80年のDNガランで27‘43“44の日本記録を出した時のラスト1周は57”2。
0.01秒刻みのラストは最後の1周のトップが通過してからトップがゴールするまでの
時間なので鐘が鳴った後に抜いて優勝した場合には誤差がある。 クレイアーロンの400mは47.2
長距離の適性があればケニエチに対抗できるかも 2014年に廃止検討された種目だけに今の高校生がシニアになる頃には50km競歩の様に
廃止される危険性がある。そうでなくても日本選手権の期間外種目としてひどい扱い
の上にアジア大会ですら勝負にならないので派遣が見送られるマイナー種目をわざわざ
やらないだろう。クレイアーロンにはマイラーとして名を馳せて欲しい。 スティーブ・クラムvs サイド・アウィータ
史上初めて1500mで3'30"の壁を破ったレース(1985-07-16, Nice, France)
https://www.youtube.com/watch?v=cPzemlXs9qE
サイド・アウィータが史上初めて5000mで13分の壁を破ったレース
https://www.youtube.com/watch?v=Flvg0cZGN40 因みにちょっと古い(1954)が、マイル4分の壁を初めて破ったロジャー・バニスターのレース
https://www.youtube.com/watch?v=wTXoTnp_5sI どんなに厚い記録の壁でも1度破る選手が出ると後に続く選手が次々に現れる。
短距離もマラソンもフィールド競技も例外ではない。 >>414
しかし陸上の記録の伸びは飽和しており、世界記録の多くは古いものである。男子中長距離も
例外ではなく、順調に記録が更新されているマラソンを除くと、1500が21年、1マイルが
20年、5000が15年、100000が14年も世界記録が更新されておらず、これらは世界記録が公認
される様になってから何も最長のインターバルである。殊にレース数が減っている10000では
記録更新のチャンスが少なく、これで打ち止めになっても驚かない。 コーメンの3000mと2マイルの世界記録も23年程破られていない。
1マイル4分の壁は1度破られると次々と破る選手が続出したが2マイル
8分の壁を破ったのはコーメンのみ。 20歳から22歳にあたる96年から98年にかけてインドア2種目を含めて3種目(3000,2マイル,,
5000)で6個の世界新を出し、未だに2マイルと3000の世界記録保持者であるダニエル・コーメン
は1978年(21歳)に81日間に4つ(3000,3000障害、5000,10000)の世界新を出したヘンリー・ロノの
再来を思わせた。コーメンは97年の世界選手権金は取ったものの、アトランタ、シドニー
両五輪の代表を逃した。ロノもモントリオール、モスクワはケニアのボイコットもあり、
代表にはなれず、81年に自ら5000の記録を更新したものの78年の様な輝きは2度と戻らなかった。
コーメンの低迷の原因は大金と名声が手に入って、尊大化しコーチからも独立し、真剣に
競技に向き合わなかった事が原因の様だが、彼はそれなりに幸せな余生を送っている。
一方、ロノは良く知られている様に後年アル中に苦しみ無一文になって施設に入った事も
あった。現在は立ち直って高校のコーチをしているが名ランナーに相応しい余生とは言い難い。 1978年英連邦大会3000障害
https://www.youtube.com/watch?v=d4HWZMnR4_I
ヘンリー・ロノが強すぎて異次元の世界の人間に思える。
真摯な姿勢で練習を続けていたら更に記録を伸ばしていただろう。 >>417
シドニー五輪の5000mに出てよい結果を残していれば更に富と名声を
手に入れることが出来たのに勿体無い。ゲブとの世界新合戦は本当に
熱かったよ。 コーメンの世界選手権(97)を見るとラスト勝負のキッカーではなく、中盤で不条理と
言える程のペースアップをするタイプの様だ。
https://m.youtube.com/watch?v=b6NEEFcd-1E
例えばこのレースでは3000辺りの2周ではラスト並の58秒とか59秒で走って他の選手を
振り落としている。コーメンと5000の世界記録を交互に更新していたゲブレシラシエは
世界大会では93年を除き10000に専念してコーメンとの対決はなかった。この年は10000
の世界記録を代わる代わる更新していたテルガト、ヒソウとの3強対決だったが、ラスト
600辺りで抜け出し楽勝。シドニー五輪ではラスト200での壮絶なレストスパート合戦で
テルガトを胸の差で交わした。シドニーまでのゲブは、大レースの10000でほぼ無敗だったが、
大レースでのコーメンとの対決がなかったのが惜しまれる。テルガトはあれだけ強かったが
シルバーメダルコレクターになってしまった。 全盛期のゲブレシラシエとコーメンの直接対決(テルガトは3位)だった97年のGPチューリヒ
。この時、ゲブレシラシエは世界新。コーメンもケニア新の世界歴代2位。5位のバウマンも
ヨーロッパ新。コーメンがレースを主導したが、ラストの切れ味はゲブが上というのが分かる
好レース。
https://m.youtube.com/watch?v=8TrkL8OqxJU このスレは追いかけるのが大変だ(笑)
ほとんど見たことがない映像で、ありがたい。 シドニー五輪10000の映像には映っていないが高岡が自己新(日本歴代2位)の記録で7位
入賞を果たした。100000の入賞は史上4人目(村社、円谷、金井に次ぐ)で、今後現れそうも
ない快挙である。
スター選手が10000に集中したため、優勝タイムが13‘35“も切れない凡タイムでウォルデ
が優勝。おまけに2位でゴールした本命だったサンディ・シェフがドーピングで失格という
締まらないレースになった。(youtubeで検索しても見つからない不人気ぶり)。しかし、この
レースで戦後唯一かつ64年ぶりの決勝進出を高岡が果たした事は人知れない快挙と言って
おきたい。予選記録は13’30”を切っており優勝タイムより良く、決勝では14位と言え、優勝者
との差はわずか11秒程であった。 >>422
コーメンはその敗北から僅か9日後3000mに出場予定だったのを急遽5000m
に変更させて見事世界新を出しました。この大会はテルガトも10000mで世界新
だったりしてすごかった。 >>424
シドニー五輪の10000mは
https://m.youtube.com/watch?v=b9aSVLV_tOw
の方が前半から鑑賞可能で、高岡の活躍もある程度分かる。彼は7200迄集団に付いて
周回63秒台に上がった7600には遅れた。 トラックで入賞した高岡はやっぱり凄い人。
アテネでマラソンで出て欲しかったなあ。。。。。
マラソンでも結果は出ているけれども。伊藤国光にやっぱり、どこか似ていた。 コーメンの3000mの世界記録って
あれはほんとに不滅の記録だろうな。
エルゲルージでさえ何度か挑んでダメだったし。 コーメンの記録として3000mのレベルが高いのは同意だが、より不朽の記録になりそう
なのは2マイル走の7'58"61である。実際
1.実施回数が少なそう。英連邦のケニア選手はともかくエチオピア選手の参加が余り
期待できない。
2.記録価値は2マイルの方が上。100m当たりに換算すると3000の記録は15"02だが、
2マイルは218m以上長いにも拘わらず14"87.
3.何しろロジャー・バニスターの記録の倍より速く、1マイル日本記録3'58"89の倍
から僅か0"83遅れ。
4.歴代2位に2"47差をつけてぶっちぎり。史上8分を切ったのはコーメンのみ。
ゲブレシラシエ(歴代2位)、ファラー(歴代3位)、ベケレ(歴代5位)も遠く及ばない。
以上から異常にレベルの高い2マイルの世界記録が窺い知れる。 >>430
割り算間違えてないか?3000mの方は14秒69くらいだが。 瀬古の2度目の優勝の翌年の1988年のボストンマラソン
https://m.youtube.com/watch?v=otleVsck-Co
は歴史的に重要なマラソンである。謂わば87年は旧世代最後のマラソンであり、
この年初めてアフリカ人の覇者が出た。それだけでなくこの年以降、ボストンの
殆どの優勝者がアフリカ人である事が雄弁に歴史の転換を物語っている。
このレースの覇者であるイブラヒム・フセイン自身も前年のNYCの優勝よりも
このレースの優勝の意義をより強調している。フセイン自身はこの年を含めて
ボストンを3度優勝する等の活躍をしたが、優勝候補の一角に挙げられたソウルでは
途中棄権だった。強調すべきは彼がケニアで初めての名の通ったプロランナーであり、
それまでレースが少なく稼ぎが難しいと参入を躊躇したケニア人の後輩を刺激した点では
世界チャンピオンでかつ五輪銀のダグラス・ワキウリ凌ぐ程の影響があった。以降、
ケニア人マラソンランナーが席巻する。
因みにこのレースの2位がイカンガーであるのは言うまでもないが、3位がロス銀の
トレーシー、4位に欧州チャンピオンでソウルを制するボルディンが入っている。
日本勢は10位に谷口、12位に喜多が入っている。 ボストンマラソンの勝者一覧
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_winners_of_the_Boston_Marathon
1988年以降はほぼケニア、たまにエチオピアの選手が優勝。それ以外はエリトリア
(エチオピアから独立)出身のアメリカ人であるケフレジギ(14)、ボルディン(90)、
李鳳柱(01)、川内優輝(18)のみである。 >>434
瀬古利彦の2勝が燦然と輝いてますね。流石日本史上最強クラスですね。 >>434
川内以外オリンピックメダリスト
ボストン勝つ選手は本物ということか。 今だと全盛期の瀬古でもケニエチには勝てないだろうが今いる日本勢よりは強いだろうな
とくに瀬古はペースメーカーがいると半端ない記録が出そうだし。
ヴェイパーが瀬古にあうかどうかはわからんけど。
ただ全盛期の中山だとヴェイパーで記録が大幅伸びそうな予感。 >>435 はい。アジア大会代表になりながら悲劇的な事故で金井等と共に亡くなった彼です。
>>436 偉大な選手である事は間違いないのですが、瀬古の最後の勝利がゲームの終わり
(アフリカ人のみのゲームの始まり)になっているのは象徴的ですね。 ケニア人がマラソンに参入する前に彼等はダメージが少なく何回も走れて実入りの良かった
トラック競技を主戦場としていた。彼等の力を満天下に知らしめたのはメキシコ五輪で、
1500、10000、3000障害で金、5000で銀を取った。その中心選手は東京五輪の5000で5位に
なり、1965年にはケニア人で初めて世界記録(5000で13‘24“2)を作ったキプチョゲ・ケイノであった。
メキシコでの彼は胆石を患っていたばかりか感染症にかかりまともに走れる状態になく、
ドクターストップもかかっていた。そのせいか最初の10000では前半レースを主導したものの
ゴール手前で苦痛に上体を曲げフィールド方向によろめき出たが、担架を拒み何とかゴール
した。そのレースでケニア史上初の金メダルをもたらしたのは同僚のテムであった。
ケイノは5000でも体調が悪い中、健闘し、ガムージ(チェニジア)との激闘に敗れ銀であった。
https://m.youtube.com/watch?v=_MyrFVbGnIE
ケイノが最も力を入れていたのは最も人気のある種目1500であった。しかしその種目には
前年に世界記録を作り、ケイノに完勝したジム・ライアン(米)がいた。体調不良の中で
ケイノは医師の勧告に従い1500決勝の棄権を決めていたのだが、急に翻意して参加を決めた。
しかしメキシコ市悪名高い渋滞に阻まれて絶対絶命の中、彼はタクシーを降りて走ってスタジアム
に駆けつけて、何とかコールに間に合った。その時のレースが
https://m.youtube.com/watch?v=Q_9AAy7yZTc
である。後輩のジプチョがオーバーペースでペースメーカー役を務めて、メキシコの薄い空気
を警戒したライアンは後方待機作戦を取った。結果的にこの作戦選択の誤りもあり、ケイノは
ライアンに3秒差をつける歴代2位の好記録で圧勝した。
ケイノはミュンヘンでも3000障害で金、1500で銀を取り、ケニア人の尊敬を集めているが、
ライアンは復活したミュンヘンの1500の予選で他選手と脚を絡ませて転倒し、敢え無く予選落ち
となり、憐れを留めた。 >>438
エポと成長ホルモンにバネ靴があれば2分台でいけるんちゃう? しかし凄いなあ、このスレ。
なかなか全部映像を見れない(追いつけない)が必ず全部見ますね。
ありがとうございます。 エチオピアはケニアより早くマラソンに進出してローマから五輪三連覇を果たし、ミュンヘンでも
銅を取った。それでもケニアほどマラソン界を席巻するに至らなかったのは、政治的な不安定性
(帝政=>社会主義的軍事独裁政権=>内戦=>不安定な連立政権)と貧困、英語が通じないために
エージェントが入りにくい等様々な理由があろう。彼のマモ・ウォルデも帝政崩壊後にメンギスツ
政権下で逮捕され9年も投獄された程であった。
しかし、アフリカ史上最初の金メダリストであり、五輪二連覇を何れも世界新で飾った
アベベ・ビキラこそ史上最強のマラソンランナーであろう。特にローマでは途中で靴を脱ぎ、
裸足で走った事でも名を馳せた。ローマ五輪の下馬評は世界記録保持者のポポフ(ソ連)が優勝候補
に挙げられていた。涼しい中、20キロでは早くもラジ(モロッコ)とアベベをマギー(NZ)と
ポポフが追う展開になり、暫くするとラジとアベベの一騎打ちになり、その体制は陽が落ち
暗くなった40キロ過ぎ迄続いた。しかし40キロ過ぎのアベベのスパートにラジは付けずゴールでは
25秒もの大差がついた。そのレース映画が
https://m.youtube.com/watch?v=i_zRr9KOFWE
である。 YouTubeが世界に拡張したおかげで未見の映像をたくさん見られて嬉しいです。
NHKもせめて国際マラソン選手権くらい保存してほしかった。 メキシコ五輪の記録映画
https://www.youtube.com/watch?v=pVsQYRZgb10
10000は1:07辺りから、マラソンは1:30辺りから。マラソンは独立して
https://www.youtube.com/watch?v=c4n_8hpkDEg
にあるが途中がノイズで視れない。余り説明的でないので分かりにくい面が多々あり。
メキシコ五輪マラソンは東京の3000障害の覇者ローランツが途中までリード、
それを10000の金銀コンビのテム、マモ・ウォルデが追う展開。アベベは早々に
棄権。ローランツは途中で大きく遅れ(11位)、テムも大きく遅れ19位に終わる。
途中からマモが独走。後方待機だった君原は次々と選手を抜き、銀。銅は第1回
国際マラソンの覇者ライアン(NZ)。年末の第3回を制するアドッコクスは5位、
世界記録保持者のクレイトンは7位で入賞を逃す。前半先頭で映っていた宇佐美は9位。
佐々木は棄権。
https://en.wikipedia.org/wiki/Athletics_at_the_1968_Summer_Olympics_–_Men%27s_marathon 改めて凄いことですね。メキシコ五輪にしても、もう50年くらいたっているんですから
はるか昔にあった話。貴重な映像ですね。 日本マラソン史上7強
男子:瀬古、中山、谷口、森下、藤田、宗茂、君原
女子:高橋、野口、土佐、有森、山口、鈴木、坂本
中でも瀬古、中山、高橋、野口が別格なのは言うまでもない >>445
この映画の題名は「太陽のオリンピア」日本語版を小学校の体育館で見ました。
印象に残ったのは走り幅跳びのビーモンの8m90という驚異的な世界新記録の場面。
それとマラソンの最終走者が足を引きずりながらゴールするまでを長時間映していた。
タンザニアのジョン・スティーブン・アグワリという選手だった。 ドーピング疑惑が拭えないにしてもラッセ・ビレンの残した足跡は大きく、五輪では
劇的なレースを行っている。ミュンヘン、モントリオールの4冠のダイジェスト映像は
https://www.youtube.com/watch?v=xFVKBK0eM24
にある。
まずミュンヘンの10000m
https://en.wikipedia.org/wiki/Athletics_at_the_1972_Summer_Olympics_%E2%80%93_Men%27s_10,000_metres
映像でも分かる通り12周目にビレンはチェニジアのガムーディと脚を絡ませて転倒して
いる。ガムーディは2周後に棄権したが、ビレンは先頭に追い付くどころか世界新で優勝。
2位のプテマンスも従来のクラークの記録を上回り、3位には8年後に無敵の強さを示した
イフター、5位にマラソンで優勝するショーター、6位に優勝候補でかつ前半をリードした
ベドフォードが入った。ベドフォードは翌年世界新を記録する。
ミュンヘンの5000m
https://en.wikipedia.org/wiki/Athletics_at_the_1972_Summer_Olympics_%E2%80%93_Men%27s_5000_metres
は、ビレンと脚を絡ませて転倒、棄権を余儀なくされたガムーディがビレンに挑んだが
及ばず銀。彼としては4つ目のメダル(東京10000銀、メキシコ5000金、10000銀、ミュンヘン
5000銀)。3位には猛然と追い込んだスチュワートが、途中までビレン等とトップを争い最後
失速したプレフォンテンを交わして銅。彼はアメリカのトップランナーであり続けたが、
1975年にフィンランド-NCAA交流大会で優勝した晩のユージンでのパーティーに参加した後、
ショーターをケニス・ムーア(ミュンヘン4位)の家に連れて行った帰りに自損事故で事故死。
飲酒運転だった。彼の名前はプレフォンテンクラッシックという大会名に残っている。 (承前)
モントリオール10000の結果は
https://en.wikipedia.org/wiki/Athletics_at_the_1976_Summer_Olympics_%E2%80%93_Men%27s_10,000_metres
にある。このレースは4冠の中で最も楽だった。2位だったカルロス・ロペスは8年後に
ロス五輪のマラソンを制し、世界記録も作った。しかし物議を醸したのはビレンがゴール後に
靴を掲げてウィニングランをしたこと。当時シェアが圧倒的だったアディダスではなく、
世界的には無名だったオニツカ(翌年アシックスに社名変更)だったため、一挙にオニツカ
ブランドが世界に知られるようになった。
モントリオールの5000mの結果は
https://en.wikipedia.org/wiki/Athletics_at_the_1976_Summer_Olympics_–_Men%27s_5000_metres
2位のクァックス(NZ)は翌年に世界記録を作る(同じレースで鎌田が日本新)。3位は
ゴールで転倒したヒルデンブランドが僅かにロッド・ディクソン(NZ)を凌いだ。ディクソンは
ミュンヘンの1500で銅、74英連邦の1500で3位ながら世界歴代5位で走り、モントリオールでも
1500の有力候補だったが、同国の優勝候補ウォーカーとの競合を避けて5000に出場し、10中8,9
手にしていたメダルを手に入れ損なった。彼は1983年のNYCマラソンに2:08:59で優勝し、ロス
五輪でもマニアはダークホースに挙げていた。しかし本番は10位。それでも瀬古やサラザールに
先着した。 >>447
入れ替え提案
男子の藤田vs寺沢、宇佐美、宗猛、高岡
女子の坂本vs山下、浅利、千葉、渋井 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています